刈谷工場では、大量生産を目指すには狭すぎる。これを見越し、数年前に愛知県拳母に191万㎡(58万坪)、いまでいうと東京ドーム約40個分の広大な土地を入手していた。ここに乗用車月産500台、トラック月産1500台の工場を目標に建設がスタートした。
鋳造、鍛造、メッキ、ボディ、プレス、機械加工、組み立てなどの各工場と、事務所、研究施設、寮、社宅、食堂、グランドなどの厚生施設を完備した、日本最初の自動車一貫製造工場である。
1937年9月に着工し、翌年9月に完成、11月3日に竣工式が執り行われた。豊田英二の指揮で、刈谷工場からの機械移設を1か月で完了し、従業員数4848名だ。
なかでも、組み立てラインは、全長が100mのチェーンコンベア・ライン。これが2ラインあり、流れ作業による大量生産方式だ。乗用車組み立て工程は、2階にあるボディ艤装(車室内の組み付け)ラインと1階のシャシー組み付けラインで構成されている。2階で艤装されたAA型のボディをホイスト(クレーン)で吊り下げ、エンジン、足回り、トランスミッションなどが組み付けられた1階のシャシーと合体させる。
と言葉でいうと、すんなりいったようだが、実際には当時はボディの寸法精度がお粗末なので、ボルトの締め付け作業はスパナなどの手工具でおこない、時間とスキルが要求されたという。組み付け完了後も、調整や修理をほどこすケースが多く、ラインとは別の作業場を設け、こうした手直しや調整、塗装の補修がおこなわれた。
この時代、ふつうの庶民は国産初の乗用車をどう見ていたのだろうか?
1926年、東京生まれで東京工業大の工業化学科卒の遠藤一夫氏が、「おやじの昭和」(中公文庫:1989年刊)というエッセイのなかでトヨダA1誕生の頃の東京クルマ事情を回顧している。かいつまんで記してみると……。
「国産車を販売する東京トヨタ自動車販売会社が創設されたのは、昭和10年11月19日であった。有楽町の日劇の向かい側、トウランプ(トランプの間違いではなく、かつて存在した東京電力傘下の白熱球ランプの“東光電気”のこと)の建物があったあたりである。自転車事業の丸石商会の社長、丸石商会の息がかかった人物が支配人だった。11月23日、豊田自動織機創立記念日には、東京芝浦のガレージで、トヨタトラックの発表会があり、参加している。この日は、永野修身大将がロンドン軍縮会議に出席するため旅立った日であり、上海では抗日テロが続発していた」
当時は自転車が移動手段の主役だった。ちなみに、自転車業界で先陣を切っていた丸石商会は明治期末英国のバイク・トライアンフを輸入販売していた経緯もある。
トヨタA1型乗用車は、この年の5月に完成し販売したが、いまでは想像すらできないが国産車というだけで売れなかった。
「足回りは丈夫なフォード、エンジンはシボレー型と外車販売の側が宣伝したため、かえって売れ行きが鈍ったという。故障して止まっているクルマの写真をとり、商売敵に売りつける者も現れた。名古屋トヨタ販売株式会社が設立されたのが昭和10年12月。常務取締役は、日の出モータースの支配人山口昇氏(1896~1976年)だった」
余談だが山口は、若いころ慶応大学の野球部で投手兼キャプテンをしていた人物。戦後トヨタの販売店のリーダー的存在となる。その山口氏は、故郷の中京地区でトヨタのトラックを販売しながら、苦情を聞きそれを好機とばかりフィードバックし、信頼耐久性を高めていったという。東京で売り出した11年3月には、ずいぶん信頼を勝ち取った。販売にあたったのは、山口氏とも懇意だった元日本GM販売広告部長だった神谷正太郎氏だ。
ここで注目したいのは、当時の東京市内の自動車模様である。
昭和10年、東京市民が見る街中のクルマはほとんどが外車だった。東京市の統計課がタクシーの実情を調べたという。その結果、市中にはタクシーが1万1580台いて、運転手が7452人。会社組織が159で、残り7293人はすべて個人営業だった。車種はフォードが2546台、シボレー1561台、この2種で総数70.5%を占めた。
