「日本のモノづくりが弱くなった」といわれ続けずいぶんな時間がたつ。
高度成長経済で満開になった日本の製造業は、その後発展途上国の追い上げと国際間の貿易などいろいろな要素で、揺さぶられ、かつてのゆるぎない自信が揺らぎ始めているかに見える。
そもそも「モノづくり」とは何かを考える。
作ったものがバンバン売れれば、人は考える余裕は生まれにくいが、大きな壁にぶち当たると人は立ち止まり、そして考えざるを得ない。いいものを、つまり量産型でだれもが買いたい、欲しい、あるいは使いたいものをどんどん作り、売れれば、モノづくりはとりあえず大成功! というわけではない。“売り手よし、買い手よし、世間良し”というそんな単純なものではない。
そこには、大げさに言えば哲学があり、従来製品よりも付加価値が高いものを作り出すことが、目指すべきモノづくり。そんなふうに、ととりあえず結論付けたい。
先日、名古屋のリビルト工場を取材したところ、そのことを裏付ける現場を見ることができた。名古屋市のほぼ中心に位置する(株)昭和(www.Turbo.com)。
創業当時から燃料噴射ポンプとターボチャ―ジャー、この2つのクルマの補器に特化した再生工場である。リビルト、リマニファクチャリングなどさまざまな言葉で呼ばれる機能部品の再生事業は、リサイクル精神の代表選手として、ここ10年~20年のあいだで、急速に知る人ぞ知る存在となってきつつある。
故障して不具合となった高価な機能部品を、一度全部バラシ、悪いところの小部品を新品パーツにリプレースし、ふたたび組み直し、最後に品質テストで完成するという流れ。コトバでいうのはごくごく楽チンだが、その部品への幅広い知識、高いスキル、部品の手配など一朝一夕には獲得できないノウハウが詰まっている。
たとえば半世紀前につくられたディーゼル機関車のボッシュ製列型噴射ポンプも新品同然にしてしまうし、最新の欧州のスポーツカーに採用される電動モーターによるアクチュエーター付きボルグワーナー製ターボチャージャーも、再生してしまう。ターボチャージャーの再生では、1/1000グラム単位でのバランス取りがおこなわれる。専用のバランサーにかけどの部位に、どれだけリューターで削るか、で仕上げていく。インジェクターの再生では失くしそうな小さなピン、鉛筆の軸ほどの極小のスプリングの1個1個を緻密にバラシ、目視で異常がないかを見て、再組立てし、噴射量を専用テスターで測定する。
こうした作業の精密さは、作業台に整理整頓されたハンドツールを見ただけでピンとくる。使い込んだ工具は、まさに手の延長。ベテランスタッフの動きを眺めていたら、なんだか、機械と対話している空気感がただよっていた。
ふと歩行者の立場で、幹線道路をガンガン走る自動車の群れを眺めることがある。すると、自動車という乗り物がいかに危険に満ちている存在だということを再認識させられる。
なにしろ、1トン以上もある“鉄の塊”を時速40キロ、ときには時速100キロ以上で走らせているのだから、理屈を超えた恐怖を覚える。安全ルールのうえで走るとはいえ、もともと知らない者同士のドライバー。ひとつ間違えば大事故となる。
いくら先進技術のぶつからないクルマを作りえても、ほかのクルマに“ぶつけられる”わけで、そう考えると、無事故ゼロの時代が来るのは、見果てぬ夢!? クルマの安全に携わるエンジニアは、この事実を見つめ愚直に長い時間仕事に取り組んできた人たちだ。だからこそ、ここ20年30年でクルマの安全性は飛躍的に高くなった。
その役目を担っている大きな存在が、NCAPだ。新車安全性の評価を星の数で分かりやすく提示するプログラムだ。
始まりは25年前のユーロNCAP(本部はベルギー)。日本、韓国、中国、東南アジアなどに広がり、ユーザーが新車を手に入れるさいに、ひとつの大きな判断材料を与えている。自動車メーカー同士の切磋琢磨にも大いに役立っている。
その国際会議が、先日都内で開かれた。パンデミックの影響で3年ぶりの開催だ。
ユーロNCAPのアンドレ・シーク(ドイツ人)のレクチャーと発言が注目された。
「数年前から懸念されていた衝突事故での車内での乗員同士の頭部がぶつかることでの重症化。これをどう防ぐかを議論し、その対策を講じていれば加点している。それと歩行者やサイクリスト、それにバイクのライダーと乗用車の絡み事故。いろいろなシチュエーションで、たとえば歩行者なら交差点でクルマと同方向に動いているとき、クルマのセンサーが幅広い角度で、確実にその歩行者をとらえられるかなどです」
なるほど。ではヒューマンエラーの対応策は? つまり、ドライバーのよそ見や居眠り運転による事故を防ぐため、ドライバーの動きをモニターする仕掛けがあるのか?
