少しおどろおどろしい言い方だが、いま自動車に詳しい人のあいだに“一つの謎”が浮上している!
1台700万円以上もするコンパクトカーが、発売したら約1万件もの注文が入り、あっという間に売り切れとなったのだ。「若者のクルマ離れで、そもそも運転免許を取る若者も少なくなった」というのに、これは一体全体なぜ? といくつもの疑問符が沸き上がる。
たしかに、このGRMNヤリス(ちなみにGRMNはGAZOO RACING tuned by Meister of Nurburgringの略)という限定車、単にフツーのヤリスをフルチューンしたわけではない。ゼロから小さなスポーツカーを目指して造り上げられた。モリゾウこと社長の豊田章男氏がハンドルを握りマスタードライバーのひとりとしてラリーに出場し、壊しては直しの繰り返しによるノウハウを蓄積。それを惜しみなく注入して作り上げたマシン。いわば素材から見直し、特別に仕立て直した超高級紳士服みたいなものか。
具体的に言うと‥‥骨格となる軽量ボディは超高剛性を目指し545点ものスポット増し。構造用接着剤の使用を拡大、部品同士の結合剛性を大幅に向上。エンジンフードとルーフは、カーボンファイバーを用いて軽量化。ボディのあちこちに補強ブレース(筋交い)を入れ、レカロのフルバケットシート、ビルシュタインのダンパー、機械式LSD、強化メタルクラッチ&クラッチカバー、クロスミッション&ローファイナルギアと文字通りバリバリのフルチューン。
価格は、731万円からだが、ラリー仕様が837万円から、サーキット仕様がそれより10万円ほど高く846万円台。
エンジンは排気量1.6リッター、272PS/390Nm。ふつうのヤリスが69PSで車重940kgなので、いわゆるパワーウエイトレシオは13.62kg/PSといかにも鈍重。GRMNヤリスは、車重が1250kgとノーマルより300kg近く重いが、パワーウエイトレシオは4.59kg/PSとまるで、スタート時前かがみにならないとウイリー状態になる一昔前のバイクのナナハン並み。
それにしても、700万円オーバーのクルマが500台とは言え羽根が生えたように売れるとは?
1988年だから、いまから30年以上も前に日産からマーチ・スーパーターボが市販されている。スーパーチャージャーとターボチャージャーの二つの過給機を狭いエンジンルームに詰め込んだコンパクトカーの特別バージョンがウリだった。110PS。パワーウエイトレシオでいえば6.72kg/PSと比べるとさほどでもない。あまり売れなかった記憶がある。
GRMNヤリスは、作り込みを公開したりレースで実績を残したことでホンマモノのスポーツカーであることを証明! そのことに明白に気づき、大金を叩く人がこの日本には一定数存在するということだ。
これから先、スポーツカーは、おそらく公道ではそのパフォーマンスを発揮できず、いわば乗馬のように、サーキットで楽しむ乗り物になると思う。公道を移動するクルマは、AIで制御され安全でお気楽な、ある意味で退屈極まりない移動手段の道を歩む。クルマが本来持っていた自由に移動できるモビリティからかけ離れた存在!? そうしたクルマの行方に我慢がならない人たちが、こうした特別なハイパフォーマンスなクルマ(別のコトバでいえばメッセージ性の高いクルマ)に大金をつぎ込むのだろうか。転売目的だけの顧客だけとは思えない。
トヨタ自動車創立50年記念でトヨタ博物館をオープンする前の1986年、トヨダAA型を復元させている。豊田喜一郎が心血をかたむけ、作り上げたAA型を博物館の大きな目玉として、展示したいという強い意思があったからだ。
技術部に話が持ち込まれ、ある程度見込みがついた。そして復元計画がスタートして約1年で、トヨダAA型が復元といえども、その姿を見せた。約1年がかりの艱難辛苦が展開された、と当時担当者のひとり小島道弘氏(トヨタ自動車第3開発センター所属)が、数々のエピソードを残している。そのひとつを紹介してみよう。
復元の話が持ち上がったとき、一番懸念されたことは「当時の図面が残っているか?」という点だった。幸いにもある程度は見つかった。ところが大物部品のエンジンのシリンダーブロックやリアアクスルのハウジング、デフケース、フレーム、室内のシート、内張関係類が見当たらなかったという。
