「地球上の乗り物をすべてバッテリーEVにすることで、環境問題のゲームチェンジを図る!」
これって、もともとディーゼルエンジン車のフェイク試験でミソをつけた欧州車メーカーが、覇権を握りつつあった日本車潰しとグローバルでの主導権奪取を狙った政治的動き。カーボン・ゼロを正義の御旗にした、いわば“横紙破り”の挙だと見えなくもない。そもそも電気をつくるのに化石燃料の石油を使っていたら、だれが見てもインチキだし・・・・。
これまで自動車に縁がなかった企業も、この戦に参加している構造なので、混乱をきたしている。のちの歴史家になって読み解くと、SDGs(持続可能な開発目標)をめぐる“非情の21世紀の日欧自動車戦争”。そんな妄想に駆り立てられる。
ともあれオール電化にしろ、電動アシスト(HV)にしろ、高性能な蓄電池が今後の切り札になることは間違いない。いまあるリチウムイオン電池では航続距離、充電時間、それにコストなど多くの課題が山積して、役不足気味!
だからして待ち望まれているのが、次世代電池の「全固体電池」。BEVの切り札。これこそがゲームチェンジャーにもなりうるキラー技術!
この全固体電池は、2011年東工大の菅野了次教授(写真)が、全固体電池の基礎技術である“超イオン伝導体”を発見したところから始まった。エネルギー密度と充電時間の短縮が魅力。でも電解液が液体ではなく、“固体”というメッセージが強すぎ、詳細があまり語られていないようだ。
電解液が固体で、そのなかをリチウムイオン電子が素早い速度で動く。従来あったセパレーターもなくなる。つまり従来のセルで構成されるのではなく、正極、固体電解質、負極、この3つを繰り返し積み重ねて電池を構成できる。セパレーターがないぶん、コンパクトになり、しかもエネルギー密度が従来の2.5倍、充電時間は1/3の素早さというのが圧倒的優位性。固体なので、高温で電解液は蒸発しづらく、低温で凍らない。そのため、高温、低温での使用もできる。
現在、この日の丸ハイテクの固体電池は、産学合わせてのプロジェクトチームにより実用化に向けてラストスパートがかかっている段階。コストダウンや安全性の確認などの課題に注力されているようだ。
日本の産業の屋台骨に成長する可能性大に見える。ところが、全固体電池をめぐる特許数ではじつは中国の方が2倍近く多いというのが不安要素。EV車の走行中での非接触充電システムの世界に先駆けた実証実験が、今月から山梨で始まるという。でも、のんびり構えていて気づけば中国が先んじていた! ということになりかねない。今後の動向に注視すべしだ。
全面的に販売をまかされた神谷正太郎は、「販売網の充実なくして量産体制の完成はあり得ず」とした。そこで神谷みずから、地方の資産家を訪ね歩き販売店になるように説得した。
熱意と誠実さに動かされ、東京を皮切りに栃木、静岡、岐阜、群馬などのディーラーが誕生し、昭和11年には岐阜ではフォードを抜いてトヨダの販売台数が凌駕した。群馬では登録台数の半数以上をトヨダが占めるという快挙を演じている。
昭和13年の秋には、神谷正太郎は、各府県に一軒の全国ネットを完成させ、さらに翌14年には遠く樺太トヨダ、釜山トヨダまで設立している。
G1型トラックは、乗用車のAA型より1年前倒しの1935年(昭和10年)12月に発売した。車名は「トヨダG1型」。
AA型乗用車のプレス金型の設計と製作に取り掛かっていた昭和9年年末、商工省と陸軍省から国策上の理由でトラック・バスを製造してほしいとのオファーがあったのだ。喜一郎は当初は、政府の補助金を頼ると自助努力の妨げとなり、乗用車製造に悪影響を及ぼすと考えていた。だが、そのころフォードが、手狭になった横浜のノックダウン工場をより広い工場を作り上げ、日本市場ばかりか中国市場へも大きく手を広げる動きを見せており、これを阻止する陸軍省および商工省との対立も露骨になっていた。こうした情勢を見た喜一郎は、「まずトラックからやろうではないか」と決意した。
そうと決まったら、開発はすさまじく早かった。
