いずれにしろ車両重量の目標350kgを実現するには、相当の革新技術を注入しないと成功しないことが、開発者グループのあいだで徐々にわかってきた。たんに航空機の技術であるモノコックボディ構造を採用しただけでは、その目標値には届かないということだ。
試作車P-1には当時標準の0.8ミリ厚の鋼板をボディの素材として使ってきた。これだと軽く500kgを超えてしまう。頭を悩ませていたボディ設計担当者のもとに、資材部のスタッフが0.6ミリ厚の鋼板を見つけだした。これなら劇的に軽量化ができるはず。ところが、手に持っただけで、薄すぎて使い物にならないことが分かった。
そのときボディ設計者は、百瀬が描いたスケッチ画を思い出した。「ボディを卵の殻のようにすれば、薄い鋼板でも充分な剛性が得られるボディをつくれるのではないか?」さっそくP-1のトランクリッドを活用し、試作してみたところ、この卵の殻形状デザインで解決が付くことがわかった。薄板は溶接も難しく成型にも神経をつかった。いくどとなくトライ&エラーを積み重ね、実現に漕ぎ着けた。そこで、まず1/5のクレイモデルをつくり、さらに原寸大のクレイモデル、さらには石膏で型をとった石膏モデルをつくり量産への足固めをすすめた。
いっぽう天井は強化繊維プラスチックのFRPを採用し、リアウインドウにはアクリル樹脂を用いることで軽量化に努めた。こうして、目標の350kgには10kgおよばないながらも360kgの試作車を作り上げることができたのだ。
10インチタイヤの提案は、サプライヤーのブリヂストンが大いに協力を惜しまなかった。当時10インチの規格がなかったので、規格作りからはじめ、乗り心地を高めたいという申し出に2プライ構造のタイヤを逆に提案してくれた。当時の小型自動車のタイヤは4プライが常識だったが、4プライでは乗り心地が硬くなるので、4プライの強度を持った2プライにすることで乗り心地と軽量化を両立させることになった。タイヤひとつからすでにチャレンジだった。
このころになると百瀬たちはシトロエン2CVだけでなく、ドイツのロイト400とイタリアのイセッタ300をサンプルとして入手し研究した。イセッタ(写真)はRR(リアエンジン・リアドライブ)で前輪とレッド1200ミリ、後輪520ミリというスクーターから進化したような車で、フロントパネルが1枚ドアになったユニークなミニカー。自動車を作るうえで自由な発想が大切ということをイセッタは教えてはくれたが、今回の百瀬たちが目指すプロジェクトには参考にはならなかった。むしろロイト400のほうが大いに参考になったようだ。このクルマは、スズキのスズライトが参考にした車両で2ストローク2気筒396cc13馬力エンジンをフロントに載せたFFレイアウトでホイールベースは2000ミリ。全長3450ミリ全幅1405ミリ、車両重量500kgであった。スズライトが540kgあったので、K-10の目標値350kgは、そもそも現実味があるのか担当技術者のあいだにいくらか不安が広がった。
ところで、シトロエンの2CV(写真)は、実は百瀬たち当時の技術者に大きなインパクトを与えたクルマであった。第2次世界大戦が終わって3年後の1948年パリ・サロンで発表された2CVは、戦後のフランスの大衆に生活道具として大歓迎され40数年間で400万台を世に送り出したベストセラー。
設計開発を担当したシトロエンの3代目社長ピエール・ブーランジュは2CVのコンセプトを「こうもり傘の下に4つの車輪を付けたもの」と表現。375ccのOHV水平対向2気筒エンジンに1200cc並みの大きなボディは、軽量化のためなんの飾りもなく、ユニークなコイルスプリングによる4輪独立権が方式で、独特の乗り心地をもつ。「籠いっぱいの生卵を載せ農道を走ってもひとつの卵も割れることなく走行できる」「クルマのことを知らない主婦でも簡単に運転できる」など割り切ったコンセプトで大成功したクルマでもある。
K-1も、割り切り具合については2CVに負けてはいない!?
