みなさん!知ってますCAR?

2022年11 月15日 (火曜日)

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これって近未来型自動運転車に装着するシート?!

千葉工大の椅子

  「んっ! なんだ、これは?」
  そう心のなかでつぶやいてしまった。遠くから見ると、なんら変哲のないオフィスチェア。
  近づいて目を凝らすと、座面と背もたれには碁石ほどの大きさの丸いボタン(接触子)が、いくつもいくつも等間隔に貼り付けてある。・・・・その椅子に恐るおそる座る。そして目の前にあるモニター画面を指でなぞると、背中あるいは背もたれがムズムズと動くのだ。
  “うん、これって江戸川乱歩の短編小説「人間椅子」? 100年の時空を超え具現化した? ”
  なんていうのは真っ赤なウソで、身体の拡張を狙った新技術なのである。
  もともと東大の先端科学技術研究センターの堀江新特任助教授などが構築した技術を、より分かりやすいかたちで具現化したのが、大和秀彰さんはじめとする千葉工大未来ロボット技術研究センターの先生たち。
  象牙の塔的に小難しいコトバで説明すると…‥“皮膚せん断変形にもとづく椅子型触覚提示装置”という。
  これじゃ、わけが分からないよね。そもそもいま注目のメタバース(仮想空間)内で自分のキャラクターであるアバター(分身)を動かしたりして、いろんなサービスを受けたり、情報のやり取りをおこなう。身体と情報空間とを有機的につなげていく……。これが新ビジネスを生み出しつつあるのが、いまどきのトレンドだ。
  今回の不思議なオフィスチェアであるCHAINY(チェイニー)は、ウエアラブル情報、身体拡張、エンタメ、ゲームチェアなどの応用だけではなく、数年後登場するソニーの新世代の高級EVなどに組み込まれる可能性がある。自動車が自動運転化されたら、クルマは運転する空間から“コンテンツを楽しむ空間”へと激変する。となるとシートにこうした細工が施されていても少しも不思議じゃない!
  そもそもヒトの皮膚に刺激を与えるってことは、生体的あるいは物理学的に言えば皮膚に歪みを与えると言い換えられる。直径20mmの接触子が座面と背もたれに計48個付け、最大でそれぞれが50度回転させる。丸い接触子がクイッと50度回転することで、皮膚を変形させる。複数の接触子を協調的に動かすことで、刺激の強度の分布を作り上げる。これにより人に何かを伝えることができる。音響や映像とリンクさせれば、より臨場感を伝えることができるわけだ。
  今回の試みの一つとして隅田川の花火大会の打ち上げ音と映像に連動するプログラムを組んでいた。これを実際試してみると、「うん、なるほど!」と合点がいく。これをたとえば音楽プロジューサや映像のプロなどとコラボしたたとえばラブストーリー作品を作る、そんな近未来のアートがぼんやり想像できた。つまり従来からあった視覚と聴覚の2本立てのほかに、触覚がそれに加わり3本柱での表現ゲージュツが生まれるのかもしれない。21世紀の近未来は手が届く位置にある。

