すっかり都市化してしまった大阪市福島区福島地区。JR大阪環状線、阪神本線、JR地下(鉄)東西線などの鉄道網が張りめぐらされ、阪神高速神戸線と阪神高速池田線の2本に挟まれたエリアには高層ビルが建ち並ぶ・・・地上から見る景色は、いまにもビルの陰から大きな円弧を描いて鉄腕アトムが飛来してきそうな未来都市の世界である。この福島地区に、かつて卸業者が中心となった50~60軒ほどの自動車部品街が広がっていたことを知る人は少ない。
町の喧騒(けんそう)に耳を澄ませてみると・・・現在とはひと味異なった、どこか牧歌的ともいえる過去の賑わいが聞こえてきそうだ。表通りを外れ、少し横道に入って目を凝らしてみると、どっこいその当時の名残を色濃く残す街角を発見することも出来なくはない。
タイムスリップする気分で、思い切って時計の針を戻してみよう。
昭和2年(1927年)の大阪。大阪市営バスなど、路線バスが、日本の地方都市でも走りはじめた頃だった。
この年の1月、アメリカのゼネラルモータースが日本に進出し、大阪の大正区鶴町に「日本ゼネラルモータース」を設立。資本金800万円で組立工場を建設、4月からシボレーのノックダウン生産を始めている。
当時の「シボレー」といっても、現代人にはどんなクルマなのか、カイモク見当がつかない。愛知県のトヨタ博物館に足を運ぶと、当時のシボレー(写真)に会える。全長4220ミリ、全幅1760ミリ、全高1750ミリ、重量1400kgとかなりの巨漢である。エンジンは直列6気筒OHVの3179ccで、60HP/3000rpmである。
路線バスが、日本の地方都市でも走りはじめた頃だった。
スバル360は昭和33年5月、発売された。正確には3月は東京地区で大阪地区は2ヵ月後の7月だった。価格は工場渡しで42万5000円。トップクラスの国家公務員の年俸に相当した。
なんとしても40万円以下の価格にしようと粘った百瀬だが、実現できなかった。ダットサン211が65万円、トヨペット・コロナが64万8000円であった。スバル360はこれらとくらべ安かったが、車両重量や馬力あたりの価格に直すと割高といえた。それもあってか当初はあまり売れ行きが芳しくなかった。ところが、じわりじわりと人気が高まり、発売2年間で5394台、1970年5月までの累計が39万台を超え、モデルチェンジなしに累計50万台をこえている。途中ダンパーをフリクション式からオイルダンパーに換えるなど小さな変更や改良こそあったが、いかに百瀬たちの設計が完成度の高いものだったかがうかがえる。それよりも百瀬たちのココロザシが世の中に受け入れられたことが何よりだった。
その後百瀬たちは、この360の成功を背景に多目的トラックのスバル・サンバー、水平対向エンジンにFF(フロントエンジン・フロントドライブ)、4輪独立懸架など先進技術を組み込んだ画期的乗用車を世に送り出し、スバルの基礎固めを果たした。こうしてスバル・スピリッツをつくり上げた百瀬晋六は、平成9年77歳で永遠の眠りについた。
★次回からは、大阪に花開いた、知られざる『なにわの自動車部品物語』をお送りします。日本のモータリゼーションを始まりのころから解き明かします。
スバル360の正式発表は昭和33年(1958年)3月3日で、発売は2ヵ月後の5月ときまった。
その前に運輸省(現国土交通省)による新車認定試験をパスしなければいけない。当時の認定試験は通称・村山試験場と呼ばれた工業技術院機械試験場での基本的な試験(最高速100km/hほどしか出せなかった!)。それと箱根と西湘バイパスでの運行試験の2本立て。江ノ島・小田原間での燃費テスト、箱根13キロの登坂テストなどである。もちろん定員の大人4人乗せてだ。
このときちょっとした事件がおきた。箱根湯本から宮ノ下まで直線距離で5キロほどテスト走行するのだが、運輸省の検査官が乗車すべきところ、「乗車拒否」にあった。「こんな小さなクルマに乗って、万が一谷底に落ちたらえらいことになる!」として乗車を拒んだのだ。いまなら職場放棄として責められるところだが、当時はお役人には逆らえなかったようだ。そのときテストドライバー役であった福島時雄は、腹をきめ、人間一人分の重りを載せ、所要時間30分以内とされていたコースを見事22分で走りきった。このとき福島は、少しでも軽くしようと、真冬にもかかわらず作業着の下には何も着ないで走行テストに臨んでいる。燃費は24.5km/l、乗り心地を示す指数も当時の国産車を凌駕したものだった。
耐久走行試験でもっとも難関だったのは、登板路でのオーバーヒートだった。
