GHQが管轄する日比谷にあったCIE(シビック・インフォメーション&エデュケーション)図書館で百瀬たちが入手した資料の多くは、サスペンション、ステアリング、ブレーキなどシャシーに関する文献だった。
百瀬たちはわざわざ東京に出張の機会をつくり、赤坂や三田にあった輸入車ディーラーのショールームに足を運び、最新のアメリカ車などを観察。ときには巻尺を片手に寸法を測ったり、下回りを覗いて、その様子を観察した。あるいは路上に停めてある一般車両を覗き込むこともあった。事情を知らないオーナーからは不審がられた。杉並区にあった通産省の機械技術研究所(1980年につくば市に移転)でVWの分解調査があると聞くと、当時、外国車を細かく調べる機会がまれだったため、百瀬の部下たちは飛んでいき、寝食を忘れてスケッチした。
こうして自動車に関する知識を深めるうちに、試作すべきモデルのイメージが固まった。富士精密工業製の1500ccエンジンを載せ、4ドアで6人乗りの小型乗用車。サイズは長さ4.3メートル、車幅1.6メートル。実は、研究サンプルとしてイギリスフォード製の4ドアセダンのコンサルとアメリカンモーターズ製のウイルス、この2台を購入していた。
百瀬たちに強いインパクトを与えたのは、フォード・コンサルだった。当時外国人から「日本の道路は道路ではなく道路予定地だ」と酷評されるほど凸凹だらけの悪路を気持ちよく走ったからだ。国産乗用車やトラックとはくらべようのない完成度に大いに刺激された。ボディ剛性の大切さやフロントのダブルウッシュボーンのサス、それにサスペンション・アームとボディのつなぎ目にゴムブッシュを採用することを学んだのだった。
百瀬は文献を求め、東京の大手書店や神田の古本街、国会図書館などをこまめに歩いた。なかでも、クルマづくりへの手ごたえを感じさせた文献は、銀座の丸善で手に入れた「オートモーティブ・シャシー・デザイン」というイギリスで出版された本だった。シャシー設計の基本がかかれていた。いっぽう、日比谷の図書館に併設されていたGHQのCIE(シビック・インフォメーション&エデュケーション)という図書館に行き着き、自動車の関する理論書が何冊かあることを発見した。当初は百瀬一人でその図書館に通ったが、そのうち部下を連れ、さらに複写しようという熱情に駆られ、カメラマンを雇い必要と思われたページを写真として収めていくる必要を感じた。
いまならデジカメやスマートフォンで気楽に取れるが、当時間違いのない写真を撮るにはプロカメラマンを雇うしかない。しかもフィルム代もバカにならないため、特別予算10万円を上司に申請し、許可を得ている。当時初任給が9000円の時代の10万円はほぼ給料1年間分といえる。海のものとも山のものともわからないクルマづくりの投資の第1歩であった。
「フォードのような、世界に認められる自動車をつくろう」
百瀬晋六たち富士産業のエンジニアたちは、こころのなかで思っては見たものの、誰一人として自動車などつくった経験を持ち合わせていない。
たとえば自動車のボディの強度計算はどうやるのか、ということすら把握できていなかった。理論を学ぶつもりで、研究論文に目を通したいと思っても、どこにいけば論文が読めることすら、わからなかった。百瀬は母校の東大工学部を訪ね教授連中に相談をもちかけてもみた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により航空機生産ができなくなり、航空機関係の教授たちは、そのころこぞって自動車の研究にシフトしていたからだ。
でも、東大とはいえ自動車の研究はまだはじまったばかりで、得るものはほとんどなかった。そもそも、当時日産はオースチン、日野はルノー、いすゞはヒルマンという具合に外国メーカーと技術提携し、部品を輸入して組み立てるというノックダウン生産をしている程度。トヨタですらGMやフォードを手本に技術を蓄積している時代であった。