カーライフ大助かり知恵袋1

『スティーブ・ジョブズとダイマクション・カー』のお話

フラーのクルマ

  先日、TVをなんとなく眺めていたら、ダイマクション・カーの動画がちらっと登場していた。
  「世界を変えた愚か者」というタイトルでのNHKのドキュメンタりー番組。iPhoneをはじめ数々の製品開発で日常生活をガラッと変えたスティーブ・ジョブズ(1955~2011年)。それに現代のレオナルド・ダビンチともてはやされる一方、無能呼ばわりすらされた思想家で発明家のバックミンスター・フラー(1895~1983年)。この2人を描くことで、そもそも人の幸福はどこにあるのか? この永遠のテーマを問いかけるヒューマンドキュメント(というと軽くなるが)。
  フラーについては、日本ではあまり注目を浴びていない。でも、富士山頂の気象レーダーの建屋として35年間使われたジオデミック・ドームと呼ばれる独特の構造物、これを発明した人物と言えば気付く人も多いハズ。幾何学的に最も理想的なトライアングル形状。3角形が支え合い高い強度で広い空間を実現したジオデミック・ドームは、シェルターや格納庫など米軍事施設でまず採用され、そのあと地球上の様々なところでつくられ、いまも活用されている。
  フラーはこれ以外にも、家の掃除が15分で終わるダイマクション・ハウスとか、陸地などのカタチのゆがみが少なく、地球本来の東西南北を意図しない地図であるダイマクション・マップ。それに1933年に登場したダイマクション・カーの発明が連想される。ダイマクション(Dymaxion)というのは、「最小のもので最大をなす」というフラー独自の造語。ユニーク度は満点だが、ジオデモック・ドームをのぞき、彼の発明した発明品は、いずれも量産化されることなく歴史のかなたに消えてしまった。
  だが、消えてしまった発明品のひとつ、近未来車ダイマクション・カーはいま振り返るとみるべき点が多い。
  このクルマは、エアロダイナミックシェイプで丸みを帯び、1ガロンで30マイルを走れるエコカーがひとつのスローガン。前輪2輪、後輪1輪の3輪車なので、最小回転半径は劇的に小さく超小回りが利く。定員11名。最高速時速120kmを謳ったが、実際には時速140kmを出すのが精いっぱいだったという。エンジンは、フォードのV型8気筒86PS。フラーは、最終的にはこのクルマで空を飛ぶことを夢想していたともいわれる。
  世の中にないものを生み出そうというパイオニアは常に悲劇が付きまとうもの。
このクルマも1933年のシカゴ万博に出品し、デモ走行中にほかの車に追突され、不幸にして乗員らはケガを負い、ハンドルを握っていたレーサーが死亡するという事故に見舞われた。ボディの強度不足が疑われる事故だった。これでミソが付き投資家が引き上げ量産までには至らなかった。ちなみに、試作車3台のうち1台は現存し、ネバダ州のリノにある国立自動車博物館のハラーズコレクションに収まっているという。
  フラーは、1960年代いち早く“人類と地球の調和”を唱えた思想家。その彼の考えで1968年に「全地球カタログ」がつくられ、その分厚いカタログは、当時のヒッピーたちのバイブルとなった。日本でも出版され、ブームを起こしている。若いころのジョブズが、このカタログをいつも持ち歩き生きる羅針盤としたことで、やがてスマートフォンを生み出す。ジョブズが晩年にスタンフォード大学での演説“STAY HUNGRY 、STAY FOOLISH”(現状に満足せず、常識に牙を抜かれるな)の言葉とともに、フラーとジョブズの共通した生き方への影響力は、いまも強く若者に伝わっている。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:前間孝則著『技術者たちの敗戦』(草思社文庫)

