ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってすでに5か月近くたった。いまのところ、ウクライナ東部をめぐる激しい戦闘が続いている。
一方、ロシア経済は、アメリカをはじめ西側諸国の経済制裁でじわりじわりとロシア国民の暮らしにも暗い影を落とし始めているといわれる。ロシアの自動車産業も、ここにきて大きく様変わりしつつあるようだ。
よく言われるようにロシアは、原油や天然ガスなど化石燃料の資源埋蔵量が多く、ロシアにとってエネルギー関連事業を国家の柱と据えているため、モノづくりの企業育成が立ち遅れていた(軍需産業に力を入れすぎたせいだともいえる)。なかでも自動車産業はすそ野の広さが要求される産業のため、人口が1億4400万人のロシアといえども、思うように育てられなかった。その意味ではロシアは自動車後進国。どうしても、海外からの技術に頼らざるを得なかった。
たとえば、ロシア最大の自動車メーカー「アフトバス」(英語でAvtoVAZ)がある。モスクワから東に約1000キロいった人口69万人のサマラ州トリヤッチ(ボルガ川河畔)に本社を置く企業。もともとは1966年イタリアのフィアットの協力で設立したボルガ自動車工場がそのルーツ。
1970年代から約30年間にわたりロータリーエンジンを搭載した車両をつくっていたことでも知られるが、冷戦時代ということもあり、ドイツのNSUや日本のマツダにライセンス対価を支払わずに生産を続けていたというからすごい。技術へのリスペクトが感じられないことは、技術立国にはなりえない。
そのアフトバスが、14年前の2008年からルノー・日産と組んで「ラーダ」という乗用車などを生産していた。ダットサン・ブランドのクルマも生産し、西側諸国や中国、キューバなどにも輸出していたのがつい最近までの話。ところが、今回のウクライナ侵攻で、ルノー・日産も撤退したことから、最新鋭(でもないけど)の自動車技術であるエアバックやABSが入手困難となり、仕方なくいわば1960年代の安全性や環境対応まで後退した車両を生産し始めているという。
中国のサプライヤーと組めば、難なくエアバックやABS付きのクルマがつくれると思いきや、そう単純ではない。アメリカや西側諸国の制裁が強化され、ますます東西の冷戦時代の様相が深刻化するかもしれないからだ。
独裁者プーチンの強硬策が続く限り、ロシアのクルマは“枯れた技術満載の自動車”をつくり続けるようだ。
この時代、ふつうの庶民は国産初の乗用車をどう見ていたのだろうか?
1926年、東京生まれで東京工業大の工業化学科卒の遠藤一夫氏が、「おやじの昭和」(中公文庫:1989年刊)というエッセイのなかでトヨダA1誕生の頃の東京クルマ事情を回顧している。かいつまんで記してみると……。
「国産車を販売する東京トヨタ自動車販売会社が創設されたのは、昭和10年11月19日であった。有楽町の日劇の向かい側、トウランプ(トランプの間違いではなく、かつて存在した東京電力傘下の白熱球ランプの“東光電気”のこと)の建物があったあたりである。自転車事業の丸石商会の社長、丸石商会の息がかかった人物が支配人だった。11月23日、豊田自動織機創立記念日には、東京芝浦のガレージで、トヨタトラックの発表会があり、参加している。この日は、永野修身大将がロンドン軍縮会議に出席するため旅立った日であり、上海では抗日テロが続発していた」
当時は自転車が移動手段の主役だった。ちなみに、自転車業界で先陣を切っていた丸石商会は明治期末英国のバイク・トライアンフを輸入販売していた経緯もある。
トヨタA1型乗用車は、この年の5月に完成し販売したが、いまでは想像すらできないが国産車というだけで売れなかった。
「足回りは丈夫なフォード、エンジンはシボレー型と外車販売の側が宣伝したため、かえって売れ行きが鈍ったという。故障して止まっているクルマの写真をとり、商売敵に売りつける者も現れた。名古屋トヨタ販売株式会社が設立されたのが昭和10年12月。常務取締役は、日の出モータースの支配人山口昇氏(1896~1976年)だった」