東京での発表は、芝浦サービス工場でおこなわれた。トラックの価格は、3200円、シャシーだけなら2900円ときめた。これは原価を割り込んだ価格で、アメリカ車よりも200円ほど安かった。ちなみに、1年後に発売された乗用車トヨダAA型の方は、3350円で、フォードやシボレーなどに比べ350円以上も安かった。当時のサラリーマンの年収が700~800円だったので、とてもじゃないが庶民がクルマを持てる時代ではなかった。
販売し始めたトラックのG1は、かならずやトラブルが続発するはず。そう想定した喜一郎たちは、初代販売店となった名古屋の「日の出モータース」と相談し、最初の販売台数を6台だけと限定した。販売先も限定することで、故障が起きてもすぐさま対応できる体制を整えた。予想にたがわず、いたるところで故障し、昼夜を問わずフル稼働で対応した。喜一郎はみずからクルマの下に潜り不具合の箇所を確認し、設計や材質の変更を命じた。ここでトラブルというトラブルを出尽くさせることで、その後の不具合数を劇的に減らし、徐々に信頼性を獲得していった。
昭和11年に入ると、G1トラックの事業も初期の混乱期を脱し、順調に動き出した。神谷による1府県に1ディーラー網の整備も着々と進んでいった。その年の2月に刈谷に組み立て工場が完成し、従業員も昭和7年に500人程度だったのが、3500人を超す陣容となった。このころ、のちにトヨタの社長にもなる東北大学工学部卒の斎藤尚一(1908~1981年:写真)や佐吉の弟の次男・豊田英二(1913~2013年)などが入社した。
同じ年の5月、東京の丸の内で「国産トヨダ大衆車完成記念展覧会」が開催された。G1型を改良したGA型トラックに並び、AA型乗用車4台もお披露目された。AA型は試作車のA1型を一歩進めた完成車だった。全長4737mm、全幅1744mm、全高1736mm、乗車定員5名、最高速度時速100キロというトヨタ初の乗用車だ。
全面的に販売をまかされた神谷正太郎は、「販売網の充実なくして量産体制の完成はあり得ず」とした。そこで神谷みずから、地方の資産家を訪ね歩き販売店になるように説得した。
熱意と誠実さに動かされ、東京を皮切りに栃木、静岡、岐阜、群馬などのディーラーが誕生し、昭和11年には岐阜ではフォードを抜いてトヨダの販売台数が凌駕した。群馬では登録台数の半数以上をトヨダが占めるという快挙を演じている。
昭和13年の秋には、神谷正太郎は、各府県に一軒の全国ネットを完成させ、さらに翌14年には遠く樺太トヨダ、釜山トヨダまで設立している。
G1型トラックは、乗用車のAA型より1年前倒しの1935年(昭和10年)12月に発売した。車名は「トヨダG1型」。
AA型乗用車のプレス金型の設計と製作に取り掛かっていた昭和9年年末、商工省と陸軍省から国策上の理由でトラック・バスを製造してほしいとのオファーがあったのだ。喜一郎は当初は、政府の補助金を頼ると自助努力の妨げとなり、乗用車製造に悪影響を及ぼすと考えていた。だが、そのころフォードが、手狭になった横浜のノックダウン工場をより広い工場を作り上げ、日本市場ばかりか中国市場へも大きく手を広げる動きを見せており、これを阻止する陸軍省および商工省との対立も露骨になっていた。こうした情勢を見た喜一郎は、「まずトラックからやろうではないか」と決意した。
そうと決まったら、開発はすさまじく早かった。
すでにこのへんはお話はしているが、おさらいの意味でもう一度お伝えすると、1935年3月、34年型のフォード・トラックを購入し、これを参考にシャシー設計をおこなっている。すでに33年型シボレーのエンジンをモデルにした乗用車用の「エンジンA」(図版)の試作が完成していたので、これをトラックに流用することにした。フレームは丈夫なフォード式、フロントアクスルはエンジンと搭載との関係でシボレー式とし、リアアクスルは全浮動式のフォード式と、当時としてはそれぞれの長所を生かした設計だったとされる。
とにかく開発期間半年ということもあり、間に合わない部品は、シボレーとフォードの補修部品を活用することにした。
G1型トラックの試作完成したのが8月25日。翌9月に6日間の日程でおこなわれたのが前回にお話した走行テストである。