すでにこのへんはお話はしているが、おさらいの意味でもう一度お伝えすると、1935年3月、34年型のフォード・トラックを購入し、これを参考にシャシー設計をおこなっている。すでに33年型シボレーのエンジンをモデルにした乗用車用の「エンジンA」(図版)の試作が完成していたので、これをトラックに流用することにした。フレームは丈夫なフォード式、フロントアクスルはエンジンと搭載との関係でシボレー式とし、リアアクスルは全浮動式のフォード式と、当時としてはそれぞれの長所を生かした設計だったとされる。
とにかく開発期間半年ということもあり、間に合わない部品は、シボレーとフォードの補修部品を活用することにした。
G1型トラックの試作完成したのが8月25日。翌9月に6日間の日程でおこなわれたのが前回にお話した走行テストである。
日本フォードの副支配人だった稲田久作、日本GMのちトヨタで販売の神様と言われた神谷正太郎、安全自動車の創業者でクライスラーの販売を手がけた中谷保、それにヤナセの創業者・梁瀬長太郎。戦前日本の自動車産業勃興期を舞台に活躍した、この4人の男を軸にした自動車物語である。A5版の判型で、2段組み256ページ。
日本人(おもに東京市民)が、自動車という乗り物を身近に感じ始めたのは、フォードのトラックシャシーを使って架装された11人乗りの路線バス、通称「円太郎バス」である。関東大震災(1923年)で壊滅した市電に変わり、市民の足となり大人気を誇った。
極東の国でクルマの需要が見込まれると見たアメリカのフォード、ゼネラルモータースのGM、クライスラーのビッグ3は、昭和初期に横浜と大阪にノックダウン工場をつくり、あっという間に日本の道路をアメ車が走り回る状況を作り上げた。国家プロジェクトで自前の自動車生産を育てたいと目論む軍部には、こうした状況は歯がゆいばかり。その歯がゆさは複雑だ。当時の日本製トラックは、戦地で壊れまくり役に立たないばかりか足手まとい。その点アメリカのトラックは丈夫で壊れず信頼性が高かったからだ。
この本は、こうしたすでによく知られる史実の隙間を、知られざるエピソード、それに豊富な図版や図表で埋めてくれる。たとえば、梁瀬長太郎は、欧州からアメリカに向かい洋上で大震災を知り、NYに着くや否やGMに2000台ものビュイックとシボレーを発注、これが日本に到着後またたく間に完売し、莫大な利益を得てヤナセのもとを作り上げたという。
あるいは、円太郎バスの運転手を当時の市電運転手のなかから1000名希望者を募り、世田谷にある東京農大のキャンパスで陸軍自動車隊の教官が先生役で速成訓練を展開。いっぽうバスボディの架装は、馬車を製作していた工房など八方手を尽くして分散生産させている。それもあって、バスはいわゆる室内高が低く立ち乗りができず、対面する座席方式で、互いの膝がぶつかるほど狭かった。それでも、円太郎バスは当時の東京市民にはとても人気があった。市電の復旧が進んでバス路線の廃止が一度きまったが、廃止撤廃の声が多く、継続営業となり、バス自体も屋根をアーチ型に改良し、多少は居心地がよくなったとされる。それが、いまにつながる都営バスとなっている。すでに100年以上を超える都市の路線バスとなった。
著者のサトウマコトさんは、鶴見生まれの横浜っ子。近所に稲田久作の旧家があり、その縁で大量の資料を発見し、この著を世に送り出せたという。小田急百貨店に50歳まで勤め、そこから乗り物好きが高じて、横浜の鉄道や歴史ものを出版する出版社を経営するかたわら、みずからも執筆の日々だという。
文章はわかりやすい表現で好感をもてる。タイトルも悪くないし、発見も多い本である。
苦言を呈すれば、みずからが編集者となっているせいか、はたまた本屋に並ぶ前に第三者の目が充分でないせいか、せっかくの力作も記事のダブりや誤植が目立つ(人のこと言えませんが)。全体としてまとまりが弱い、なんだか隔靴掻痒(かつかそうよう)なのである。(2000年12月発刊)
創業者で初代社長の柿澤金男さんは、昭和46年に亡くなっている。バトンタッチした2代目社長(現社長の父親:現在81歳)には「次世代はステンレスねじを挑戦したらどうか」と生前に言い残したという。
