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2022年6 月 1日 (水曜日)

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大型冷凍ウイング車は日本最古乗用車アロー号の流れを汲む!

大型チルドウイング車

アロー号

  ふるい読者なら覚えておいでだろうか? 福岡の博物館に展示している「アロー号」のことを。
  現存する日本最古の手作り乗用車「アロー号」は、1916年(大正5年)24歳の矢野倖一がほとんど一人でつくり上げた4人乗り水冷2気筒サイドバルブエンジン1054㏄を載せたアルミボディの乗用車だ。全長2590mm、全幅1170mm、全高1525mmだから現在の軽自動車のひと回りもふた回りもコンパクト(下の写真)。
  この矢野倖一の流れをくむトラックの架装事業企業が、福岡にある「矢野特殊自動車」である。昭和33年日本初の機械式冷凍車を開発するなど、トラックの架装事業の世界では確固たる地位を占めている。その矢野特殊自動車が、今回横浜で催された「ジャパントラックショー2022」で新製品をお披露目していた。
  それが「新型スーパーチルドウイング車」(上の写真)。
  チルド車というのは、生鮮肉、魚類、乳製品、それに温度管理の困難な医薬品輸送を専門とするトラック。ウイング車というのは、荷室の側面をガバッと上に持ち上げ、フォークリフトなどによるに作業がらくらくできるタイプのトラックだ。昔の算盤と呼ばれるコロを使った人海戦術要素の多い、平積みトラックにくらべウルトラ高効率である。
  トラック自体は日野の大型「プロティア・ハイブリッド」だが、架装を担当したエンジニアに話を聞くと「通常のチルド機能を持つウイング車は温度が+10度C前後ですが、このトラックはチルド機能を謳うだけに+2~8度Cの温度範囲」だという。
  これを実現したのは、「とにかく気密性を高めること。そのためにパッキンを追加したり、床面の形状を冷風が効率よく流れるようにキーストーン形状と呼ばれるギザギザをつけている。それと煽り部分の断熱材をアルミ板をサンドイッチとして両側にスチレンフォームを配しています」。合わせ技で、チルド機能を高めているようだ。「一番の苦労した点ですか? それはパッキンの当たり方の検証でした」という。当たり方ひとつで気密性と温度管理に変化がみられる、というのだ。
  冷風はハイブリッドのモーターで駆動する前後2つのエバポレーターで、温度センサーを複数付け庫内温度の“見える化”を実現しているという。われわれの豊かな暮らしを支えている物流の代表選手である大型トラックの楽屋裏にはこうしたドラマがたっぷり詰まっている。
  ちなみに、この手のチルドウイング車は、行きと帰りで庫内温度が変えられるので、荷物のクオリティの自由度が高い。だから輸送業者から見ると台数を絞ることができ、結果としてウイング車が増加中だという。  

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第13回)

