余談だが、当時の日本陸軍は海軍と異なり英語を忌み嫌い、横文字を回りくどい漢字で翻訳して使っていた。ドライバー、つまりねじ回しのことを≪エツキ・ラマワシ(柄付き螺廻し)≫、スリッパのことを≪ジョウカ(上靴)≫、物干しは≪ブッカンバ(物乾場)≫と呼んでいた。アクセルのことは≪フンシャセンバン(噴射践板)≫であり、クラッチは≪レンドウバン(連動板)≫、ハンドルは≪テンバ(転把)≫などである。
たとえば部下に運転を始動するとき、こんな風に使ったという・・・「噴射践板をもっと柔和にふかせ。連動板をつなぐときはいきなりつなぐな。少しアソビを作ってあるからそれを利用してつなげ。といってあまりそっとやると焼き付くから、その足加減を覚えろ」。いま聞くとナゾナゾ遊びをしているようだ。自動車連隊ではないが戦車隊に属していた作家の司馬遼太郎のエッセイのなかに、そんなことが書かれている。
国内の石油不足は昭和15年ごろには深刻さを増してくる。その年の6月には不急のガソリン使用が禁止され、翌16年2月には認可されているハイヤーとタクシーのうち40%だけしかガソリン使用が認められなくなり、さらに9月には全面使用禁止となっている。そこで木炭など代用燃料を使った車両がつくられた。リアの取り付けた釜で木炭を燃やし、発生したガスを燃料にするものだ。木炭バスは、熱効率が極端に低いため坂道では乗客が降りてバスを押すなど、さながらギャグのような光景が見られたという。代用燃料としては、木炭のほかに圧縮ガス、液化ガス、カーバイド、コーライトなどが使われたという。(写真はトヨタ博物館『なつかしの木炭自動車』より)
旧日本陸軍の「自動車連隊」というのは輜重兵(しちょうへい)に属していた。輜重の“輜”とは衣類を載せる車、“重”とは荷を載せる車を指し、総じて輸送することを意味する。部隊の移動に際して糧食、被服、武器、弾薬などの軍需品を輸送する任務を専属とする兵科(職務区分)を輜重兵というのである。
ちなみに、昭和6年以降に陸軍大学校を卒業したものは1300名近くいるのだが、兵站(ロジスチックス:物流)を専門とする輜重科を専攻したのはわずか33名しかいなかった。当時の日本の兵隊と軍全体がいかに兵站を軽く見ていたか。太平洋戦争の陸軍死者数160万人のうち、実に70%が敵との戦闘による死ではなく、飢餓死だった。食べるものがなくて亡くなったのだ。
松田さんが属した自動車連隊が使った車両は、フォードのモデルTT(モデルTのホイールベースを伸ばし、足回りを固めたトラック)といすゞの6輪トラックだったという。「いすゞの6輪車は見掛け倒しで、とにかく重量が重くて力がなく、泥濘地にはまり込むと立ち往生して大変でした。そこでロープを車両にかけ、40~50名の兵隊の力で脱出することが多かった」という。当時「ガソリン(石油)は血の一滴に等しい」といわれた時代。松田さんによると、訓練時にはエンジンをかけることはまれだったという。ハンドルは古参兵が握るのだが、10数名の兵隊が車両を押したりしての訓練だったという。これもいささかこっけいな光景だ。自動車は中国戦線では敵に対する威嚇的存在だったのかもしれない。
(写真はT型フォードのシャシー)
若き日の松田さんも、こうした統制経済化でできた「大阪自動車用品配給統制会社」に配属された。統制会社とは奇なモノだった。同業者とはいえ、昨日まで異なる組織でビジネスをしていたもの同士の寄り集まり。いわば呉越同舟の組織。伝票一枚切るにも3~4つのハンコが必要だったり、1台のクルマにスパークプラグの割り当ては「1本だけ」という実態を無視した妙な統制があったりで、満足な仕事ができなかったという。
シボレーとフォードはスパークプラグとコンタクトポイントがまったく同じ部品なので互換性があった。ところが、クルマのことなど何も知らない上層部が机の上で決めたため、価格差が生じ、松田さんたち現場のスタッフを混乱させたという。
