リーフスプリングの車体側取り付けのどちらか一方に付いていて、スイングすることで路面からの荷重をやわらげる役目をするシャックル(図)。このシャックルもキングピン同様、当時の常識としては車検2年目ごとに≪交換すべき部品≫だった。時代を反映して過載積、ひどい道路を走行するなどのいまで言う“超”が付くほどの「シビアコンディション」でクルマを使ったため、シャックルも想像以上に早くクラックが入ったり、折れたりしたという。
当時の国産部品の開発は、外車部品の現物を東大阪などに点在する町工場(協力工場)に持ち込み、作り出すというものだった。線材などの材料自体は、素材メーカーからあらかじめ購入し、それを工場に持ち込むというのが大半のスタイルだった。
企業による形態の差異があるものの、たとえば当時の卸し商社の大同自動車興業や新生製作所などは、商品の在庫・出荷の調整機能だけでなく、商品の企画・開発段階、実際の販売までをおこなっている。そこで、「今でこそ話せるのですが、当時のこうした部品は素材もさることながら熱処理が十分でなかったり、寸法精度にやや問題があった製品がさほど珍しくなかった記憶があります。いまではすっかり死語となってはいるのですが、われわれ楽屋落ちの言葉として“折れて曲がる”という言葉がありました」(竹内会長)
自動車補修部品が右から左に羽根が生えたように売れた時代。
「よし、じゃ、注文が多くて入手が困難な部品を、自分たちでつくって、売ろうではないか」
少しココロザシのある商売人(ビジネスマン)なら当然思い描く青写真である。上田さんの所属する大同自動車興業では、シボレーとフォードのキングピン・セットとリーフスプリングの取り付けをになう「シャックル」(写真)と呼ばれる小部品をつくることになった。荷重がかかり破損しがちな部品だった。新生製作所の竹内会長(取材当時80歳)も時を同じくして、ほぼ同じようなビジネスを展開している。
現代の乗用車のフロントは独立懸架式だが、昔のクルマはフロントが固定式の懸架装置(リジッドサスペンション)だったため、キングピンと呼ばれる部品が組み込まれていた。
現在のクルマにはサスペンションの動きを理解するためのバーチャルな“仮想キングピン角度”はあるが、昔のクルマのような部品をもたない。当時のフォード、シボレーは、悪路を走ることが多かったこともあるが、とにかくキングピンの摩耗が激しかった。摩耗が激しくなると、フロントホイールにガタが生じ、ハンドルの遊びが大きくなり操舵力が重くなって直進安定性が悪くなり、しかもゴトゴトという異音が発生する。インターネットで調べてみると、いまでもVWビートルのキングピン・セットが売買されていることからわかるように、1960年代中ごろの車両の大部分はこのキングピンが付いていたと言われる。
大阪の福島界隈は、ロケーションも抜群によかった。環状線の内側に位置し、しかも大阪駅から当時の国電(現JR)で1つ目。地方からやってくるいわゆるバイヤーたちにも、きわめて交通の便の都合がよかったのである。遠く北陸や中国地方、あるいは九州、四国からはるばる大阪にやってくる地方の自動車部品商は、きまってバカでかいリュックサック持参でやってきた。帰りにはそのリュックに入りきれないほどの自動車部品を詰め込み地方に戻っていった。現在のような大手の自動車部品販売網も物流ネットワークもまったくなかった時代である。
現代のモノ余り社会からは、想像できないほどモノが不足していた時代。フォード、シボレーがメインで、しばらくすると日本車もぼちぼちつくられはじめ、おかげでトヨタのKB,KC,BMというトラック、乗用車などの部品が、あればあるだけ売れた時代だった。
舗装率が低く、道路状況がお世辞にもよくなかった時代。しかも当時のモノづくり技術や工作精度のレベルが高くないため、純正部品ですら壊れるのが早かった。走らなければクルマはただの鉄の塊だが、稼動すればお金を稼ぐトラックなどの輸送業の主役であったクルマは、壊れては修理して走り、また壊れては修理の繰り返し。現在のようなメンテナンスフリーを名乗る部品は皆無だった。大げさに言えば、「部品は壊れて当たり前の時代」だったのだ。
「大阪に着いたら大阪城こそ残っていたものの一面焼け野原。でも、福島の天神様あたりは焼け残っていました。でも、大同自動車興業に戦前からの籍があったので社員として働くことになりました」
松田さんのケースと似ていて、当時の大同には上田さんを入れて5名ほどしか社員がいなかった。まだ戦地に足止めを喰らっている社員もいただろうし、復員の途中だったり、あるいは復員したものの田舎で養生していた社員もいた。不幸にして平和な日本を見ることなく戦死した社員もいたと思う。なにしろ終戦後、中国で命を落とした日本人は約25万人を数えたといわれるのだから。
でも、昭和23年ごろになると、福島界隈も戦前以上の活気を取り戻したという。
自動車部品商だけでなく、自動車ガラス専門店、ガスケット屋さん、エンジンバルブ屋さん、エンジンボーリング屋さん、マフラー専門店、ピストンリングとピストン専門店、バネ専門店、ゴムホース専門店、補機ベルト専門店、ボルトナット専門店など自動車の修理に関するありとあらゆるビジネスが展開されていたという。お客さんを紹介したり、逆にお客を紹介してもらったり、一大部品センター街が完成していたのである。わかりやすく言えば、当時としては東洋では最大級の自動車部品ショッピングモール、といっていいのではないだろうか。