そこで、日本国内の探索はもとより、当時満州国へも数十台出荷されたことを把握し、藁をもすがる思いで、韓国や中国にも探索の手を広げた。結果としては、無駄骨だった。まさに前途多難とはこのこと。担当のエンジニア陣はいちように暗い表情を隠し切れなかった。
だが、別のルートから明るいニュースが飛び込んできた。シャシー設計の担当者から、古い図面の入った段ボール箱が書庫の片隅で見つかったというのだ。さっそく開封してみると、シリンダーブロックやシリンダーヘッドなど欠けていた図面の大半が、出てきたのだ。
図面はインチ表示で、現在のmmではない点、それに現在「3角法」と呼ばれる図面だが、当時は「1角法」という、上下左右が逆になる図面の描き方などの違いがあり、復元する側としては大いに戸惑いがあった。約70年の時空の遠さを感ぜざるをえなかった。
“父親か友人のクルマのハンドルを握り(この時点で違法じゃないか!?)近くの路上で実技試験を受け、簡単な筆記試験をパスすれば、ドライバーズライセンスをゲットできる”
そんなアメリカの運転免許取得の安直さを耳にすると、クルマを運転することは、国や地域によりずいぶん温度差があることがわかる。
日本でも、若者のクルマ離れといわれるように、以前ほど免許がさほど人生の重みになることはなくなったとはいえ、日本でクルマをあやつるため許可を得るには一苦労することには間違いない。
40歳を前にして、女流カメラマン兼エッセイストの筆者は、人間関係に疲れ果てていた。そこで自分を取り戻すキッカケづくりを見つけることを探し始める。それは運転免許を取ることだった。そこで、集中して運転免許がゲットできる“合宿免許”をネットで調べると、意外と地方色豊かな感じが伝わり、旅の気分も味わえることが分かってきた。いわば一石二鳥の行動パターンだ。
ところが、筆者は免許を初めてとるには高齢者のカテゴリー。なかなかちょうどいい合宿免許の自動車学校が見つからない。ふと見つけたのが、長崎県の五島列島にある自動車教習所。ここなら、東京から遠く離れているし、まわりが荒海に囲まれている。教習に嫌気がさして逃げ帰る気も起らずココロを一つにして免許取得に打ち込める。それに動物好きの筆者には、日本で唯一乗馬ができるという触れ込みも魅力的に映った。
ふだん運動らしきものをしていない筆者は、若者にくらべると運転技術を身に付けるには時間がかかる。そればかりではなく、理屈が先に立つので交通ルールが素直に覚えられない。
そもそも合宿免許は、通常の通学スタイルよりも短期間に免許が取れるようになっている。入学から卒業までスケジュール管理されているからだ。通常2週間で卒業し、実地試験免除を証書を携え、地元東京の鮫洲試験所で、筆記試験に合格すれば晴れて免許が交付される流れ。
コトはそうとんとん拍子に運ばない。そもそも、この本の筆者は、1日中フル回転で活動する生活など長らくしたことがない。しかも自転車のハンドルさばきすら大きな疑問符が付く人間。「2週間あまりで運転の技術を覚え路上に出てクルマを運転する」などとてもできないことに気付かされる。
でも一方で、東京から遠く離れた自動車学校では、誰もが社会から切り離され、現実の憂さを忘れ、五島の地がはからずも理想郷であることに遅まきながら気付く。ここでは誰かがだれかを蹴落とす必要もなければ、だれかを裏切って得をすることもない。
現実社会からほんのすこし宙に浮いた、一種のユートピア。しかも一緒にいられる時間は思いのほか短いので自然と助け合い、気にかけあう。すぐ別れていくからこそ成り立つ優しい関係が成立する。
猫好きの筆者は、この島でもう一つの楽しみを見出す。教習所の近くにある馬場で、馬に乗るのだ。初めて馬に乗った筆者は、同じ乗り物とはいえ自動車と似て非なる感慨を発見する。
馬に乗ると、これまでに体験したことのない視点の高さ。それに左右非対称な、柔らかいものに座るという感触の驚き。足全体に馬の体温が伝わってきて、すぐに体がポカポカ暖かくなる。人間より大きな動物とはこれほど温かいものなのか? ふと数か月前死んだ愛猫のことを思い出す。「秋から冬にかけ気温が下がると、その猫はよく筆者の蒲団の中に入ってきた。猫にとって身体が何十倍大きな人間はまるで湯たんぽのようなものだった」。自分より大きな動物と接して初めて、猫の気持ちに思いをはせる。