余談だが山口は、若いころ慶応大学の野球部で投手兼キャプテンをしていた人物。戦後トヨタの販売店のリーダー的存在となる。その山口氏は、故郷の中京地区でトヨタのトラックを販売しながら、苦情を聞きそれを好機とばかりフィードバックし、信頼耐久性を高めていったという。東京で売り出した11年3月には、ずいぶん信頼を勝ち取った。販売にあたったのは、山口氏とも懇意だった元日本GM販売広告部長だった神谷正太郎氏だ。
ここで注目したいのは、当時の東京市内の自動車模様である。
昭和10年、東京市民が見る街中のクルマはほとんどが外車だった。東京市の統計課がタクシーの実情を調べたという。その結果、市中にはタクシーが1万1580台いて、運転手が7452人。会社組織が159で、残り7293人はすべて個人営業だった。車種はフォードが2546台、シボレー1561台、この2種で総数70.5%を占めた。
クルマ自身がもう一つの主役となっている、歴史的事実をもとにしたカーノベルである。
“グロッサー・メルセデス”(巨大なメルセデス)の名でよばれるメルセデス・ベンツ770は、アドルフ・ヒトラー(1889~1945年)の肝いりで1930年から1937年のあいだにつくられた超弩級のプレミアム高級車。
おもなユーザーは、ヒンデンブルグ大統領、ヘルマン・ゲーリング、ハインリヒ・ヒムラー、イタリアのベニート・ムッソリーニ、スエーデンのグスタフ5世、ローマ教皇ピウス11世、それに日本の昭和天皇など当時の世界の冠たる枢軸国のトップ人物。とくに、1938年にフルチェンジされたグロッサーは、7655ccの直列8気筒OHVエンジンであることには変わりないが、半楕円リーフリジッドタイプの前後サスを前後輪ともに独立懸架式に変更。スーパーチャージャー付仕様だと、400PSで最高時速190㎞をマークしたといわれる。
厚さ45mmの分厚い防弾ガラス、主要キャビンを囲む部分が厚さ18mmの鋼板に覆われ、タイヤも被弾しても大丈夫な特別タイプ。標準仕様の車両重量2700kgのところなんと5トンを超えるタイプもあった(それでも戦車にくらべると1/8~1/10に過ぎない!)。この幻の高級車が、意外や7台も現存する。
戦後生まれの放送作家の主人公は、ひょんなことからこのグロッサ―メルセデスをテーマにTVでのドキュメンタリーを製作するスタッフの一員となり、ドイツのメルセデス博物館に取材したりするうちに、主人公の父親の死が、このグロッサーとかかわりがあることが浮上。父親は終戦の直前国家の重大な名誉をになう仕事で殺されたことが分かり、その背後に戦後のどさくさに巨額の資産を蓄えた日本人の黒幕が浮かび上がってくるに従い、主人公の周辺で不明な事故が頻発する。
これ以上書くとネタバレになりそうだが・・・・意外にも幻の“グロッサ―・メルセデス”、昭和天皇が愛用する予定だった超弩級高級車は、日本の某所にひそかに保管され、ベストコンディションで維持されていた。
父親の無念を晴らすべく主人公は、敵陣に単独で乗り込み、大暴れする。まるでシルべスター・スタローンの「ランボー」の映画のように! 真夏のエアコンの効いた部屋で読み始めると2日で読み切ってしまう、奇想天外な痛快冒険カー小説である。これを機にちょっぴりベンツの歴史や終戦直後の知られざる日本の歴史を知りたくなる。(1985年11月発刊)
面白いことにチタンはTiO2(酸化チタン)というチタンと酸素の化合物というカタチの鉱石で地球上には使いきれないほど埋蔵されている。マグネシウムを使い還元、つまり酸素分を除去して純チタンを生み出す。この精錬法が確立したのがわずか半世紀ほど前。チタンの量産はデュポン社が始めている。その意味では、まだまだ金属の歴史としては、まだ始まったばかり。