「大人4人を乗せる」という命題を実現するため、開発初期段階でタイヤの径を10インチとした。当時日本のタイヤメーカーが商品化しているのは12インチが最少だった。それより小さいとなるとスクーター用の9インチとなるため、10インチとなるとタイヤメーカーに特別誂えを依頼するしかない。百瀬は、軽量化と室内空間の確保を考えると、10インチタイヤが必然だった。
ちなみに、この百瀬の軽自動車におけるRR方式は、2年後の1957年、イタリアのフィアット社のダンテ・ジアコーザ設計部長の主張とまったく同じだった。「室内スペースを稼ぐためにはリアエンジン・リアドライブ(RR)が有利」だという研究結果をイタリア機械学会で報告しているのである。この考えは、英国のアレックス・イシゴニスがフロントエンジン・フロントドライブ(FF)の「モーリス・ミニ」を設計するまで、小型自動車のメインストリームとなったのだ。ちなみに、FFには欠かせないドライブシャフトには等速ジョイントと呼ばれる機構が必須。当時この等速ジョイントがまだ安定した技術ではなかったことも背景にはある。
昭和30年12月、百瀬の案が正式に認められ、開発がスタートした。
エンジンはラビット・スクーターで成功を収め、シトロエン2CVなど外国製小型自動車をサンプルとして乗用車エンジン開発に着手し始めていた三鷹製作所が担当することになった。百瀬が所属する伊勢崎製作所では、ボディの開発と全体を統括することになった。こうしてコードナンバー「K-10」(スバル360)の開発がスタートした。
ホイールベースを決めてから、全体のレイアウトをまとめていくのは無理だった。それは最初スケッチ画を描いてみてよくわかっていた。百瀬の哲学は、「機械という存在が、人間にサービスするものだ。人間をさしおいて機械がのさばるのは技術屋じゃない」つまり、「人間ありきの技術」をいつも念頭においていた。いまの言葉でいえばMMI(マン・マシン・インターフェイス)である。
そこで、まずドライバーに必要なスペースを割り出してみた。ゆったりと座れ、ひどいオフセットをしなくてもいいシート、ステアリング、ペダルの位置を求めた。とりわけ着目したのはペダルの位置だ。「フロントタイヤのホイールハウスは半円弧状になる。その中心のくびれた部分、つまり車軸となる部分を車内から見ると、少しスペースがとれる。そのスペースにアクセルペダルを置けば、ドライバーの右足をまっすぐ伸びてアクセル操作ができるはず。普通の自動車のペダルがフロントタイヤの後方にある。そのペダルを少し前方にずらせば、車軸の当たる部分にできるスペースを無駄なく利用できる」。この着眼がすべてを決定した。
「フロントタイヤの車軸あたりにペダルを置き、大人4人を乗せるスペースをとったポンチ絵を描くと、リアのスペースが残った。通常のセダンであればトランクルームとなるところだが、そのスペースはまるでエンジンを置いてくれといっているようだった」リアエンジン・リアドライブにすればいいのだ。その絵はそのことを訴えていた。
だが、リアエンジン・リアドライブは、強い横風を受けたときに操縦安定性が悪いという側面があり、百瀬はそのことを充分認識していた。だが、限られた寸法のなかで、人間のスペース重視を優先してデザインするとどうしてもRRになる。FFだろうが、RRだろうが、どんな方式にも長所と短所があるものだ。だから、長所を活かし、短所をできるだけ技術で押さえ込めばいいのではないか、百瀬はそう考えた。
庶民に受け入れられる軽自動車はどうあるべきなのか? そのディメンジョン(寸法)、性能はどうあるべきなのか? 百瀬は考え続けた。技術者は大きな具体的な課題をみずからに課せ、モノづくりをおこなう。4人乗りのセダンを軽自動車の枠、つまり全長が3メートル、幅1.3メートル、高さ2メートル、360ccのエンジン。百瀬は当時としては、次のような高いハードルをかかげた。
・軽自動車の枠内で大人4人が乗れること
・悪路でも時速60キロで快適に走る(加速性能はバス以上、登板能力はバス並み:当時のバスは国産セダンが登れない山坂道を走ることができたとされる)
・車両重量は350kg