人より二倍の4週間もかかってようやく仮免許を取得した筆者は、自分の半生を振り返る。いわばこれまで自分仕事は一点集中型だった。
たいして才能もないし、とくに異なる経験をしたわけではない。そんな人間が写真を撮ったり文章を書くためには、人より長くその場にいたり、人より長く物事を考えたりするしか術(すべ)はなかった。ひとつのことを1年2年長いあいだ考え続けることが得意。ところがクルマの運転に要求されるのは、それとは真逆で「瞬時にたくさんのことを考えること。精神は集中させ、しかし視線は分散させろ!」なのだ。
とにかく4週間も五島列島に滞在したおかげで、約30名の人たちと親しく知り合うことができた。東京にいたのではとても出会うことのない多彩な人たちとの交流。
東京に戻って晴れて都内でクルマを運転する筆者は、免許取りたてのドライバーが体験する様々な経験をする。車線変更の難しさウインカーで後車に伝えるタイミングなど、まるで異なる。だから戸惑いまくる。島では、シミュレーターでしか体験してこなかった高速道路の走行など、徐々にリアルなドライビングテクニックを学んでいく。
運転免許という手段を手にした筆者は、なにかができるようになった喜びのひとつとして運転はかけがいのない新しい翼だと思い始める。読者は300ページ足らずの体験記を読んでいるあいだ、初心者の頃の瑞々しい気分に浸り、クルマをあやつる喜びを再認識できる。そしてからだの奥の方がなんだか暖かくなる。(2012年9月刊)
これまでいろいろなモノづくりの現場を訪ね、インタビューをして記事を紡ぎ出してきた。
クルマの開発に携わるエンジニアはむろんのこと、日々新技術に取り組む部品メーカーの技術者など。きちんと数えたことはないが、たぶん3000人はくだらないと思う。
そんななかで、いくつもの興味深いエピソードがあるのだが、ふと思い出すのは、クルマのある部品メーカーを訪ねた時のことだ。たしか、ATの内部構成部品のひとつであるトルクコンバーターを製作している浜松のとある企業の60歳代の役員だった。
たしか板金製でつくられるトルクコンバーターの話を伺ううえで、彼は「俺はこんなふうにクルマを作っている!」とゆるぎない自信を、コトバと表情で示しながら説明し始めたのだ。話を聞くほうとしては、クルマの一部品をつくっていることは認めるけれど、クルマ全体をクルマはおよそ3万点もの部品で構成されている。だから、ひとつの部品にすぎない部位を取り上げクルマ全体をつくっている! というのはお門違いじゃないかしら? と思わず反論したいところ。
ところが、なにしろ相手の迫力が一枚も二枚も上手でとても反論などできずに、モヤモヤした気分で終わった。
このことが後々、頭の隅に残った。
ふっと半世紀以上も前、小学生の夏休みの自由研究で、東京タワーの自分の背丈(約1メートル20センチ)ほどの模型をつくったことを思い出した。当時の漫画雑誌か何かでカラー写真を手に入れ、それを片手に近所の鉄工所のおじさんに話を持ち掛けつくったのだ。おじさんは“あいわかった!”とばかり、その場で手近にあった広告の裏紙に鉛筆でさらさらと設計図を描いてくれた。
たしか8番線というとても子供が扱えるような細い針金ではなく、太い鉄の棒を曲げたり、溶接したりして2週間ほどでつくり上げた。作業は、子供そっちのけでおじさんの方が夢中になり、あれよあれよというまに作り上げてしまった。でも、学校に提出する段になるとなんだか、気分が乗らなかった。企画したのは自分だが、自分ですべて作ったわけではないからだ。ほとんどおじさんの手でつくられたのだ。友人に凄いと褒められると、犯罪を犯した気分になった。
ところが、この東京タワーづくりは、子供時代の体験としていまも強烈に記憶している。おじさんが作業をしたとはいえ、横であれこれ観察していたからだとおもう。いわば他人事ではなく、わがこととして見守り続けたことが、大人になっても強い印象として残ったのだと思う。自分のなかでは、不思議にもインチキを犯したという思いが消え去り、いまではおじさんとの共同製作ぐらいにグレードアップしている。