神谷正太郎

  いま考えれば驚くべきことだが、モノづくりに力を注ぐあまり、販売面についてはほとんど準備がなかった。それだけ世の中はのどかだった、といえた。
  でも、フォードやGMがすでに日本くまなくサービスネットワークを張り巡らせていた。これに肩を並べるほどの販売ネットワークを構築する必要がある。切実にこのことを気づいた喜一郎は大至急経験豊富な人材を求めはじめた。
  その後の歴史を知る者には、人との出会いほど不思議なものはない、と強く思うに違いない。
  そうしたタイミングで喜一郎が知りえたのが、のち「販売の神様」と呼ばれた神谷正太郎(1898~1980年)である。神谷は、もともと名古屋市の南、知多半島の付け根にある知多郡(現在の東海市)の生まれ。名古屋市立名古屋商業高校を卒業後、三井物産に入りシアトルやロンドンの駐在員をへて、独立。自前の鉄鋼関係の商事会社をロンドンで設立し、インドや日本向けの鉄鋼を輸出していた。だが、現地での炭鉱労働者の労働争議のストライキで立ち行かなくなり帰国。
  帰国後の昭和3年、英語が堪能だったこともあり日本のGM法人にいまでいうヘッドハンティングで入社。
  2年後には大阪本社販売広告部長を務め、同時のエリアマネージャーとして販売店の設立や経営指導の経験を持っていた。日本GMのなかではナンバー2の存在だった。
  このタイミングで喜一郎と神谷は出会うことになる。
  神谷正太郎37歳、豊田喜一郎41歳だった。GMは、販売店に一方的なノルマを課す過酷なやり方に疑問を抱いていた時期で、喜一郎の情熱と人格、そして将来への夢に心が動かされた、「あなたがきてくれるのなら販売のすべてを任せる」という全幅の信任を得て、販売を引き受けることになった。
  ちなみにGM時代の給料は300円(現在貨幣価値で約80万円)だった。いきなりの役員待遇でのトヨタ入りではあったが、給料は1/3の月100円で引き受けた。男同士の息に通じたというか、二人のあいだに化学反応が起きたんだろうね。本田宗一郎と藤沢武夫の出会いを重ね合わせる読者もいるかもしれない。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:堀田典裕著『自動車と建築-モータリゼーション時代の環境デザイン』(河出書房社)

自動車と建築

  ふだん何となくクルマのハンドルを握っていても、気づいていないことがたくさんある。そのことにおおいに気付かされてくれるのが、この『自動車と建築』という風変わりな本だ。内容もさることながら、正直あまりこなれていない文章で、つい放り投げたくなった。でも辛抱強く読み進めると、意外な発見が散りばめられていた。
  たとえば、のちにモータースポーツの推進に貢献することになるドイツのアウトバーン。そもそもヒトラーが1933年、60万人規模の失業者対策として、かつドイツ帝国の兵站を支える道路の位置づけで建設され、速度無制限道路といういわば究極の舞台をつくることで、その後のドイツのクルマ産業を支えた。ここまではよく知られているが‥‥。
  この本によると、日本版アウトバーン計画なるものが「弾丸道路」という名称で戦前の日本にもあったという。わが国初の高速道路計画は、神武天皇からカウントしてちょうど2600年(皇紀2600年)にあたる昭和15年(西暦1940年)に鉄道省によって発表された東京・下関間新幹線建設を同じ年に新聞紙上をにぎわしたというのだ。当時の内務省の若手技師たちが、交通情勢や都市人口、工場地帯での生産量、自動車保有台数、港湾施設などを勘案し、ドイツのアウトバーンの向こうを張って「弾丸道路」計画を検討したという。つまりいまから80年も前に新幹線とパラレルに超弩級のハイウエイ計画が日本で存在したのだ。
  じっさい名古屋・神戸間の実地計画まで行われたものの、約2億円(現在の価格で5兆300億円)という建設費が認められずあえなくポシャッた。どうも戦争遂行のための国民向けアドバルーンだったかもしれない。
  自動車専用道路計画は、なにも国がおこなった東名高速や中央高速ばかりではなく、民間のチカラでの道路づくりもあった。伊豆にある小刻みな有料道路や芦ノ湖スカイラインや箱根ターンパイクなど観光道路が思い浮かぶ。それだけではない。終戦直後の昭和20年代末頃には、渋谷から江の島までを結ぶ「東急ターンパイク」計画まであったというからすごい。PIKEとは17世紀英国でできた道路所有者がつくる有料道路のことだが、1954年に東急電鉄の臨時建設部が渋谷駅を起点にして、二子玉川、戸塚、大船を経由して江ノ島にいたる約48㎞結ぶ有料道路の計画が持ち上がった。これも東名と第3京浜の完成で、実現には至らなかったが、これこそが小田原から箱根までの現在の箱根ターンパイクとしていまに残っているというのだ。
  高速道路で一休みするサービスエリアについても、この本はうんちくを傾ける。たとえば、東名の「足柄サービスエリア」は、京都大学工学部建築科を卒業した黒川紀章が、30歳のときに設計したもので、敷地周辺の樹木により外からは認めづらい空間にサービスエリアを構築したというのだ。断絶されたカーパーキングの世界。同じ東名でも富士川サービスエリアは、ガラリ異なる。経済学者清家篤の父清家清が設計したもので、富士川を眼下にして富士山と駿河湾を眺望するデザインとしている。
  このように、各サービスエリアは、個人デザイナーの手にゆだねられたというのだ。今日の街のデザインがよく金太郎飴にたとえられるが、道路施設は意外と個性が尊重されているというのだ。
  幹線道路沿いのたとえばガソリンスタンドや、商業施設が、なにやらてんでんばらばらのデザインなのは、こうした流れと共通しているのかもしれない。この本は、建築のデザインの門外漢にもわかりやすい筆致で少し前の自動車道路をとりまく無味乾燥と思いがちな建設に色合いを与える。(2011年4月発行)

