少し気のきいた博物館や美術館に行くと、かならず「図録」という分厚い印刷物が出口あたりで販売されている。
「図録」とは、館に展示されていた写真や図(イラスト)を詳細に記録した印刷物。英語のPICTORIAL RECORDの翻訳のようだ。映画などのパンフレットとは少し異なり、資料性が高く、帰宅後自室でじっくり眺めることで、より展示物の意図や催し側の狙いが分かり、新しい発見もできる。通常の印刷物ではカバーしきれない実に有意義な書物。ただ、見っぱなしだと記憶から遠のくが、ときどき思い出し本棚から図録を引っ張り出し、眺めると記憶がよみがえったり、ふと別の情報と結びつき新しい発見やひらめきに結び付く。
ところが、この図録という印刷物、作る側から考えると必ずしも割りが合う印刷物とはならない。
手間暇とお金がかかるからだ。展示物をみな写真撮りし、それぞれに説明文を付け、見栄えが良くなるように、編集作業が必要となる。変に手を抜くと、印刷物だけにあとあとまで残り評判を落とす。それに、あまり高い価格をつけられない。
そこで比較的リーズナブルな値段をつけて、販売することになるが、印刷しただけすぐに売れればいいが、博物館だと大量に刷って在庫することになるので、保管費用もばかにならない。
タイミングとしては、博物館での展示と並行して、あるいは熱が冷めやらない直後に、図録を製作する。しばらくたってからだと再度取材が必要になるから熱が冷めるからだ。
図録を作るか作らないかは、じつは一番熱量が高まる博物館オープンのタイミングだ。企業の博物館の場合、博物館をつくること自体が初めてなので、よほど余裕がなければ図録作成まで頭が回らない。
これを踏まえたうえでツラツラ観察すると、トヨタの「産業技術博物館」の図録はよくできている。繊維と自動車の両方の歴史と内容が、少し重いのが難だが320ページに収められている。ちなみに「トヨタ博物館」の場合、バックヤードに大量の車両があり、展示物が時節で替わるので、イベントのテーマごとに図録を作っていて、すでにその数50冊を超えているのではなかろうか。
一方同じトヨタ系のトラック・バスメーカーの日野自動車にも、70周年記念として1996年に八王子みなみ野駅から徒歩10分のところに「日野オートプラザ」という博物館をつくっている。わが国初のトラックTGEのレプリカモデルをはじめ、数々の関連車両が展示されているばかりか、日本の自動車産業の基礎をつくった幻のエンジニア・星子勇(1884~1944年)の実像に迫る展示物や、戦前、戦時中につくられた航空機の星型エンジンの現物をまぢかで見ることもできる。そのほか、日本のモータリゼーションの歴史を年表とともにわかりやすく追いかける展示物も秀逸だ。
だが、返す返すも残念なのは、こうした立派な展示物がありながら、図録がつくられていない。ここには数回出掛けてはいるが、最初訪れた時、窓口で「図録、ありますか?」と聞くと「図録って何ですか?」と返され、がっかりした記憶がある。これでは日野自動車への思いがしぼんでしまう!
この3月に日野自動車では深刻な不正が発覚している。エンジンテストの不十分さや不適切な検査が明らかになった。すでに知られるように、生産エンジン14機種のうち13機種で不正が見つかり、「型式指定」が取り消され、製品を作ることができなくなった。その後8月の再調査で、大型トラックばかりか、小型トラックでも、同様の不正が見つかり、不正発覚以前のわずか4割しかものがつくれなくなった。
まさに深刻な経営危機状況。愚直なモノづくり立国の日本はどこに行ったのか? 背景には「モノ言えぬ企業体質」「経営陣とモノづくり現場の断絶」などがいわれている。トヨタの子会社化されて約20年、上層部がトヨタの天下り陣容というのもあったようだ。
整備士コンテストなどを永年取材していくなかで、日野自動車の特異な企業体質をその都度感じてきたが、あらためて思うのが、博物館の図録がつくれなかった。たかが図録と言うなかれ。不正検査と博物館の図録とは、一見つながりがないように思えるかもしれない。でも、わずか大型トラック1台分の経費をケチったことが、その体質を象徴している。多様性の価値を育むことができなかった企業体質が、はからずもこんなところに投影されている。そう思えて仕方がない。
ところが、歴史の不思議さというべきか、退陣表明したわずか20日後の1950年6月25日、朝鮮動乱が起きた。自由主義陣営のアメリカと共産主義陣営の中国とロシア。この東西対立が日本の近くである朝鮮半島で、火を噴いたのだ。ここから約3年にわたって展開された朝鮮戦争である。