高度成長経済が始まり、ステンレスねじの市場が今後増えることを見越してのことだ。
創業者のアドバイス通り、2代目はステンレスねじの研究に打ち込み、商品の種類を増やしていった。アルミ建材、家電、キッチン、バス、エアコンなど生活の身近なところにある装置や器具類で使われているステンレスねじを重点的に生産。興津螺旋をねじメーカーの上位に押し上げていったという。
じつはステンレスといってもいくつもの種類がある。興津螺旋が使うのはSUS XM7である。SUSとはJIS(日本工業規格)でのステンレス鋼を意味し、英語のSTAINLESS USED STEELの略である。
このSUS XM7は従来からあるSUS304の冷間加工性を高めたもので、18Cr-9Ni-3.5Cuつまりクロム18%、ニッケル9%、銅3.5%で、残りFe(鉄)。ねじ類に使われるポピュラーな素材。1977年にJISの仲間入りをしている。ちなみに、食器などに使われるポピュラーな18-8ステンレスは、クロム18%、ニッケル8%、残りFeである。このXM7は、銅が3.5%混じっているところがミソで、冷間時の圧造性を向上させているという。
この工場では、ネジ径M3からM8(ネジの直径サイズで単位はmm)、首下が5mmから長いものだと150mmのネジをもっぱら生産しているので、線形は素材の違いがある。たとえばネジ頭部を成形する圧造時の滑りをよくするためボンデ処理(リン酸塩皮膜処理)を施すとか、いろいろな種類の線材を素材メーカー(正確には伸線メーカーだが)から購入している。その種類はなんと約40種類もあるという。
ふるい読者なら覚えておいでだろうか? 福岡の博物館に展示している「アロー号」のことを。
現存する日本最古の手作り乗用車「アロー号」は、1916年(大正5年)24歳の矢野倖一がほとんど一人でつくり上げた4人乗り水冷2気筒サイドバルブエンジン1054㏄を載せたアルミボディの乗用車だ。全長2590mm、全幅1170mm、全高1525mmだから現在の軽自動車のひと回りもふた回りもコンパクト(下の写真)。
この矢野倖一の流れをくむトラックの架装事業企業が、福岡にある「矢野特殊自動車」である。昭和33年日本初の機械式冷凍車を開発するなど、トラックの架装事業の世界では確固たる地位を占めている。その矢野特殊自動車が、今回横浜で催された「ジャパントラックショー2022」で新製品をお披露目していた。
それが「新型スーパーチルドウイング車」(上の写真)。
チルド車というのは、生鮮肉、魚類、乳製品、それに温度管理の困難な医薬品輸送を専門とするトラック。ウイング車というのは、荷室の側面をガバッと上に持ち上げ、フォークリフトなどによるに作業がらくらくできるタイプのトラックだ。昔の算盤と呼ばれるコロを使った人海戦術要素の多い、平積みトラックにくらべウルトラ高効率である。
トラック自体は日野の大型「プロティア・ハイブリッド」だが、架装を担当したエンジニアに話を聞くと「通常のチルド機能を持つウイング車は温度が+10度C前後ですが、このトラックはチルド機能を謳うだけに+2~8度Cの温度範囲」だという。
これを実現したのは、「とにかく気密性を高めること。そのためにパッキンを追加したり、床面の形状を冷風が効率よく流れるようにキーストーン形状と呼ばれるギザギザをつけている。それと煽り部分の断熱材をアルミ板をサンドイッチとして両側にスチレンフォームを配しています」。合わせ技で、チルド機能を高めているようだ。「一番の苦労した点ですか? それはパッキンの当たり方の検証でした」という。当たり方ひとつで気密性と温度管理に変化がみられる、というのだ。
冷風はハイブリッドのモーターで駆動する前後2つのエバポレーターで、温度センサーを複数付け庫内温度の“見える化”を実現しているという。われわれの豊かな暮らしを支えている物流の代表選手である大型トラックの楽屋裏にはこうしたドラマがたっぷり詰まっている。