「そこなのですが、意外とこれが難しい。目の開閉で判断する場合、人種により瞼が閉じ気味の人がいる。それによそ見の場合、フクロウタイプとトカゲタイプの2タイプがある。前者のフクロウは、身体全体を動かす。後者のトカゲタイプは目だけを動かすケース。この両タイプを見逃さず、しっかりカバーしないとダメなんです」
意外だったのは、日本で頻発しているペダルの踏み間違いによる暴走事故。MT車が多い欧州では数が少ないが、それでもこれを防ぐ誤発信防止装置付きの場合、欧州でも加点されるという。
クルマのアクティブセーフティもパッシブセーフティも、いわばモグラ叩きみたいなもので、人間の行動工学、物理学、力学などを総動員して展開されている。
リモートでの会議では、チャイナNCAPのスタッフから、中国のユーザーのなかにはせっかく取り付けられた安全装置、たとえば車線逸脱防止装置を雑音としてキャンセルしてしまうドライバーもいるという報告。いかにも中国だと思いきや・・・・かつて日本でも、シートベルト義務化のとき、煩わしいとして付けないドライバーがいたのと似ている?! 啓蒙活動も必要なのだ。
なお、一番の注目は、この世界のクルマの安全アセスメントをリードするユーロNCAPの評価方法(レーティング法)が、4年後の2026年からフルチェンジされる点。従来、「大人の乗員」、「子供の乗員」、「歩行者」、それにシートベルト・リマインダーなどの「安全装置」、この4つの積算(実際には対数を使い複雑だが)で評価された。
これが、「安全運転指数」「衝突回避」「クラッシュ防御」それに「衝突後の安全確保」の4つの箱で、評価されることになるという。障害予防の分野でポピュラーに使われているハドン・マトリックスのパラダイム。おそらく、これまでアメリカのIIHS(ハイウエイ安全保険協会)とNCAPは少し乖離していたところがあった。評価基準を近づけることで、グローバルでよりやすくしていくというのが狙いらしい。アンドレさんは、「あまり大きく変わらないようにしたい」というが、これからの電動化、自動運転化に向け、クルマの安全評価も大きな曲がり角に来ているといえる。
クルマという乗り物が誕生して以来、数多くの自動車に携わった人間がいる。そのなかで、ホンダのF1の元監督だった中村良夫さん(1918~1994年)ほど名著といえる多くの書籍を残したエンジニアはいないと思う。多くのエンジニアは、どうしても取扱説明書に限りなく近い唯我独尊じみた文章に終始しがち。
中村さんは早逝した医師の息子だった一方、明治維新の息吹を吸い込んだ祖母の薫陶を受けている。若いころ旧制中学で文芸書をはじめあらゆる分野の書籍を乱読したという。明晰で分かりやすく、しかも本質を突いた文章の背景は、そこにあったと思われる。
大正7年、1918年生まれの中村さんは、いわゆる戦中派だ。太平洋戦争開戦時ちょうど30歳代の働き盛り。
東大工学部航空学科を卒業後、中島飛行機に入り、すぐ陸軍航空技術中尉となり例の富嶽に載せる超弩級の星型36気筒エンジンなどの開発に携わる。が、1945年8月15日の終戦で無職となる。当時誰もが“徒手空拳のひと”になったとはいえ、精神的に激烈な衝撃だったに違いない。
終戦から4年目の昭和24年大学の恩師の紹介でトヨタ自動車への就職が決まりかけた。戦後の混乱期の当時、いまでは想像もつかないほど、食べることと住まいを確保することが最重要事項だった。住居も合わせて準備しての就職だと信じていた中村さんは、面接担当の人事部長が「君のために家を探している暇などない」といわれ、若い中村さんは、つい“若気の至り”で席を立ち帰ってしまった。
その後中村さんはホンダに入社することになるのだが、トヨタの人事部長とのほんのわずかなボタンの掛け違いで、トヨタは優秀な人材を逃したことになった。
このエピソードも面白いのだが、もうひとつそれ以上に驚く話がある。
トヨタの面接の少し前まで、実は中村さんは、乳母の嫁ぎ先でもある地元山口の宇部にある蒲鉾屋にいっとき技術者として席を温めている。その蒲鉾屋、蒲鉾などの製品を作り出す自動採取機の機械などを輸出販売していて、ネットで検索すると現在も宇部で㈱ヤナギヤという社名で社員150名ほどを要し、パリにも事業所を持つ中堅企業。