・値段は庶民に手が届く35万円
こうしたコンセプトを知ってまわりは驚き、次に絶望的な気分になったようだ。テストドライバーの福島時雄氏もその一人だった。昭和7年生まれの福島は地元伊勢崎工業高校機械科を卒業し、バスの動力艤装、サスペンションまわりやエンジンまわりを担当してもいた男だ。P-1開発では台車の時点からハンドルを握ったドライバーだ。「こんなクルマはできるんですか?」とストレートに聞いたところ、「この程度のクルマはできる。航空機の技術を使えばできる」と百瀬は言下に言い切ったという。百瀬の口癖のひとつにこんなのがある。「出来ねぇ、ということはやる気がないからだ」。困難な挑戦課題を目の前にしたとき、百瀬は表情ひとつ変えずに、涼しい顔で必ずこう言った。「ひとつ、やってみようじゃないか」
昭和30年、百瀬は、次期構想案を上司から打診された。彼の頭には、このときすでに軽自動車の実現をイメージしていたようだ。
当時の日本は敗戦直後の経済復興期を切り抜け、朝鮮戦争による特需で景気が急上昇。庶民のなかにも夢のクルマを持ちたいという機運が生まれ始めていた。軽自動車は、軽免許(二輪免許)で乗れ、税金・保険代などが安く、車検や車庫証明が不要などのメリットがあった。つまりいまにつながる軽自動車が優遇される環境はその当時からあったのだ。当時の軽自動車は、昭和27年に名古屋の日本オートサンダル自動車から発売された空冷4サイクル・サイドバルブ単気筒348ccエンジンを載せた「オートサンダル号」、昭和30年に大阪の住江製作所から富谷龍一(1908~1997年)がデザインした「フライングフェザー」がデビューしている。この2台とも2人乗りのオープンカーで、しかも手作りの少量生産。とてもファミリーユースのクルマとはいえなかった。
本格的な軽自動車の登場は、昭和30年の夏に登場した鈴木自動車工業(現・スズキ)のスズライト号(写真)だった。空冷2ストローク2気筒360cc、最高出力16馬力/4200rpmを載せたFF車。セダン、ライトバン、ピックアップトラックの3つのボディスタイルを選択できたが、売れ筋はライトバンだったという。価格は45万円で、当時小型セダンで日本の日野自動車がノックダウン生産していたルノー4CVの64万円より安かった。だが、当時の大卒の初任給が約9000円の時代、とても庶民が手にする車ではなかった。(ちなみに同じ昭和30年1月デビューした国産発の乗用車クラウンは1500ccエンジンを載せ、価格が約100万円だった)
スバルが、戦後の混乱期のまだ残るなかで初めて手がけた乗用車の試作車P-1は、とりあえず完成した。
開発期間が短かったわりには、たずさわったエンジニアたちは、事を成し遂げた達成感に浸ることができたものの、パフォーマンス自体は現在のクルマに比べるとお寒い限り。最高速が舗装路で108km/h、砂利道で100km/h。これは、運輸省が管轄する東村山のバンク付きテストコースでは外周1キロという、あまりに短いため測定できず伊勢崎と前橋を結ぶ公道での記録だった。公道で全開走行! となれば、いまなら新聞沙汰になるが、当時はなんとものどかな時代だった。(ちなみに、筆者も1970年代、雑誌の編集部員のころ村山テストコースで、ニューモデルのデータ取りをしている。本気でアクセルを踏み込むとコースから飛び出す危険があり、あまりの貧弱さに冷や汗をかいた記憶がある)
富士精密工業製のエンジンは合計11台つくられた。ところが、この富士精密工業がブリヂストンの資本傘下になり、その傘下にプリンス自動車工業があることから、ライバルメーカーのエンジンを載せるわけにはいかず、途中から大宮富士工業製の1.5リッター直列4気筒エンジンを載せることになる。
1950年代に入った日本は、銀行や商社、メーカーなどの実業界の再編成の動きが加速した。富士自動車もこうした混乱の渦に巻き込まれ、P-1を世に送り出す機会を逸することになる。P-1は、「スバル1500」と社長の北謙治により命名されたのだが、その北が急死したこともP-1の不運を決定付けた。けっきょく14台のP-1がナンバーを取得し、うち8台が各工場の社用車となり、残り6台が太田、伊勢崎、本庄などのタクシー会社で営業車として活躍した。
