この野口遵(のぐち・したがう)のアドバイスもあり、恒次の父であり東洋工業の総帥・松田重次郎は、機械部門を設立してオートバイの試作を始めている。これはイギリスのフランシス・バーネット号とダグラス号の2台を輸入し、分解し、図面に起こし、いわばコピーしたものだ。エンジンは2ストローク単気筒250cc。試作車6台をつくり、さらに30台量産し、当時のお金で350~380円で販売している(銀座の地価が坪6000円の時代)。このバイクは広島市恒例の招魂会オートレースで、英国製の名車アリエル号をも凌駕したという。これを機にオート3輪車の製作に打ち込もうという機運が高まった。昭和4~5年ごろのできごと。
機械部門の設立前後に入社した恒次は、製作担当者と二人で3輪車を作るうえで必要な電気部品、タイヤなどの購買関係のリサーチに東京や大阪を回っている。実はこの物語の主人公である恒次にとって、大阪はふるさとの地であった。というのは、父親が呉や佐世保などでの仕事に熱中していたため,子供のころは大阪の祖父母の家で育てられていたからだ。物心ついた時分、父親が大阪で鉄工所を営んでいた頃がある。父親の重次郎は、そのころ松田式ポンプを開発商品化し、旱魃(かんばつ)で凶作気味だったタイミングもあり、大いに売れた。こうした父親のモノづくりの熱い眼差しは、自然と恒次の心に染み込んだ。鞴(ふいご)を吹いたり、旋盤を眺めたりしていたことからモノ造りへの関心が高まり、大阪市立工業高校へ進学している。
マツダ(当時の社名は「東洋工業」)は、もともと1927年創業の「東洋コルク工業」から始まる。文字通りコルクを作るモノ作り企業だったが、この物語の主人公・松田恒次の父親の松田重次郎(1875~1952年)が、この会社の社長だった。赤字経営が続いた企業を立て直すための助っ人的役割をになって、社長に就任したのである。この重次郎がまた凄い人物だった。
重次郎は、広島の向洋(むかいなだ)、という瀬戸内の漁村で生まれ、14歳のときに大阪に出て、鍛冶屋の修業や機械の製作技術を習得、そののち呉や佐世保の海軍工廠などで造船技師として活躍。その後、独立し松田製作所を立ち上げ、「松田式ポンプ」を発明し、当時旱魃の自然災害もありそれなりの成功を収め、故郷の広島に居を移し、周りから押されて東洋コルク工業の経営を任されることになった。このころ物心両面で、何かと交流があった実業者に野口遵(のぐち・したがう:1873~1944年:写真)がいた。野口は東大の電気工学科を卒業後、ドイツの多国籍企業シーメンスに入社後、次々に新事業を打ち立て、明治後期から昭和初期にかけて活躍した政商である。日本窒素肥料(元・チッソ)を中核とする日窒コンチェルンを一代で築いた実業家でもある。積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業などを創業し、広島電灯(現・中国電力)や日本ベンベルグ絹糸(現・旭化成)を設立したところから「電気化学工業の父」とも、朝鮮半島のコンビナートを造成するなどで「朝鮮半島の事業王」とも称されている。
アメリカのビッグ2(GMとフォード)が、日本に進出した背景は1923年(大正12年)の関東大震災にある。震災で首都の交通網(路面電車)が大打撃を受け、当時の東京市電気局は急遽フォードのT型シャシーを大量に輸入。これをベースに11人乗りの乗り合いバスを架装。“円太郎バス”(写真:円太郎は当時人気のあった落語家・橘家円太郎)の愛称で親しまれ、渋谷・東京駅間と巣鴨・東京駅間の2路線でスタート。日本人がはじめて自動車という存在を意識するきっかけとなり、アメリカの自動車メーカーの経営陣には、日本を自動車市場のひとつとして強く印象付けたのである。
当時の日本人には個人所有の自家用車は雲の上の存在だった。性能、価格、サービスなどどれをとっても、そのころ日本車は外国のクルマには立ち向かえなかった。こうした舶来の自動車は、当時のごく一部の富裕層向けの乗り物だった。大多数の庶民にとっては、移動の手段といえば、徒歩かせいぜい自転車によるのが当たり前だった。モノを運ぶときはリアカーや大八車が活躍していた、そんな時代に動力付きのマツダの3輪車(当時の呼び名は「オート3輪」)は瞬く間に大人気となった。戦前の免許制度は、試験によるものではなく許可制だったことも、普及に拍車がかかった。日本のオート3輪の市場は、1920年代から始まり、当初は零細企業が乱立したが、1930年代末になると、「ダイハツ(大阪発動機)」、「マツダ」それに「くろがね」の3大ブランドへの評価が定まったとされる。