中村さんの自伝(1994年刊)に、この当時のことがリアルに描かれている。
当時、そもそもすり潰し機製造の鉄工所を併設していて、創業者の柳屋元助さんは、魚肉をすり下ろす擦り潰し機を模索していたという。皮と骨と内臓を取り去った魚肉に、当時メリケン粉と呼んでいた小麦粉と調味料を混ぜて、細かな練り物にしてしまう機械。この機械でできたすり身を板に盛って焼けば蒲鉾になる。成形して油で揚げればサツマ揚げ(山口ではテンプラと称した)になり、筒状にして焼けばチクワになる。
中村さんが造り上げたのは、回転式自動採集機と呼ばれるもので、魚を2枚に降ろし、内臓を取り皮と骨を除去して、魚肉だけを残すというマシン。創業者の元助さんの経験を十分に取り入れたオリジナルマシンだったという。この機械はその後少しずつ改良され(写真は現在のタイプ)、いまでも国内やアジアだけでなく、アメリカやヨーロッパにまで輸出しているという。さかなクンではないが、まさに“ギョギョギョ”なエピソードだ。
中村さんは死の2年前、この自伝を書き上げているのだが、この中で「戦後わたしが情熱を傾けてやってきたクルマ産業は、1994年現在、戦後の日本経済のバブル崩壊とともに大きく崩れ始めているのに、私がほんのお手伝いのつもりでやった柳屋の水産加工機はほとんどそのままの形で、いまや日本食ブームとともに世界中に輸出されている」。
つまり30年近く前、中村さんは、すでに日本の自動車産業に暗い影が覆い始めていることを強く感じていたのである。
先日、TVをなんとなく眺めていたら、ダイマクション・カーの動画がちらっと登場していた。
「世界を変えた愚か者」というタイトルでのNHKのドキュメンタりー番組。iPhoneをはじめ数々の製品開発で日常生活をガラッと変えたスティーブ・ジョブズ(1955~2011年)。それに現代のレオナルド・ダビンチともてはやされる一方、無能呼ばわりすらされた思想家で発明家のバックミンスター・フラー(1895~1983年)。この2人を描くことで、そもそも人の幸福はどこにあるのか? この永遠のテーマを問いかけるヒューマンドキュメント(というと軽くなるが)。
フラーについては、日本ではあまり注目を浴びていない。でも、富士山頂の気象レーダーの建屋として35年間使われたジオデミック・ドームと呼ばれる独特の構造物、これを発明した人物と言えば気付く人も多いハズ。幾何学的に最も理想的なトライアングル形状。3角形が支え合い高い強度で広い空間を実現したジオデミック・ドームは、シェルターや格納庫など米軍事施設でまず採用され、そのあと地球上の様々なところでつくられ、いまも活用されている。
フラーはこれ以外にも、家の掃除が15分で終わるダイマクション・ハウスとか、陸地などのカタチのゆがみが少なく、地球本来の東西南北を意図しない地図であるダイマクション・マップ。それに1933年に登場したダイマクション・カーの発明が連想される。ダイマクション(Dymaxion)というのは、「最小のもので最大をなす」というフラー独自の造語。ユニーク度は満点だが、ジオデモック・ドームをのぞき、彼の発明した発明品は、いずれも量産化されることなく歴史のかなたに消えてしまった。
だが、消えてしまった発明品のひとつ、近未来車ダイマクション・カーはいま振り返るとみるべき点が多い。
このクルマは、エアロダイナミックシェイプで丸みを帯び、1ガロンで30マイルを走れるエコカーがひとつのスローガン。前輪2輪、後輪1輪の3輪車なので、最小回転半径は劇的に小さく超小回りが利く。定員11名。最高速時速120kmを謳ったが、実際には時速140kmを出すのが精いっぱいだったという。エンジンは、フォードのV型8気筒86PS。フラーは、最終的にはこのクルマで空を飛ぶことを夢想していたともいわれる。
世の中にないものを生み出そうというパイオニアは常に悲劇が付きまとうもの。