タクシーとなったP-1は、とくに大きなトラブルもなく10万キロ以上を走りきった。社用車となった4号車は走行40万キロをノントラブルで走りきっている。こうしてP-1は、トラジディ的色合いを帯びたクルマだった。でも百瀬たちには、内向きにはならなかった。世にその真価を問うことはかなわなかったが、百瀬をはじめとするこのクルマを手がけたエンジニアたちは、「P-1で自分たちは自動車屋になった」と自信を抱くことができたのだ。スバル360へと続く飛躍への秘めた闘志を燃やすことができたのである。
基本セッティングがようやく終えたのち、耐久走行試験で赤城山や伊香保まで足を伸ばし、毎日20時間ほどの悪路中心の試験をおこなった。耐久走行試験は、机の上であれこれ考えただけでは出てこない“気付き”を開発者に提示した。駆動系の共振で騒音が出る。埃でエアクリーナーつまり出力ダウンする。ブレーキパッドの偏摩耗が起きる。バスやトラックと同じ形式のウォームナット方式のステアリング・ギアボックスはガタが出てハンドルの遊びが大きくなる。ステアリングのバックラッシュを調整することで改善するも、トランスミッションのギアが抜ける、サスのボディ付け根部に亀裂がはいる、ダンパーは走行2000キロで抜けるなどモグラ叩き状態のトラブル。路面からの外乱でフロントサスとステアリングまわりに自励振動が発生もした。これはとくに厄介な課題だったが、最終的にはシミーダンパーを装着することで解決している。
そもそも基準というものがないので、地道な走行テストを繰り返すことで、基準を作り上げていった。いわば闇の中で手探りをしながらの作業だ。その走行実験担当者の一人に32歳の新入社員・家弓正矢(かゆみ・まさや)がいた。家弓は陸軍幼年学校、同航空士官学校を卒業した生え抜きの職業軍人だった。太平洋戦争では飛行第98戦隊の整備部隊に配属され、マレー半島を転戦し死線をくぐりぬけ、海軍指揮下の本庄・児玉飛行場で8月15日を迎えている。敗戦後本庄の農業開拓団に入ったが、農業は性に合わず、心機一転して大学受験を志し、みごと東大工学部機械科(旧航空学科原動機科)に入学。すでに結婚して3人の子供がいたが、本庄で農業をやりながら東京まで通学する生活をやりぬき(本郷3丁目まで距離にして90キロ現在でも電車で片道2時間ほどだから当時はゆうに3時間はかかっている)、卒業と同時に富士自動車に入社したのである。このように、当時スバルの開発陣はいまから見ると、個性豊かで飛びぬけた努力家の人材が揃っていた。
昭和27年、試作車にP-1(パッセンジャーカー:乗用車の意味:写真)というコードネームが付けられ、バスのボディ工場として稼動する伊勢崎工場の一角で設計・試作がスタートした。
P-1の設計陣は、百瀬を中心にわずか10名ほどの小さな所帯だった。フルモノコック・ボディの4ドアセダンのP-1は、FR方式で、フロントのエンジンルームには富士精密工業製の1500ccOHV48馬力/4000rpm、最大トルク10kg-m/2000rpmで低速トルク重視型のエンジンだった。昭和29年2月には16ヶ月を費やし、P-1の試作第1号が完成。さっそく、その試作車を登録し、中島飛行機時代からの整備主任兼実験ドライバーでもある中野修次にハンドルを握らせ、専務の松林を後席に、助手席には百瀬が乗り込み、千葉の成田山に向かった。3人はやや緊張したものの、試作車らしいメカニカルノイズを発生させながら、トラブルなしで往復200キロを走りきったP-1に自信を深めたという。
ところが、これは単に運がよかったに過ぎなかったことが分かる。というのは、試作車を工場内で走行実験するうちにさまざまなトラブルが起きたからだ。ブレーキの前後バランスのチューニング不足だけでなく、トラック用のホイールとタイヤはバネ下重量増加が目立った。ダンパーの動きも満足のゆくものではなかったし、プロペラシャフトも時速90キロあたりで振動で暴れることが分かったのだ。
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