赤城山の上り坂は当時もっとも過酷な登板路とされた。かつてP-1の走行テストで関東一円の登板路走行試験をおこなった際、箱根や日光よりも赤城山の坂が折り紙付きの過酷な道。距離が長いばかりでなく、さまざまな種類の勾配があり、小さなカーブ少なくてスピードをテストすることもできた。なかでも、前橋郊外からの赤城山への登りは登れば登るほど傾斜がきつくなり「一杯清水」と名づけられたところは傾斜角13度。いったん停車すると再発進が不可能といわれ、当時の国産車でこの坂を登りきるクルマはいなかった。
スバル360で走行すると、たしかにフルスロットルで登板すると、すぐエンジンが焼きつきパワーダウンする。こころもちアクセルを押さえ気味に走ると最後までのぼりきった。そこでより冷却性能を高めるためにファンの設計を見直し、エアインテークが当初左側だけだったのを右側にもスリットを入れることで、冷却性を高め、大人4人でなんとか全開で急坂をのぼりきるレベルまでこぎつけた。東京から来た高級セダンのユーザーがエンジンフードを開け立ち往生している横を360のスバルが4人を乗せスイスイと走った。「ぽかんと口を開けた紳士の顔をいまも忘れられない・・・」当時のテストドライバーの語り草である。
排気系にカーボンが付着する課題は、オイル添加剤のメーカー・ペンタルーブ(PENTA LUBE)からもたらされた。この市販のオイル添加剤を使うとカーボン付着が信じられないほど減少したのだ。試験してみるとこれまで2000キロでカーボンが付着してパワーダウンに結びついたのが、6000~7000キロまではパワーダウンしないことが分かった。
エンジンが快調に回ると、今度はエンジン各部から発生する騒音を退治することになった。ピストンとシリンダーの摩擦音、駆動系のノイズなどしらみつぶしに対策していった。おもな対策方法は、各部品の工作精度を高めることだった。振動についてはクランクシャフトの2次振動が最大の課題だったが、丁寧に理論を積み重ね、実験を繰り返すことで解決することができた。
エンジン本体のみならず電装品も次々と初期トラブルを発生させた。
軽量小型設計を目指したのでスターターのピニオンギアの鋳物ハウジングが強度不足でクラックが入り、ディストリビューター(配電器)が高圧に耐えられずにリークする不具合が出たものの、そのつど対策品を開発し、耐久性を高めていった。
スバル360の試作車は、当初5台つくられた。うち3台が耐久試験のために費やされた。実験担当の家弓たちは、8時間3交代、一日あたり600キロは走ることにした。おもなコースは伊勢崎から高崎までの往復40キロのほとんどが砂利道。最終的には1台あたり5万キロにおよぶ過酷な耐久試験には、自分が設計したクルマは自分で確認しないと納得できないという百瀬たちの精神が息づいていた。「たぶん、これほどの過酷な耐久試験は富士重工だけではないか」と走行テストを担当した一人福島は回顧する。
走行テストが始まるとエンジンの初期トラブルがどんどん発生した。
クランクシャフトを固定しているボルトが振動で緩みベアリングが焼きつく。発電機の不具合でプラグに火が飛ばない。スターターが破損する。クラッチが摩耗して焼きつく。冷却性能の不足でオーバーヒート。伴走車のP-1に牽引されて伊勢崎に帰ってくる光景は珍しくなかった。
走行試験4日目のこと、深刻なエンジン・トラブルが起きた。
排気ポートを塞ぐほどのカーボンが付着したのだ。カーボン付着は混合燃料を使う2ストロークエンジンの宿命ではあったが、これほどひどいカーボン付着は解決しないと前に進めない。調べてみると、出力向上を目指して大きくした排気ポートを2分割にしてあり、その根元のところでカーボンが付着していることが分かった。そこで、カーボンが付着しづらいシリンダー温度を見つけることで解決しようと、冷却システムを見直したが上手くいかない。そこで、2ストロークエンジンに詳しい東大の富塚清教授に策を尋ねたところ、「ポート形状を楕円形にしたらどうか」というアイディアを授けてくれた。だがこれも決定的な解決には結びつかなかった。
リアエンジン・リアドライブK-10のためのエンジンは、横置き2ストロークの360cc空冷2気筒。いかに軽量で高性能なエンジンを創り上げるかが大きな課題だった。参考にしたのは、ドイツ製のロイト2気筒2ストローク400cc12馬力エンジン。これを360ccにサイズダウンして、目標馬力を2馬力高い14馬力とした。当初、試作した360cc用のピストンとコンロッドをロイトのエンジンに組み込みベンチにかけテストしてみると、わずか10馬力しか発生しなかった。そこで、冷却性の高いアルミのシリンダーヘッド、鋳鉄製のシリンダーブロックを試したり、吸排気系にチューニングを加えるなどした。キャブレターに吹き返し現象の不具合が現れた。これにはキャブの前にパイプを付けることで解決。数々の紆余曲折があった。
こうしてエンジン開発の技術者は、細かいデータをひとつずつ積み重ねチューニングをしていった。やがて360ccのロイトのエンジンは16馬力を発生し、車両に組み込み実験走行を繰り返し、充分な低速トルクを発生することを確認、エンジンの実用性能を詰めていった。