この配給統制会社には、社員が全部で60名ほどいた。なかには統制違反を犯し逮捕された仲間もいたという。もちろん工場自体が軍需工場に塗り替わっていたので、満足に商品である部品が入手できるわけではなく、ないない尽くしの状態で時間が過ぎていったという。時には徴用といって国が国民を呼び出し強制的に仕事をさせ、大阪府下の軍需工場で慣れない工具を手にして、工員としてモノづくりに従事させられたという。
当時の日本はいわゆる「皆兵(かいへい)制度」を採っていた。健康な男子であれば誰しもが戦争に駆りだされた時代。昭和17年、18歳になった松田さんは、徴兵検査を受け、乙種合格、2年後の9月に香川県の善通寺にある部隊に配属された。その時代は自動車関連の仕事をしていた若者はごくわずか。ここでも現場を見ない上層部がいたようで、松田さんは≪自動車に関してはまんざらシロウトでもない≫という理由で、自動車連隊に配属されたという。
(写真は当時の木炭自動車。日野自動車の博物館「21世紀センター」で撮影)
数年前から始まった軍備拡張予算をきっかけに、財政は軍事支出を中心に急速に拡張し、資金と貿易面から直接経済統制に踏み切った。日中戦争を継続させる上で生産力の増大を図る必要があったからだ。
昭和13年には国家総動員法が制定され、政府が国会の承認なしに経済と国民生活全体にわたって統制する権限を得る。まさに軍需産業優先の経済シフトである。翌昭和14年になると国民徴用令により、一般国民が軍需産業に動員された。既成財閥系の大企業が軍需品を積極的に生産し、財界代表が内閣に加わるなど、大企業は≪国策≫への協力を求められた。
自動車関連では、こうした統制令や総動員法をうけて・・・商工大臣(戦後総理大臣になり安保条約の締結をめぐる責任で退陣を余儀なくされた岸信介)の通達により乗用車の製造が原則禁止され、自動車用の資材の割り当てなどの統制が実施された。そして、昭和14年12月、日本フォードと日本GMでのアメリカ車ノックダウン生産が中止されたのである。
自動車をめぐる統制経済はそれだけではなかった。
同じ年の昭和14年に外国製の自動車、用品、部品すべての販売が全面禁止された。さらに自動車統制会の傘下のもとに「日本自動車整備配給会社」が設立され、自動車の販売店を1県1ヶ所の配給会社とし、自由なクルマの販売ができなくなった。生産された(国産の)自動車は優先順位をつけられ配給されるという、今の時代からはとても想像できない息苦しい社会へと変貌していったのである。(写真は、このころ石川島自動車製作所とダット自動車製造などの合併会社が1940年につくったバス。日野自動車の博物館である21世紀センターで撮影)
リアルタイムで当時の福島村の空気を吸っていた人物から話を聞いてみよう。
取材当時82歳になる松田鶴義さんは、昭和15年に故郷の愛媛県の宇和島から、単身大阪の町にやってきた。都島(大阪城の北側)で修理工をやっているおじさんの伝手(つて)で福島の自動車部品商「二葉工業」の丁稚となった。当時16歳だった。二葉工業という自動車部品商は、いまはないが、松田さんが入社したころは7名ほどの部品商だった。松田少年の仕事はもっぱら自転車で、大阪府内にあるタクシー会社に補修部品を配達することだった。
大阪のキタを代表する飲食店街のある新地や、その東に位置する都島に、そのころタクシー会社やハイヤーで商売をする会社が集まっていた。注文が来ると商品である部品を自転車に積み込み、配達する。自動車部品に接することで、いつしか部品にまつわる知識や「このクルマはこの部品がようけ出る(売れる)」という情報が蓄積し、なにやら世の中の役に立っている自分を見出し、楽しくなったという。
たとえば、フォードは過積載が原因でよくリアアクスルが折れたという。これはいまの言葉でフェイルセイフ対策。高価なハブやデフが壊れるより前に、比較的安いドライブシャフトが折れるようにして、過度の修理代がかからないように設計されていた。