経済的に疲弊していた隣国日本は、アメリカ軍のロジスチックス的役割を演じることになる。いわゆる戦争特需といわれるほど日本の経済が動き出し、それにつれて景気が良くなり、敗戦国日本の復旧につながったのである。トヨタも、この戦争特需により、トラックの増産と修理などの仕事が増加し、いっきに経営が改善された。具体的には、1950年7月から翌1951年3月のあいだに4679台のトラックの受注がきた。金額にすると約36億円で、これを期にトヨタ自動車は持続的成長軌道に乗るのである。
もちろん、戦前戦時中のような、高度な技術を性急に求める軍の介入が、戦後には完全に消えたことが大きな成長を支えたといえる。宿痾だった“くびき”から解放された。モノづくりの成長は、人の成長と同じで、門外漢である組織(軍)があれこれ指示を出してよくなるものでは、断じてないことがよくわかる。自立した組織である企業が、英知と努力で一歩一歩積み上げていくものなのである。
労働争議が一段落すると、喜一郎の現場復帰を要望する声も大きくなった。ところがその矢先、喜一郎は、病に倒れ、58年の波乱万丈の人生に幕を下ろしたのである。1952年3月27日のことだった。
喜一郎がなくなって3年の月日がたった昭和30年1月1日、トヨペット・クラウンが誕生した(写真)。このクルマこそ喜一郎が宿願としていた100%メイド・イン・ジャパン、本格的国産乗用車なのである。
「イタリアではクルマが汚いということは、山奥に別荘を持っていたり、門から家までが5分もかかる田舎のどでかい家に住んでいることを物語るステイタスだったりする…‥」
いきなりこんなフレーズが目に飛び込んできて“わが意を得たり!”の気分である。
ふと個人的な体験を思い出した。都内の一流ホテルで打ち合わせか何かで、マイカーでフロントに乗り付けた。バレー(Valet)サービスのスタッフが近づき、その場で鍵付きのクルマを預け颯爽とロビーに向かった(つもり)。すると同乗の娘が蒼ざめた表情で助手席から降りてきた。洗車も不十分な10年落ちの国産車で乗り付けたのだが、若い女性にはこの状況が理不尽だと映ったようだ。ピカピカの輸入車で颯爽と乗り付ける状況なのに、これはないんじゃない! 愛車のカギを渡されたバレーのスタッフの不運を必要以上に感じ取ったのかもしれない。これって日本人得意の忖度。それを是正するのは厄介だ。
むろんイタリア人にも忖度はあるかもしれないが、ベクトルが異なるようだ。
なにしろ、イタリアのクルマ生活は限りなく本音で、ときには剥き出しに近いからだ。1987年式のランチャ・デルタLXという、かなりくたびれた中古車を手に入れ、その車とともにイタリア体験をするうちに筆者は、徐々にイタリアの本質に触れていく。
そもそもイタリアでは車庫証明が不要なので、平気で自宅の前に路駐する。まるで日本の昭和40年ごろまでの光景だ。おまけに車検は、つい最近まで10年ごとだった。EUに加盟してから、2年ごとになったが、それまではリアシートにシートベルトが付いていなかったという。
安全意識もかなり低い。曲がるときウインカーを出さないのが普通だというし、縦列駐車のときに平気で前後のバンパーをぶつけて駐車すると、逆駐車も気に留めない。しかもイタリアのオジイオバアは、孫を猫かわいがりしていたかと思うと、クルマのハンドルを握ると性格ががらり変わって、カッキーンとばかりアクセルONでコーナーをまがっていく。
そもそもAT車などほとんどいなくて、みなMTでないとクルマだと認めていない風潮だ。庶民の大半は、フィアット・パンダあたりの安いクルマに乗っているのだが、とことん一台のクルマを愛し、ボロボロになるまで使い続ける。イタ車はドアハンドルなどつまらないところがいきなり破損したりするが、そんなときは近くの解体屋さんに足を運び、激安部品で修理してしまう。
走れば必ず擦り減り、交換となると大出費となるタイヤもイタリアではエコタイヤならぬ再生タイヤがあるという。リトレッドタイヤといって、山部分(トレッド)部を削りそこだけ張り合わせるというタイプが日本でもあるが、あくまでも走行キロ数が多いトラックの世界。
日本でも乗用車用再生タイヤは昭和50年ぐらいまであった。上野にある自動車雑誌社に入社したての頃、活版1/3ページの再生タイヤの広告があったことを覚えている。でもそれもやがて消えてしまった。
ところが、面白いことにイタリアでは、乗用車の再生タイヤが珍しくないようだ。筆者のランチャにもこの再生タイヤを取り付けられた。4本で取り付け費込み1万6000円だったいうから驚きだ。新品タイヤの1本分で4本分を賄えるなんて!