技術者たちに敗戦

  この本は、ホンダの技術者・中村良夫はじめ、零戦の開発者・堀越二郎、曽根嘉年、新幹線の島秀雄、IHIを業界トップに押し上げた真藤恒、NECの緒方研二など6名の敗戦後、廃墟からどう立ち上がったかのドキュメント。
  このなかで唯一自動車関連の中村良夫にズームインすると‥‥。
  IHIでジェットエンジンの開発をしていた筆者・前間さんが、『ジェットエンジンに取り憑かれた男』(講談社刊)でデビューしたのちF1の監督として名をはせていた中村良夫さんにインタビューしたのち二人の距離が縮まったのはそう時間がかからなかったようだ。
  そのころホンダの常務まで上り詰め、リタイヤしてのち日本自動車技術会の副会長や国際自動車技術会連盟の会長などをつとめ世界を舞台に活躍していた中村さんが、若いころ中島飛行機で航空機エンジンの開発に携わっていた。
  前間氏がいみじくも表現しているように、中村さんは“日本の企業人の常識を破るような数々の著作を発表している技術者”であり、それだけに文字通り遠慮会釈なしに個人の考えを前面に押し出す稀有な技術者でもあった。
  ただし、もともと長州の医師の息子で、山口中学から東京帝大航空学科に進んだ超エリートらしく、身仕舞いに寸分の狂いのないダンディな紳士だった。その中村は、終戦直前まで「富嶽(ふがく)」に搭載予定だった空冷36気筒エンジンを開発していた。これは複列星型18気筒エンジンを2機、くし刺ししたレイアウトで6000馬力発生するという構想だった。この超弩級エンジンを富士山の別名「富嶽」に搭載し、日本の各都市を廃墟に変えつつあるB29への復讐とばかりアメリカ本土を直接攻撃しようという旧日本軍の構想だったのだ。
  だが、この構想は敗戦であっけなく消え去り、超エリート航空エンジニアの若者は、一夜にして闇のなかに投げ出される。敗北感が打ちのめされもした。戦後はGHQの命令で日本は「航空禁止」となり、“陸に上がったカッパ”同然、徒手空拳となる。世過ぎ身過ぎのため、一時3輪トラックメーカーに籍を置いたが、38歳のときにオートバイメーカーのホンダに入社。この時すでに38歳。
いわば敗戦の地獄の体験を潜り抜けてきた中村は、のちの世にありがちな軟弱な超エリートではなかった。ホンダという企業世界で、めきめき力を発揮しF1への道筋を切り開いた一方、市販4輪乗用車の開発においても大いに力を発揮した。ホンダと言えば、創業者の本田宗一郎がすぐ思い浮かぶが、じつは中村良夫のチカラなしにはホンダの乗用車開発の成功はなかったといわれる。
  必然的に40代のいまだ若いエンジニア中村。ほとんど経験だけでモノづくり世界を生きてきた創業者のあいだには溝が深まる。排ガス規制が厳しくなるなかで、シンプルな空冷エンジンがいいのか、温度管理がやりやすい水冷エンジンを選択すべきなのか、でこの2人の旧新エンジニアはぶつかる。もともと尊敬の対象だったおやじこと宗一郎に歯向かうのは、本義ではないが、科学的正義を信奉するエンジニアの中村としては、そんなことは言っていられない。
  けっきょく宗一郎は、藤沢副社長の助言で“潔く”身を引くことになるが、一方の中村もこの世代間の闘争で少なからず苦悩し、傷ついた。だが、そのことで、中村の執筆者としての力量が劇的に高まった。先日図書館から借りてきた山海堂刊の「F1グランプリ全発言」の冒頭ミハイル・シューマッハを描く記事に目を通したところ、実に高い見識の持ち主である彼だけにしか記しえない内容が、わかりやすくクリアな文体で展開されているのを、口をあんぐりして眺めてしまった。世のなかにはこんなとてもじゃないが、かなわない3周以上も先を行く男がいたんだ。(2013年8月刊)

愛車メンテのプラスアルファ情報

オリジナル「ツールバッグ」のプレゼント!

プレゼン ト1

プレゼント2

  2006年からスタートした、このブログ「知ってますCAR」を、今年でおしまいとさせてもらいます。
  長いあいだご愛顧いただいた記念として、読者プレゼントを企画しました。
        ※
  オートバイのトライアル競技に熱中していた時代。
  たとえばツーリングなどで、持ち歩く道具をどう収納するかに悩んでいた。ソケットツールなら差し込み角1/4インチなので、それほど大きなものは不要。市販でもあれこれ探しはしたが、ちょうどいいものが見つからず、ならば! というわけでつくってしまいました。
  それが写真の赤い布製のツールバッグ。何度も試作しては大きさやデザインを決めた。そして出来上がったのが、サイズは350mm×350mmで、下部に斜めに工具を差し込む袋状(緑色)の細工がしてある。収納と取り出しがスピーディにできるようにデザイン。
  親しいプロライダーなどに使ってもらい、頑丈さと使い勝手の良さは太鼓判。たとえばヤマハのトライアル監督で初代全日本チャンピオンの木村治男さんは、このツールバッグを携え世界中のレースに参加。「汚れこそ激しいが、機能上はまったく問題なしでいまも現役で使っています」という。ライダーのなかには、百均で樹脂製のクリップを探してきて、ワンタッチで紐をむすべるタイプに改造したユーザーもいる。たしかに紐を結ぶのが手間だという声もあるが、相撲の仕切りと同じでこの紐をむすぶことでライダーを平静に戻す意図がある。
  このツールバッグ、なにもバイクに限らず、たとえば、自転車でツーリングする場合、ヘキサゴンレンチなどの工具やタイヤレバー、バルブなどを収納できる。あるいはアウトドア愛好者なら、工具やペグ、小物を収納する袋としても使える。もちろん家庭でも、たとえばドライバーやボールペンなどを保管する袋として活躍する。
  このツールバッグを100名様にプレゼントします(上の写真の工具が含まれません)。発表は、商品発送をもって発表とさせてもらいます。