自動車を大量に作るには莫大な資金も必要。資金は、地域財界のバックアップを受け設備投資。地場産業に恵まれたといえるのである。
材料や素材を工場に運ぶ手段のほかに、完成した自動車を運ぶ手段も自動車工場には必須である。交通の便も、鉄道、道路といった陸上輸送のほかに、前が瀬戸内海だから海上輸送にも便がよい。意外と知られていないが、マツダは北海道などへの国内輸送に海上を活用した初めての自動車メーカーなのである。マツダが自動車工業を持続するうえで必要な、“ひと・モノ・カネ”はこうした背景があったのである。
マツダのクルマ造りの歴史は、1931年(昭和6年)、3輪トラック「マツダ号DA型」(写真)から始まったとされる。なぜ、初めから4輪車生産を始めなかったのか、不思議に思うかもしれないが、日本はモータリゼーション以前の社会情勢だったからだ。橋本増治郎の快進社による、のちのダットサンにつながる国産車ダット号の製造へのトライなどがあったものの、圧倒的な実力のあるフォードとGMの日本進出で、国産車生産は不発に終わっている。フォードは1925年(大正14年)に横浜に、GMは1927年(昭和2年)に大阪にそれぞれ組立工場をつくりノックダウン方式(部品をアメリカから持ち込み、組み立てるモノ作り)によって、あわせて年間2万台近いクルマを販売していた。
なぜ、瀬戸内海の位置する広島に自動車メーカーができたのか? この謎を解くカギの一つが、「安芸の十り(テンリ)」だといわれる。
安芸とは言うまでもなく、現在の広島県の西部の旧国名。その安芸に語尾に「り」が付く特産品というか、加工技術製品があったとされる。ヤスリ、イカリ、ハリ、クサリ、キリ、モリ、ツリバリ、カミソリ、ノコギリ、ヤリの鉄製品である。このうち大半が、漁業で使う道具というのは、瀬戸内海という海に面しているのと、造船業のさかんな呉市が近いからだ。
こうした鉄製品は、もともと明治期まで中国地方で展開されていた「たたら製鉄」により生産された鋼が材料だったゆえ。“たたら”とは、ひらがなで表記することが多いが、漢字では「蹈鞴」と書くことからもわかるように、本来は「フイゴ」を意味する言葉。日本書紀をひも解くと、神話上の天皇である神武天皇のお妃として「ヒメノタタラ五十鈴の姫の命(みこと)」という女性が登場するという。つまり、たたらは当時としては極めて重要な技術の一つだったと想像できる。
広島に総合自動車メーカー誕生の謎を解くカギは、広島から東に約20キロのところに呉海軍工廠(こうしょう:軍需工場の意味)があり、そこで働いていた技術者がたくさんいたことも挙げられる。呉の海軍工廠は、戦艦「大和」の建造で有名だが、日露戦争前夜の明治36年に誕生している。工員の数は当時の3大工廠と呼ばれた横須賀、佐世保、舞鶴の合計を超えるほどで、ドイツのクルップと比肩しうる世界の兵器工場、日本海軍艦艇建設の中心だった。さらに近代的な自動車工場を成立させるためには、広大な土地が必要だが、瀬戸内海の塩田地帯が存在したことも小さくない。マツダは、塩田跡を活用して工場をどんどん広くしていったのである。(写真は明治20年ごろの後年マツダの工場となる向洋)
マツダの技術開発のビジョンは、単に掛け声だけにとどまらなかった。わずか5年ほどで、エンジン、トランスミッション、シャシー、ボディの4分野で、全面的見直しをいっせいにおこなったのだ。これほどリスキーなことはない。
19世紀末にベンツ第一号が完成し、1908年にはフォードが本格量産ベストセラーカーのモデルTを世に送り出して以来、世界には数多くの自動車メーカーが誕生しその大半は消えていった。いままでどこのメーカーもそうしたゼロから全面的に見直すという無謀な開発シフトは行なわれなかった。背景には「このままではマツダは埋没し、やがて歴史の闇の中に消える!」という強烈な危機意識があったとはいえ、その企業の精神構造はどこから来るのだろう?
