みなさん!知ってますCAR?

2014年9 月15日 (月曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第28回

初代ムスタング  順風を身に受けた片山は、ダットサンブランドをさらに高めるクルマの企画を暖めていた。
  スポーツカーである。それも世界に通じるアメリカ仕様のスポーツカー。そこにはそのクルマ独自の思想を注入しなければいけない。そのクルマのレゾーンデートル(存在意義)がなくてはいけない。本質を認識し、その精神を込めて生産されるべきクルマ。
  片山の頭のなかには、1962年の全米モーターショーで登場したフォード・ムスタング(写真:二玄社「世界の自動車46」より)の威厳のある圧倒的な存在感があった。ムスタングは、アメリカのスポーツカーとしてアメリカ人の原風景になっている。輸入車でいえば当時一世を風靡したジャガーXK。ロングノーズでシャープなエクステリアのXKが前を走り去るとき、人はその姿に思わず時間を忘れ、この世の美の一つに熱いまなざしを向けたものだ。
  広大な北米でジャガーがベストセラーカーになるには、大きな障害があった。初期のダットサンのように商社扱いだったため、アフターサービスが整備されていなかったからだ。片山には、アメリカ日産のサービスシステムの充実ぶりで、早晩ジャガーに勝てると踏んだ。足を使ったドブイタ的営業をコツコツ培ってきたゆえに、その判断に自信があった。口にこそ出さなかったが、のべ6年間のアメリカでのカービジネスでアメリカ人の心をつかむ自信があった。

2014年9 月 1日 (月曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第27回

510  片山は、立場からいえば人の上に立つ立場にはなったが、偉い人になったといって、のけぞって生きていくという俗人のタイプからは遠く離れていた。日本での勤務時代、経営陣との軋轢や人間関係に翻弄され、苦しんだ経験から多くを学んだからかもしれない。
  どうしたら社員が働きやすく、力を発揮してくれるか? 「仕事をするために同じ会社で働くことになった人間同士、上司も社員もなく、繁栄については全く同士だ」 これが片山の持論であった。自分の仕事部屋のドアはいつも開いている。そう社員にいつも伝えていた。
  片山たちの努力が実を結びつつあった。ダットサンというブランドがアメリカ人のあいだにも浸透し、その当時の輸入台数2万台では間に合わない状態だった。1967年にデビューしたダットサン510(国内ではブルーバード510)はアメリカ市場でも飛ぶように売れた。このクルマは、L13型1296㏄とL16型1595㏄エンジンの2タイプあり、L16仕様車には独立サスペンション、ディスクブレーキなど当時の最新メカニズムを注入し、三角窓を廃止、ドアガラスに曲面ガラスを採用するなどでのちの世に4ドアセダンの原型とまで言われた名車である。

2014年8 月15日 (金曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第26回

ミスターK  当初はビッグ3の牙城が厳しく、日本製の乗用車は思うように売れなかった。そこで片山は、日系人の家に一軒一軒回り、ダットサンのピックアップトラックの便利性と使いよさを説明して売り歩いてもいた。何ゆえピックアップトラックか?
  本社からの指示もあったが、1961年から62年にかけて、ダットサンブランドで一番売れたのは実はダットサントラックで、約45%も占めていた。とくにカルフォルニアなど西部では乗用車を逆転し、ダットサントラックのほうが台数で勝った。これは価格の安さ、頑丈で経済的で悪路にも強く、小回りがきき機能性が高かったからだ。日本では考えられない使われ方がされたことも、その背景にあった。DIY精神が豊かな西海岸では大型ホームセンターがあり、そこから木材などの素材を購入し、自分で家を作ったり、修復をしたりする習慣があり、そうしたライフスタイルの中でピックアップトラックが大活躍したのである。
  それまで、こうしたトラックがアメリカには存在していなかったため、燎原の火のように広まり、ダットサントラックがピックアップトラックの代名詞とまでなったほど。
  片山の目覚しい努力がようやく実を結び、アメリカでの販売実績はどんどん上向きになった。とくに西部の売り上げは本社の予想に反して東部の約3倍にも昇った。人口の比率にしても道路網の充実にしても、はるかに東部のほうが有利にもかかわらずそうした結果であった。本社もこうした片山の実績を無視することができず、1965年に片山はアメリカ日産の社長に就任する。とりあえずは、報われたというべきである。

