クーペ出現の呼び水となったのは昭和30年の通産省の「国民車構想」である。これは、最高速度100キロ、燃費がリッター30キロ以上、定員が4名で、価格が25万円以下、というものだった。背景には、目前に迫った貿易の自由化によるアメリカのビッグ3が、まるで黒船のごとく上陸するという危機感があったのだ。R360クーペ(写真)は、開発リーダーがのちにミスター・ロータリーの異名をとる山本健一(1922年~)。デザインは小杉二郎(1915~1981年)だった。強制空冷のV2気筒4ストロークOHVエンジンで4速MTのほかに軽初の2速ATも選択できた。筆者の勝手な推測だが、下肢に障害を持つ恒次の思いもあり、あえてAT車をラインアップしたのかもしれない。実際、のちのキャロルの発売で、R360クーペは存在が薄くなるが、AT車のみは身障者向けのドライバー向けに昭和44年まで受注生産していた。R360クーペの価格は、4速MT車が30万円、2速AT車が32万円だった。
発売直後から人気を博し、月販3000台前後を維持、累計2万3417台を数えている。東洋工業の4輪車進出構想は、実は戦前の昭和12年ごろから始まり、翌年の13年からドイツのオペルを購入し、研究してきたという。なぜオペルなのかというと、ドイツの技術とアメリカの資本が渾然一体となっているクルマがオペルだからという恒次一流の発想があったようだ。
そうこうするうちに父の重次郎から、「復社しないか」との声がかかった。しばらく距離を置いてみて恒次の優れた点を再認識したようだ。年老いた重次郎には、我が子に任せておいたほうが安全かつ得策という打算が働いたのかもしれない。恒次にとってもこの3年間社を離れたことで、第三者的なものの見方が養われた。恒次の不在のあいだに、東洋工業の秩序の乱れが前にも増してひどくなっていた。宿直室では夜毎マージャンに興じる社員、社長室をダンスホールにしているという社員もいたという。そこで恒次は大鉈を振るい綱紀粛正を断行し、業績を高めた。父の重次郎が退き、恒次が社長のなったのは昭和26年12月、56歳のときだ。父の重次郎は、現役を退くと急にハリをなくし、翌年卒然と亡くなった。行年76歳。
父を失った恒次には悲しんでいるイトマはなかった。先にも話したとおり、戦後いち早くオート3輪車の生産体制を整えた東洋工業は、その後20年代に1トン積み、続いて2トン積みの大型3輪トラックを発表し、さらに30年代に入り各種の4輪トラックを矢継ぎ早に世に送った。だが、一番注目したいのは、昭和35年5月に発表した360ccのマツダR360クーペ(写真)だった。このクルマは、東洋工業がそれまで3輪、4輪トラックから乗用車という新分野への進出する足掛かりとなっただけでなく、日本のモータリゼーションのきっかけをつくった存在だといえる。
日本が戦後民主主義に時代が変わったことは、価値観の大変革がおきたことを意味した。大手の企業には労働組合ができ、労働争議が巻き起きる。恒次は、専務という肩書きだったが、役員の中から「父親の跡をその子供が継ぐといった世襲制度は封建的で、けしからん」という声が上がった。
恒次はけっして親の七光りではなく、実力で仕事をやり遂げるタイプの男だっただけに、こうした声が影でささやかれると、嫌気がさした。周りになんの相談もなく、突然社を辞めると宣言。いさぎよく辞めてしまった。昭和22年8月のことだ。
東洋工業を退社した恒次は、次に何をしようとあれこれ考え抜いた結果、ボールペンの軸の生産を始めた。スタッフ20名ほどの零細企業だった。当時ボールペンが登場し始めたころで、羽根が生えたように売れたという。驚くべきことに、先端の小さな鋼球まですべて自社製だったという。でも3年で飽和状態となり、次の事業を探した。編み物機の製造だった。当時は食糧事情が悪く食に関するビジネスが無難だったが、毛糸が安く輸入されていることを知り、編み物機の需要が多くなると見込んでのものだ。ところがこれはなかば詐欺に合いうまく行かなかった。
未舗装路の多かった日本の街で小回りのきく3輪トラックは大活躍した。とくに原爆で70年は草木も生えないといわれ、絶望的と思われた広島。その復興の縁の下の力持ちとして、3輪トラックが果たした役割は大きかった。昭和24年に作られた広島の食品市場などにはマツダの3輪トラックが多くみられた。荷物を載せて小回りがきき、どこにでも移動できる3輪トラックは、ときにはひとを乗せるタクシーに作り変えられ、広島を走った(写真は福山自動車時計博物館が所有する復刻版)。
昭和24年以降、マツダの3輪トラックは、アメリカ、インドネシア、タイ向けに輸出されもした。英語のパンフレットには、「プライド・オブ・ヒロシマ(広島の誇り)」とあった。それは廃墟となったヒロシマを技術で復興させる、という強いメッセージだった。このころには月産1000台を超え、社員数も戦前の800名から3倍以上の2600名を数えている。