「ネジをつくるうえで重要な物理的特性に引っ張り強度というのがあります。ふつうの鉄のネジがだいたい400MPです。ここでのメガパスカルというのは、正確に言うとMP/mm2と表記する。1mm四方当たりにかかる力。ステンレスだとだいたい500MP、これがキャップボルトつまり内6角ボルトだと約700MPに高められるのです。これがチタン合金を金属組織から分類したβ型合金のなかのTi15-3-3-3と呼ばれるチタン合金だと、引っ張り強度をさらに780MPにまで高められたんです」と柿崎社長。
このTi15-3-3-3というのは正確には15V-3Al-3Sn-3Cr。つまり重量比で15%のバナジウムとそれぞれ3%アルミニウム、スズ、クロム、残りが純チタンという構成のチタン合金だ。ちなみに、航空機や人工関節、あるいは人工歯根インプラントなどには比較的ポピュラーなチタン合金であるTi64(ロクヨン・チタン:6%のアルミニウムと4%のバナジウム)が用いられているという。これはコスト的には比較的リーズナブルだが、冷間時の加工性が難しい。いっぽう「15-3-3-3チタン」は、この64チタンにはない、冷間時加工性が高くネジに成形する際のトラブルが比較的小さくて済む特性だ。
そこで、当初は、廃棄寸前の機械を使い、恐るおそるテスト的にネジづくりをしてみたという。
つまりステンレスねじを加工する機械で、チタンネジがつくれるかを試した。心配なのは、素材が硬すぎると金型が割れたり、機械が急に止まったりのトラブルが起きることだ。
小さな不具合が起きたものの、長年の知見で乗り切ることができた。金型を絞り方向の力を逃がすカタチに設計し直したのと、圧造のヘッダーを多段打ちに変更することで、大きな壁にぶつかることなく比較的スムーズに事が運んだ。これが2005年のこと。ネジ径M6のプラスネジを100個ほどつくることに成功したのだ。モノづくりとはことほどさように地味な世界。でも、ここから商品化がスタートした。モノづくりの醍醐味を企業内で共有できることになった。
はじめてドイツを訪れたとき、アウトバーンを走るのがひとつの夢だった。
速度無制限の世界で、全開で走るポルシェやベンツ、BMWたちの姿を眺められる! 名車たちを育みそだてあげるアウトバーンの姿をこの目で確かめられる! そんな図柄を頭に描いていた。ところが、いざ現場に立つと、ふつうの高速道路とあまり変わり映えがしなかった。たぶん、それは・・・・「総延長1万3000キロなので、地域によれば違った景色が展開されている。環境問題もあり、制限速度で縛られる個所もあるようだし…‥」
よく知られるように、アウトバーンの建設は、第1次世界大戦の敗戦後大不況に陥ったドイツが600万人もの失業者を抱えた。これは人口の約1割に当たる。日本の失業者は現在約188万人だが、人口が当時のドイツの約2倍だから、1930年代のドイツがすさまじい不況が襲いかかっていたことか。
アウトバーンの建設は、1933年9月、フランクフルトの郊外で起工式がおこなわれた。シャベルを手にしたアドルフ・ヒトラー(1889~1945年)が労働者とともに鍬入れをおこなう模様を宣伝相のゲッペルスがドイツ全土に報じ、プロパガンダ効果を狙った。工事が始まり1年8か月後、フランクフルト―ダルムシュタットをむすぶ22キロの道路が完成。写真はこのときの記念パレードでヒトラーがオープンカーで祝っている様子をとらえている。
6年後の1939年には当初計画の半分にあたる3300キロが完成。戦争がはじまるとポーランド人の戦争捕虜、ユダヤ人、外国人労働者も多数駆り出されたが、戦況の悪化にともない、1942年に工事はすべて中断されている。
幅5メートルの中央分離帯を挟んで両側に幅7.5mの本道と1mの側道を備え、1家に一台という国民車(フォルクスワーゲン)が走る予定だったのが、不首尾に終わる。(ドイツのクルマ社会の実現は第2次世界大戦後を待つしかなかった)
戦時下では飛行機の滑走路に使われたり、ついには自転車道路になりはてたという。軍事的にも、戦車など重量車両の走行には適さなかった。皮肉にもアウトバーンがフル活用されるのは、ヒトラーがこの世から消えてのちの話。
たしかにヒトラーはクルマの運転こそしなかったが、このアウトバーンの大推進者であったことは間違いない。ところが、発案者であったかというと、NOだ。