ようやく耐久テストベンチの段階をへて、量産間近の試作エンジンが完成した。シリンダーヘッド、クランクケース、ピストン、排気マニホールド、デフケース、クラッチカバー、冷却フィンまではすべてアルミ製、シリンダーは新素材のSH鋳鉄という軽量素材が採用された。当時としては最先端技術が盛り込まれたのだ。
エクステリア・デザインは、外部のフリーの工業デザイナーの佐々木達三(1906~1998年)にゆだねることになった。
佐々木は、もともと楽器作りを学ぶために東京高等工芸学校(現・千葉大学)に入ったものの、その学校には楽器のコースがなく、卒業後日本最大の客船「秩父丸」や「氷川丸」のインテリアデザインに携わった。その仕事をかわきりに黎明期の工業デザインで活躍した。戦後はフリーランスの工業デザイナーとして、大型バイク陸王(りくおう)のガソリンタンクや西鉄バスの大型観光バスのデザイン、カラーリングを手がけた。佐々木と百瀬は都内ではじめて顔を合わせたのだが、すぐ意気があい、互いを認め合う仲となった。佐々木はそのとき50歳。運転免許を持っていなかったが、すぐ免許をとった。自動車についての知識はなかったが、だからといってにわか勉強とばかり、世界の自動車のデザインのアルバムを眺める、ということは一切しなかった。伊勢崎工場に来ても、これまで百瀬が手がけたバスやP-1を見学しようともしなかった。やはり自分でハンドルを握り(おもに日野ルノー4CV)、クルマのデザインを自分の心のなかから導き出したかったからだ。
こうしてあの愛くるしい無駄のない、しかも飽きのこないユニークなスバル360のエクステリア・デザインがつくられたのである。
足回りができるとそれを台車に載せ、サスペンションなどを煮詰めるための走行試験に入った。ボディをつくる前に足回りを固めたいという意図である。試作車のエンジンルームには、当初ドイツ製ロイトの400cc(2ストロ-ク2気筒)空冷エンジンを載せていた。パイプとベニア板で構成された台車は、ヒーターはおろかドアもなかったが、テストドライバーの福島時雄のいわばマイカーだった。当初トーションバーを始めて目にした福島は「こんな鉄の棒(ねじれ棒!)で大丈夫なのか!」と思ったという。
走行テストが積み重ねるうちに、トレーディングアームに亀裂が入った。そこで、ばねのメーカーが鉄素材の強度を高める手法を開発するエピソードも生まれた。ちなみに試作品の足回りを構成するトーションバーは1本1万円で、一台分だと4万円。量産時にはその1/10になったとはいえ、かなり高価なものだった。ダンパーはオイル式ではなく、モノとモノとが擦れあうことで減衰力を弱めるフリクション・ダンパーを採用することで、コスト低減に寄与した。
ブレーキの前後バランスにも苦労した。制動時に荷重が移動してリアタイヤが簡単にロックした。するとフロントタイヤを軸にして車体が回転しがちになり、横転事故につながる。適正のブレーキバランスを求めて試験を繰り返した。
10インチタイヤ用のホイールは、前例のないものなので、自社開発するしかなかった。軽量化のため2分割のホイール(いわゆる合わせホイール)を開発した。(写真は『スバルを生んだ技術者たち』から)
足回りの開発についての多くのドラマも生まれた。
当時の道路は、バスが走ったうしろを走るとホコリが舞い上がり、2~3分待たなければ前が見えず、とても走れたものではなかった。雨が降ると、ワダチに水がたまりところどころに小さな池のようになった。こうした現在の舗装路とは比べ物にならない国道(酷道とも言われた!)や県道などの幹線道路は凸凹道が当たり前で、快適な乗り心地が大きな課題だった。
ところが、大人4人が乗れるという命題を満足させるため、足回りが使えるスペースは小さい。しかもすでに話したとおり、ドライバーの足先が前輪の車軸まで延びている。足回り担当は、百瀬とは中島飛行機時代からの仲間である小口芳門が担当した。1914年(大正3年)生まれの小口は、旧制長野工業学校の機械電気科を卒業し、19歳で中島飛行機に入社。そこで、いきなり設計部に放り込まれ、のちに名機といわれた九七式艦上攻撃機の油圧式引き込み脚の開発、九七式の後継機「天山」や試作で終わった「深山」など重爆撃機の足回り開発を担当している。
K-10のサスペンションは、フロントにトレーディングアーム式、リアにはスイングアクスル方式でスプリングにはコイル形状ではなく、鉄の棒のねじりを利用したトーションバーとしている。トーションバーはリーフスプリングなどに比べても場所をとらず軽量化にもなる。ちなみに、戦時中戦車に使われてもいたので、百瀬も小口もそのことを当然知っていた。
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