思えば、マツダは、広島という中央から遠く900キロも離れたところを拠点にする自動車メーカー。そのマツダという自動車メーカーの原型をつくった男がいる。今はほとんど忘れかけられているのだが、2代目の松田恒次(まつだ・つねじ)だ。この恒次は、明治28年(1895年)に生まれ、いまから40数年前の昭和45年(1970年)に亡くなっている。だから、現在の現役のマツダの社員をはじめエンジニアたちは、ほとんど知らない。広島にある本社の庭には、恒次とその父でありマツダの創業者・松田重次郎(1875年~1952年)の銅像がひっそり並んでいる。風景のなかに溶け込んでいるせいか、一瞥をしても、事あらためてマツダの社員がこの銅像に心を寄せることはたぶんないのではないか・・・。
先を急ぎすぎるようだが、それにしても、瀬戸内海の一都市である広島に、なぜ総合自動車メーカーが誕生できたのか? 思えば、これは大きな謎である。
マツダはいまから7年前の2007年3月、技術開発の長期ビジョン「サステイナブルZOOM ZOOM宣言」を発表した。当初は、日産カルロス・ゴーンの企業改革の焼きなおしとして、業界ではさほど注目されなかったが、徐々に“魅力あるクルマ”を次々と世に送り、いまやスカイアクティブが業界で大暴れしつつある。デミオ1500ディーゼル(写真)などは、ひとつの到達点に見える。
サステイナブルというのは、「環境、社会的側面で現在だけでなく将来にわたり引き続き貢献できる」という意味。ZOOM ZOOMは、赤ちゃん言葉の“ブーブー”つまり“動くもの”への人間本来が持つ憧れや喜びを示す。
魅力あるクルマというのは、ただ単によくできたクルマという意味ではなく、時代に即し消費者にとって大枚をはたいて買うに値する、売れるクルマのことだ。見て乗りたくなり、乗って楽しくなり、そしてまた乗りたくなる、そんなクルマ。自動車という工業製品は、一般消費者を相手にするものだけに、多面的な側面を持つ。ある人はエンジン音に惚れたというだろうし、ある人はカタチが魅力的だから購入したという。またカラーリングにグッときたという消費者もいる。こうした購入動機は、言葉にすることで一人歩きするが、やはり本当のところはブランド力が大きな購入動機になっている。ブランド力とは、一体何か? “物語に裏づけされた高い品質”と言える。いろいろな要素で構成されているクルマの品質を決定付けるのは、エンジン、トランスミッション、シャシー、ボディの4大要素だが、ブランド力とはそれにいい意味での情緒が加わるといえそうだ。
今回から破竹の勢いとも言うべきマツダの歴史を18回にわたって探る。調べてみると、個性豊かなひとりの男が浮き彫りとなる・・・。
240Zの爆発的人気で、スポーツカー史上が劇的変貌を遂げた。
英国、イタリアのスポーツカーメーカーは没落し、ドイツのポルシェは240Zを意識して914から924にモデルチェンジしたが、240Zの牙城を崩すことができなかった。
1975年、240Zが戦列に加わったこともあり、アメリカにおける日産(ダットサン)車の販売は、VWやアウディ、ベンツ、ポルシェなど欧州の輸入外国車を抜き去りナンバー1になった。片山は、夢を抱き続けそれをひとつのカタチにするためにチャレンジし続けた。それは大きく実り、その勝利の美酒をようやく心いくまで味わうことができた。やがて、クルマ好きのアメリカ人は、敬意を込めて片山豊のことを≪ミスターK≫と呼ぶようになった。
通常これほどまでに企業に貢献することができた人物なら、当然上層部はそれなりの処遇をするものだ。ところが人間社会の残酷さといってしまえばそれまでだが、帰国した片山が与えられたのは関連会社のポストで、いわゆる閑職でしかなく、その後、片山は日産を去る。
≪北米にZ(ジ-)カーを広めた男≫ミスターKが大きな話題にのぼったのは、皮肉にも日産が、ルノーとの提携で外資を導入し、生産中止だったフェアレディZを復活した日(日本では2002年7月30日)だった。日本の約4倍のメインの市場アメリカでの発表会は、ロサンゼルスでおこなわれた。そのお披露目は、94歳の片山豊が取り仕切ったのだ。アメリカではよく知られたミスターKの久しぶりの晴れの舞台だった。外国人の経営者の粋な計らいでもあった。片山はあらためて評価され、多くの自動車ジャーナリストは、その偉業を再認識することになるのである。
だが時は流れ、片山が全人生を費やしたDATSUNというブランド名は、北米のトラックでその名がかすかに残るぐらいで、実質上は消えてしまった・・・・。
●参考文献