なにしろイタリアでは、満14歳になると排気量50ccのクルマ(バイクが大半だが)に無免許で乗ることができる。だから、本挌的に免許を取るときは、近くの空き地で練習し、そこら辺の路上で15分ほどの実地試験を受け、1~2回滑って合格という流れだというのだ。
でも、イタリアも100%だと思ったら大間違い。
いまは少し異なるかもしれないが、とにかく当時のイタリアは路上駐車が多いせいか、盗難が日常茶飯。とくにカーオーディオだけを盗んでいく泥棒があるという。ガラスを割られたりするので大損害につながる。そこで、昔はカーオーディオごと、ゴソッとクルマから簡単に取り外し、付属のベルトで肩からぶら下げ、バール(喫茶店)に入るスタイルだったが、いまでは、オーディオのフロントパネル(操作盤)がまるで板チョコのように取り外せ、スマートな盗難防止策済みのカーオーディオがあるという。
アルプスの山奥からニョキっとばかり地中海に、まるで長靴のカタチに突き出したイタリアという国は、考えてみるとヨーロッパの中では異色の国民性ではないだろうか? サッカー熱だけではなく、フェラーリが活躍するF1でも、イタリア人の熱量は類を見ない。EU諸国のなかでは経済的には優位に立ってはいないが、文化や芸術の世界では常にリーダー。
イタリア人の生活や、どちらかというと脱力系。前年同月比、なんて経済用語とは縁遠い。“生き馬の目を抜く”とまで揶揄される他人を出し抜いて素早く利益を得る生き方とは対極。だから、少し前までイタリアに住むためイタリア語を猛勉強していた友人がいたけど、なんとなく理解できる。
この本は、1996年東京生まれ。国立音大の付属小から中学、高校を経て大学でもバイオリンをまなんだ、元バイオリニスト。ところがなぜか自動車雑誌の編集を経て現在コラムニストの筆者が、イタリアの中部の人口5万ちょっとの街シエナに根を下ろし、イタリア式自動車ライフを楽しむ物語。カタカナでイタリア語が出てくるので、多少なりともイタリア語の勉強になる。残念ながら音楽とクルマの関係はどこにも出てこない。
ちなみに、イタリア人の戦争観のことだ。第2次世界大戦の総括というか反省があまり見られないのは不思議だと考えていた。ドイツと日本ともども枢軸国だったわけで、ドイツや日本は戦後巨大な精神的負担を強いられた。そのわりにイタリアは、その痛みがあまり見られない不思議さ。
この疑問は、社会学者・古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』(講談社 2013年8月刊)という世界の戦争博物館めぐりを記した本を眺めていたら、なかば解明された。これによると、イタリアはアメリカやイギリス、ロシア、フランスなどの連合国に対しては敗戦国だが、ドイツと日本に対しては1943~1945年にかけ、ムッソリーニの退陣後、さらりと身をかわし、逆にドイツと日本に宣戦布告していたからだ。
つまりイタリアは敗戦国でありながら戦勝国でもあった。戦争博物館らしきものもイタリアには、ほとんどないという。つまり深い後悔と反省がないのかも? 底抜けの明るさの一面はそんなところにもあるのかもしれない。(2002年4月発刊)
ハンドツールのなかで、ドライバーほどごくごく身近なわりには使うのが難しい工具はない。
“ねじ回し”という別名があるせいか、ついつい回すのに気が回り押し付ける力がおろそかになる。そこでカムアウトと呼ばれるドライバーが浮き上がり、結果としてネジのアタマをつぶしてしまう‥‥。ネジのアタマにきっちり食い込むには、押し付ける力をおろそかにできないので、押しつけチカラ7割、回す力3割、なんてことが言われる背景はここにある。
ソケットツールで6角ボルトを回すときのように、ノー天気で使うと思わぬトラブルを招くのがドライバーなのである。相手のネジに正対する姿勢も大切だし、ドライバーの先端がねじの頭部からずれないように気を遣うことも大切である。
とはいえそれでもトラブルときはトラブルものだ。かくゆう私もこれまで不本意ながら失敗を犯している。
そんなときに問題解決法として、最近はいろいろな商品が出てきている。頭部をプライヤーでつかんで回すタイプとか、鏨(タガネ)状の工具で新しい溝を構築して回す……などなど。