応募要領
  ●応募先;(有)昭和メタル 「ツールバッグ・プレゼント」係 
  昭和メタルのホームページよりお応募ください。
  https://showa-metal.jp/inquiry_contact2019-001/

●締め切り;2023年1月20日

2022年11 月 1日 (火曜日)

TOP NEWS

フレンドリーになった日本のユーザー車検?!

川崎の車検場

点検ハンドブック

  光陰矢の如し! とはよく言ったものだ。まる2年はあっという間にやってきた。
  マイカーのシエンタ2015年式(エンジン排気量1500㏄ 走行約6万キロ)の3回目の車検が迫ってきた。前回、川崎の検査登録事務所で取得したので、今回も同じところで車検を取るつもり。なにしろ川崎は、規模が大きい港北にある検査場(正式には神奈川運輸支局)よりも空いているからだ。
  整備記録(メンテンナンスノート)を見直してみると、2年前の前回からわずか5000キロほどしか走っていないことが判明。この間ちょうどコロナ渦。しかも近所はもっぱらクロスバイク(自転車)での移動に切り替えたため、従来にくらべ1/4の走行キロ数でしかない。
  とりあえず、あらためてざっと24か月点検をおこなった。もし不具合が発見できれば「検査後に修理をする」というやり方をとる目算だ。いわゆる“前検査・あと修理”というスタイル。たとえて言えば、フォーマルな場に出るとき、普段着にジャケットを羽織り、ドレスコードに引っ掛かれば受付でネクタイを借りてすませる、そんな気分?
  いまやユーザー車検の受付は、スマホを使いネットで安直にできる。
  車検証を手元に置いた状態で「インターネット予約サイト(https://www.reserve.naltec.go.jp)」にアクセスする。
  そこで継続検査、検査車種の乗用車を選択し、次に出向くべき車検場を選ぶ。そして日時を指定し、スマホのカメラを起動して、車検証の下部にある2次元コードを読み取る。すると、画面にアルファベットと数字が並ぶ車体番号が取り込まれスムーズに予約完了となる。
  この間わずか数分。あとは、確認メールが、送られ、そこには予約番号が記されているので、リマインダーに記憶させるか、当日、そのメールを参照すればいい。
  車検に必要な用紙は、車検証、自賠責保険証、それにメンテナンスノートの3つ。以前は、自動車税の納税証明書が必要だったが、いまは窓口で確認できるということで不要。書類探しに右往左往。納税証明書を取りに近くの県税事務所の窓口に駆け込んだものだが、そのわずらわしさから解放された。
  当日、車検場で準備する書類はこの3つ以外に3つ。自動車重量税納付書、一部鉛筆書きが要求される継続検査申請書、それに検査ラインの結果を印字する自動車検査票。この3つを車検証を横に並べ、備え付けのサンプルを見ながら記入する。ちなみに用紙代はいまや無料である。
  書類ができたら受付窓口にGO! 受付では「では検査ライン〇〇番に入ってください」と言われる。
  検査ラインに入る前に、点検ハンマーを手に持った検査官とご対面! 書類と実際のクルマは同一かどうかを確認する同一性の確認(ここでライト類もチェックされる)。そのときランプ類やホーン、ワイパーが作動するかをチェックされる。
  いよいよラインに入る。すでにユーザー車検は20回以上の体験者だが、やはりどこか不安な気持ちでドキドキ。
  ところが、その不安もすぐ消える。いまではユーザー車検のお客(?)にはピタリと「車検検査係」のおじさんが付いてくれるからだ。その係のおじさんが、手取り足取り教えてくれるのだ。サイドスリップでは「歩くほどの速度でゆっくりと走行してください」とか、ブレーキ検査では「もっとペダルを踏み込んでください」とじつに優しく教えてくれる。
  ところがひとつ難問が! 排ガス検査だ。マイカーはハイブリッド車だからだ。
  いわゆる整備モードにしないと、アイドリングストップ状態となり、排ガスの検査ができない。このときだけはあえて環境汚染を無視して、アイドリング状態にしないと検査ができないのだ。
  そのための複雑な手順がある。ブレーキを踏まずにスタートボタンを2度押し、アクセルペダルを2回ベタ踏みし、次にブレーキペダルを踏みながらNレンジに入れ、再度アクセルペダルを2回ベタ踏み、さらにPに入れ・・・・という1度や2度聞いただけではとても覚えきれない複雑な手順が要求される。これらを、係のおじさんは、横に付いていて親切に教えてくれるのだ。
  この案内係のおじさんに限らず、受付の女性や各担当者は、みなフレンドリーな空気を少しばかり醸し出しているようにも見える。むかしの築地の市場に迷い込んだような「素人さんお断り」のオーラなどまるでない。
  ちなみに、今回は走行5000キロの履歴ということが功を奏して、無事車検に一発で合格。しかも、自賠責が従来より5000円ほど安くなり2万10円。重量税が1万5000円、検査登録印紙が400円、審査証紙が1700円で、自動車税を抜きにして、自賠責保険込みでわずか3万7110円でした。
  節約だけではなく、クルマと触れ合う機会が増えたぶん、ずいぶん得した気分だ。みなさんも、ぜひユーザー車検に挑戦してもらいたい! 必ずやいろんな気づきが得られるはず。
  (下の写真は、日本の車検場で配布している手のひらサイズの「クルマの日常点検ハンドブック」。わずか26ページの小冊子だが、だれにでもわかりやすく点検ができる工夫がある)