そこで、浜松のトルクコンバーターづくりの役員だ。若いころからたぶんトルクコンバーター一筋で、その製品がクルマに採用され、ふと街中で自分が製作した製品がATのなかで活躍している(外からは見えないが、機種で分かるんでしょうね)のを気づくと、「うん、このクルマは俺の開発した部品で動いている。俺がつくった部品がなければ1メートルも動けない!」そう思っていたに違いない。家族にもその都度、そのことを告げていたのかもしれない。
だからこそ、「俺はクルマを作っているんだ!」と自信をもって人に伝えられるのだ。フェルデナンド・ポルシェや桜井眞一郎あたりは、クルマのどの部位を質問しても即答できた。そういう人なら「俺はクルマを作っている!」と言える。でも、クルマの一部品であっても“クルマを作っている!”と周囲の人に伝えても、ホラを吹いているとはけっして思わない。
お隣韓国の自動車メーカー「ヒョンデ」が、ふたたび日本市場に挑戦し始めている。
Hyundai Motor Companyは、過去を振り返ると2001年から日本で乗用車を販売していた。だが、わずか10年で1万5000台程度の販売実績を残し撤退している。ちょうど韓流ブームとやらで、“ヨン様”仕様の高級車がTVのコマーシャルで流れていた。いつの間にか日本市場から撤退した。ただし、大型バスが販売されていたのだが、乗用車は完全に日本市場から姿を消した。
10数年前のことを思い出すと‥‥たまたま磯子に販売店があり、複数台ヒュンダイ乗用車をタクシーとして導入していたタクシー業者が横浜にあった。その車にたまたま乗り合わせたことがあった。エクステリアもインテリアもかなりイケていたし、走りや乗り心地も高級車テイストの印象。これならクラウン・コンフォートを軽く凌駕している! そんな印象を得ていた。
だが、俗にいうタフマーケット(成熟したクルマ社会)の日本では、ただロープライスのクルマは受け入れられなかった。ファーストリテーリング的魅力は高額商品のクルマ市場では通じなかったともいえる。
その韓国車が、捲土重来とばかり、いきなりEVとFCVを引っ提げて日本市場に再登場したのだ。
シリコンバレー生まれのテスラ同様、新生「ヒョンデ」もネット販売で、いわば定価販売ビジネスだという。しかも、500万円台にEVの高級車をぶつけてきた。SDGsを前面にした商品で勝負。
でもやはりネット空間での展示だけでは訴求力不足。見て・触ってもらわなければ! そこで新横浜駅近くに顧客に実車を見て触れてもらう施設をつくった。「ヒュンデ・カスタマーエクスペリエンス・センター横浜」がそれ。今年の7月末にオープンしたものだ。
ただクルマを展示して説明員を張り付かせるのではなく、試乗ができる基地としての役割のほかに専用の整備ベイを設け、その光景を2階に設けた小洒落たカフェでお茶を飲みながら見ることができる。カタカタ文字が続く、このいささか長ったらしい名称の施設は、文字通り顧客が体験して楽しめる工夫を凝らしている。
この施設にやじうま根性丸出しで、潜入してきた。新横浜の駅から市営地下鉄で一つめ「北新横浜駅」から歩いて5分。まわりにはスーパーマーケットやファミレス、あるいは倉庫などがある、いわゆる手垢がついていない新規開発の商業ゾーンの一画にその建物があった。
受付カウンターのまわりがなにやら華やいだ雰囲気が漂う。なんと、人気の韓国のヒツプホップグループBTSのコンサートチケットが当たるキャンペーンが展開されていた最中。若い女性が朝から30数名ほど足を運んでいた。そしてスマホで、ヒョンデのクルマをパチパチと撮影している。SNSでヒョンデのクルマの写真や動画を拡散すると、抽選でチケットが手に入るかもしれないという。これってコスパの高い、いま風の宣伝手法! 期せずして、その実情を覗き見た感じだ。
こうした女性は初めから試乗の予定がないので、筆者はあらかじめネットで申し込んだとおり、何ら支障なくEVのアイオニック5(IONIQ 5)に試乗することができた。試乗コースは、通常のディーラーの試乗などより2倍近い距離で、かなり余裕でクルマを味わうことができた。