2014年8 月 1日 (金曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第25回

ミスターK

  心を動かされた片山に、経営者の男はこんなことを言った。「まわりの人たちが楽しければ自分も楽しくなれるものだ」すると片山は「私共のクルマをぜひ売ってもらいたい。ディーラーのあなたに、まず先に儲けてもらいたい。あなた方が豊かになれば、その次に私共が儲けることができる」
  すると経営者の男は、「お前はへんなことを言うやつだな。生まれて始めてそんな言葉を聞いたよ。アメリカのどこの自動車会社の関係者からも、そんなことを聞いたためしがない」
  「大丈夫、あなたが儲けさえしてくれれば、私たちも自然と儲かる。あなたが豊かになれば、こちらも豊かになり、互いに気楽に付き合える。そうすれば互いに信頼感を深められ、仕事を進められ、それだけでもこちらとしては利益になる」言葉だけではない信頼感が二人のあいだに電流のように走った。
  そんな出会いは、片山を勇気づけ、これまでの努力がいっきに報われた気持ちになった。
  以来、その時、その店主に言った言葉が、片山のディーラーに対する姿勢の基本となった・・・「あなた方ディーラーに、まず先に儲けてもらいたい。あなた方が豊かになれば、わたしはあなたの次に儲けることができる」 ユーザーと直接向き合い最前線で働いてくれる人を豊かにしてから、こちらも豊かになる・・こうして片山は、ともすれば失いかけていた自動車メーカーとしての誇りを取り戻すことができたという。こうした人たちを裏切らないためにも、ディーラーやカスタマーの緊急事態に備えることが信頼の証である。具体的には新車の部品も含めすべてのパーツをストックしていくことを念頭に置き供給率を高めていった。

2014年7 月15日 (火曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第24回

ミスターK  そんななか、打ちひしがれた片山にささやかな光明が見えた。
  ロサンゼルスのある中古車店に飛び込みで入ったところ、はじめは取り合ってくれなかった店の親父が、たどたどしい英語ながら熱心に説明する片山の姿に打たれたのか、「金はないが、鍵と一緒にそこにクルマを置いておいてくれ!」といってくれた。売れたらお金を払うよ、ということだ。考えてみればこれはとんでもない賭けだ。しばらくして様子を見にその店に行くと、もぬけの殻ということもありえるからだ。実際、ごくわずかだが、詐欺にあったこともあった。
  ダットサンを知ってもらうためには、すがるような気持ちで相手を信じるしかなかった。この片山の土俵際ともいえる熱意を込めたビジネスは、やがて実を結んでいった。片山は、こうしたドブイタ的営業を約1年間やりぬいたという。そんな体験の中で半世紀近くたった現在でも、片山が時々思い出しては反芻するエピソードがある・・・。
  店先にはピカピカに磨き上げられた中古車がずらり並んでいて、中年のまじめそうな経営者である夫、奥さん、それに息子が家族一丸となって明るく仕事をしている。そんな感じのいい店に行き当たったときのことだ。敷地の片隅にはトレーラーハウスがあり、家族はそこで寝起きしている様子。豊かさとは距離のある家族だが、アメリカンドリームを夢見るハッピーさが伝わってくる。

2014年7 月 1日 (火曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第23回

ミスターK  そこで、片山は、ユーザーに不便をかけないためにも、まだ買い手がつかない部品をあらかじめ予備として部品倉庫に在庫するという、今ではごく当たり前の手法を採用した。
  部品がらみの笑うに笑えない問題がもうひとつあった。
  当時日本へのオーダーはテレタイプといって、穴の開いたテープで情報を送る通信機器を使っていたのだが、情報の漏洩を防ぐために暗号化していた。たとえばAという文字は、「そうです」という意味とかBは「そうではない」という意味という具合。しかもそのテレタイプ通信は商社の丸紅を通しておこなうため、ヘッドライトやテールレンズなど部品に左右(RとL)の区別のある場合、取り違えたり、全く異なる部品を発注したりしたことが珍しくなかった。
  商社に頼らない、自前の本格的なダットサンの販売網を作り上げるため、片山はみずから自動車の販売店に飛び込みで入った。
  ところが、ダットサンに関心のある人たちはどこを探してもいなかった。アメリカ人は、キャデラックに目を輝かせても、東洋の小さなクルマなんかには誰も振り向かない。とくにGM,フォード、クライスラーのビッグ3の販売店に足を踏み入れても誰一人話を聞いてくれなかった。

2014年6 月15日 (日曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第22回

ルノー  1960年代、商社などに頼っていては、クルマは売れない。幸いにも、カルフォルニアに広がる広大な自動車市場は、ヨーロッパとの経済的かつ文化的なつながりが薄いため、地理学上からもNYなどの東海岸市場より日本車を受け入れる土壌は十分にあると考えた。
  アメリカの西海岸ではどんなクルマが売れるのか、いわゆる市場調査も怠らなかった。ダットサン310に近いクルマ、コンペティターは、オースチン、英国フォード、オペル、フィアットなどがあったが、その中で、一番ダットサンに近いリアエンジン・リアドライブのルノー・ドルフィン(写真:世界の自動車「ルノー」より)というクルマの比較データを本社に送り、時期ニューモデルづくりの基礎固めとしている。
  ダットサンの販売に関して大至急改善しなければならない事項は、パーツの管理だった。
  よく知られるように、自動車は、通常の商品、たとえば食材や衣料などと異なり、売りっぱなしというわけにはいかない。自動車を売るということは「走ることができる状態のクルマ」を売るわけなので、ユーザーの手に渡ったときから、サービス、パーツの補給が整備されていなければならない。
  1960年代のダットサンはパーツの管理ひとつとっても、いまから見ればずいぶんお粗末だった。設計変更のたびに部品が変更されるのだが、部品番号がきちんと管理されていなかったり、古い部品が欠品していたりして、オーダーしても間違ったパーツがきたり、欠品が多くお話にならなかった。迅速なサービスをおこなううえで大きな障害になっていた。