カーライフ大助かり知恵袋1

『トヨタがトヨダであった時代』(最終回)

トヨダのエンブレム

  ボディと内外艤装部品は、特装車の製作やモータースポーツの部品作りを得意とするトヨタテクノクラフトに任せることにした。
  図面があっても、当時はカラー写真がないため、シートやカーペットの色合い、触感が掴めずずいぶん苦労したという。でも、これも、当時製造にかかわったOBが存命で、彼らから50年の時空を超え、鮮明に記憶している情報を授けられた。
  エンジンは、お手本にしたシボレーのOHV6気筒が載るシボレー1934年型を博物館が1986年に1台入手したので、いろいろな疑問が解消したという点もラッキーだった。
  たとえば、オイルフィルターの図面が見つからず、疑問を抱いていたのだが、よくよく調べてみるとこのエンジンにはフィルターがなく、ストレーナーでオイルの不純物をろ過するというシンプル構造であることが分かった。OBとのインタビューで裏もとれたという。
  ワイパーは、電動タイプではなく、バキューム式のアクチュエーターを使いエンジンのインテークマニホールドで発生するバキューム(負圧)を活用する手法。ゆえに車速が早まると、ワイパーの動きが逆に遅くなるという。これは輸入品で、調べてみると、現在もアメリカの部品業界では新品が在庫していたという。旧いクルマを大切に使うというアメリカ・クルマ社会の一面を見せられ、驚いたという。
  面白いのは、スイッチ直付けのテールランプだ。普通テールランプは運転席付近にあるのだが、当時は、自動車取り締り令という法律で「後面灯火は運転席から消灯できないように装置すること」となっているので、ランプを消すには、ちくいちクルマから降りなくてはいけない。これは、もし運転手が違反を犯したとき、ランプを消して姿をくらます恐れがないように、そんな仕組みにしたというのだ。なんとも時代を感じさせる法律と装置であった。
  こうしてAA型乗用車のことをあれこれ調べてみると、単に外国車をお手本にしただけでなく、喜一郎をはじめとした当時の開発者が、自分たちの頭脳と技術で創意工夫を凝らしたことがわかる。日本の国情にあった乗用車をつくるという大きな目標に向かい、チカラを合わせ一丸となって一歩一歩挑戦を繰り広げた、そんな証がAA型に他ならなかった。
  AA型の写真や資料を眺めていると、時空を超えて、そんな人々の声が聞こえてくるようだ。