いま考えれば驚くべきことだが、モノづくりに力を注ぐあまり、販売面についてはほとんど準備がなかった。それだけ世の中はのどかだった、といえた。
でも、フォードやGMがすでに日本くまなくサービスネットワークを張り巡らせていた。これに肩を並べるほどの販売ネットワークを構築する必要がある。切実にこのことを気づいた喜一郎は大至急経験豊富な人材を求めはじめた。
その後の歴史を知る者には、人との出会いほど不思議なものはない、と強く思うに違いない。
そうしたタイミングで喜一郎が知りえたのが、のち「販売の神様」と呼ばれた神谷正太郎(1898~1980年)である。神谷は、もともと名古屋市の南、知多半島の付け根にある知多郡(現在の東海市)の生まれ。名古屋市立名古屋商業高校を卒業後、三井物産に入りシアトルやロンドンの駐在員をへて、独立。自前の鉄鋼関係の商事会社をロンドンで設立し、インドや日本向けの鉄鋼を輸出していた。だが、現地での炭鉱労働者の労働争議のストライキで立ち行かなくなり帰国。
帰国後の昭和3年、英語が堪能だったこともあり日本のGM法人にいまでいうヘッドハンティングで入社。
2年後には大阪本社販売広告部長を務め、同時のエリアマネージャーとして販売店の設立や経営指導の経験を持っていた。日本GMのなかではナンバー2の存在だった。
このタイミングで喜一郎と神谷は出会うことになる。
神谷正太郎37歳、豊田喜一郎41歳だった。GMは、販売店に一方的なノルマを課す過酷なやり方に疑問を抱いていた時期で、喜一郎の情熱と人格、そして将来への夢に心が動かされた、「あなたがきてくれるのなら販売のすべてを任せる」という全幅の信任を得て、販売を引き受けることになった。
ちなみにGM時代の給料は300円(現在貨幣価値で約80万円)だった。いきなりの役員待遇でのトヨタ入りではあったが、給料は1/3の月100円で引き受けた。男同士の息に通じたというか、二人のあいだに化学反応が起きたんだろうね。本田宗一郎と藤沢武夫の出会いを重ね合わせる読者もいるかもしれない。
トヨタ初の乗用車となる「トヨダAA型」のプロトタイプA1型の開発は、じつはトラックの開発も兼ねていた。
同じエンジン(A型エンジン)をはじめとする主要コンポーネントを使い、シャシーは1934年式のフォードのトラックをお手本にしてトラックも同時並行して開発されていた。「G1型トラック」がそれで、もともとは軍からの要請だった。でも実情は、少し違った。当時は、トラックの方の需要の方がはるかに大きく、ビジネス的にはトラックを優先すべしという声もなくはなかった。つまり、乗用車専用で開発するにはリスクが大きすぎたのだ。
そこで、1935年9月、A1型試作乗用車とG1型トラックのテストが行われた。
当時は、いまのような専用のテストコースがあるわけではないので、一般公道での走行試験である。コースは、愛知県の刈谷をスタートし、東海道を東へ進み、箱根を越え東京。東京から北に向かい熊谷、高崎を経て伊香保温泉。伊香保から西に向かい碓氷峠を越え、上田を経由して松本。そして松本から山梨の甲府に出て、甲府から静岡県の御殿場、さらに熱海に着き、熱海からふたたび東海道を西に向かいゴールの刈谷まで…‥そんなルートでA1型が5日間で1433km、G1型トラックはそれより1日長い6日間で1260kmを走破したという。
改良のためのデータ集めだったが、実際は走行中次々にトラブルや故障に見舞われた。リアアクスル・ハウジングのフランジ取り付け溶接部が折損、プロペラシャフトが折れたり、ステアリングが効かなくなったり、トランスミッションが破損したり…‥現在の感覚でいえば、「危なくて乗っていられないクルマ!?」だった。
部品一式を積んだサービスカーが伴走していたからいいものの、単独走行ならその場でアウト。重大トラブルが起きたら万事休止だ。もちろんマイナーなトラブルは両の手指の数を越えた。
でも、その都度修理しながら、何とか予定の行程を走り終えてはいるが、前途多難な船出だった。明治維新からわずか70年しかたっていない極東の国が単独でクルマを作るということとはこういうことだった。愚直にならざるを得なかった。