2014年6 月 1日 (日曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第21回

ミスターK  片山が取り組むべきタフな課題が、もうひとつあった。アメリカ市場における日産の販売網の充実である。それまで外国の新聞・雑誌などに目を通してきた片山には、現地での視察により、当時のアメリカの自動車市場を見通せた。これから何をなすべきかがかなり明確に捉えられた。
  1950年代半ば、アメリカでは自動車の需要が伸び、自動車メーカーはその需要に追いつかず、ユーザーはクルマを手に入れるためプレミアム価格で入手している状況だった。こうした隙間を突いて、欧州のVWが、驚異的な速度で販売台数を伸ばしていった。片山はVWの秘密を探れば、日本車を売り込むことができると考えた。VWの強みは、技術的な優秀性、経済性、それにサービスネットワークが整備されていたことだった。同じ欧州車のルノーや、フィアットはクルマの販売に重点を置くあまり、販売してからのサービスがおざなりだった。地道なサービス活動をすれば、ユーザーの信頼を勝ち得て、リピーターにもなってくれる、ということを片山は見抜いたのだ。
  当時アメリカにおけるダットサンの販売は、商社にゆだねられていた。西部地域は丸紅飯田、東部地区は三菱商事に販売の一切を任せていた。片山は、西海岸地区を担当したのだが、当時の丸紅が展開する業務というのは、わずか3軒の地元ディーラーにクルマを卸しているだけに過ぎなかった。商社のスタッフは、とくにクルマへの熱い思いがあるわけでもなく、直接セールスマンを雇い、拡販の努力をする気配すらなかった。

2014年5 月15日 (木曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第20回

日産310  1960年代の初頭、日産はアメリカ市場戦略としてハワイを足がかりにし、「ダットサン310」を売り込もうとしていた。1960年2月、50歳を迎えた片山豊は、羽田からアメリカに向かった。途中ハワイの日産ディーラーで発売したばかりのダットサン310をテスト走行させてみた。ところが、真珠湾を望む峠で、突然セカンドギアがだめになり、走行不能に陥った。それ以前にも310はリアのアクスルシャフトが折れるというトラブルを抱えていたが、今回ギアボックスにも問題が出たのである。
  こうしたトラブルは、ひとつの例だが、当時のダットサンは、追浜の高速周回路が1961年に完成する以前のこともあり、背景には高速安定性やブレーキ性能に課題があった。なかでもブレーキの利きに関しては、サーボ付きのドラムブレーキでは制動力にむらが出たり、異音が発生したりという不満の声が聞こえてきた。一方、北米東部ではエンジンの冬季の始動性が悪いという不満もあった。これらの大半は日本市場では考えられない部類の問題であった。
  日本国内に比べ速度域の高いアメリカのフリーウエイを過不足なく走る実力を備えていなかった。厳しい言い方をすれば、国際商品としては未熟な部分が少なくなかったのである。
  エンジニアではないが、クルマに精通している片山は、こうした不具合を取り除くことがみずからに課せられた使命だと考えた。本社の開発部隊では、北米向けの仕様に関する部隊を「カクユウ部隊」と呼んでいた。ユウというのはUSAを意味し、四角の中にUが入る記号なので「カクユウ部隊」となったのだ。

2014年5 月 1日 (木曜日)

今年103歳を迎えたミスターK物語 第19回

片山さん  紅顔だった少年がやがて白髪の老人になるという意味では、たしかに≪時の流れ≫ほど残酷なものはない。だが、時間がなければ何事も成し遂げられないし、人は目を細め自分の過去を振り返り微笑むこともできない。
  今年103歳になった片山豊。いまも熱く読み継がれている小説家・太宰治(だざい・おさむ)や、社会派推理小説家として新しい地平を開き、現在もその作品がTVや映画化されわれわれを楽しませる松本清張(まつもと・せいちょう)と同年なのである。しかし太宰の小説はおろか、清張の小説にも自動車はほとんどそのテーマではなかった。彼らの青春時代はまだ自動車の姿がなかったからだ。
  片山は、日本が高度経済成長時代に突入する間際の1960年にアメリカに旅立つ。本格的にアメリカへ日産車を輸出するための市場調査という名目ではあるが、上層部の狙いは体(てい)のいい島流し。50歳の片山は、そのとき徒手空拳に似た気持ちだった。彼には何の勝算もなかったが、もともと明るい性格で、前向きに物事を捉える節があったようだ。
  そのころ日産本社では、労働組合と経営者側の確執、それを複雑にした権謀術策が渦巻いていた。煩雑な世界から距離を置いた別世界で、片山は仕事に打ち込んだ。力量を正当に評価するアメリカ社会で、鋭い洞察力を大いに発揮し、片山の世界はぐんぐん広がった。アメリカといえば、地球上に誕生したモータリゼーションの発祥の地であり、かつ最大の自動車市場だ。その自動車中心社会において、やがてDATSUNの名は確固たるブランドとなる。気がつけば片山は、東京(本社)の日産を上回るDATSUN王国を構築していた。

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