ところが、入社して3年と立たぬうちに戦況が悪化。1945年8月15日、敗戦の日を迎える。晋六、26歳のときだ。戦後連合軍によって占領下に置かれた日本での航空機製造が禁じられた。研究はおろか製造も何もかも禁じられた。中島飛行機は、二度と軍需産業に進出できないように12もの企業に分割された。このとき、多くの技術者は、自動車産業に転進し、のちの日本のモータリゼーションの発展に尽力する。
晋六は分割されたひとつ富士産業のエンジニアとして戦後の第一歩を歩むことになる。群馬の太田市にある呑竜工場と東京の三鷹工場では、1946年からスクーターのラビットを生産し、実績を上げた。晋六が所属した群馬の伊勢崎工場では、バスのボディを生産。晋六は、そのバスボディの設計をにない、航空機時代で培った技術を投入して、シャシーフレームを使わないバスのモノコックボディ化に成功。RR駆動方式で、日本初のモノコックボディの「ふじ号」の誕生である。広々とした車内に、座席をこれまで以上にセットできたことで好評だった。ちなみに、昭和25年8月になると旧中島飛行機=富士産業グループは、新しい法律・企業再建整備法により、伊勢崎工場は富士自動車工業、三鷹と太田の工場は富士産業。荻窪製作所は富士精密工業、大宮製作所は大宮富士工業、宇都宮製作所は宇都宮車両とはなったが、社員たちは相変わらず伊勢崎、三鷹、太田という具合に場所名で呼んでいた。
昭和26年一月、大きな転機が晋六に訪れた。上司である専務の松林敏夫から、「自動車をやりたいので、研究を始めてくれ」というものだった。他社に先駆け本格的な乗用車製造を視野に入れた研究をまかされた晋六は、突然の提案に驚いたが、自動車づくりへの挑戦する気持ちに火が点いた。
ここから“飛行機やから自動車屋へ”と晋六は、新しい一歩を踏み出した。
百瀬晋六が生まれたのは、大正8年2月。長野県塩尻にある造り酒屋の次男坊として生を受ける。大正8年は西暦でいえば1919年、第一次世界大戦が終息し1月にはパリで講和会議が開かれ、大戦後の新世界秩序ともいうべきベルサイユ体制がはじまったころ。同年に生まれた有名人としては、「ライ麦畑で捕まえて」の小説家Jサリンジャー、歌手のナットキング・コール、「飢餓海峡」など名作を残した水上勉(みなかみ・つとむ)などがいる。ここに晋六を置くと、みな“自前の世界”の持ち主である。
百瀬青年は、中学高校と優秀な成績を収め、飛行機技師を目指し東京大学工学部に入学。昭和17年(1932年)に中島飛行機に入社した。中島飛行機は、海軍機関学校卒でフランスの航空業界を見た中島知久平(1884~1949年)という一人の人物の情熱ではじまった。次世代を担う、つまり世界の覇権を握るのは航空機という信念のもと、飛行機研究所を設立、これが発展し、中島飛行機を創業。戦時下には群馬の太田、東京の武蔵野など全国12の製作所をかかえ、従業員約25万人を数えたとされる大組織に成長。97式戦闘機、一式戦闘機、疾風、月光、艦上偵察機の彩雲、それに零式艦上戦闘機などの名機を生み出した。設計部に配属された晋六は、意気軒昂と仕事に打ち込む。ところが、心血を注いで描いた設計図を上司から無言で突き返されたという。「どこが悪いかを自分で考え抜く」という自助努力がこの企業の風土にはあったという。彩雲のターボチャージャーの開発に携わってもいる。
スバル360のプロジェクトリーダーは、百瀬晋六(1919~1997年:写真)という男だった。昭和33年(1958年)3月3日にデビューしたスバル360は、「てんとう虫」という愛称で、1970年までののべ12年間にわたり、約39万2000台が生産された。ちなみに、日本の自動車の生産は1960年にはわずか16万500台だったのが、10年後の1970年には300万台を超えている。このなかでスバル360は、台数こそ際立ったものとはいえないが、庶民に夢を与えた(少し頑張ればクルマを持てるという!)。奇跡的ともいえるユニークなメカニズム。4人がゆったり乗れる居住性を持ち、しかも安い価格。悪路での乗り心地の良さなど、その後の本格的モータリゼーションが花開く序曲としてスバル360の存在は、小さくない。