このクルマも1933年のシカゴ万博に出品し、デモ走行中にほかの車に追突され、不幸にして乗員らはケガを負い、ハンドルを握っていたレーサーが死亡するという事故に見舞われた。ボディの強度不足が疑われる事故だった。これでミソが付き投資家が引き上げ量産までには至らなかった。ちなみに、試作車3台のうち1台は現存し、ネバダ州のリノにある国立自動車博物館のハラーズコレクションに収まっているという。
フラーは、1960年代いち早く“人類と地球の調和”を唱えた思想家。その彼の考えで1968年に「全地球カタログ」がつくられ、その分厚いカタログは、当時のヒッピーたちのバイブルとなった。日本でも出版され、ブームを起こしている。若いころのジョブズが、このカタログをいつも持ち歩き生きる羅針盤としたことで、やがてスマートフォンを生み出す。ジョブズが晩年にスタンフォード大学での演説“STAY HUNGRY 、STAY FOOLISH”(現状に満足せず、常識に牙を抜かれるな)の言葉とともに、フラーとジョブズの共通した生き方への影響力は、いまも強く若者に伝わっている。
ボディと内外艤装部品は、特装車の製作やモータースポーツの部品作りを得意とするトヨタテクノクラフトに任せることにした。
図面があっても、当時はカラー写真がないため、シートやカーペットの色合い、触感が掴めずずいぶん苦労したという。でも、これも、当時製造にかかわったOBが存命で、彼らから50年の時空を超え、鮮明に記憶している情報を授けられた。
エンジンは、お手本にしたシボレーのOHV6気筒が載るシボレー1934年型を博物館が1986年に1台入手したので、いろいろな疑問が解消したという点もラッキーだった。
たとえば、オイルフィルターの図面が見つからず、疑問を抱いていたのだが、よくよく調べてみるとこのエンジンにはフィルターがなく、ストレーナーでオイルの不純物をろ過するというシンプル構造であることが分かった。OBとのインタビューで裏もとれたという。
ワイパーは、電動タイプではなく、バキューム式のアクチュエーターを使いエンジンのインテークマニホールドで発生するバキューム(負圧)を活用する手法。ゆえに車速が早まると、ワイパーの動きが逆に遅くなるという。これは輸入品で、調べてみると、現在もアメリカの部品業界では新品が在庫していたという。旧いクルマを大切に使うというアメリカ・クルマ社会の一面を見せられ、驚いたという。
面白いのは、スイッチ直付けのテールランプだ。普通テールランプは運転席付近にあるのだが、当時は、自動車取り締り令という法律で「後面灯火は運転席から消灯できないように装置すること」となっているので、ランプを消すには、ちくいちクルマから降りなくてはいけない。これは、もし運転手が違反を犯したとき、ランプを消して姿をくらます恐れがないように、そんな仕組みにしたというのだ。なんとも時代を感じさせる法律と装置であった。
こうしてAA型乗用車のことをあれこれ調べてみると、単に外国車をお手本にしただけでなく、喜一郎をはじめとした当時の開発者が、自分たちの頭脳と技術で創意工夫を凝らしたことがわかる。日本の国情にあった乗用車をつくるという大きな目標に向かい、チカラを合わせ一丸となって一歩一歩挑戦を繰り広げた、そんな証がAA型に他ならなかった。
AA型の写真や資料を眺めていると、時空を超えて、そんな人々の声が聞こえてくるようだ。
トヨタ自動車創立50年記念でトヨタ博物館をオープンする前の1986年、トヨダAA型を復元させている。豊田喜一郎が心血をかたむけ、作り上げたAA型を博物館の大きな目玉として、展示したいという強い意思があったからだ。
技術部に話が持ち込まれ、ある程度見込みがついた。そして復元計画がスタートして約1年で、トヨダAA型が復元といえども、その姿を見せた。約1年がかりの艱難辛苦が展開された、と当時担当者のひとり小島道弘氏(トヨタ自動車第3開発センター所属)が、数々のエピソードを残している。そのひとつを紹介してみよう。
復元の話が持ち上がったとき、一番懸念されたことは「当時の図面が残っているか?」という点だった。幸いにもある程度は見つかった。ところが大物部品のエンジンのシリンダーブロックやリアアクスルのハウジング、デフケース、フレーム、室内のシート、内張関係類が見当たらなかったという。