結論を言えば、やはりEVはおしなべて加速がいいし、静粛性も抜群。225kwの最高出力と600Nmの最大トルクで、1870kgの車重を軽々と移動させる。感動したのは、マスクしていても会話が弾んでしまうほど、車内が静かだという点。ステアリングが小径で好感が持てるし、インテリアも奇をてらうことなくしっとりとよくできている。回生ブレーキが働くので、ある程度のエンジンブレーキらしきものは感じられる。この回生ブレーキ、手元で強さをゼロまで4段階で調整できる。右左折時にウインカーを出すと、ドアミラー下部に設けている広角カメラが働く。死角になった側面の画像をインパネのモニターに映し出し、巻き込み事故を防ぐ。そんな新鮮な安全装置の仕掛けも魅力。
幹線道路を走っているときはクルマの大きさはあまり感じないが、路地に入ったり、狭い駐車場でクルマを停めようとすると、とたんに車両の寸法がふだん乗るクルマより一回りデカいことに気がつく。回転最小半径は、5.99mもある。これはコンパクトカーより約1mも長い。
カタログ数値を確かめると車幅が1890mm、全長も4635mmもあり、ホイールベースがなんと3000mmもあり、トヨタのノアの2800mmよりも200mm長い。価格は479万円からAWDの589万円まであるという。なお、フロア下にセットしているリチウムイオンのバッテリーは、8年または走行16万キロ保障。もしバッテリーが寿命のとき、単体価格はどのくらいかと聞いたところ「いまのところ未定で、たぶん100万円以上はすると思います」とのこと。「(トヨタや日産のような)バッテリーのリビルトやリサイクルの仕組みは未定です」という。
このクルマ、すでに欧州や北米でも売られているが、日本市場でそう羽根が生えたようには売れないと思う。高級車をまずお披露目してイメージアップ。全国に既存の整備工場と提携したサービス拠点を数多く設け、整備体制をある程度構築してから、本格的にリーズナブルな価格のコンパクトカーを売ろうという心づもりのようだ。
トヨタのモノづくりで、イの一番に思い起こすのが「ジャストインタイム」である。
生産過程において、各工程に必要な部品やモノを、必要なタイミングで、必要な量と数を供給することで在庫(つまり経費ともいえる)をとことん減らして生産活動を行う生産技術。別名「トヨタ生産方式」。アメリカではジャストインタイムの頭文字を取りJIT(ジット)と呼ばれている。この生産方式を支えているのが、カンバンと呼ばれる「生産指示票」であるので、「カンバン方式」(写真)ともいわれる。
この生産方式は、戦後具体的に実を結ぶのだが、もともとは喜一郎が当初から彼の頭にあったものである。昭和13年(1938年)拳母工場完成の際に記者のインタビューに答え、こう返答している。原文は文語調なので現代語に直してみると。
「自動車工場の場合においては、材料が非常に重要な役割を持っています。部分品の種別だけでも2000~3000種に及びますが、それらの材料や部分品(部品のこと)の準備やストックはよく考えてやらないと。いたずらに資本にものを言わせどんぶり勘定でおこなうと、完成車の数が少なくなります。私はこれを“過不足なきさま”、換言すれば所定の生産に対して余分の労力と時間の無駄を出さないようにすることを第一にしています。部分品が移動し循環していくことに対して、“待たせたりしないこと”です。“ジャストインタイム”に各部分品が、整えられることが大切だと思います」
これは、中岡哲郎氏の『近代技術の日本的展開』という本の中に出てくるのだが、サブタイトルが「蘭癖(らんぺき)大名から豊田喜一郎まで」。蘭癖とはあまり聞きなれない言葉だが、江戸期蘭学にひどく傾注した、いわゆる西洋かぶれをした人のことを、いささか皮肉ってとくに幕末水戸藩の攘夷派あたりが使った言葉。もとは、18世紀初頭の吉宗時代の享保の改革で、洋書の輸入が緩和されたことがきっかけになっている。日本人のモノづくりへのまなざしは、およそ300年前から、いまに続いているようだ。
「うん? ドライブイン!」 この文庫本のタイトルを見て、正直いって不思議な感じに襲われた。
“ドライブイン”はいまや死語になりかけている言葉だからだ。奥付をのぞくと2022年7月とある。印刷所から出てきたばかりの新刊文庫本。ドライブインは、わずかながら生き残ってはいるだろうが、斜陽産業をあえてメインテーマにして本ができあがる! そこに出版世界の不可思議さが漂う・・・・そう考えるのは深読みだろうか?