ちなみに、この手のチルドウイング車は、行きと帰りで庫内温度が変えられるので、荷物のクオリティの自由度が高い。だから輸送業者から見ると台数を絞ることができ、結果としてウイング車が増加中だという。
いま考えれば驚くべきことだが、モノづくりに力を注ぐあまり、販売面についてはほとんど準備がなかった。それだけ世の中はのどかだった、といえた。
でも、フォードやGMがすでに日本くまなくサービスネットワークを張り巡らせていた。これに肩を並べるほどの販売ネットワークを構築する必要がある。切実にこのことを気づいた喜一郎は大至急経験豊富な人材を求めはじめた。
その後の歴史を知る者には、人との出会いほど不思議なものはない、と強く思うに違いない。
そうしたタイミングで喜一郎が知りえたのが、のち「販売の神様」と呼ばれた神谷正太郎(1898~1980年)である。神谷は、もともと名古屋市の南、知多半島の付け根にある知多郡(現在の東海市)の生まれ。名古屋市立名古屋商業高校を卒業後、三井物産に入りシアトルやロンドンの駐在員をへて、独立。自前の鉄鋼関係の商事会社をロンドンで設立し、インドや日本向けの鉄鋼を輸出していた。だが、現地での炭鉱労働者の労働争議のストライキで立ち行かなくなり帰国。
帰国後の昭和3年、英語が堪能だったこともあり日本のGM法人にいまでいうヘッドハンティングで入社。
2年後には大阪本社販売広告部長を務め、同時のエリアマネージャーとして販売店の設立や経営指導の経験を持っていた。日本GMのなかではナンバー2の存在だった。
このタイミングで喜一郎と神谷は出会うことになる。
神谷正太郎37歳、豊田喜一郎41歳だった。GMは、販売店に一方的なノルマを課す過酷なやり方に疑問を抱いていた時期で、喜一郎の情熱と人格、そして将来への夢に心が動かされた、「あなたがきてくれるのなら販売のすべてを任せる」という全幅の信任を得て、販売を引き受けることになった。
ちなみにGM時代の給料は300円(現在貨幣価値で約80万円)だった。いきなりの役員待遇でのトヨタ入りではあったが、給料は1/3の月100円で引き受けた。男同士の息に通じたというか、二人のあいだに化学反応が起きたんだろうね。本田宗一郎と藤沢武夫の出会いを重ね合わせる読者もいるかもしれない。
ふだん何となくクルマのハンドルを握っていても、気づいていないことがたくさんある。そのことにおおいに気付かされてくれるのが、この『自動車と建築』という風変わりな本だ。内容もさることながら、正直あまりこなれていない文章で、つい放り投げたくなった。でも辛抱強く読み進めると、意外な発見が散りばめられていた。
たとえば、のちにモータースポーツの推進に貢献することになるドイツのアウトバーン。そもそもヒトラーが1933年、60万人規模の失業者対策として、かつドイツ帝国の兵站を支える道路の位置づけで建設され、速度無制限道路といういわば究極の舞台をつくることで、その後のドイツのクルマ産業を支えた。ここまではよく知られているが‥‥。
この本によると、日本版アウトバーン計画なるものが「弾丸道路」という名称で戦前の日本にもあったという。わが国初の高速道路計画は、神武天皇からカウントしてちょうど2600年(皇紀2600年)にあたる昭和15年(西暦1940年)に鉄道省によって発表された東京・下関間新幹線建設を同じ年に新聞紙上をにぎわしたというのだ。当時の内務省の若手技師たちが、交通情勢や都市人口、工場地帯での生産量、自動車保有台数、港湾施設などを勘案し、ドイツのアウトバーンの向こうを張って「弾丸道路」計画を検討したという。つまりいまから80年も前に新幹線とパラレルに超弩級のハイウエイ計画が日本で存在したのだ。
じっさい名古屋・神戸間の実地計画まで行われたものの、約2億円(現在の価格で5兆300億円)という建設費が認められずあえなくポシャッた。どうも戦争遂行のための国民向けアドバルーンだったかもしれない。