愛車メンテのプラスアルファ情報

知られざるネジメーカーの素顔! 静岡の“興津螺旋(おきつらせん)”(短期連載 第2回)

柿澤社長

昔のネジ切り盤

  こうした男女差別を撤廃した職場づくりのキッカケは、3代目の社長の価値観に根差しているようだ。
  このネジメーカーは、昭和14年に現社長の祖父・柿澤金男氏の手で創業された。小ネジ、木ネジ、小鋲と呼ばれたリベットづくりからスタートして、戦時中は海軍の軍需工場となり、戦後民需品ネジ工場として復活している。
  「昭和30年代には木ネジの生産ではトップメーカーだったと聞いています。といってもシェアは10数%でしたが。その後昭和30年代後半に入ると高度成長経済を背景に住宅建築が右肩上がりの時代が続きます。このころわが社は、木ネジや小ネジ、釘、鉄線など住宅関連の装備で使われるネジをもっぱらつくっています。ところが、昭和40年代になると、アルミサッシをはじめ、家電、キッチン、バス、エアコンなどに使われるステンレスねじに、着目しました。その研究の成果は昭和48年に初めてステンレスねじを生産したことで花を開きました。そして約10年後には釘や鉄線部門を閉鎖してステンレスの小ネジやタッピングネジに大きく比重をかけていきます」
  こう語る今年49歳になる現社長の柿澤宏一氏は、中学の夏休みの自由研究で、自分ちの工場のことをリポートしている。本人の記憶も薄れてはいるが、とにかくネジの種類の多さを級友に知らせたくて一心不乱に鉛筆を走らせた」ことだけはよく覚えている。「たったそれだけ?」とやや不満げな当方の態度に、遠くを見てさらに思い出したようだ。「そういえば、ネジの作り方についての研究発表もした」という。
  ネジの作り方と言えば、いまは生産性の高い転造と呼ばれる製造法が一般的。ギザギザの付いた金型に丸棒の素材を押し付け転がして、あっという間にネジ部を作るやり方だ。工場の機械を眺めても、まるで“瞬間芸のように!”次々にネジができていく。でも現社長が小学生時代には、まだ一昔前の「ネジ切り盤」がかろうじて活躍していたという。
  ネジ切り盤といえば、ネジの歴史を書いた本のページがすぐ思い浮かぶ。丸棒を回しながらバイトと呼ばれる刃物でネジ溝をつけていく、小型旋盤みたいな工作機械。英国人で世界で初めてネジの規格(ネジ山の角度が55度で、いまの60度とは異なる)をつくったウイットウォース(1803~1887年)のネジ切り盤。イラストでしか見たことがなかったが、実はこの工場の片隅に大切に鎮座していた。原理は、旋盤の超ミニ盤だが、M6とかM8のネジを対象とするのであるなら、両手で持てるほど小型であることが確認できた(写真)。


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