恒次の人柄が判るエピソードがある。人ごみの中に入ると必ずスリに狙われ、財布も何もかも盗まれることが珍しくなかった。この上京の車中でも上着も財布もみな盗まれた。初のバイクでアリエルに打ち勝った祝いのときも同じような目にあっている。どこか、まわりからは脇が甘く見えたようだ。逆にいえば懐が深い、おおらかなところのある人物だった。
終戦直後、恒次は、商工省(現在の通商産業省)からの呼び出しを受け、上京した。銀座の光景を見て腰を抜かした。
広島では当時進駐してくるオーストラリア軍に備え、婦女子はみな山へ避難させる、という時節だったのだが、銀座では日本女性が進駐軍のGI(アメリカ兵士の俗称で、当時はこう呼ばれていた)の腕にぶら下がり媚(こび)を売っている光景に出くわしたからだ。「これはちと様子が違うぞ」とすぐに広島にとって返し、今後の方針を立てることになる。平和な時代の到来で、工業製品はすぐにでも売れる時代だ、と直感したのだ。こうして終戦からわずか2ヵ月後には、いち早くオート三輪車の生産にとりかかったのである。
だが、数多くの部品で構成される3輪トラックづくりは簡単ではなかった。
占領軍の方針で鉄板の割り当てがなかったため、ボディ作りに苦慮した。そこで旧日本軍の廃棄したタンクの鉄板を払い下げてもらい、それを素材にした時期もあった(写真)。タイヤの供給が間に合わず、やむなく社員5名ほどが汽車で九州のタイヤ工場に出向き、ひとり4本のタイヤを抱え徒歩で広島に持ち帰るという、今では考えられない挿話もある。
恒次はこうした物不足の時代、八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍を見せた。
昭和12年、東洋工業は、実用車として当時もっとも普及していたイギリスのオースチン・セブン(排気量750cc)を一台手に入れ、これを研究する一方エンジニアの竹林清三をアメリカに派遣。その後モデル車はオペル37年式(排気量1100cc)、英国のMG37年式などを購入している。さらに当時のお金で約55万円(いまの金額で約40億円)を投資してプラット&ホイットニー社のケラーマシン(KELLER MACHINE:金型切削機:写真)、グリーソンの傘歯歯車歯切り盤、フェロースの小型歯車歯切り盤、レーべ社製のカム研磨機などを購入。4輪生産の準備を少しずつ構築。ところが、こうした4輪生産への計画は、戦争の色が徐々に濃くなる中で、第2次世界大戦後に持ち越されることになる。
1945年8月6日の朝、広島の上空で一発の新型爆弾が炸裂した。一瞬にして広島市内は、瓦礫の山となり、10万人以上ものひとが犠牲となった。この爆撃で、恒次の弟の宗彌も亡くなり、従業員の中にも家族を失った者が少なくなかった。ところが東洋工業の工場は、山の向こうに位置していたため、さほどの被害を受けずに済み、原爆で廃墟と化した広島市の中心部にあった県庁、裁判所、警察本部、NHK,中国新聞などが東洋工業を仮事務所として入居してきたため、広島いちの大世帯となった。
こうした企業努力が実り、マツダのオート三輪は、好評を博し、排気量も482ccから485ccに、さらに昭和7年には750ccにアップさせた。また、フレーム構造を変更したり、チェーンドライブからシャフトドライブ、パイプフレームから圧延鋼板フレームへと進化していった。月産300台のペースでのモノ作りが完成していた。3輪オート作りで終わらせるのではなく、本格的なモータリゼーションの到来を先読みして、小型4輪の製造を視野に次のステップを目指した。
父親の重次郎は、早くから3輪と4輪自動車の総合自動車メーカーへの飛躍を視野に入れていたようだ。こうした背景には、当時ダットサンを中心とした小型4輪車の目覚しい台頭があったからだ。昭和10年4月には日産自動車の横浜工場ではダットサンの組み立て一貫生産が始まっていたし(写真)、トヨタ自動車の前身である「豊田自動織機」自動車部では豊田喜一郎以下技術者の手でA型エンジンを載せた「トヨダA1」の試作車が中部地方の山岳路を走破していた。翌年の昭和11年には新設されたレース専用のサーキット多摩川スピードウエイでは初の自動車レース「全日本自動車競走大会」が開かれ、メルセデスなど輸入車に混じってダットサンやオオタ号、それに本田宗一郎あやつる「カーチス号」が活躍していた。