しかも、そのクルマが、ひとりの強烈な個性の持ち主が司令塔になり、つくり上げていったことが大いに興味をそそる。
ひとの死は、そのひとのことを知る人が世の中からいなくなったときこそ本当に死んだといわれる。百瀬晋六が残した言葉は実はいまでもスバル車のモノづくりの現場にも生きている。いわく「越えられない壁はない。やればできる。できないということはやる気がないからだ」という言葉はいまだに百瀬を知る後輩の耳に残っているし、早朝から深夜まで、納得のいくまで仕事の手を休めることのなかった百瀬の姿は、いまも後輩たちが強く記憶している。「ミスターエンドレス」という、尊敬と親しみ。からかいの気持ちが含まれたニックネームを懐かしむひとも少なくない。「行動を起こす前に、考えて考え抜け」「先に絵を描け、感じのいい絵はいい品物になる」という百瀬語録にちりばめられた言葉は、いまもスバルのエンジニアの心に届いているはず。
子供のころまったく勉学に励むことのなかった筆者には、図書館は無用の長物だった。いまでは来館者が直接本に触れて、本選びができる開架式が主流だが、当時は、金網の向こうにずっしりと蔵書が並ぶ閉架式。いくら魅力的な本であろうと、その魅力は金網越しでは子供の心に伝わらなかった。子供と本の距離は遠のくばかり。
そんな昔の恨みを晴らそうと、先日、近くの子供図書館に足を踏み入れたら、偶然一冊の絵本に遭遇した。『じどうしゃ』というタイトルの絵だけの絵本(10ヶ月~2歳向け)。1966年に福音館書店から出て1986年時点で45刷りというロングセラー。筆者の寺島龍一さん(1918~2001年)はエキゾチックな女性像で知られた著名な洋画家。調べると、トールキンの「指輪物語」や「ホビットの冒険」、スティーブンソンの「宝島」などの挿絵だけでなく、船や鉄道、航空機など機械モノへの関心も高かった画家だ。
この16ページの文字なし絵本の主人公は、“スバル360”。この小さなクルマが最初は赤いコロナの後ろを走っているが、ページをめくるたびにタンクローリーやトラックなど前のクルマをグングン追い越し、やがて信号待ちで停まる。でも赤信号では、後からきた緊急車両の消防車とパトカーが、交差点を越え去っていく。停止線で2台の緊急車両のテールランプを眺めるスバル360。それだけの物語。でもそれ以上の想像の翼が広がる絵本でもある。高度経済成長がはじまりかけた日本。その中心にいたスバル360が身長180センチという当時としては異例のノッポの男が開発に携わっていた事はあまり知られていない。そのナゾを追いかけてみたい。
昭和38年の第10回全日本自動車ショー(現在の東京モーターショー)に初めて400cc1ローターのロータリーエンジンを出品。このとき恒次はロータリーエンジンが載る未発表のコスモスポーツで、会場に駆けつけ大きな反響を呼んだ。恒次一行は、帰路2台のコスモスポーツ(写真)で、協力会社やマツダ特約販売店を訪問している。このコスモスポーツは翌39年の第11回東京モーターショーで正式に発表され、会場の人気をさらった。だが、発売までにはまだ2年以上の歳月を要した。昭和40年はじめには10万キロを走破し、6月に完成した三次テストコースで、連続高速耐久テストをおこなわれるなど、のべ走行キロ数70万キロ走らせた。数々の改良を加えられたコスモスポーツは、昭和42年5月、デビューした。総排気量491cc×2、最高出力110PS、最高速度185km/h、0→400メートル16.3秒という驚異的パフォーマンスだった。