カーライフ大助かり知恵袋2

ぼくの本棚:中村尚樹著『マツダの魂-不屈の男 松田恒次』(草思社文庫)

マツダの魂

  日本の自動車メーカーのなかで、とてもチャレンジングな会社をあげろ、と言われたら、たいていの人はホンダとマツダの2社をあげるのではないだろうか(3社ならスバルも入る)。
  トヨタも日産もそれなりにチャレンジングなところはあるが、巨大な組織なので顔が見えづらい。その点、ホンダとマツダは全体像が見渡しやすく、ほどほどの企業規模のせいかヒューマンドキュメントを読み取りやすい。
  ところが、そのヒューマンドキュメントを描いた市販書籍の数となると、この2社には、天と地というか100とゼロほどの差がある。ホンダは、創業者である本田宗一郎関連の本がざっくり言って、たぶん100冊はくだらない。だが、マツダの関連本となると、ほとんど見当たらない。
  これはどう見ても不公平極まりない。
  ホンダが静岡、東京それに埼玉、栃木をベースにしているのに対し、マツダは西日本の広島で、首都圏と遠く離れているせいか? いやそうではなく、ホンダの場合、本田宗一郎氏がある意味偉大過ぎるというか、文字通り立志伝中の人物として物語にしやすい。伝説が別の伝説を生み出し肥大していった感がある。
  もっと言えばホンダという企業は、“伝説がブランドを作る”ということを、かなりまえから、もっともよく知る企業らしく、意図的にそうしたメディア操作に力を入れてきた形跡がある。メディアが、ブランドを構築してきたのだ。
  そう考えるとマツダは、なんともお上品というか、控えめというか、皮肉まじりにいえばナイーブでイノセントだったといえる。
  2018年に単行本化、2021年に文庫化された本書は、その意味で「ようやく出たぞ! マツダのヒストリー本」なのだ。
  ロータリーエンジン(RE)を導入し、世界初のRE量産車である「コスモスポーツ」を世に送り出した松田恒次(1895~1970年)を主人公としてはいるが、3輪トラックなどでマツダの基礎をつくった松田重次郎(1875~1952年)の少年期からこの物語を始めている。
  もともと大阪にある砲兵工廠などで職人としての腕を磨いた重次郎は、何度も会社を立ち行かなくしながら画期的な水ポンプを開発したり、ロシアからの膨大な量の「信管」(爆弾や魚雷を爆発させるための装置)を受注したり、そして故郷広島でコルクの会社の経営者として腕を振るう。そのコルク製造会社がのちにオートバイをつくり、3輪トラックをつくり、戦後自動車の量産に乗り出すのである。
  いまの言葉でいえば、スタートアップ企業が、多くの失敗を重ねながら試行錯誤を続け、徐々にノウハウを蓄積し、大企業へと変貌していく。ダイナミックでワクワクする戦前の人間味あふれるモノづくり世界が展開される。
  REをめぐる物語のアウトラインは、たいていの読者は知っているかもしれない。でも、あらためておさらいしてみると、当時の松田恒次の勇気とココロザシに感動する。そもそも、恒次は、一度重次郎とたもとを分かち(早い話、首になった!)、マツダ(正確には当時の社名では東洋工業)から離れている。
  この背景には、恒次より8歳若い村尾時之助という人物がいたことは、今回この本で初めて知りえた。村尾は、呉生まれで広島大学工学部の前身広島高等工業学校機械工学科を卒業後、呉海軍工廠航空機部に入る。航空機のエンジン開発に携わり、さらに中島飛行機の海軍技官ともなった人物。大阪の工業高校中退の恒次とは違ったエリートエンジニア。
  重次郎は、その当時、恒次よりもこの村尾を後継者にふさわしいとして、白羽の矢を立てようとしたようだ。恒次はマツダを離れ、ボールペンや編み機などの事業でそれなりの経験を積むのである。平時の場合なら村尾を選択するが、これからは激動の時代。そう見た重次郎は、恒次を呼び戻し、そこから数年後命を懸け、恒次にいわゆる帝王学を授ける。
  マツダのリーダーとなった恒次には、じつは大きな秘密が隠されていた。家族とほんのわずかな知人しか知らなかったが、片足が義足だったのだ。若いころの病魔のおかげで片足をなくしていたのだ。このことは社員のほとんどは知らなかった。
  元マツダの社員で、私の知恵袋のエンジニアKさんは、恒次さんと生前何度も出会っている。恒次は前触れもなくよく製造ラインの視察に来たともいう。恒次の身体の件を電話口で伝えたところ、しばらく絶句していた。まったく気づかなかったというのだ。でも、そのKさんのおかげで広島郊外にあるREのリビルト工場を取材したことをよく覚えている。
  ・・・・・それにしても、REの血のにじむような開発物語は何度聞いても心を動かされる。
  (2021年6月刊)