(写真は当時の国鉄・福島駅)
松田さんは30歳のとき、二葉工業のご主人の妹さんと夫婦になり、それから5年後の35歳のときにノレン分けをしてもらい、現在の福島3丁目に店を構えた(資材当時)。
「独立してここで商売を始めたのは1960年ごろでした。私の店から指呼の距離に6軒の自動車部品商がありました。うちはトヨタ車が中心だったのですが、他はたとえば日産車、ホンダ車、輸入車をメインとしているという具合で、いわゆる棲み分けいうんですかね、仲良くやってましたわ。お客さんにとっても、こうした形態が都合よかったみたいですね」
一方、松田さん同様、自動車連隊の一人だった上田さん(写真)は、終戦を武漢で迎えるが、アミーバ赤痢、発疹チフス、マラリア・・・という病気のデパートのごとく病に次々に襲われ、ほうほうのていで氷川丸に乗せられ福井県舞鶴に降り立った。ちなみに、終戦後約660万人の日本人が海外に残された状態となり、うち約66万人がこの舞鶴港に引き揚げ船で到着したという歴史がある。現在これを記念して「舞鶴引揚記念館」が建っている。
氷川丸といえば、戦前はブラジル移民の輸送で活躍し、戦時中は日本海軍に徴用され病院船となり、戦後は引き揚げ船としてはたらき、その後は客船として使われ、晩年はごく最近まで横浜港で船上ホテルになっていた歴史的な船だ。
敗戦という、社会のみならず個人的にも爆弾が頭上に落とされたような前代未聞の一大ショックのなかでも、人間は今日を生き明日を生きていかなくてはならない。過去の経験をできるだけ生かす職場、かつて属していた組織に戻ることは手っ取り早い選択だったであろう。
しかし当初は仕事らしい仕事がなかったという。売るものもなかったし、クルマだって終戦からまだ間がない頃ゆえ走っていなかったのである。
ところが、そうこうするうちによくしたもので、商売の糸口らしきものが見えた。
松田さんを知る昔の顧客から、あるいは二葉工業が仕事を始めていることを聞きつけた人達から、部品の注文が舞い込んだのである。「フォードのアクスルが欲しいのだが・・・」「シボレーのトラックのエンジン部品がなくて困っている・・・」といった類だった。
当時福島から南西に位置する港区の大阪湾にほど近い市岡(いちおか)界隈にはセコハン屋、つまり中古部品屋さんが50軒ほど軒を並べていた。市岡は昭和25年9月3日未明に上陸したジェーン台風(当時は占領軍が故国の慣習と同様に、台風に女性の名前をつけていた)による高潮の被害を受けたところ。松田さんは、1時間近くかけて自転車あるいはリアカーを引いて市岡でセコハンの商品を仕入れ、それを顧客に販売するという商売をしたという。
当時トラックを使った運送業が上げ潮の時代だった。戦前からのフォード、シボレーのトラックが依然として主役であり、フォードとシボレーの部品なら、仕入れれば何でも売れたという。「数日に一度、市岡に商品を仕入れにゆき、たとえば500円で手に入れた商品を2倍の1000円ぐらいでさばきましたから、それで十分食って行けました」。松田さんは遠くを見る目でそんな風に語った。(写真は、昭和30年代の浄正橋筋で、いまのなにわ筋。このころには国産車が活躍し始めていた)
統制会社が保有していた自動車部品などの商品の在庫は、そこで働いていた人たちの退職金代わりとして分配された。営業担当はいうに及ばず事務員の女性にも等しく分けられ、リヤカーで部品を運んだという。
福島地区には焼け残った家屋が存在していたので、自然発生的に、リヤカーの行き先はその福島だった。軒下を間借りして、リヤカーから降ろした自動車部品を並べ販売するというものだった。
昭和21年(1946年)に戦地から復員した松田さんは、23歳になっていた。上海で終戦を迎え、約1年間上海の山中で留め置かれたのち、船で博多港に到着。1年間、生まれ故郷の宇和島で百姓をしながら養生をして翌昭和22年に大阪に戻った。その足で福島界隈をぶらぶら歩いてみると、電車通りにずらりと部品商が軒を並べ、さらに国道2号線沿いの民家の軒先を借り、やはり自動車部品を販売している光景を見た。
今も存続している出入橋たもとにある“きんつば”屋には、小豆に変わる代用品のサツマイモで作った“きんつば”を求める人の列でごった返していた。この光景に圧倒された松田さんは、割り込む隙もなく「大阪にいたら飯は食えないっ!」と直感したという。再び愛媛宇和島の田舎に戻ったという。
コンタクトポイントが使用過程で焼損し、ときどき取り外してサンドペーパーを使って磨かないとエンジンが不調となる。本来予備のコンタクトポイントを常に保有するべきなのだが、情けないことに予備パーツはほとんどなかったという。
ラジエーターだって、今のように防錆効果のあるLLCではなくただの水だった。内部が錆びて穴があき、ほうっておくと水がなくなりオーバーヒートで走行不能となる。戦場では溶接マシンがあるわけでなく、石鹸を穴に練りこむなどの応急処理で、とにかくなだめながら走らせたという。兵隊も疲労困憊していたが、トラックも相当の重症状態で使われていたのが実情だったようだ。これでは戦闘する前に敗れていたようなもの?
