スズキの海外戦略については、1980年代のGMとの提携が思い起こされる。
当時の経済記者は「巨大なGMに東洋の弱小メーカーであるスズキはいとも簡単に飲み込まれるのがオチ…」と大いにその提携に危惧を抱いた。ちょうどアルトのヒットで社業が好調な時になぜあえてそんな挑戦をするのか? そんな心配もあった。だが、鈴木修社長は、GMとの提携を北米への足掛かりにしたいだけでなく、「技術面で一流メーカーの教えを請いたい」という思いだった、と振り返る。
GMにとってもコンパクトカーをラインナップに加えたいという狙いがあり、スズキとの技術提携は、悪くない話だったようだ。こうして誕生したのが「カルタス」(写真)である。
1984年にデビューし、北米にも輸出された。アメリカではシボレー・スプリント、ポンティアック・ファイアーフライという車名で販売された。スズキの4輪車が北米大陸の地を踏んだ最初である。筆者も北米取材でレンタカーとして数日間を共にしたが、チープ感が強く、正直あまり出来のいいクルマではなかった気がする。いまから見ればスズキの小型車生産のきっかけが、カルタスだった。
カルタスは、その後90年代中頃まで活躍し、95年にカルタス・クレセントという名称となり、2000年にスイフトにバトンタッチするまで販売。15年間にわたり、スズキの登録車の代表選手として名を挙げたのである。
1970年前後から始まった排ガス規制は、世界の自動車メーカーの喉元に、まるで刃を向けるような厳しい規制だった。
後から振り返れば、確かにエンジンの燃焼という、これまでお金を投入して、あまり真剣に研究されてこなかったサイエンス(燃焼のメカニズム)を深く考えざるをえなくなり、その後の燃費向上に大きな足掛かりを付けた功績はある。だが、どこのメーカーもニューモデルの開発や新しいエンジンの開発など本来向かうべき方向性を大きく狂わせられ、足踏みを余儀なくされたという側面があった。
スズキの場合は、このEPICエンジンの開発に結果として失敗したことで、「屋台骨が揺らぐほどだった。アルトのヒットでなんとか盛り返したが……」(鈴木修氏)という。少なくとも4ストロークエンジンの開発に大きく後れを取ったのである。軽自動車の新エンジンK6Aエンジンが登場するのが1994年、その後継エンジンR06Aエンジンがデビューしたのが2011年である。ちなみに、このEPICエンジンの話題は博物館のどこにも見当たらないのは残念だ。負の遺産として、後輩たちへの良きアドバイスになると思うのだが、そうした振る舞いができるにはもう少し時間が必要なのかもしれない。
スズキのEPICというのはエグゾースト・ポート・イグニッション・クリーナーの略である。排気孔点火浄化装置。当時のスズキのエンジンは2ストロークエンジンが主力ということで、2ストローク専用の排ガス装置として当時はかなり注目されたものだ。
2ストロークエンジンは、4ストロークエンジンのように排気バルブを持たずに排気孔(エキゾーストポート)という穴を設けている。そうしたエンジンの構造上、4ストロークに比べ、NOⅹこそ少なく、COはほぼ同等だが、HCの排出がやたらに多くなる傾向にあるエンジンだった。早い話生ガスのマフラーから出るのである。
そこで、この排気から出る生ガス(HC)を燃やすためにエアポンプをつけ、さらに排気付近に2本目のスパークプラグを取り付けて燃やすというものだ。簡単に言えば、後燃焼、つまりアフターバーン方式で、燃費の悪化は避けられず、チューニングも難しいという側面があった。辛辣な言いかたをすれば、「苦しまぎれの排ガス浄化システム」であった。
低価格車戦略を打ち出したアルトの成功は、1979年(昭和54年)である。
スズキには、その前に長いトンネルをくぐる時代があった。1970年代初頭から社会問題化し始めた排ガスの問題である。クルマのテールパイプから出る排気ガスをよりきれいなものにするべく決められた法律は、いまでこそほとんど社会問題化されてはいないが、当時は、自動車産業を長い期間、大きく揺さぶる大事件だった。
