試作車は、途中マフラーに堆積物がつまりパワー不足に陥るも、いまでは保安基準上ありえないが、マフラーを取り外すことでなんとか東京にたどり着いた。そこで梁瀬自動車(現・ヤナセ)の柳瀬次郎社長に試乗してもらい太鼓判を押された。
これで自信を持った経営陣は、量産の決意を固め、1955年10月、「スズライトSS」という名でデビューした。実は、このクルマ、日本初の軽4輪乗用車なのである。スズライトの頭2文字「スズ」は、スズキの略であり、「ライト」は軽いという意味のほかに、「光明」という意味をにじませたという。
エンジンは2サイクル2気筒、359㏄15.1PSで価格は42万円だった。
余談だが、三重県にある筆者の自宅近くの整体師のご主人が、このクルマを購入し、乗っていたのだが、いつしか駐車場に長く留め置かれた状態になっていたのを思い出す。後知恵から想像すると、ドライブシャフトか何かの不具合が起きて、動かなくなった可能性が高い。当時まだドライブシャフトのキモである等速ジョイントの技術が、未完成だったからだ。
こうした課題を克服して、その後21PSのスズライトTL(写真),フロンテ、キャリイの成功に結びつく。
「人も金もないときこそやって価値がある」そんな鈴木道雄初代社長の言葉ではじめた4輪車の開発がようやく実を結んだのである。1961年には、愛知県の豊川市にスズキ初の本格的な自動車量産工場を建設している。
昭和30年ごろ、エンジンを前に置き、駆動輪をリアとするFR(フロントエンジン・リアドライブ)レイアウトが常識だったが、スズキはあえてFF(フロントエンジン・フロントドライブ)方式を採用した。
VW,ロイトLP400、シトロエン2CVなどを購入し、事前に徹底的な分解・研究をおこない、シャシーにエンジンを載せただけのものだが、3ヵ月後には試作車を完成させている。≪2サイクル2気筒エンジン、排気量360㏄,FFレイアウト≫というコンセプト。ロイトLP400に強く影響を受けた試作車だった。
軽自動車用の部品はもちろん、それを作る専用の工作機械もない時代。溶接や板金作業も人の手が頼り。トライ&エラーの連続で研究室はいつしかシリンダーブロックの山ができたといわれるほど。それにテスト基準も何もあるわけではなく、ただ走るかとまるか、折れるか壊れるかの繰り返し。失敗の山を積み重ねていったという。
休日も返上して、こうしてまともに走る試作車2台が完成し、箱根登坂テストを兼ねて、東京まで試走する。いまでは想像できないが、当時のクルマは、全山砂利道の箱根の山坂を満足に走れるかどうかが大きな課題だった。(写真は、試作車の箱根登坂テスト。真ん中の黒いスーツ姿が鈴木道雄初代社長。「歴史写真集・スズキとともに」から)
念願の自動車の開発は、1954年(昭和29年)、つまり国産車トヨタ・クラウンが完成する前年。
当時東京の街中で見かけるコンパクトカーは、ノックダウン後に国産化となるオースチン1200、ヒルマン1400、ルノー750あたりで、日本車と輸入車の技術的な格差は、目を覆うほどの開きがあった。
とはいえ、この年に試作車の製作にこぎつけ、本格的バイクの販売も重なったこともあり、鈴木式織機という社名から「織機」の文字が消え、新たに「自動車工業」の文字が追加され、「鈴木自動車工業株式会社」となった。ここから、スズキは2輪と4輪の製造に邁進することになる。
思えば、「パワーフリー号」(空冷2サイクル・排気量36㏄)をはじめスズキの戦後の復興は、2輪車への積極的なチャレンジだった。安定成長を求める大半の経営陣や銀行筋の反対を押し切り1954年、スズキは平均年齢わずか27歳のエンジニア6名で4輪車の開発に乗り出した。大いなる挑戦だった。
ダイヤモンドフリー号の販売好調に気をよくして、翌1954年には、本格的なオートバイ、つまり2輪の完成車を発売している。エンジンは、4サイクル単気筒90㏄で2PSを発生。このエンジンは、OHVではある。エンジンについては、戦前に購入し、研究した英国製オースチン・セブンの反映だとされる。