でも冷静に考えると、レビューする側(広田)が、右肩上がりのテーマを追いかけがちな実用書の世界に毒されているからかもしれない。この本は、あえて完璧に斜陽となったドライブインをテーマにしている。ちなみに文庫はごく最近だが、単行本は2019年1月に世に送り出されている。それにしても、モヤモヤが頭のなかをよぎる。
突き放して考えると、そもそもドライブインに興味のある読者がどれほどいるのだろうか? そう考えると疑問符が湧いてくる。それゆえに大きな狙いというか追求すべき何かがあるハズ。鉱脈が隠されている? そこに思い至ると、猛然とこの本への読書欲が湧いてきた。
ドライブインは、日本のモータリゼーションの始まった1960年中ごろから出現する。まだ未舗装路が大半の昭和の中頃。晴れた日には埃が立ち込め先が見えない。雨になると泥をかぶる幹線道路のあちこちに、観光バスの乗客やトラックの運転手を顧客としたドライブインがあった。小さかった子供時代自転車で走り回っていたころを思い出す。峠を越えられず途中でエンジンを冷やしていたバイク(たいていはアルミの洗濯ばさみをクーリングフィンに取り付けてはいた)が珍しくなかった。
ところが、にぎわっていたドライブインも、高速道路が張り巡らされた1990年代には斜陽産業の仲間入りになってくる。
それでも、いまでも少数とはなったが、全国には多くのドライブインがあるという。時代の波を乗り越え生き残ったドライブイン。それは地元の顧客に支持されたドライブインや、ファミレスにはできない地場の食材を使った料理を提供するドライブイン、さらには家族経営独自の接遇待遇型のドライブインが、ドッコイとばかり、いまでも生き残っている。
もう一度ドライブインとは、なにか? と思いをめぐらす。
自動車に乗車したままで乗り入れることができる商業施設のことを指すという。ドライブイン・レストラン、ドライブイン・バンク(銀行)、ドライブイン・ハンバーガーショップ、ドライブイン・シアター(映画館)などがある(あった?)。面白いことにコロナ禍でドライブインは、感染予防の方策として、再び脚光をあびている。
この本は、狭い意味での「ドライブイン・レストラン」の探訪記である。
この本の非凡なところは、日本の道路の行き末はともかく、来し方を教えてくれる点だ。単なるルポで終わらない。
たとえば、日本の動脈である東海道の起源は、江戸期ではなく、なんと1000年以上の昔にさかのぼる、という。
律令制の中央集権国家を構築するうえで「五畿七道」という行政区分から始まった。五畿とは大和、山城、摂津、河内、和泉の畿内五国を指し、七道とは東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道、西海道をいい、これは道路の意味だけではなく、区画(地域)をも意味した。東海道に「宿」ができたのは鎌倉時代で、これが整備され、江戸時代には参勤交代制度が後押しして地方文化と江戸の文化の交流が起きる。なるほど、ひとつえらくなった気分。
日本の高速道路がどういう背景でできたかも、この本は丁寧に教えてくれた。
そもそも敗戦後10年ほどして、日本の発展を意図して、世界銀行の肝いりの調査団が日本の道路事情を世界的視野で点検された。それが1956年のワトキンス調査団というもので、「日本の道路は信じがたいほどひどい。工業国として道路網をこれほど無視してきた国は他にはない」とボロクソに評価。当時の日本人は、これに反感を抱くことなく、逆にこの進言をいわば“錦の御旗”として、高度成長経済の青写真のうえに、ハイウエイ建設に努力を傾ける。そして7年後の1963年には名神高速道路、さらにそこから6年後には東名高速道路が完成している。思わず心のなかで、「ヘッ~!」と叫ぶ。
筆者はことさら鼻息荒く読者に伝える姿勢こそとらない。でも、読み進めるうちに、知らず知らずに日本の道路行政、日本の戦後社会の在りかた、庶民のクルマ生活の推移、日本の産業の変化、そして何にもまして、いまも大きな課題となっている日本のエネルギー革命に思いがおよぶ・・・・・。
北海道から沖縄まで22件のドライブインを緻密に取材しているから、こんなにも広い世界観の風呂敷を広げてくれる。