松田少年が大阪の水に慣れ、仕事がようやく身につきはじめた昭和16年12月、太平洋戦争が勃発した。満州事変から始まった日本の軍事優先政治は、支那事変(日中戦争)へと拡大、さらにアメリカ、イギリス、オランダなどを相手にした第二次世界大戦へと突入したのである。
日本でのノックダウン方式でつくられた乗用車の価格は、昭和初期にフォード(写真:T型フォード)が1台2800円。GMのシボレーは3200円。当時の月給取り(サラリーマン)の月収が50~100円だったというから、年収の30~50倍以上。個人所有など数えるほど。もっぱら法人仕様やハイヤーやタクシーで使われた。むしろトラックの需要のほうがはるかに多かった。もっとも中小企業での当時の物流はもっぱら自転車、リヤカー、大八車で、トラックは、ごく限られた例外的な大企業、あるいは軍需用トラックとしての需要しかなかった。
大阪府下にも複数のタクシーやハイヤーを生業としたサービス業者があった。
当時の道路事情はお世辞にもよくなかった。非舗装路が大部分で、舗装路はごくわずか。そのためもあり、フォードやシボレーを使ったハイヤーやタクシーの故障率は、いまとは比べものにならないほど高かった。それにあわせて補修部品の需要も、とんでもなく高かった。
いまでは知る人がごく少なくなった福島の戦前の姿が、雑誌『大阪春秋』(平成10年9月号)にはこんなふうに描かれている・・・・。
「戦前の福島には、トヨペットやシボレーの代理店だった豊国自動車とフォードのエージェントだった福田自動車、それに岩山商店やアメリカ商会(現・大洋株式会社)、京屋などあったくらいで、部品商は港区の市岡1丁目から夕凪橋(朝潮橋)1丁目あたりまでに集中していた。中古車の解体、いわゆるセコ屋さんが多く、ほかにタイヤ販売からバッテリーや、修理工場、エンジンボーリング、部品メーカー、卸業者、小売業と自動車に関する一大メッカを形成していたという。また一軒一軒の商業ベースの大きいところは(西区)川口周辺に集まり、それぞれ大連、旅順、青島(チンタオ)、上海など中国や満州、東南アジアと貿易をしていた・・・」
フォードとGMの生産は、年により増減はあったが、ピーク時の1934年には合わせて3万台もの数の輸入車が日本列島の東と西で生産されている。当時の日本では「自動車」といえばフォードとシボレーに代表されるとまで言われた。両車ともハイヤーやタクシーなどのサービス業の主役として活躍したのである。政府が目論んだ軍需輸送機関とは別に、実際の日本のプレ・モータリゼーションを担ったのはタクシーとハイヤーだった。タクシーとハイヤーという限られた市場とはいえ、フォードとシボレーを中心に自動車が普及した大きな要因は2つある。
ひとつは月賦販売制度をフォードとGMが日本に導入したこと。二つ目は「全国に張りめぐらされた販売網と水も漏らさぬサービス網」を構築したことだといわれる。
しかし前者の月賦販売制度には光と影があった。月賦販売制度により、運転免許証さえ手に入れればすぐにでもクルマの持ち主になることができ、みずからハンドルを握りタクシー業を営むことができた。車を購入する業者はほとんど弱小であり、なかには月賦金の回収不能、月賦未納車の転売がおき、なかには苦し紛れに高利の金融に手を出し倒産する業者も珍しくなかった。こうしたヒヅミや綻びがあったとはいえ、タクシーとハイヤーの業界は日本で定着していった。(図は1925~1935年の日本でのフォードとGMの生産台数の推移)
フォードの日本進出は、大正12年(1923年)9月に起こった関東大震災がきっかけだった。当時の東京市が壊滅状態になった市街地の交通手段として、フォードのTT型(T型フォードのトラック版)のシャシーが緊急に800台輸入された。それにボディを架装して輸送機関の乗り合いバスとして創り上げたのである。写真にあるように「円太郎」という名で東京の都民に親しまれた11人乗りのバスだった。市電や鉄道に替わって“自動車”という存在が、輸送機関として市民の意識に強く根付いたきっかけになった。円太郎というのは当時の落語家・橘屋円太郎の出し物「ガタ馬車」にちなんだものだった。