そこで、日本国内の探索はもとより、当時満州国へも数十台出荷されたことを把握し、藁をもすがる思いで、韓国や中国にも探索の手を広げた。結果としては、無駄骨だった。まさに前途多難とはこのこと。担当のエンジニア陣はいちように暗い表情を隠し切れなかった。
だが、別のルートから明るいニュースが飛び込んできた。シャシー設計の担当者から、古い図面の入った段ボール箱が書庫の片隅で見つかったというのだ。さっそく開封してみると、シリンダーブロックやシリンダーヘッドなど欠けていた図面の大半が、出てきたのだ。
図面はインチ表示で、現在のmmではない点、それに現在「3角法」と呼ばれる図面だが、当時は「1角法」という、上下左右が逆になる図面の描き方などの違いがあり、復元する側としては大いに戸惑いがあった。約70年の時空の遠さを感ぜざるをえなかった。
トヨタのモノづくりで、イの一番に思い起こすのが「ジャストインタイム」である。
生産過程において、各工程に必要な部品やモノを、必要なタイミングで、必要な量と数を供給することで在庫(つまり経費ともいえる)をとことん減らして生産活動を行う生産技術。別名「トヨタ生産方式」。アメリカではジャストインタイムの頭文字を取りJIT(ジット)と呼ばれている。この生産方式を支えているのが、カンバンと呼ばれる「生産指示票」であるので、「カンバン方式」(写真)ともいわれる。
この生産方式は、戦後具体的に実を結ぶのだが、もともとは喜一郎が当初から彼の頭にあったものである。昭和13年(1938年)拳母工場完成の際に記者のインタビューに答え、こう返答している。原文は文語調なので現代語に直してみると。
「自動車工場の場合においては、材料が非常に重要な役割を持っています。部分品の種別だけでも2000~3000種に及びますが、それらの材料や部分品(部品のこと)の準備やストックはよく考えてやらないと。いたずらに資本にものを言わせどんぶり勘定でおこなうと、完成車の数が少なくなります。私はこれを“過不足なきさま”、換言すれば所定の生産に対して余分の労力と時間の無駄を出さないようにすることを第一にしています。部分品が移動し循環していくことに対して、“待たせたりしないこと”です。“ジャストインタイム”に各部分品が、整えられることが大切だと思います」
これは、中岡哲郎氏の『近代技術の日本的展開』という本の中に出てくるのだが、サブタイトルが「蘭癖(らんぺき)大名から豊田喜一郎まで」。蘭癖とはあまり聞きなれない言葉だが、江戸期蘭学にひどく傾注した、いわゆる西洋かぶれをした人のことを、いささか皮肉ってとくに幕末水戸藩の攘夷派あたりが使った言葉。もとは、18世紀初頭の吉宗時代の享保の改革で、洋書の輸入が緩和されたことがきっかけになっている。日本人のモノづくりへのまなざしは、およそ300年前から、いまに続いているようだ。
ところが、歴史の不思議さというべきか、退陣表明したわずか20日後の1950年6月25日、朝鮮動乱が起きた。自由主義陣営のアメリカと共産主義陣営の中国とロシア。この東西対立が日本の近くである朝鮮半島で、火を噴いたのだ。ここから約3年にわたって展開された朝鮮戦争である。
経済的に疲弊していた隣国日本は、アメリカ軍のロジスチックス的役割を演じることになる。いわゆる戦争特需といわれるほど日本の経済が動き出し、それにつれて景気が良くなり、敗戦国日本の復旧につながったのである。トヨタも、この戦争特需により、トラックの増産と修理などの仕事が増加し、いっきに経営が改善された。具体的には、1950年7月から翌1951年3月のあいだに4679台のトラックの受注がきた。金額にすると約36億円で、これを期にトヨタ自動車は持続的成長軌道に乗るのである。
もちろん、戦前戦時中のような、高度な技術を性急に求める軍の介入が、戦後には完全に消えたことが大きな成長を支えたといえる。宿痾だった“くびき”から解放された。モノづくりの成長は、人の成長と同じで、門外漢である組織(軍)があれこれ指示を出してよくなるものでは、断じてないことがよくわかる。自立した組織である企業が、英知と努力で一歩一歩積み上げていくものなのである。
