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2022年7 月15日 (金曜日)

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ロシア製乗用車、いまやエアバックもABSも付かず!

ロシアのアウドバズ

  ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってすでに5か月近くたった。いまのところ、ウクライナ東部をめぐる激しい戦闘が続いている。
  一方、ロシア経済は、アメリカをはじめ西側諸国の経済制裁でじわりじわりとロシア国民の暮らしにも暗い影を落とし始めているといわれる。ロシアの自動車産業も、ここにきて大きく様変わりしつつあるようだ。
  よく言われるようにロシアは、原油や天然ガスなど化石燃料の資源埋蔵量が多く、ロシアにとってエネルギー関連事業を国家の柱と据えているため、モノづくりの企業育成が立ち遅れていた(軍需産業に力を入れすぎたせいだともいえる)。なかでも自動車産業はすそ野の広さが要求される産業のため、人口が1億4400万人のロシアといえども、思うように育てられなかった。その意味ではロシアは自動車後進国。どうしても、海外からの技術に頼らざるを得なかった。
  たとえば、ロシア最大の自動車メーカー「アフトバス」(英語でAvtoVAZ)がある。モスクワから東に約1000キロいった人口69万人のサマラ州トリヤッチ(ボルガ川河畔)に本社を置く企業。もともとは1966年イタリアのフィアットの協力で設立したボルガ自動車工場がそのルーツ。
  1970年代から約30年間にわたりロータリーエンジンを搭載した車両をつくっていたことでも知られるが、冷戦時代ということもあり、ドイツのNSUや日本のマツダにライセンス対価を支払わずに生産を続けていたというからすごい。技術へのリスペクトが感じられないことは、技術立国にはなりえない。
  そのアフトバスが、14年前の2008年からルノー・日産と組んで「ラーダ」という乗用車などを生産していた。ダットサン・ブランドのクルマも生産し、西側諸国や中国、キューバなどにも輸出していたのがつい最近までの話。ところが、今回のウクライナ侵攻で、ルノー・日産も撤退したことから、最新鋭(でもないけど)の自動車技術であるエアバックやABSが入手困難となり、仕方なくいわば1960年代の安全性や環境対応まで後退した車両を生産し始めているという。
  中国のサプライヤーと組めば、難なくエアバックやABS付きのクルマがつくれると思いきや、そう単純ではない。アメリカや西側諸国の制裁が強化され、ますます東西の冷戦時代の様相が深刻化するかもしれないからだ。
  独裁者プーチンの強硬策が続く限り、ロシアのクルマは“枯れた技術満載の自動車”をつくり続けるようだ。

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(第16回)

タクシーで活躍したトヨダAA

この時代、ふつうの庶民は国産初の乗用車をどう見ていたのだろうか?
  1926年、東京生まれで東京工業大の工業化学科卒の遠藤一夫氏が、「おやじの昭和」(中公文庫:1989年刊)というエッセイのなかでトヨダA1誕生の頃の東京クルマ事情を回顧している。かいつまんで記してみると……。
  「国産車を販売する東京トヨタ自動車販売会社が創設されたのは、昭和10年11月19日であった。有楽町の日劇の向かい側、トウランプ(トランプの間違いではなく、かつて存在した東京電力傘下の白熱球ランプの“東光電気”のこと)の建物があったあたりである。自転車事業の丸石商会の社長、丸石商会の息がかかった人物が支配人だった。11月23日、豊田自動織機創立記念日には、東京芝浦のガレージで、トヨタトラックの発表会があり、参加している。この日は、永野修身大将がロンドン軍縮会議に出席するため旅立った日であり、上海では抗日テロが続発していた」
  当時は自転車が移動手段の主役だった。ちなみに、自転車業界で先陣を切っていた丸石商会は明治期末英国のバイク・トライアンフを輸入販売していた経緯もある。
  トヨタA1型乗用車は、この年の5月に完成し販売したが、いまでは想像すらできないが国産車というだけで売れなかった。
  「足回りは丈夫なフォード、エンジンはシボレー型と外車販売の側が宣伝したため、かえって売れ行きが鈍ったという。故障して止まっているクルマの写真をとり、商売敵に売りつける者も現れた。名古屋トヨタ販売株式会社が設立されたのが昭和10年12月。常務取締役は、日の出モータースの支配人山口昇氏(1896~1976年)だった」
  余談だが山口は、若いころ慶応大学の野球部で投手兼キャプテンをしていた人物。戦後トヨタの販売店のリーダー的存在となる。その山口氏は、故郷の中京地区でトヨタのトラックを販売しながら、苦情を聞きそれを好機とばかりフィードバックし、信頼耐久性を高めていったという。東京で売り出した11年3月には、ずいぶん信頼を勝ち取った。販売にあたったのは、山口氏とも懇意だった元日本GM販売広告部長だった神谷正太郎氏だ。
  ここで注目したいのは、当時の東京市内の自動車模様である。
  昭和10年、東京市民が見る街中のクルマはほとんどが外車だった。東京市の統計課がタクシーの実情を調べたという。その結果、市中にはタクシーが1万1580台いて、運転手が7452人。会社組織が159で、残り7293人はすべて個人営業だった。車種はフォードが2546台、シボレー1561台、この2種で総数70.5%を占めた。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:五木寛之著『メルセデスの伝説』(講談社刊)