1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受け入れ、1931年に起きた満州事変、日中戦争と昭和のかくも長き15年戦争が終わった。
しかし一般の市民にとっては終戦だからといってすぐに平穏な暮らしが戻ったわけではなかった。日本の主要都市は昭和19年から終戦にかけてボーイング29などの空襲を受け、壊滅的な被害をこうむっていたからだ。大阪も例外ではなかった。とくに終戦の年の3月13日から始まった、波状攻撃で大阪市内の約27%を焼失。福島界隈も大きな痛手を負った。ただ、現在の福島1丁目、2丁目、4丁目あたりは幸いにも戦禍をまぬがれている。
終戦と同時に、いびつな形態だった「大阪自動車用品配給統制会社」が解散となった。晴れて自由経済のもとで商売ができる日が再びやってきたのである。敗戦は開放を意味していた。
(写真は、昭和30年代の国産車のディストリビューター。この中に消耗部品のコンタクトポイントが収まる。)
夜間走行といっても敵にその存在を知られるのを怖れヘッドライトを消し、しかもフェンダーの先に歩兵を歩かせる。いわば水先案内人役をさせ、時速10キロ前後でゆるゆると進んだという。
闇夜など足元が不明になり、なかには谷に落ちたクルマもあった。助手席には必ず別の兵隊が座り、運転手が万が一のときには運転を替われる体制だった。ところが、上田さんがハンドルを握っていつものように夜道を走行中、いきなり機銃攻撃を受けたことが……。上田さんは運よく弾にはあたらなかったものの、不幸にも助手席に座っていた戦友が直撃弾を受け絶命したという。
自動車連隊は、ひとつの中隊約200名のなかに、30台ほどの車両を持っていて、1台の車両には運転手、助手、それに予備隊員として2~3名が付いていた。事故が起きたとき即交代できるようにしていたのである。それに、泥濘地に入り込んだとき、タイヤの下に莚(むしろ)を敷いたり、車両を押したりする役目が必要となる。「莚を敷くにはコツがあり、わしはけっこう上手やった」と上田さんは遠くを見る目でつぶやいた。
上田さんたち自動車連隊は、車両そのものの保守点検の係りでもあった。保守点検というと若いひとには意味不明かもしれないが、メンテナンスのことである。とくに当時の車両は現代のクルマのように無接点式の点火装置ではなく、コンタクトポイントをディストリビューター(配電盤)内に組み込んだもの。1980年ごろまでのクルマには見受けられたが、今では博物館でしか見られない。
日本陸軍の自動車連隊は、インパール作戦など戦争ドキュメント映像で知るのみだが、いまからみると想像を絶する光景が展開された。道なき山を越えたり、川を渡るときは、車両を分解して兵士が担ぐなどして移動する。松田さんも、車両分解の現場に参加している。あらかじめ、エンジン、ミッション、デフなどの主要部位が納まる井形形状の木製枠を持ち歩き、ばらした部品をこの枠に載せて、下に木製のコロをかませ、ごろごろ転がしたり、あるいは持ち上げたり・・・人海戦術で移動させたという。「フォードなら、ばらす時間は3~4時間。いすゞの6輪車はまる一日かかった」という。
100名の兵士がいたら100通りの戦争体験がある。
昭和15年に大同自動車工業(現SPK)に入社し昭和18年から終戦の年20年まで同じ自動車連隊に配属されていた上田長之輔さん(上田興業㈱社長・84歳:取材当時)は、いささか異なる体験をしている。上田さんは、松田さんとほぼ同じ北支から中支にかけて活動した輜重兵の自動車連隊にいた。満21歳のとき自動車運転免許を取得していたので、3ヶ月の訓練をへて1936年式のB型フォードをベースにした軍用トラックの運転手を命じられた。大阪の大正区でノックダウン生産されたシボレートラックも軍用として活躍していた。
輜重兵ゆえ、燃料、機材などの軍需物資を部隊から部隊に運ぶ役目であった。八路軍の急襲や敵の機銃攻撃を避けるため、もっぱら夜間に走行したという。
〔写真は、昭和18~19年ごろの北支派遣軍のころの上田さん(右)。背後にフォードB型トラック〕
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