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2022年7 月 1日 (金曜日)

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真実のアウトバーン建設秘話!

ヒトラーとアウトバーン

  はじめてドイツを訪れたとき、アウトバーンを走るのがひとつの夢だった。
  速度無制限の世界で、全開で走るポルシェやベンツ、BMWたちの姿を眺められる! 名車たちを育みそだてあげるアウトバーンの姿をこの目で確かめられる! そんな図柄を頭に描いていた。ところが、いざ現場に立つと、ふつうの高速道路とあまり変わり映えがしなかった。たぶん、それは・・・・「総延長1万3000キロなので、地域によれば違った景色が展開されている。環境問題もあり、制限速度で縛られる個所もあるようだし…‥」
  よく知られるように、アウトバーンの建設は、第1次世界大戦の敗戦後大不況に陥ったドイツが600万人もの失業者を抱えた。これは人口の約1割に当たる。日本の失業者は現在約188万人だが、人口が当時のドイツの約2倍だから、1930年代のドイツがすさまじい不況が襲いかかっていたことか。
  アウトバーンの建設は、1933年9月、フランクフルトの郊外で起工式がおこなわれた。シャベルを手にしたアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)が労働者とともに鍬入れをおこなう模様を宣伝相のゲッペルスがドイツ全土に報じ、プロパガンダ効果を狙った。工事が始まり1年8か月後、フランクフルト―ダルムシュタットをむすぶ22キロの道路が完成。写真はこのときの記念パレードでヒトラーがオープンカーで祝っている様子をとらえている。
  6年後の1939年には当初計画の半分にあたる3300キロが完成。戦争がはじまるとポーランド人の戦争捕虜、ユダヤ人、外国人労働者も多数駆り出されたが、戦況の悪化にともない、1942年に工事はすべて中断されている。
  幅5メートルの中央分離帯を挟んで両側に幅7.5mの本道と1mの側道を備え、1家に一台という国民車(フォルクスワーゲン)が走る予定だったのが、不首尾に終わる。(ドイツのクルマ社会の実現は第2次世界大戦後を待つしかなかった)
  戦時下では飛行機の滑走路に使われたり、ついには自転車道路になりはてたという。軍事的にも、戦車など重量車両の走行には適さなかった。皮肉にもアウトバーンがフル活用されるのは、ヒトラーがこの世から消えてのちの話。
  たしかにヒトラーはクルマの運転こそしなかったが、このアウトバーンの大推進者であったことは間違いない。ところが、発案者であったかというと、NOだ。
  じつは、交差点や信号機のない高速道路構想は、すでに20世紀当初に構想されていて、ヒトラーが首相になる前年の1932年、戦後西ドイツ初代首相となる当時のケルン市長のコンラート・アデナウアー(1876~1967年)がケルン―ホン間全長20キロの開通式を取りおこなっている。おまけに高速道路網の建設法案が1930年に提出されたとき、ヒトラー率いるナチ党はこれを予算の無駄使いとして反対の意思表示をしている。ヒトラーは政権を握ると、こうした経緯がまるでなかったかのように、失業問題の切り札として、アウトバーンの建設を進めたのである。
  以上は、ドイツ近代史の学者・石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を読んでの受け売りだ。ウクライナ戦争を始めたロシアのプーチンが、「ネオナチを蹴散らすためウクライナに軍事行動を仕掛けた」と世界から見てフェイクの理由付けをしている。これに触発され、ふと手に取った本に思わぬ発見をしたのである。

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第15回)

斎藤尚一

  東京での発表は、芝浦サービス工場でおこなわれた。トラックの価格は、3200円、シャシーだけなら2900円ときめた。これは原価を割り込んだ価格で、アメリカ車よりも200円ほど安かった。ちなみに、1年後に発売された乗用車トヨダAA型の方は、3350円で、フォードやシボレーなどに比べ350円以上も安かった。当時のサラリーマンの年収が700~800円だったので、とてもじゃないが庶民がクルマを持てる時代ではなかった。
  販売し始めたトラックのG1は、かならずやトラブルが続発するはず。そう想定した喜一郎たちは、初代販売店となった名古屋の「日の出モータース」と相談し、最初の販売台数を6台だけと限定した。販売先も限定することで、故障が起きてもすぐさま対応できる体制を整えた。予想にたがわず、いたるところで故障し、昼夜を問わずフル稼働で対応した。喜一郎はみずからクルマの下に潜り不具合の箇所を確認し、設計や材質の変更を命じた。ここでトラブルというトラブルを出尽くさせることで、その後の不具合数を劇的に減らし、徐々に信頼性を獲得していった。
  昭和11年に入ると、G1トラックの事業も初期の混乱期を脱し、順調に動き出した。神谷による1府県に1ディーラー網の整備も着々と進んでいった。その年の2月に刈谷に組み立て工場が完成し、従業員も昭和7年に500人程度だったのが、3500人を超す陣容となった。このころ、のちにトヨタの社長にもなる東北大学工学部卒の斎藤尚一(1908~1981年:写真)や佐吉の弟の次男・豊田英二(1913~2013年)などが入社した。
  同じ年の5月、東京の丸の内で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」が開催された。G1型を改良したGA型トラックに並び、AA型乗用車4台もお披露目された。AA型は試作車のA1型を一歩進めた完成車だった。全長4737mm、全幅1744mm、全高1736mm、乗車定員5名、最高速度時速100キロというトヨタ初の乗用車だ。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:片山修著『豊田章男』(東洋経済新聞社刊)