メルセデスの伝説

  クルマ自身がもう一つの主役となっている、歴史的事実をもとにしたカーノベルである。
  “グロッサー・メルセデス”(巨大なメルセデス)の名でよばれるメルセデス・ベンツ770は、アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)の肝いりで1930年から1937年のあいだにつくられた超弩級のプレミアム高級車。
  おもなユーザーは、ヒンデンブルグ大統領、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、イタリアのベニート・ムッソリーニ、スエーデンのグスタフ5世、ローマ教皇ピウス11世、それに日本の昭和天皇など当時の世界の冠たる枢軸国のトップ人物。とくに、1938年にフルチェンジされたグロッサーは、7655ccの直列8気筒OHVエンジンであることには変わりないが、半楕円リーフリジッドタイプの前後サスを前後輪ともに独立懸架式に変更。スーパーチャージャー付仕様だと、400PSで最高時速190㎞をマークしたといわれる。
  厚さ45mmの分厚い防弾ガラス、主要キャビンを囲む部分が厚さ18mmの鋼板に覆われ、タイヤも被弾しても大丈夫な特別タイプ。標準仕様の車両重量2700kgのところなんと5トンを超えるタイプもあった(それでも戦車にくらべると1/8~1/10に過ぎない!)。この幻の高級車が、意外や7台も現存する。
  戦後生まれの放送作家の主人公は、ひょんなことからこのグロッサ―メルセデスをテーマにTVでのドキュメンタリーを製作するスタッフの一員となり、ドイツのメルセデス博物館に取材したりするうちに、主人公の父親の死が、このグロッサーとかかわりがあることが浮上。父親は終戦の直前国家の重大な名誉をになう仕事で殺されたことが分かり、その背後に戦後のどさくさに巨額の資産を蓄えた日本人の黒幕が浮かび上がってくるに従い、主人公の周辺で不明な事故が頻発する。
  これ以上書くとネタバレになりそうだが・・・・意外にも幻の“グロッサ―・メルセデス”、昭和天皇が愛用する予定だった超弩級高級車は、日本の某所にひそかに保管され、ベストコンディションで維持されていた。
  父親の無念を晴らすべく主人公は、敵陣に単独で乗り込み、大暴れする。まるでシルべスター・スタローンの「ランボー」の映画のように! 真夏のエアコンの効いた部屋で読み始めると2日で読み切ってしまう、奇想天外な痛快冒険カー小説である。これを機にちょっぴりベンツの歴史や終戦直後の知られざる日本の歴史を知りたくなる。(1985年11月発刊)

愛車メンテのプラスアルファ情報

知られざるネジメーカーの素顔! 静岡の“興津螺旋(おきつらせん)”(短期連載 第5回)

チタンネジ

  面白いことにチタンはTiO2(酸化チタン)というチタンと酸素の化合物というカタチの鉱石で地球上には使いきれないほど埋蔵されている。マグネシウムを使い還元、つまり酸素分を除去して純チタンを生み出す。この精錬法が確立したのがわずか半世紀ほど前。チタンの量産はデュポン社が始めている。その意味では、まだまだ金属の歴史としては、まだ始まったばかり。
「ネジをつくるうえで重要な物理的特性に引っ張り強度というのがあります。ふつうの鉄のネジがだいたい400MPです。ここでのメガパスカルというのは、正確に言うとMP/mm2と表記する。1mm四方当たりにかかる力。ステンレスだとだいたい500MP、これがキャップボルトつまり内6角ボルトだと約700MPに高められるのです。これがチタン合金を金属組織から分類したβ型合金のなかのTi15-3-3-3と呼ばれるチタン合金だと、引っ張り強度をさらに780MPにまで高められたんです」と柿崎社長。
  このTi15-3-3-3というのは正確には15V-3Al-3Sn-3Cr。つまり重量比で15%のバナジウムとそれぞれ3%アルミニウム、スズ、クロム、残りが純チタンという構成のチタン合金だ。ちなみに、航空機や人工関節、あるいは人工歯根インプラントなどには比較的ポピュラーなチタン合金であるTi64(ロクヨン・チタン:6%のアルミニウムと4%のバナジウム)が用いられているという。これはコスト的には比較的リーズナブルだが、冷間時の加工性が難しい。いっぽう「15-3-3-3チタン」は、この64チタンにはない、冷間時加工性が高くネジに成形する際のトラブルが比較的小さくて済む特性だ。
  そこで、当初は、廃棄寸前の機械を使い、恐るおそるテスト的にネジづくりをしてみたという。
  つまりステンレスねじを加工する機械で、チタンネジがつくれるかを試した。心配なのは、素材が硬すぎると金型が割れたり、機械が急に止まったりのトラブルが起きることだ。
  小さな不具合が起きたものの、長年の知見で乗り切ることができた。金型を絞り方向の力を逃がすカタチに設計し直したのと、圧造のヘッダーを多段打ちに変更することで、大きな壁にぶつかることなく比較的スムーズに事が運んだ。これが2005年のこと。ネジ径M6のプラスネジを100個ほどつくることに成功したのだ。モノづくりとはことほどさように地味な世界。でも、ここから商品化がスタートした。モノづくりの醍醐味を企業内で共有できることになった。


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