今回取り上げるのは、後者の仲間で、通常の2番プラスドライバーの超変形モデルという製品だ。先端部を観察すると、矢じりのような形状で、よく見るとギザギザが設けられている。
矢じりのようになっている理由は、そもそもこれは貫通ドライバーの部類なのでハンマーでグジャグジャになったネジの頭部に新しい溝をつくる、ということだ。その前に、先端のギザギザが効果をあらわし、すんなり回ってくれることもあり得る。ハンマーで叩いて、溝を作り直すのは、それでも回らない場合なのだ。
貫通ドライバーは、非貫通ドライバーにくらべ、重い。軸自体が、ハンドルのエンド部、つまり座金まで延ばされているからだ。だいたい非貫通に比べ1.3~1.5倍重いと考えてもらいたい。
この製品「パーフェクトドライバー2」は、重量129グラム、全長212mm。これまで内外の10数本の貫通ドライバーを測定してきたが、だいたい常識的というか平均値のなかに収まる重量と全長だ。特徴的なのは、軸が4角だという点。通常は丸軸あるいは6角軸で、軸径がφ6~6.4mmだが、これは幅6.0mm。ついでにハンドルエンド部の座金の径は18mmで、これも標準サイズ。グリップは6角断面のハイブリッド樹脂構造。黒い部分は少し弾力がある柔らかめ樹脂、シルバーの部分(軸の根元)には、硬めの樹脂素材を配する。グリップの径は、太いところで34mmある。
手に持ったフィールは、ずしりとした感じで、硬質感があり、アメリカンツールなどにくらべ小ぶりの印象。
こうした工具は、1~2回の使用には耐えるが、数回使うと肝心の先端部が磨滅して、初期の機能を発揮できないというケースがある。このへんのテスト結果は、後日報告したい。
発売元は、藤原産業(株) TEL0794-86-8200.価格は、近くのホームセンター調べで713円。
「かれこれ、7~8年このイベントをおこなっているのですが、女子の参加が目に見えて増えていることに目を見張る思いです!」
こう語るのは、長年スバルで車両開発に携わってきたOB。「キッズエンジニア」(主催は自動車技術会)を取材してふと耳にした現場の声である。たしかにこれまで男性社会だと考えられてきた技術の世界にも多くの女性が活躍している。女子がサイエンスを苦手とするのも思い込みだ。(ちなみに半世紀前の話だが、筆者が卒業した工業高校には全学年でわずか2人しか女子がいなかったが、いまは全体の10%を軽く超えている。それでも世界レベルから見ると低い?)
このイベント、2008年から横浜と名古屋、大阪を会場にして基本、毎年開かれている。が、長引くコロナ禍で、ようやくリアル開催が今年から復活した横浜パシフィコ会場。
小学生を対象にしているせいか、「レベルが低いから取材対象にはならない」とハナから思い込んでいるメディアが少なくないせいか、記者の姿がまばら。たぶんこれは“難しい技術をいかに易しく説明するか?”に関心がないせいだと思う。自慢ではないが、ほかでは類をみない面白いイベントだと見抜いて、かれこれ両の手指ほどの現場に足を運んでいる。
このキッズエンジニア、いずれも10~15名ほどの教室で時間が1時間ほどのワンテーマで進められる。プログラムは全部で20個ほどある。プログラムの提供先は、自動車メーカー、自動車の部品メーカーなど、なかには大学の工学部が子供を対象に、科学への好奇心に火をつけようという試み。狙いは将来の優秀なエンジニアがそだってもらいたいという切なる願いだ。
冒頭のスバルは、「2駆と4駆の違いを模型をつくりことで実感してもらう!」というもの。田宮の工作キットをベースに単三電池2本で駆動するモーターを備えた、ゴムバンド駆動の自動車の模型(写真)。ドライバーさえあれば簡単に組み立て完成するが、初めて工具を持つ小学生(ばかりか付き添いの父母も!)なので、意外と苦労していた。というのは、ナットが供回りしないようにボックスレンチで押さえるコツが要求されるからだ。2駆と4駆の違いはゴムバンド後輪にかけるだけで完成する。めっちゃシンプルな仕掛けなのだが、これを写真のような階段あり砂地ありのいわゆるラフな路面で走らせ、競争させると、思わず身体が熱くなる! ジェンダ―フリーのリアルが見られた!