アメリカのマスキー上院議員から提案されたマスキー法案(大気浄化法)は、一酸化炭素CO,炭化水素HC,窒素酸化物NOⅹの排出を段階的に抑制するというものである。1972年にホンダが発表したCVCCエンジンは今でもその厳しい排気ガス規制をクリアした輝かしい第1歩としてことあるごとに追憶され、記憶をよみがえらせるが、その陰で数多くの排ガスメカニズムが消えていった。
そのひとつが、スズキのEPICエンジンである。2ストロークエンジンのスズキ独自の排ガス浄化システムだった。
当時、専務だった鈴木修は、従来コンセプトで売り出そうとしていたクルマを1年間凍結。「もっと安く、もっと軽く、常識破りのクルマを作ろう」という合言葉のもと、コストカット! 徹底した工程の合理化と部品削減を断行。本当にお客様の欲しがるクルマ作りを練り直した。コストカッターといえば日産に乗り込み大ナタを振るったものの、トヨタの章男社長の3倍の10億円という年収を受け取るカルロス・ゴーンを思い浮かぶが、修氏の年収は同じ頃、2億円を切ったそうだ。
横道にそれたが、とはあれ・・・生まれたのがアルト。「全国統一価格47万円」という当時としては中古車並みの価格だった。当時はたとえば北海道のユーザーは輸送代5万円前後を払わなくてはいけなかったのだが、これを全国統一価格にした。それだけでなく、当時3~4グレードほどあったランクを1グレードにして量産性を高め、そのぶんコストを下げた。助手席のリクライニングシートを廃止するなど徹底した工程の削減と部品点数の削減をおこなった。
4ナンバーの貨物扱いで税金も少なくてすんだ。生活の足を求めていた消費者の心をつかみ、アルトはあっという間に月販1万台を軽く超え、ベストセラーに躍り出た。
以来アルトは、スズキの看板商品となり、デビューして30年で、世界規模で累計1000万台を達成。このアルトの成功でスズキはバイクメーカーから4輪車メーカーへの基礎固めができたのである。
社内では「せいぜい売れても年間150台ぐらい!」そんな悲観的というか、他人事めいた声があるなか、軽自動車初の本格4輪駆動車のジムニーは、1970年4月デビューした。価格は47万8000円。ルーツであるホープスターにくらべ、20万円も低価格のプライスタグが付けられての登場だった。
ニューモデルが、売れるか、売れないかを見通すことができる、水晶の球はどこにもありはしない。ところが、このときばかりは、鈴木修は、未来を予測できる水晶の球の持ち主だったかもしれない。大方の予想を裏切り、大ヒットとなったからだ。ラダーフレームのパートタイム4WD,前後リジッドサス、こうした硬派のメカニズムが受けたのだ。2年後の1972年5月には、月産2000台を記録したのだ。
どの大手自動車メーカーも手掛けていなかった市場に大きな需要が眠っていたのである。新しい鉱脈を掘り起こしたようなものだ。しかも1975年パキスタンでも生産されるなど、わずか30年で世界累計販売台数200万台を達成している。ジムニーはスズキの立派なブランドの一つになったのだ。2018年、8月現在グローバルで290万台に迫る勢いなのである。あまり言われないが、ジムニーのような車は、モデルチェンジを繰り返さないので、実は儲けが少なくないのである。※スズキの4輪セールスで輝かしき歴史を持つのは、アルトである。
「さわやかアルト47万円」で1979年衝撃のデビューを果たし、女性の社会進出を後押しした初代アルト。実は、このアルト誕生にもジムニーのデビュー物語と肩を並べるほどの、大いなる秘話がある。
排ガス規制とオイルショックでクルマが売れず、青息吐息の時代。軽自動車の規格枠拡大、小型車との価格差が小さくなり、軽自動車の存在意義が薄れつつあった。そんな時あえて……なのである。
前回お話したとおり、当時、修は正真正銘の自動車メーカーの社員なのだが、4輪駆動というクルマのことがわからなかったと、恥じることなく自伝で告白している。「クルマなら車輪が4つあるのだからみな4輪駆動だと思っていた。2輪駆動というのはオートバイのことだと…」(注:2輪駆動のオートバイもありません!)