愛車メンテのプラスアルファ情報

樹脂製のワークシートは使えるか?

ワークシート1

ワークシート2

  足回りの作業をするとき、あると便利なのは手ごろな「椅子」だ。床にドシリとお尻を降ろして作業する場合もなくはないが、やはりワークベンチというかワークシートがあるに越したことはない。作業時の足や腰の負担度が劇的に軽くなるからだ。
そこで、昔よく使っていたのがお風呂で使う小型の椅子。これでも悪くはないが、やや低く、椅子の周辺に工具や部品を置く場所があるシートが求められるところ。そこで、専用の「ワークシート」(正式商品名はローリングワークシート:品番030935)をようやく手に入れた。
  台湾製でたしか3000~4000円ほどで手に入れたオール樹脂製のタイプ。四隅にキャスターが付いていて、座るとスイスイ好みの場所に移動できる(もちろん床がそれなりに平たんである場合!)。座面の高さも330mmほどで日本人の体形にちょうどイイ感じである。樹脂製で1.9kgとだんぜん軽い。少し高級感のある鉄パイプ製でシート部にクッション性を持ったものは3~4kgなので、半分以下の軽さ。ヒョイと手に持ち移動することも簡単だ。手に持つことを想定しないらしく、素手だと手が痛くなるが‥‥。
  座面には蓋があり、開けると小ねじや部品が入れられる。まわりにも凹みが計3カ所あり、工具や部品が入れられる。1/2インチのラチェットハンドルぐらいなら楽々収まる容量だ。
  ただ、これが使ってみると、意外なところが気になった。座面がフラットで長時間座っているとお尻が痛くなる点。これはよくない。でも、まぁホームセンターあたりでゴムシートを手に入れ貼り付ければ大丈夫と言えなくもない。
  一番心配なのは、肝心のキャスターだ。2~3年でたぶんこのキャスターは駄目になる可能性が高いと見た。荒れた作業場の路面などで無理やり体重をかけて動かそうとすると、おそらく壊れる可能性が高い。キャスターの根元が破損したら、樹脂製だけに補修ができず、やむなく廃棄処分となる可能性大だ。
  となると、このワークシートは、価格が安いので、壊れるまで使い込み、壊れたら買い直せばいい。そんな感じのワークシートである。発売元:㈱ワールドツール http://www.astro-p.co.jp


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