シンプルと言えば、マツダのプログラムは、さらに面白かった!
ペットボトル、段ボール、紙コップ、タピオカ用太めのストロー、それにティッシュペーパー。ごくごく身近にあるものを使って、マフラーを製作。それを実際マツダ車のマフラー作成で活躍する集音器を使い、チューニング具合をパソコンでリアルにみることができる! そんなプログラムである。ペットボトルが共鳴部(レゾネーター)、段ボールが仕切り板(拡張部)、紙コップが入力の集音部、そしてストローがアウトプットのテール部で、ティッシュが吸音材(本来はグラスウール)というわけだ。いわれてみれば、なるほどだ。
横には、例のロードスターのリアルなマフラーのカットモデルがあるので、より理解しやすい。筆者の場合、トライアルバイクのくたびれたマフラーを開腹し、なかのグラスウールを新品にしたりした経験が何度もあるので、このイベント他人事には思えない。
小学生が造り上げたマフラーを集音器で、入力するが、その言葉(排気音)が「ロードスター」と小さく叫ぶことだった! PCに録り込んだ波形を見て、集音器の紙コップを小さくしたり、大きくしたりすることで変化(チューニングの実際)を嬉々として楽しんでいた(写真)。これってすごいよね!
トヨペットSA型乗用車は、隈部一雄の趣味性が投影され、当時としては意欲的なハイメカだったが、はたせるかな営業的には失敗だった。わずか200数台しか売れなかった。
そこで1948年4月4ドア版のSC型が作られたが、悪路での足回りをめぐるトラブルは解消できなかった。販売不振の背景には当時はまだ』オーナーカーが育ってはおらず、大きな市場であるタクシー業界で使われなければ量産ベースにのらない、という厳しい現実があったからだ。
1949年10月にようやく乗用車の生産制限が解除されはしたが、悪性インフラが進み未曾有の不景気が襲いかかり、製造業を中心に倒産が相次いだ。いわゆるデトロイト銀行の取締役でGHQ財政顧問が来日し、急激なインフレ克服策を取ったため、いわゆる「ドッジ不況」が起きたのだ。
こうしたなかで、トヨタも例外ではなく、資金繰りに苦しくなり、倒産寸前とまでいった。労働者側との交渉が難航し、2か月にもおよぶ労働争議が展開された。1949年11月から翌1950年3月にかけて、7600万円(現在の貨幣価値で約30億円)の赤字を計上。対応策として1600人の希望退職者を募集、残留者は10%の賃下げを中心とする経営合理化案を提示。
組合は当然これを認めず、1950年4月11日の1日ストを皮切りに、4月10日から7月17日まで36回におよぶ団体交渉がおこなわれた。つまり再建策として、一部工場の閉鎖、希望退職者による人員整理と引き換えに、喜一郎も退陣せざるを得なくなった。
全生涯をかけての自動車づくりから身を引く喜一郎のそのときの気持ちを想像するに・・・・察するに余りある。浪花節的表現だが、これって花が開く前に、身を引くつらさ。このとき副社長の隈部一雄も身を引いている。
ノーベル物理学賞を受賞した朝永振一郎氏に師事した物理学者の日本の科学技術文明エッセイである。
30年ほど前、「ベンツと大八車」という刺激的なタイトルに惹かれて手に入れた単行本。ところが、ベンツや大八車のことは、いくらページを繰っても出てこない。
「ハハ~ン、これはろくに熟読しないで、エイとばかり売れるタイトルをひねり出した担当編集者のせいだな。著者には、タイトルをつける権利が日本ではないようだから・・・・。サブタイトルの“日本人のアタマVS西洋人のアタマ”が先にできて、これだと凡庸なので、一発カマスうえで“ベンツと大八車”を大タイトルにしてしまったに違いない!」
そんな夢想をついしてしまったが、当たらずとも遠からずだ。
じつは筆者の都築卓司さん(1928~2002年)は、同じ講談社が発行するブルーバックス・シリーズの初期のころのメインライターだった。ブルーバックス・シリーズといってもピンとこない読者もいるかと思うが、自然科学や科学技術のテーマを一般読者向けにやさしく解説した新書。1963年創刊で、2022年時点ですでに2200点もあるという。都築さんは、このシリーズで「超常現象の科学」「不思議科学パズル」「タイムマシンの話」「誰にでもわかる一般相対性理論」など20冊近くを読者に届けている。
今回取り上げた「ベンツと大八車」は、いまから半世紀近く前に出た本。だからPCはおろか、スマホも影も形もなかった時代の科学技術論だから、かなりのズレがある。逆に言えば、そこになんとも言えない面白みを見つけることができる。いまやグローバル経済で、人の行き来が頻繁で、国別文明論や人種別技術論がかなり怪しくなりつつある。だから一昔前、ふた昔前の日本人がどういう価値観で生活していたか?