じつは、交差点や信号機のない高速道路構想は、すでに20世紀当初に構想されていて、ヒトラーが首相になる前年の1932年、戦後西ドイツ初代首相となる当時のケルン市長のコンラート・アデナウアー(1876~1967年)がケルン―ホン間全長20キロの開通式を取りおこなっている。おまけに高速道路網の建設法案が1930年に提出されたとき、ヒトラー率いるナチ党はこれを予算の無駄使いとして反対の意思表示をしている。ヒトラーは政権を握ると、こうした経緯がまるでなかったかのように、失業問題の切り札として、アウトバーンの建設を進めたのである。
以上は、ドイツ近代史の学者・石田勇治著『ヒトラーとナチ・ドイツ』(講談社現代新書)を読んでの受け売りだ。ウクライナ戦争を始めたロシアのプーチンが、「ネオナチを蹴散らすためウクライナに軍事行動を仕掛けた」と世界から見てフェイクの理由付けをしている。これに触発され、ふと手に取った本に思わぬ発見をしたのである。
東京での発表は、芝浦サービス工場でおこなわれた。トラックの価格は、3200円、シャシーだけなら2900円ときめた。これは原価を割り込んだ価格で、アメリカ車よりも200円ほど安かった。ちなみに、1年後に発売された乗用車トヨダAA型の方は、3350円で、フォードやシボレーなどに比べ350円以上も安かった。当時のサラリーマンの年収が700~800円だったので、とてもじゃないが庶民がクルマを持てる時代ではなかった。
販売し始めたトラックのG1は、かならずやトラブルが続発するはず。そう想定した喜一郎たちは、初代販売店となった名古屋の「日の出モータース」と相談し、最初の販売台数を6台だけと限定した。販売先も限定することで、故障が起きてもすぐさま対応できる体制を整えた。予想にたがわず、いたるところで故障し、昼夜を問わずフル稼働で対応した。喜一郎はみずからクルマの下に潜り不具合の箇所を確認し、設計や材質の変更を命じた。ここでトラブルというトラブルを出尽くさせることで、その後の不具合数を劇的に減らし、徐々に信頼性を獲得していった。
昭和11年に入ると、G1トラックの事業も初期の混乱期を脱し、順調に動き出した。神谷による1府県に1ディーラー網の整備も着々と進んでいった。その年の2月に刈谷に組み立て工場が完成し、従業員も昭和7年に500人程度だったのが、3500人を超す陣容となった。このころ、のちにトヨタの社長にもなる東北大学工学部卒の斎藤尚一(1908~1981年:写真)や佐吉の弟の次男・豊田英二(1913~2013年)などが入社した。
同じ年の5月、東京の丸の内で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」が開催された。G1型を改良したGA型トラックに並び、AA型乗用車4台もお披露目された。AA型は試作車のA1型を一歩進めた完成車だった。全長4737mm、全幅1744mm、全高1736mm、乗車定員5名、最高速度時速100キロというトヨタ初の乗用車だ。
たいていの人がそうだが、いろんな媒体が増えたせいか昔ほどテレビの前に座らなくなった。
とはいえ、妙に気になるTVコマーシャルがある。『トヨタイムズ』というCMである。俳優の香川照之を編集長に仕立て、トヨタのイベントを数秒でアピールする。これって、企業自体がメディアを持ち世間に発信するオウンドメディアという新手の自社広告の手段だ。
媒体は、本来“公平・中立”が原則。だから、企業自前のメディアは公共性を欠き、本来あり得ない。でも、公平・中立の新聞社や放送局も、広告収入で活動を続ける以上、その理念は建前に過ぎない、ということは誰しも指摘するところ。でも、企業が媒体を持ち、社会にさも公平を装いながら大衆に訴え掛ける・・・・というのは疑問が残る。しかも、昨年末にお台場で発表したバッテリーEVの大々的記者会見。豊田章男社長が10数台の未発表のBEVをバックに、大きく手を広げているあの動画。これを、飽きずに6か月以上流し続けている。まともな媒体なら「終わったニュース」を流し続けることができる、というのがオウンドメディアなのである。