「国産車100年の奇跡」(1978年/モーターファン)、新井敏記「片山豊 黎明」(2002年/角川書店)、黒井尚志「Zをつくった男」(2002年/双葉社)、片山豊・財部誠一「Zカー」(2001年/光文社)、「日産自動車30年史」(1965年/日産自動車)、「日産自動車40年のあゆみ」(1973年/日産自動車)、「21世紀への道」(1983年/日産自動車)、「日産自動車吉原工場50年史」(1994年/日産自動車 富士工場)、桂木洋二「日本における自動車の世紀/トヨタと日産を中心に」(1999年・グランプリ出版)、「戦後産業史の証言」(1977年/毎日新聞社)、高杉良「労働貴族」(1980年/講談社)、高杉良「覇権への疾走」(1984年/講談社)、「私の履歴書・鮎川義介」(1980年/日本経済新聞)、「トヨタ博物館」カタログ(1989年/トヨタ博物館)、「20世紀の国産車」(2000年/国立科学博物館)
●取材協力
清水榮一(日本モータリゼーション研究会)、木村良幸(日産自動車/エンジン博物館学芸員)、日産エンジン博物館
(次回は、マツダの基礎を創った「松田恒次物語」が始まります)
こうしてスポーツカー・ダットサン240Z(のち日本で発売するフェアレディZの原型)が世に出たのである。
運動性能を高める目的で、技術的にはエンジンやトランスミッションなど重量物をできるだけクルマの中央に集めることが、エンジニアを悩ませた。だが、これら複数の難問やハードルは、日本の美を備えたアメリカ仕様のスポーツカーが誕生するための陣痛のようなものだった。待ち望んだ240Zのアメリカデビューは1970年だが、その前年、最終試作車がロサンゼルスの片山の元にやってきた。待ち焦がれた恋人にようやく会えた気分だった。高鳴る気持ちを抑え、ステアリングを握った片山には、大地を疾走する本物のスポーツカーに酔いしれた。トルクの豊かな2400ccのエンジンと、それを裏付けるような野太いエキゾーストノート。
予想を超えた完成度の高さに満足だったが、一つだけ無視できない問題点が露呈した。時速80マイル(128㎞/h)を越えたあたりから車体にバイブレーションが発生するのである。リアのドライブシャフトの取り付け方に問題があった。これを解決するには、取り付けスペースを確保するために燃料タンクを小さくする必要が出てきた。だが、ただ単に燃料タンクを小ぶりにすると航続距離が短くなり、GTカーとしての商品性を損なうことになる。
そこで、片山の意図を汲んだエンジニアは、安全性を維持しながら、ボルト1本まで見直し約50kgの軽量化に成功、燃費向上を実現。航続距離の面でも不満のないレベルに高めた。結果的に競合車を圧倒する燃費のいいクルマとして位置づけられた。このときの片山の判断は想定外のプラスをもたらせた。スポーツカーであるのに燃費がいいという悪くないレッテルを貼られた240Zは、1970年代から起きたオイルショックを生き延び、その後1978年までの9年間でトータル54万台というスポーツカー史上の記録となる売り上げを残した。
まだ見ぬアメリカ仕様のスポーツカーへの思いは豊(ゆたか)の頭の中で、どんどん膨らんでいった。
スポーツカーと言ってもレース用のクルマではなく、旅行用に使われるクルマである。そのために快適でなくてはいけない。エンジンパワーは大きければ大きいほどいいが、車体とのバランスも忘れてはならない。駆動装置、ディスクブレーキ、独立式のサスペンション・・・当時のテクノロジーの最高峰のものを盛り込むことも必要だ・・・GTカーである。グランドツーリングカーというのは、いつでも好きなときに出発でき、自分が思うところへ人に迷惑をかけずにいける。機動性と全天候性を併せ持ち、長距離運転しても疲れを感じさせない居住性と快適性、それに旅行用の荷物を載せられるスペースを持っていればベターだ。
片山は、東京に一時戻ったとき、デザイナーの松尾良彦(まつお・よしひこ)に自分が暖めていたイメージを伝えた。かくして出来上がったデザインは、雄大な大地を優雅に疾走するGTカーの精神そのものだった。松尾から日本人が古来から風景の一部としていた日本刀のイメージを重ねたものだと説明された。それを聞いた片山は、かつて母から何かの折に耳にした「あてはか(貴はか)」という言葉を思い出した。「あてはか」とは、あまり聴きなれない言葉だが、高貴で上品なさまをさす。日本の伝統美をそこはかとなく感じさせる言葉だという。
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