第1号が、1929年(昭和4年)に完成した。支援者の実業家・野口遵(のぐち・したがう:1873~1944年)の助言もあり、国内での販売は、三菱商事に委託することになった。だからこのオート三輪の燃料タンクの側面にはスリーダイヤモンドとMAZUDAのダブルネーミングが記されている。ちなみに、MAZUDAは、暗黒の世を光明にみちびく光の神「アウラ・マツダ(AHURA MAZUDA)」という紀元前7世紀ごろペルシャから創始した古代宗教ゾロアスター(拝火)教の神の名前。それと松田という苗字が似ているとことから採用されている。
当時、工場はわずか3000坪ほどだったが、現在の本社のある府中に新工場を建てるべく、1万坪の土地を購入した。この工場のレイアウトも恒次の指導でおこなわれた。
3輪オートの市場は、「ダイハツ(大阪発動機)」や「くろがね(東京くろがね工業)」などがしのぎを削るなかで、新進メーカーも参入し、5年後の1935年ごろには生産過剰の様相が見られた。販売競争に打ち勝つために、1936年4月にキャラバン隊を組織した。5台のオート3輪「マツダ号」を連ね、鹿児島―東京間1600マイル(2700km)を25日間かけて走破。行く先々で200回近い映画鑑賞会を催しながらの一大宣伝キャンペーンだった。
松田恒次が義足だったことに気づいていた社員は、ほとんどいなかったようだ。1960年代、マツダの品質管理部にいた私の知恵袋的存在のKさんもその一人。この原稿を書くため広島のKさんに電話したところ、当時東洋工業(現マツダ)の社長だった恒次は、部下2人ほど連れ目立たないように現場を視察に来て、よく現場の声を聞き、部下からも慕われる存在だったとエピソードを話してくれた。ところが、義足だったことを伝えると、電話の向こうで驚きの声を上げた。いまのいままで、まったく気付かなかったという。そのことに筆者は驚いた。義足を覚らせないほど恒次は自分のものとしていたようだ。そのぶん、健常者にくらべ過酷なストレスが身体にかかっていたのではないだろうか。
恒次が、のちのマツダに入社したのは、先にも話したとおり、父の重次郎(写真)がマツダの前身である東洋コルク工業の社長として、託された社業の挽回を図るべく悪戦苦闘していた時期だ。機械部門への進出計画が具現化し、図面書きの仕事からスタートした。
その後、オート3輪車の市場調査と部品調達。3輪車を造るうえで必要な部品、たとえば電気部品はどこで入手できるかとか、タイヤ、電装品は・・・一つずつ調べていった。さらにはオート三輪の基本コンセプトも創り上げた。いまから思えば、市場調査から、モノづくりのコンダクターまでいろいろな世界に首を突っ込みながら、仕事に邁進した。足で調べたところ、ある程度スピードが出せないとライバルに勝てないことがわかった。当時3輪車は前輪2輪、後輪1輪のスタイルが主流だったが、これでは安定してスピードが出せないことがわかり、前輪1輪、後輪2輪タイプにした。こうした企業の屋台骨を左右するモノづくりの全般を、義足の恒次が担っていたのだ。
本人が語るところによると、英語や国語といった語の付く学科は不得意であったが、数学と実習の時間は大好きだったという。当時高校野球の前身の中等学校野球がはじまったころ(第1回大会は1915年)で、野球熱が高まり恒次も野球に夢中になり取り組んでいる。
ガリ勉タイプではなく、どちらかといえばスポーツ青年だった恒次に悲劇が降りかかった。卒業後、京都の宇治にある火薬製造所に就職したのだが、1年と続かなかった。まだ子供心が残る恒次には、不案内な京都での一人暮らしはつらかったようだ。ちょうど父親の重次郎の仕事が順調で、ポンプ製造(写真)とロシアからの信管(爆薬の起爆装置のこと)400万個の注文が舞い込み、新工場を設立するなど上り調子。この家業を手伝うことを機に陸軍の火薬製造所をやめたのだ。
これから間もなく不幸が襲った。不運にも結核性関節炎に罹り、左足切断の憂き目にあった。この病は肺結核が多かった時代ではよく見られた病気で、脊椎カリエスとともに治りにくい病だった。
1年3ヶ月におよぶ長い入院生活のなかでの片足喪失。23歳の青年には、これは人生最大の災いともいえたが、この不運を乗り越えることで類まれな精神力を身につけたようだ。人生のなかで一度ならずともやってくる不運にいかに立ち向かうかで、その人の値打ちがきまる。そのときの恒次にそんな心の余裕はない。義足を付け歩行こそできはしたが、片足を失くしたというコンプレックスは長く恒次のこころを苦しめた。だが、その病院で知り合った看護婦の女性と結ばれたことは、恒次の苦痛をやわらげたと推理する。それに父親の重次郎が大きな仕事に立ち向かう姿勢を見るにつけ、そうした個人的な劣等感を打ち壊し、明るい未来を切り開こうという気持ちがふつふつと湧いてきた。
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