自動車専用道路計画は、なにも国がおこなった東名高速や中央高速ばかりではなく、民間のチカラでの道路づくりもあった。伊豆にある小刻みな有料道路や芦ノ湖スカイラインや箱根ターンパイクなど観光道路が思い浮かぶ。それだけではない。終戦直後の昭和20年代末頃には、渋谷から江の島までを結ぶ「東急ターンパイク」計画まであったというからすごい。PIKEとは17世紀英国でできた道路所有者がつくる有料道路のことだが、1954年に東急電鉄の臨時建設部が渋谷駅を起点にして、二子玉川、戸塚、大船を経由して江ノ島にいたる約48㎞結ぶ有料道路の計画が持ち上がった。これも東名と第3京浜の完成で、実現には至らなかったが、これこそが小田原から箱根までの現在の箱根ターンパイクとしていまに残っているというのだ。
高速道路で一休みするサービスエリアについても、この本はうんちくを傾ける。たとえば、東名の「足柄サービスエリア」は、京都大学工学部建築科を卒業した黒川紀章が、30歳のときに設計したもので、敷地周辺の樹木により外からは認めづらい空間にサービスエリアを構築したというのだ。断絶されたカーパーキングの世界。同じ東名でも富士川サービスエリアは、ガラリ異なる。経済学者清家篤の父清家清が設計したもので、富士川を眼下にして富士山と駿河湾を眺望するデザインとしている。
このように、各サービスエリアは、個人デザイナーの手にゆだねられたというのだ。今日の街のデザインがよく金太郎飴にたとえられるが、道路施設は意外と個性が尊重されているというのだ。
幹線道路沿いのたとえばガソリンスタンドや、商業施設が、なにやらてんでんばらばらのデザインなのは、こうした流れと共通しているのかもしれない。この本は、建築のデザインの門外漢にもわかりやすい筆致で少し前の自動車道路をとりまく無味乾燥と思いがちな建設に色合いを与える。(2011年4月発行)
こうした男女差別を撤廃した職場づくりのキッカケは、3代目の社長の価値観に根差しているようだ。
このネジメーカーは、昭和14年に現社長の祖父・柿澤金男氏の手で創業された。小ネジ、木ネジ、小鋲と呼ばれたリベットづくりからスタートして、戦時中は海軍の軍需工場となり、戦後民需品ネジ工場として復活している。
「昭和30年代には木ネジの生産ではトップメーカーだったと聞いています。といってもシェアは10数%でしたが。その後昭和30年代後半に入ると高度成長経済を背景に住宅建築が右肩上がりの時代が続きます。このころわが社は、木ネジや小ネジ、釘、鉄線など住宅関連の装備で使われるネジをもっぱらつくっています。ところが、昭和40年代になると、アルミサッシをはじめ、家電、キッチン、バス、エアコンなどに使われるステンレスねじに、着目しました。その研究の成果は昭和48年に初めてステンレスねじを生産したことで花を開きました。そして約10年後には釘や鉄線部門を閉鎖してステンレスの小ネジやタッピングネジに大きく比重をかけていきます」
こう語る今年49歳になる現社長の柿澤宏一氏は、中学の夏休みの自由研究で、自分ちの工場のことをリポートしている。本人の記憶も薄れてはいるが、とにかくネジの種類の多さを級友に知らせたくて一心不乱に鉛筆を走らせた」ことだけはよく覚えている。「たったそれだけ?」とやや不満げな当方の態度に、遠くを見てさらに思い出したようだ。「そういえば、ネジの作り方についての研究発表もした」という。
ネジの作り方と言えば、いまは生産性の高い転造と呼ばれる製造法が一般的。ギザギザの付いた金型に丸棒の素材を押し付け転がして、あっという間にネジ部を作るやり方だ。工場の機械を眺めても、まるで“瞬間芸のように!”次々にネジができていく。でも現社長が小学生時代には、まだ一昔前の「ネジ切り盤」がかろうじて活躍していたという。
ネジ切り盤といえば、ネジの歴史を書いた本のページがすぐ思い浮かぶ。丸棒を回しながらバイトと呼ばれる刃物でネジ溝をつけていく、小型旋盤みたいな工作機械。英国人で世界で初めてネジの規格(ネジ山の角度が55度で、いまの60度とは異なる)をつくったウイットウォース(1803~1887年)のネジ切り盤。イラストでしか見たことがなかったが、実はこの工場の片隅に大切に鎮座していた。原理は、旋盤の超ミニ盤だが、M6とかM8のネジを対象とするのであるなら、両手で持てるほど小型であることが確認できた(写真)。