豊田章男の本

  たいていの人がそうだが、いろんな媒体が増えたせいか昔ほどテレビの前に座らなくなった。
  とはいえ、妙に気になるTVコマーシャルがある。『トヨタイムズ』というCMである。俳優の香川照之を編集長に仕立て、トヨタのイベントを数秒でアピールする。これって、企業自体がメディアを持ち世間に発信するオウンドメディアという新手の自社広告の手段だ。
  媒体は、本来“公平・中立”が原則。だから、企業自前のメディアは公共性を欠き、本来あり得ない。でも、公平・中立の新聞社や放送局も、広告収入で活動を続ける以上、その理念は建前に過ぎない、ということは誰しも指摘するところ。でも、企業が媒体を持ち、社会にさも公平を装いながら大衆に訴え掛ける・・・・というのは疑問が残る。しかも、昨年末にお台場で発表したバッテリーEVの大々的記者会見。豊田章男社長が10数台の未発表のBEVをバックに、大きく手を広げているあの動画。これを、飽きずに6か月以上流し続けている。まともな媒体なら「終わったニュース」を流し続けることができる、というのがオウンドメディアなのである。
  調べてみると、トヨタは、これ以外にもSNSをフルに活用して、新しいモノづくりTNGA(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)を佐藤浩市、三浦友和、黒木華、永作博美など豪華な俳優陣を使い、とくにメカに強くない消費者にもわかりやすい動画を展開している。
  さらには、レーシングスーツに身を包んだ章男社長は、トヨタ車でサーキットでの競技に参加し、それをSNSにアップし、話題作りに励んでいる。時代は、たしかにこの方向に向かっていることは理解できるが、何もそこまでしなくても・・・・という思いが湧いてくる。
  この本によると、こうしたトヨタのトップは何を考え、どこに向かおうとしているのか? そして何を望んでいるのか? 世界には約37万人のトヨタ従業員がいる。家族を含めると、100万人以上。サプライヤー、ステークホルダーといわれる人たちを入れると、数百万人。この人たちに理解してもらうために、章男氏自ら、あえてこうした露出を展開しているのだという。
  その背景には、章男社長就任わずか2か月後の大事件があった、とこの著者は判じる。
  2009年に起きたアメリカを舞台にした大規模リコール問題。「初動の動きが遅れたばかりに、3時間20分にもわたるアメリカの下院での公聴会で弁明しなければならなかった」からだという。大大ピンチに晒された章男社長は、前夜遅くまでスタッフと打ち合わせた予定稿を破り捨て、自分の言葉で終始語った。これが、大きく人の心を打ち、ピンチを脱することにつながった。だから、常に企業は情報を発し続ける必要性があり、オウンドメディアは一つの選択肢だという。
  この本は、経済記者なので、廃油の臭いのある泥臭いエピソードは期待できないが、トヨタの過去・現在、そして未来に分け入ろうとする長編ドキュメンタリーである。豊田章男社長の人となりがそこそこリアルに描かれている。いま、曲がり角にきている自動車メーカーの具体的な生き残り策を知りたければ、一読の価値ありだ。(2020年4月発刊)

愛車メンテのプラスアルファ情報

知られざるネジメーカーの素顔! 静岡の“興津螺旋(おきつらせん)”(短期連載 第4回)

チタンの特性

  いうまでもないが、クルマばかりではなく、現在日本は大きな曲がり角に来ている。社会構造の変化の一つが、少子高齢化である。少子高齢化が進むと、いわゆる生産人口が減り、全体の世帯数が減り、それにともない住宅建築数が激減する。興津螺旋のネジを買ってくれるお客様の動向を眺めると、このことが顕著に分かるという。
  「たしか平成9年をピークにして、それ以降住宅建設が右肩下がりとなります。戸建て、マンションを含め全国で年間200万戸を超えていたのが、いまでは年間80万戸ほどになった。ですから、住宅関連の市場で使うねじに比重をかけているだけでは、興津螺旋の将来性は明るくはならない」
  大学で経済学をまなんだ現社長の柿澤宏一さんは、1996年に入社した。父親から3代目を受け継ぐにあたり次世代のネジづくりに期待された。振り返っても過剰なプレッシャーはとくになかったようなのだが、クルマが好きでなかでもトップエンドのポルシェが大好きだったこともあり、ネジ素材の頂点ともいえるチタンに関心をいだき始めたという。「とにかくチタン合金は、ゴルフクラブ、メガネフレーム、それに航空機などトップエンドの製品の素材の象徴的金属です。でも、加工が通常の金属にくらべ厄介だ」
  大学はモノづくりとは距離のある経済学部。だがサイエンスが好きだったこともあり、金属素材の研究を始めるのにさほどの苦痛を感じなかったようだ。1997年あたりからチタン合金の初歩から研究をはじめ、当初は、JISでいうところの2種のチタンを取り寄せ研究している。
  よく知られるようにチタンは、アルミの約60%の比重しかなく、単位重量当たりの強度はアルミの6倍、鉄の約2倍。優れた金属特性のため、航空機産業、具体的にはジェットエンジンのファンやファンケース。耐食性が優れているため、化学プラントや深海調査船のキャビンにも採用されている。柿澤さんはますます好奇心が高ぶったという。


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