7リッター入りのティアドロップ型の燃料タンクをはじめ、車体回りは当時としてはとても洗練されたデザインだった。自動進角装置の付いたフライホイール・マグネット点火方式を採用し、国産量販車としては初のスピードメーターを備えていた。車名の「コレダ号」(写真)は、「オートバイはこれだ!」といういささか人を食ったネーミングだった。(スズキはそののち短絡的というか、わかりやすいというか青山のホンダから見ると奇妙なネーミングの製品を世に送る傾向がある)
とはいえ、コレダ号はそののちスズキの代表的バイクのブランドとなり、1961年には、「コレダ250TB」(価格は17万5000円)というスポーツタイプのダブルシート、バーハンドル、メッキフェンダー、後端を絞ったテーパーカットマフラーなどを採用し、人気を博している。エンジンは2サイクル2気筒で246㏄20PSだった。
パワーフリー号は、競合車にくらべ安かったこともあり、翌年には月産4000台をかぞえ、織機ビジネスの不振を打ち払う以上の利益をもたらしたのである。
実は翌年の1953年「ダイヤモンドフリー号」を市場に投入している。
これは排気量をライバル車同様の60㏄として、要望に応えたのである。ダブル・スプロケット・ホイール式の駆動システムもウリだった。価格は3万8000円。当時、エンジン付きの自転車はトラックの代用品としてときには200kgもの荷物を載せて走ることがあり、それには排気量36㏄のままでは力不足だったのだ。
このダイヤモンドフリー号は、毎日新聞社主催の第1回富士登山レースに優勝し、札幌~鹿児島間の約3000キロ、18日間におよぶ「日本縦断テスト」の成功で話題を集め、当初の販売台数の1.5倍の月産6000台に達したという。
むしろ終戦後のほうが別の意味で大変だったようだ。企業存続の危機に見舞われることになったからだ。
労働争議が勃発したこと、それに紡績業界が繊維価格の大暴落(1951年)で、不況となり、長年続いてきた鈴木式織機が売れなくなったのだ。時代が大きな曲がり角に来ていたのである。
いよいよ全社あげての他業種への大転換が求められたのだ。いっきに4輪車づくりの挑戦は、無謀である。当時、ホンダ、ヤマハ、トーハツ(東京発動機)など浜松や東京周辺ではバイクメーカーが雨後の筍(たけのこ)のように、生まれていた。スズキはこの大きな流れの中で、「自転車に取り付ける補助エンジン」づくりに乗り出すのである。「エンジンがあると楽だな~っ、操作が簡単でだれもが乗れるエンジン付き自転車をつくろう」という考えである。
こうして作り上げられたのが、1952年にデビューした「パワーフリー号」(写真)である。排気量36㏄の空冷式2ストローク単気筒エンジン。ペダルも楽に使えるフリー装置やダブル・スプロケット・ホイールなど独自の技術を盛り込んだエンジンで、価格も2万5000円と当時大卒の初任給が6500円の時代だ。
ところが、1930年代に入ると「織機の時代の限界」を感じ始めていた。一時は海外へ輸出していた織機だが、織機に代わる次世代に通用する商品の開発を提案できないと企業の存立は危うい! そんな予測が道雄にはあった。すでにこのとき、次期主力商品は自動車、という考えが道雄の頭にはあったようだ。その背景には、同じ織機メーカーだった豊田式織機の動きがあったからだ。そのころ豊田佐吉の息子・豊田喜一郎が、自動車づくりを目指して動いていたのだ。
道雄をリーダーとする鈴木式織機も1937年には25万台世に送り出した英国の大衆車である「オースチン・セブン」(写真は、トヨタ博物館所蔵)を手に入れ自動車の研究に着手している。このクルマは、20年代から30年代後半に英国で大成功を収めたサイドバルブの排気量800㏄足らずの小型車で、累計29万台生産し、その後の1500万台を生産し、アメリカにクルマ社会をもたらしたフォードのT型の先鞭をつけたクルマでもある。
道雄たちは、このクルマをとことん研究し、自動車の試作にチャレンジしている。