調べてみると、トヨタは、これ以外にもSNSをフルに活用して、新しいモノづくりTNGA(トヨタ・ニュー・グローバル・アーキテクチャー)を佐藤浩市、三浦友和、黒木華、永作博美など豪華な俳優陣を使い、とくにメカに強くない消費者にもわかりやすい動画を展開している。
さらには、レーシングスーツに身を包んだ章男社長は、トヨタ車でサーキットでの競技に参加し、それをSNSにアップし、話題作りに励んでいる。時代は、たしかにこの方向に向かっていることは理解できるが、何もそこまでしなくても・・・・という思いが湧いてくる。
この本によると、こうしたトヨタのトップは何を考え、どこに向かおうとしているのか? そして何を望んでいるのか? 世界には約37万人のトヨタ従業員がいる。家族を含めると、100万人以上。サプライヤー、ステークホルダーといわれる人たちを入れると、数百万人。この人たちに理解してもらうために、章男氏自ら、あえてこうした露出を展開しているのだという。
その背景には、章男社長就任わずか2か月後の大事件があった、とこの著者は判じる。
2009年に起きたアメリカを舞台にした大規模リコール問題。「初動の動きが遅れたばかりに、3時間20分にもわたるアメリカの下院での公聴会で弁明しなければならなかった」からだという。大大ピンチに晒された章男社長は、前夜遅くまでスタッフと打ち合わせた予定稿を破り捨て、自分の言葉で終始語った。これが、大きく人の心を打ち、ピンチを脱することにつながった。だから、常に企業は情報を発し続ける必要性があり、オウンドメディアは一つの選択肢だという。
この本は、経済記者なので、廃油の臭いのある泥臭いエピソードは期待できないが、トヨタの過去・現在、そして未来に分け入ろうとする長編ドキュメンタリーである。豊田章男社長の人となりがそこそこリアルに描かれている。いま、曲がり角にきている自動車メーカーの具体的な生き残り策を知りたければ、一読の価値ありだ。(2020年4月発刊)
いうまでもないが、クルマばかりではなく、現在日本は大きな曲がり角に来ている。社会構造の変化の一つが、少子高齢化である。少子高齢化が進むと、いわゆる生産人口が減り、全体の世帯数が減り、それにともない住宅建築数が激減する。興津螺旋のネジを買ってくれるお客様の動向を眺めると、このことが顕著に分かるという。
「たしか平成9年をピークにして、それ以降住宅建設が右肩下がりとなります。戸建て、マンションを含め全国で年間200万戸を超えていたのが、いまでは年間80万戸ほどになった。ですから、住宅関連の市場で使うねじに比重をかけているだけでは、興津螺旋の将来性は明るくはならない」
大学で経済学をまなんだ現社長の柿澤宏一さんは、1996年に入社した。父親から3代目を受け継ぐにあたり次世代のネジづくりに期待された。振り返っても過剰なプレッシャーはとくになかったようなのだが、クルマが好きでなかでもトップエンドのポルシェが大好きだったこともあり、ネジ素材の頂点ともいえるチタンに関心をいだき始めたという。「とにかくチタン合金は、ゴルフクラブ、メガネフレーム、それに航空機などトップエンドの製品の素材の象徴的金属です。でも、加工が通常の金属にくらべ厄介だ」
大学はモノづくりとは距離のある経済学部。だがサイエンスが好きだったこともあり、金属素材の研究を始めるのにさほどの苦痛を感じなかったようだ。1997年あたりからチタン合金の初歩から研究をはじめ、当初は、JISでいうところの2種のチタンを取り寄せ研究している。
よく知られるようにチタンは、アルミの約60%の比重しかなく、単位重量当たりの強度はアルミの6倍、鉄の約2倍。優れた金属特性のため、航空機産業、具体的にはジェットエンジンのファンやファンケース。耐食性が優れているため、化学プラントや深海調査船のキャビンにも採用されている。柿澤さんはますます好奇心が高ぶったという。