単なる探訪記だけに終わっていないのは、著者の広い好奇心と分け隔てしない他人への熱いまなざし。ドライブインは、基本的に家族経営なので、なぜドライブインに携わっているのか? その前のキャリアはどうなのか? それぞれのドライブインには繁栄と停滞、そして先細りなどの紆余曲折がある。そこの著者は、いきなりマイクを突き付ける不躾な直球ではなく、何度も足を運び、まるで永年の知り合いか何かになったかのように親密さを醸成し、本質に迫っていく。
ドライブインのスタイルは、カレーやうどんそば、ラーメンというメニューだけではない。意外と千差万別だ。客が食べたものを自己申告するセルフ式のいうなれば性善説ドライブインがあるかと思えば、駐車場から注文するアメリカンスタイルの沖縄のドライブイン、いまやレトロとなった自販機がずらり並んだユニークなドライブイン。そして地場の食材をフルに生かしたホルモン炒め定食とか、海鮮料理で普通のファミレスには真似のできないメニューでお客を引き付けるドライブインもある。その背景にある家族経営の内実に著者は、愛情深く分けいる。
店内に入ると土間の続きに設けられた「小上がり」に筆者の目線が注がれる。「蹴上がり」ともいわれるこの小さな座敷は、足を延ばしフット一息つける空間の存在。ここにこそジャパニーズスタイルのドライブインがあるといっているようだ。
筆者は、1982年広島生まれのライターだが、生まれて初めて自分が追求したいテーマがドライブイン。熱意がこうじて「月刊ドライブイン」というミニコミ誌を製作、これがキッカケで単独の本になった。それだけに熱量の高い記事が目白押し文庫である。次ぎ、クルマで旅するときは、ファミレスではなく、ローカルなドライブインに立ち寄りたくなってきた。(2022年7月刊)
かれこれ30年ほど使い続けているだろうか?
誰にも1本か2本は、よく使う工具というものを持っていると思う。10mmのコンビレンチの人もいるし、2番のプラスドライバーの人もいる。使用頻度が高い工具であるはずだ。
ぼくの場合、イの一番にあげたいのがヘキサゴンレンチの「6角棒レンチ」である。20年ほど前の自動車のエンジンルームではあまりヘックスボルトを見かけないので、使う機会はなかった。ところが、バイクの世界では、1980年代からすでにヘキサゴンボルトがかなりポピュラーだった。ふつうの6角ボルトの頭とくらべ、一回りコンパクトになるので、バイクではとくに、ハンドル回りに多くのヘキサゴンボルトが使われてきた。アクセルグリップ回り、ハンドルクランプ回り、ブレーキ&クラッチレバー回りなど、指折り数えると10本以上ある。サイズはだいたい4mmと5mmだったと思う。これらのボルトを脱着したり、バイク本体を背の高いトランスポーターのワンボックス車に乗せやすいように、バイクを低くするためハンドル回りのボルトを緩めたりする。こうした作業で、実に6角レンチの使用頻度はグイっと高まる。
TOP製の「6角棒レンチFHW-4568」は、このバイクのハンドル回りにあるヘックスボルトを脱着するのに便利。鍛造製のハンドルの両端に短い両頭ビットが付いていて、クルクル360度回せるスタイルになっている。4mmと5mm、それに6mmと8mm、つまり計4つのサイズのヘックスボルトに対応できるというわけだ。軸と90度の角度にすればトルクをしっかりかけられるし、ハンドルと同じ向き(つまりストレート)にすれば早回しができるのだ。1本で4サイズに対応するだけではない。
ナイフタイプ、L字タイプ、ドライバータイプ、ソケットツールタイプなど6角レンチはいろいろなタイプがあるが、TOPの製品は実にユニークで使いやすい。
全体の重量が154gと重く、手に持つとずしりと重く感じるのは事実だが、使ううえではそれはマイナスにはならない。頑丈につくられている、質実剛健さを醸し出すうえでプラスに働いているかもしれない。だが、これをもし平成の時代に作り直すとすると、たぶんハンドルをアルミの鍛造製にするか、同じ鍛造のスチールでもなかをくりぬき中空にするかもしれない。となると価格はたぶん10倍程度になる。現行だと実質1000円以下と格安。そう考えると、このままの姿に落ち着く? せいぜい表面にローレット加工を施すぐらいか? (写真は今回新たに購入したもの)