だが、同じ年日中戦争が起こり、軍需品の生産に向わざるをえなくなる。戦車砲や砲弾の製作だけでなく、軍用トラックのいすゞエンジンのクランクシャフトやピストンの仕事をすることになった。軍需工場化されると敵方のアメリカの爆撃を受ける運命だったが、浜松市内から少し離れたところに工場があったため、戦災の被害はほとんどなかったようだ。
なお、道雄も、徴兵検査で身長が規定に満たなかったこともあり、戦争に駆り出されずに済み、戦後を生き抜くことになった。
その工場で、道雄は、3~4日がかりで、木鉄混製(もくてつこんせい)の足踏み織機を完成させた。足踏み織機の第1号機は、母マチに贈ったといわれる。これが従来の織機に比べ10倍効率がよいとして村の評判をとることにつながり、翌年には鈴木式織機製作所の看板を掲げ、本格的な織機製作に乗り出す。
それまでの織機は横糸の交換に手間がかかっていた。道雄はそれを自動でできないか? これができれば、格子柄を自在に織ることができるのだが…‥。4年後の1912年(大正元年)その後の織機産業に革命的な出来事となるメカニズムを具現化させる。
それが、≪杼箱上下器(ひばこじょうげき)≫と呼ばれる機構を付け加えたものだった。
「お客様の声に耳を傾け、実用的で本当に価値のある製品を創る」この現在のスズキに受け継がれているスピリッツをどんどん具現化していったのである。道雄は生涯こうして100以上の実用新案を取得、大正・昭和の激動の時代をモノづくりにささげたのである。
スズキの礎(いしずえ)はこうして築かれたのである。
そこで、浜松市菅原町の今村幸太郎に7年間の契約で弟子入りする。父母の元を離れ、わずか14歳で実社会に船出したわけだ。
親方の今村氏は、腕のいい職人。それだけに仕事にかけては厳しい親方でもあった。もともと勘のいい少年だった道雄は、一人前の技術を習得し、親方の片腕として活躍するのにさほど時間はかからなかったようだ。
ところが、道雄17歳のときに彼の運命を大きく変える事件が起きた。日露戦争が勃発(1904年)したからだ。戦争が起きた余波で、建築の仕事がほとんどなくなったのだ。戦時下体制の空気のなかで新たに建築物をつくることを手控えるようになった。
そこで、親方の今村は、当時モノづくりの世界では、一段下と見られていた足踏み式の織機の製作に転向する。道雄も当初の夢であった建築の仕事を途切れさせ、親方の仕事を手伝うことになる。
1908年(明治41年)、徒弟契約の満了とともに親方の元を辞した道雄は、独立し織機の生産事業を起こす。日露戦争後、日本各地で足踏み式の織機が求められる機運があったからだ。叔父の世話で借り受けたのは、浜名郡天神町に蚕小屋を移築して改装したのが道雄の最初の工場だった。学歴は小学校の補習科どまり、文字通り徒手空拳の船出であった。
スズキの長い歴史は、1887年(明治20年)2月18日、浜名郡芳川村字鼠野にある貧しい農家(父親が治平、母親がマチ)に次男坊の男の子が生を受けたことから始まった。
農家32戸の定型的な農村である。鈴木道雄(1887年~1982年)と名付けられた赤ん坊は、学問の神様とされ庶民からも親しまれた平安時代の「菅原道真(すがわら・みちざね:845~903年)」の名にあやかったとされる。
この地域は昔から綿織物が盛んで、初秋のころには畑一面に綿の実が白一色になり、まるで雪が降り積もったようであったという。7~8歳になったころから両親の手伝いで綿摘みを手伝っていた道雄は、近くで機織りの音を聞きながら子供時代を送ったという。
次男であった道雄は、14歳のとき当時の習わしとして家を出て働くことになる。父親の勧めで教師の道もなくはなかったようだが、元来創意工夫が得意だった道雄は、モノを創る道を選ぶことになる。大工の道を志し、将来はひとかどの請負師になる決意をした。請負師というのは建築を請け負う大工の棟梁のことである。
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