労働争議が一段落すると、喜一郎の現場復帰を要望する声も大きくなった。ところがその矢先、喜一郎は、病に倒れ、58年の波乱万丈の人生に幕を下ろしたのである。1952年3月27日のことだった。
喜一郎がなくなって3年の月日がたった昭和30年1月1日、トヨペット・クラウンが誕生した(写真)。このクルマこそ喜一郎が宿願としていた100%メイド・イン・ジャパン、本格的国産乗用車なのである。
トヨペットSA型乗用車は、隈部一雄の趣味性が投影され、当時としては意欲的なハイメカだったが、はたせるかな営業的には失敗だった。わずか200数台しか売れなかった。
そこで1948年4月4ドア版のSC型が作られたが、悪路での足回りをめぐるトラブルは解消できなかった。販売不振の背景には当時はまだ』オーナーカーが育ってはおらず、大きな市場であるタクシー業界で使われなければ量産ベースにのらない、という厳しい現実があったからだ。
1949年10月にようやく乗用車の生産制限が解除されはしたが、悪性インフラが進み未曾有の不景気が襲いかかり、製造業を中心に倒産が相次いだ。いわゆるデトロイト銀行の取締役でGHQ財政顧問が来日し、急激なインフレ克服策を取ったため、いわゆる「ドッジ不況」が起きたのだ。
こうしたなかで、トヨタも例外ではなく、資金繰りに苦しくなり、倒産寸前とまでいった。労働者側との交渉が難航し、2か月にもおよぶ労働争議が展開された。1949年11月から翌1950年3月にかけて、7600万円(現在の貨幣価値で約30億円)の赤字を計上。対応策として1600人の希望退職者を募集、残留者は10%の賃下げを中心とする経営合理化案を提示。
組合は当然これを認めず、1950年4月11日の1日ストを皮切りに、4月10日から7月17日まで36回におよぶ団体交渉がおこなわれた。つまり再建策として、一部工場の閉鎖、希望退職者による人員整理と引き換えに、喜一郎も退陣せざるを得なくなった。
全生涯をかけての自動車づくりから身を引く喜一郎のそのときの気持ちを想像するに・・・・察するに余りある。浪花節的表現だが、これって花が開く前に、身を引くつらさ。このとき副社長の隈部一雄も身を引いている。
昭和20年8月15日、日中戦争から太平洋戦争、のべ15年にわたる長かった戦争がようやく終息を迎えた。
日本は、ポツダム宣言を受け入れ、無条件降伏をしたのだ。敗戦国日本は、マッカーサーを頂点とするGHQのもとに国を運営する隷属国となり、自動車の生産ばかりでなく工業製品の政策は、その支配下に置かれた。物資不足という現実も重くのしかかった。
だから、日本の自動車メーカーは唯一許可されていたトラックとバスをわずかばかり生産し、文字通り汲汲としていたのである。トヨタも例外ではなかったが、喜一郎は、遠くない将来再び乗用車生産の日がやってくる、そう見通しを立て、いち早く小型乗用車の開発に乗り出していた。
終戦後わずか半月の時点で、大学時代の友人の隈部一雄(1897~1971年)をいまでいうプロジェクト・リーダーに立て、ハイペースでの開発に着手している。これが「トヨペットSA型乗用車」(写真)である。
2ドア・ファーストバックの意外と垢抜けしたスタイル。FR方式の駆動、日本初の鋼板バックボーンフレームを採用。フロントウイッシュボーン、リアがスイングアクスルの4輪独立懸架。
ブレーキは前後ともドラム式だが、油圧制御。S型と呼ばれる4気筒エンジンは、水冷サイドバルブ式995㏄ 27PS。AA型がOHVだったので、サイドバルブと聞くとずいぶん後退したメカニズムの印象だが、構造がシンプルで部品点数が少なくて済み、しかも当時は道路事情が悪く、ほこりがエンジン内に侵入し、エンジンのシリンダー内のライナー交換はさほど珍しくなかった。そうした作業性でもSVは断然有利だった。
たしかに車両重量940㎏に対して出力が低く最高速も時速87キロとダットサンなどに比べ劣った。3速マニュアル・トランスミッション。クランクシャフトを当時としては3つのポイントで支える耐久性の高いメカニズムといえる。
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