この本が出た時点からさかのぼること33年前の1944年末、日本がアメリカとの戦争で、追い詰められた日本の軍部は、2つの切り札を具現化しようとした。ひとつは中島飛行機の粋を競った「富嶽(ふがく)」という名の未完の重量級爆撃機で、アメリカ本土に爆撃をする取り組み。もう一つは、なんと直径10mほどの紙風船をつくり、そこに焼夷弾をぶら下げ、ジェット気流に乗せて直接アメリカ本土空襲をおこなうというものだ。
この風船爆弾の縮尺模型が、江戸東京博物館に展示してあり、たまたま同行したイラク戦争で狙撃兵だったアメリカの元兵士に説明。当方のテキトーな説明では不十分とばかり英文の説明文を読み始めると笑い転げ始め、しばらくその場から動けなくなった。この風船爆弾、楮(こうぞ)の和紙を3枚に重ね、こんにゃく糊で球状に仕上げたもの。組み立てるのに、広くて天井が高い場所がいるため、東京宝塚劇場、両国の国技館、浅草国際劇場などが使われたという。千葉や福島、茨城の海岸から計約9300個も放球され、うち約1000個ほどがアメリカ大陸にいきつき、6名ほどの死者を出したといわれる。
いま思えば、こんなコスパ(費用対効果)の薄い、素人じみた風船爆弾を具現化して実際に飛ばした日本人。ここに現在の日本人にも通じる「手抜きを嫌う性癖」を見ると筆者は指摘する。たしかに胸に手を当てて考えると、わが風船爆弾は、少なからず数個ある。たとえば、のべ半世紀以上もだらだらやっている英語学習だ。英語脳になれとか、例文をとにかく暗記しろとか圧がかかるも、ひとつもネイティブには近づけない。
日本人の自画像とは? 日本人に科学する力があるのか? それをこの物理学者は、スマートに解き明かしてくれる。(1977年11月発刊)
いまどきのクルマはあまり触りたくはなくなったが、少し旧いクルマの部品を取り外す際、必要になってくるのが、パーツトレイ。
パーツをどこに一時保管するかを考えずに、いきなり分解作業に入って戸惑ったり、ひどく後悔する経験は何度もあるからだ。たとえば、後先を考えずやみくもに分解して、徐々に増えていくボルトやナットを「組付けるときを想定して整理しておかなくちゃ!」という考えが頭をもたげると、次にどこを外すのか!? という思いと交錯して、混乱するものだ。安直に手近で見つけた段ボールの箱に入れておくと、ちょっと触れただけで、なかのボルトやナットがごちゃ混ぜになり、あるいは箱から飛び出したりして、最後に組むとき頭を悩ませることになる。
大げさに言えば“後顧の憂い”を絶つ意味でも、安心の『パーツトレイ』を準備することが、よい整備をおこなううえでの必須事項である。たぶん、というか優れた整備士はみなこのことをよく知っていて、事前に準備している。
以上のことをふまえて、今回のパーツトレイを眺めるみる。
ほぼ手のひらサイズの大きさの長方形。深さ33mm、横縦同じく33mmのスクエアなボックスが3×5、全部で15個ある。取り出すとき指の太さなどを考えての寸法だ。バイクのアクスルナットなら収まる。ただしアクスルボルトは長すぎて収まらないので、もう一つ別タイプのパーツトレイに入れておけばいい・・・・たぶん優秀な整備士は、事前にここまで考えるのだと思う。
重量は300gとやや重めだが、それこそ迂闊に触れただけでひっくり返ることはまずない。底にマグネットが付いているので、工具箱にぴたりと張り付く。
計15のスクエアがあるので、使ううちにそこに埃やゴミが堆積する。そこで時々、綿棒などでそこをきれいにする必要が出てくる。考えられる難点といえば、そこだけだ。価格も500円なので、2つぐらい準備しておくと安心だ。発売元は、㈱ワールドツール http://www.astro-p.co.jp