こうした大震災後のセールスが動機付けになり、フォードは日本に調査団を送り込んだ。日本における自動車の需要をリサーチした。その結果相当数の需要が見込めると考え、横浜に工場を展開する決断をしたのである。
それまでの日本では、年間わずか100台に満たない輸入車と数百台足らずの国産自動車が供給される程度だった。フォードの進出で初年度の1925年は3500台弱だったのが、翌年には8600台ほどになり、GMが加わった1927年には両社で1万2000台以上、さらに1928年にはその倍の2万4000台にも達し、日本におけるフォードとGMの自動車ビジネスは軌道に乗った。
日本のクルマ初めて物語は、“軍用”という頭文字が付くことからわかるように、どうやら、きな臭いニオイのする軍需輸送機関がその目的だったのである。
ちなみに、フォードが日本進出を果たした大正14年(1925年)には、陸軍自動車学校が東京の世田谷に創設され、軍用自動車の運転手を養成するほか、それまで陸軍自動車隊でおこなわれていた軍用自動車試験の業務および軍用自動車調査に関する業務を引き継ぎ、その後の軍用トラックの生産への布石としている。
当時フォードとGMが日本で展開した「ノックダウン生産方式」とはどんなものだったのか。
完成車ではなくて、エンジン、シャシー、アクスル、ボディなどの主要パーツを部品のカタチで本国アメリカから持ち寄り、現地の日本で組み立て、生産・販売するというシステム。
輸出側にとっては完成車輸出に比べて関税面で有利なほか、現地の安い労働力がフルに使えるし、輸入側では技術の習得につながり、自国の工業化へのよき刺激となる。現在でも、中国やインドなどで、本格的工場設立の前段階として導入されるシステムである。
写真〔トヨタ博物館「国産車を創造(つく)った人々」から〕は、日本GMの工場内部。
GMは、日本への進出については、フォードに先を越されていた。
2年前の大正14年2月にフォードが、一足先に「日本フォード自動車」を資本金400万円で横浜の新子安に設立し、ノックダウン方式でモデルT(T型フォード)の生産のスタートを切っている。フォードがいち早く日本進出を決めたのは、関東大震災後の需要を経験したからだ。
当時の日本の自動車をめぐる状況は、どんな感じであったのだろうか?
明治44年にのちのダットサンの前身となる快進社自働車のDAT号(2気筒12馬力)が完成するが、性能的に未成熟。この自動車の動の文字が、働く、つまり自働車になっているところが、いかにもその時代の人々の心意気が反映していて面白い。しかもこのDAT号は、いまのようにマスプロダクションではなく、手作りに近いシロモノ。内山駒之助らがかかわったA型フォードをモデルにしたとされる「タクリー号」は17台生産されて、その後大正10年には白楊社で「オートモ号」という小型自動車が生産され、これは250台ほど造られているが、まだまだ量産には程遠かった。
それでも、大正7年に施行された「軍用自動車保護法」は、当時の企業家に来るべき自動車の時代を予感させるものだった。トラックの製造業者と購入したユーザー双方に補助金が出る法律。つまり日本のモータリゼーション前夜は、軍需用トラックが中心でスタートしたといえる。よく言われるように、アメリカがこの地球上に始めてモータリゼーションを現出した。ヘンリー・フォードがT型フォードを、フォードの工場ではたらく労働者みずから手に入る価格で生産するシステムを完成させたのだ。欧州では当時、クルマは華族をはじめとするお金に余裕のある人びとのためのチョー高級品だったのと好対照。日本の庶民がクルマを持てるようになったのは、終戦後15年以上の時間が必要だった。
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