自動車の歴史のなかで、これほど大きな課題を克服し量産化した製品はなかったと断言できる。流麗なスタイルのコスモスポーツを前にして、恒次の感慨が言葉では尽くせないほど深いものがあった。その後、ファミリア、カペラ、ルーチェなどにもロータリーエンジン車を揃え、マツダにロータリーエンジンありきの印象を強めた。コスモスポーツのデビューから3年後の1970年11月15日、マツダを世界の自動車メーカーにまでのし上げた立役者・松田恒次は静かに息を引き取った。●参考文献/「私の履歴書」(日本経済新聞社)、「日本車を造った人々」(トヨタ博物館)、「東洋工業社史」(東洋工業)、「東洋工業と松田重次郎」(東洋工業)、「日本自動車史年表」(グランプリ出版)
★次回からは、スバル360はじめ富士重工業の伝説のエンジニア百瀬晋六さんのあゆみをお届けします。
同時に恒次は、一世一代の事業に着手している。15万坪の本社工場では手狭になったため、宇品に37万5000坪の広大な土地に総合的な一大自動車工場の建設に取り掛かったのだ。これより先に、広島市内から60キロほど離れた三次(みよし)市に45万坪の土地を手に入れ、テストコース用地としている。また昭和29年には、IBMのコンピューターを社内に導入し、工場の合理化、生産管理などのマネージメントを図っている。これは賛成3、反対7という中で、いわば恒次がワンマン振りを発揮し、実行したものだが、その後の社業隆盛に大いに貢献することになる。
東洋工業の社運を左右する新エンジン・ロータリーエンジンは、当初から大きな課題をかかえていた。一定時間運転後にロータリーハウジング内壁面にチャターマークと呼ばれる波状摩耗が生じ、その結果エンジン性能が急落してしまうというものだ。そこで、設計部、材料研究部、生産技術部、製造部、実験研究部からなる「ロータリーエンジン開発委員会」を設置し、課題克服のためのプロジェクトがスタートした。アペックスシールと呼ばれるローターの頂点のシール材の選定、ローターハウジングの内壁などをめぐる研究開発で5年前後の時間を要している。チャターマークは「悪魔の爪痕」と呼ばれ、開発陣を長く悩ませたが、最終的には高強度カーボン材にアルミをしみこませたシールを開発して課題を克服した。多くの自動車メーカーは開発を断念する中、世界で唯一マツダだけが実用化に成功した。
R360クーペは、大ヒットしたものの、4人乗りとはいえ実情は2プラス2で、2人乗りが基本。後席はエマージェンシーシート的存在。そこで2年後の 昭和37年、大人4人がしっかり乗れる「キャロル360」(写真)を発売した。キャロルは、新開発の総アルミ合金製の水冷直列4気筒OHV4サイクルエン ジンで、乗用車にふさわしい静粛性が確保されていた。東洋工業は、R360クーペ、キャロル360で、日本の軽自動車のシェア6割前後を占める破竹の勢い だった。キャロルはその後600,700をデビューさせているが、そのキャロル600で累計生産台数を100万台超えている。50代目までに29年4ヶ月 かかったのにくらべ、それからわずか2年2ヶ月で100万台に到達している。
恒次の自伝には、昭和35年(1960年)は、実に思いで深い年だったと振り返っている。春には軽乗用車R360クーペの発表に続き、秋にはロータリーエンジンについての技術提携の話をまとめるために、初の外遊に旅立ったからだ。
ドイツのNSU社がロータリーエンジンの正式を発表したことがキッカケで、若いエンジニアたちがこれに大きな関心を寄せ、文献などを取り寄せ研究していた。 ロータリーエンジンは、これまでの自動車用エンジンのピストンの往復運動を回転運動に変えることで動力に変えていたのとは違い、シリンダーと回転体とのあ いだにできる容積を増減させ、燃料を吸入、圧縮、点火、爆発させようという画期的な夢のエンジン。ドイツ大使の助言もあり、NSUと交渉し、ロータリーエ ンジンの技術提携にこぎつけた。
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