でも、その4輪駆動車が傾斜のきつい富士山をトコトコ登る8ミリ映像を見たことで、「4輪駆動車というのはすごいものだ!」と、まるで子供のように無邪気な気持ちで感動したというのだ。
その気持ちが即座に「ビジネスチャンスだ!」ととらえるところに、修の非凡さが光る。
「これからはレジャーブームが来る!」そんな予感が電流のようにからだを走ったかもしれない。
だが、当時のスズキの技術陣は何やら危うさを感じ取っていたようだ。そもそも軽自動車の本格4WDは存在しなかったのだから、理詰めでモノを考える人と修の価値観が合致するわけがない。
修は、技術陣の反対を押し切るカタチで、このクルマの製造権を買い取り、大幅な設計変更を加え、市販することにしたのだ。もちろん、製品として煮詰める段階では、修は技術陣の考えを取り入れたに違いない。
ドライブトレインは前後が強靭さを誇るリジッドサスペンション、16インチホイール、2速タイプのトランスファーなどJEEP同様の本格的なメカニズム構成。キャリイ用の2サイクル2気筒360㏄エンジンとトランスミッションを組み合わせた。こうして軽く、走破性の高い、スタイリングも魅力的な4輪駆動を仕立て上げた。ネーミングは「ジープのミニ」ということで『ジムニー』としたのである。かつて修は、「チョイノリ」というバイクを命名したことがある。このときは成功とは言えなかったが、『ジムニー』は、成功したから、そう感じるのかもしれないが、よくできたネーミングだ。
現会長の鈴木修(現在88歳)が、常務の時代アメリカ支社から日本に戻り、東京支社駐在を命じられたちょうどそのころ、人脈を深めるべく様々な人と出会っていた。本人に言わせると「不遇な時代」だったようだ。早い話、干されていたのだ。人は不遇のときどんな時間を過ごすかで、その後の運命が違ってくる。修の場合は、とにかく異業種の人たちにどんどん会いに行ったという。そのとき、たまたま面白い人物と遭遇している。
修より9歳年上のモノづくりの工場経営者。
聞けばおもに遊園地向けのアミューズメント・マシンを作る下町の小さな工場で、4輪駆動の面白いクルマを作っているというのだ。それがホープ自動車の開発した「ホープスターON360」だった。社長はアイディアマンの小野定良さん(1921~2001年)。修とはすぐ気が合った。
もともと“不整地万能自動車”として開発されたこのクルマは、スズキのキャリイが29万円だった時代、他社のエンジン(三菱製2ストローク2気筒)を載せ67万円で販売していた。価格が高いこともあり、わずか15台が市場に出回っているだけの超マイナー車両。しかもエンジン供給が途絶えていることもあり、ほとんど知られざるコンパクト4輪駆動車だった。
修は、この小野さんという男に惹かれるとともに、不整地をものともせずに走ることができる小さなクルマに魅せられた。自伝でも書いているが、恥ずかしいことに、自動車メーカーに身を置きながら、2輪駆動と4輪駆動の区別がつかなかった。だからこそなのか、富士山の八合目までグイグイ登る、この小さな車に過剰に魅せられたのかもしれない。(写真は1970年にデビューした初期型ジムニー)
鈴木修の故郷下呂温泉は、名古屋から約100キロの地。
有馬温泉や草津温泉とともに日本三大温泉の一つとして有名だ。調べてみると昭和6年、岐阜から富山を結ぶ高山本線の開通に合わせ、湯ノ島館という巨大温泉施設を2年がかりで造り上げている。筆者も一度だけ日帰り温泉で利用させてもらったことがある。いまでも、この旅館は見事なもので、総工費100億円、延べ6万人で造ったいわば巨大リゾートは中京の実業家の癒しの地として計画されたものだ。中京の軽井沢を目指したもので、人気を博したころはテニスコートも備えていたという。
この温泉施設建設プロジェクトの中心人物が、靴の有名ブランド「マドラス」などで成功した2代目岩田武七(1884~1948年)。私財を投じてのちの愛知県立旭丘高等学校の前身である名古屋市立第3高等女学校の創設に尽力した。
初代岩田武七(1847~1915年)は、明治41年に蒸気自動車を輸入し、名古屋初の乗り合いバス事業に乗り出した人物。日本初の乗合自動車を運行したとされる京都の「山羽乗合蒸気自動車」(写真)のころである。岩田武七のこのバス事業は、車両の故障が頻発し、あえなく失敗している。山羽虎夫の作った乗り合いバスもタイヤのトラブルなどで運行が上手くいかなかったようだ。こう調べてみると、見えない糸でつながっている気がしないでもない。
愛知県豊川市にスズキ初の自動車工場建設の一つのキッカケは、じつは2年前1959年9月の死者行方不明5000名余りを出した伊勢湾台風であった。
筆者もこの夏休み明けに起きた、未曾有の台風被害はよく覚えている。クルマで30分の海岸寄りの地域が高波と台風で、根こそぎ被害を受け、当時普及しはじめたTVのブラウン管が無残に泥をかぶっている写真が衝撃的だった。
この台風でスズキの工場も大打撃を受け、新工場の建設が持ち上がったのである。1961年1月に「建設準備員会」が発足した。
この委員長に任命されたのが当時30歳の鈴木修(現会長)だった。修は、下呂温泉で有名な岐阜県下呂市に生まれ中央大学法学部卒業後、銀行勤務を経て1958年、28歳のときスズキに入社。2代目社長の鈴木俊三氏の娘婿である。1978年から社長になるが、それまでの売り上げ3000億円台だったのを30年間で3兆円企業に育て上げた男である。
若き日の修は、悩んだすえ準備員会のメンバーを平均年齢27歳の係長以下9名に決め、急ピッチで生産設備と建設工事を同時並行で進めている。スタートから8か月後の8月工場が完成し、ボディの塗装から組み立てまで一貫連続工程で生産できる当時としては最新設備を誇る工場となった。
ちなみに1957年、道雄は娘婿である鈴木俊三(2代目社長)に社長職を譲り、相談役に就任する。
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