トヨダAA型のボディについては、喜一郎は特段のこだわりを持っていたようだ。
当時のボディは、「木骨ボディ構造」と呼ばれるもので、木材を主体にしたボディが当たり前だった。が、これをシトロエンやクライスラーがいち早く先取りした「オールスチールボディ構造」に変革しているが、これをいち早く取り入れた。
それだけでなく、10年はデザインが旧くならないとされた最新鋭のデソート・エアフローのクライスラーをコピーすることにした。これは流線型のモダンなエクステリアで、ドイツ系移民のエンジニアであるカール・ブリア(Carl Breer1883~1970年/写真)の手によるもので、風洞を使ったエアロダイナミックス・デザイン。
数年前LAにある自動車博物館を取材したとき、たまたまクライスラー社の基礎を作ったひとりカール・ブリアの特別展を開いていた。ドイツから新大陸アメリカにやってきたブレアの父親はLAで鍛冶屋を営み、馬の蹄鉄などをつくっていた。スタンフォード大学で学んだ息子カールの輝かしい業績をパネルなどで紹介されていた。しかもそのクルマのデザインの背景にはもうひとつ知られざる事実を見つけた。初飛行を成功させたライト兄弟による飛行機をデザインしたデザイナーを仲間に引き入れていたのだ。空力を特徴づけた斬新なデザインを作り上げたのは、こうした時代の背景があった。
そのデソート・エアフローのクライスラーは、デザインがあまりに斬新だったせいか、営業的にはあまり振るわなかった。でも、クルマの歴史のなかではエポックを作り上げたクルマとして、いまでも高い評価を得ている。ちなみに、デソートとは、15世紀のスぺイン人探検家・エルナルド・デ・ソト(1496~1543年)のことで、ミシシッピー川を白人として初めて発見した、とされる人物でもある。
トヨタ初の試作乗用車「A1型」と呼ばれたプロトタイプは、1934年に完成する。ボディのパネルはいまのように薄板鋼板を素材に金型にプレスで成形するという手法ではなく、すべて職人の手による手叩き製法だった。木の金づち、金床、定盤、それにゲージという実にシンプルな道具を使いながら成形していった。シャコ万と呼ばれるC型クランプで隣り合うパネルを仮り組み、しかるのちに溶接をおこなう、そんな手法である。
出来上がったエンジンをダイナモメーター(台上試験機)でテストすると、手本にしたシボレーのエンジンが65馬力なのに、各パーツをコピーして作り上げたエンジンは45馬力しか出なかった。しかも、すぐオーバーヒートする傾向にあり、その対策にも頭を悩ませた。燃焼室の形状の見直しや吸排気ポートの形状を変えるなどして、さまざまな試行錯誤を強いられている。
トランスミッションのギアの加工にも、苦労している。当初、歯車の形状が不明で、ギアを作り上げる成型にどんな道具を使えばいいのか皆目見当つかなかった。のち歯車の権威となる成瀬政男博士(1898~1979年)が新鋭学者として東北帝大に在籍。若手社員を2名急遽東北帝大に国内留学させ、そこで歯車議論の講義を聞き、持参したシボレーのトランスミッション・ギアを解析。測定装置を備えた機械工業用の顕微鏡を用いて、10ミクロンオーダー(1/100mm)での正確な歯形を測定できた。このデータに基づき、10倍に拡大した波形曲線を描き、成瀬博士が確立した理論式により、歯車の形状を確定し、加工したという。
こうした経験で、当初は海外の旋盤を使い切削などをおこなっていたが、徐々により使いやすい自作旋盤を改善し、旋盤自体も増やすことで、効率と作業の正確度を高めていった。
ブレーキにも課題があった。参考にした流線形のボディデザインを持つクライスラー・デソート車には、当時先進技術だった油圧式4輪ブレーキが採用されていた。当時は、機械式が一般的で、油圧は国内にはなかったので、ブレーキ部品一式とブレーキフルードも輸入品を使うことにした。
トヨタの技術陣はこのとき愚直に課題に向き合った。ただ単にその場しのぎで輸入品を使うのでは思考停止に陥る。今後の展望を考え、ブレーキまわりの研究とブレーキフルードの国産化に取り組んでいる。当時のブレーキフルードは、植物油を主成分とし、適切な粘度に調整する必要から、アルコール系の溶剤が混入されていた。化学試験室での調査研究の結果、植物油のひまし油にジアセトン・アルコールを加え、粘度を調整するのが最適だとわかり、小規模ながらも自社生産を始めている。むかしから、キャッスル印のプライベート・ブランドのブレーキフルードが存在するのは、こうした歴史的背景があったからだ。
喜一郎たちが最初に取り組んだのが、このシボレーのエンジンのシリンダーヘッドとシリンダーブロックの鋳造だ。
たとえばシリンダーブロックでウォータージャケットを形成するために中子(なかご)を設ける。入り組んだ3次元構造で、作り込むことに大変な苦労をしている。ちなみに、この中子は正確には、乾燥油を使った油中子。あらかじめアメリカの鋳物専門誌で、油中子の知識を得てはいたが実物を見たことがなかった。砂に混ぜる乾性油は、紙を張り付けた提灯や唐傘に塗る防水用の桐油(きりあぶら)を用いることにし、岐阜の唐傘屋から入手したという。これを知多半島内海海岸の浜砂と混ぜて油砂を作った。この油砂を木型に入れ造形し、陶器用の焼成炉で焼いた。桐油の混合率や焼成の温度・時間を一つ一つ変えながら、油中子製作の要領を会得していった。
当初は鋳造後シリンダーの内面にボーリング加工を施すと、巣(鋳造時にできる空白部)が現れることが多く、10個作ると、8個もしくは9個は失敗作(オシャカ)だったという。こうした失敗を踏まえ、内面をさらに削ると巣がほとんどできていないことに力を得て、削り代を多く見越して鋳造をおこなうことで、ほとんど無駄が出ない鋳造づくりができたという。
シリンダーブロック、シリンダーヘッド、ピストンなどは、コピーした自社製品でまかなえた。でもクランクシャフト、カムシャフト、バルブ、スパークプラグ、電装品などは国内での調達がままならず、シボレーの輸入部品を採用している。
ところが問題はそれだけに収まらなかった。
1930年代のトヨタは、とりあえず、ボディ外板の質の良い薄板鋼板はアメリカから輸入した。鍛造部品などの鉄素材である特殊鋼は兵器用の素材となっていたが、社内開発と決めそのための「製鋼部」を設立している。この部署が20年後に愛知製鋼として独立しクランクシャフトやギアなどの生産を担うことになるが、いまは話を深めないことにする。(ちなみに、愛知製鋼には東海市の社内敷地に「鍛造技術の館」という博物館をもっており、一般公開している。筆者もここに足を運び、取材したことがある。)
本来は、日本人の手でゼロからクルマを開発するのが理想ではあるが、現実問題としては、当時の日本の技術力は、欧米のそれとは比較にならないほど低かった。そのことに向き合うことからスタートした。具体的には、研究開発部門、いまの言葉でいえばR&Dから始めた。そして、たとえばエンジンなら、お手本とするエンジンを見定め、それを愚直にそっくりそのままコピーするところから始めた。文字通り、“学ぶことは、真似ること”を意味した。
昭和8年8月には、前年の秋以来取り組んでいた2気筒4馬力のバイクモーターの試作10台が完成している。これに相前後して、大島理三郎と鈴木利蔵をアメリカに派遣し、工作機械の買い付けをおこなっている。
そこでシボレーの6気筒3389ccOHVエンジンをお手本にすることになった。
シボレーのエンジンに白羽の矢を立てた理由は、フォードよりも燃費が良く、量産エンジンとして比較的ポピュラーで、エンジンの各部品の調達ができるという理由からだ。このシボレーは、日本人にはとくに因縁のあるクルマだ。太平洋戦争での激戦地の一つとされる硫黄島で、日本軍の最高司令官・栗林忠道中将(1891~1945年)。かれが駐米武官時代アメリカ大陸を自らハンドルを握りクルマを運転しているのだが、そのクルマがシボレーなのである。息子の太郎君宛てに絵手紙を書いているが、ほのぼのとした文面とともにシボレーがリアルに描かれている。
(写真は、渡邉春吉さん所有のシボレーと直列6気筒エンジンが収まるエンジンルーム。まだ現役で走っている!)
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