ラリーという競技での経験は、片山に挑戦する勇気と戦う誇りを再認識させた。日産という企業にも大きな誇りをもたらせた。静岡にある吉原工場周辺では、いまから見ると時代錯誤じみたクラス優勝を祝って提灯行列(ちょうちんぎょうれつ)がおこなわれたほどである。
次の年の1949年、競泳の世界でフジヤマのトビウオと呼ばれた古橋廣之進(ふるはし・ひろのしん)が世界記録を樹立、同じ年湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)が物理学で戦後初のノーベル賞を受賞した。これと同じくらい、当時、自信を失っていた日本人に自信をよみがえらせた出来事としてダットサンの活躍は、国民の記憶に残ったとも言える。
同じ年の1959年、日産は、新型ダットサンを登場させた。310、初代ブルーバードである(写真)。ブルーバードは、トヨタのコロナの好敵手でもあったが、両車は、日本の高度成長経済の牽引の役割を果たす。
ところが、片山が上司から命を受けたのは、アメリカへの赴任だった。片山は数々の実績を残しながら、社内では正当に評価される存在ではなかった。北米赴任は一見、輝かしいものに映るかもしれないが、社内の権力闘争の嵐に巻き込まれた体(てい)のよい左遷だった。片山が日本を離れ、遠く北米で新しい地平を見つけるべく旅だったのは、ちょうど50歳のときであった。
ラリーに出場するマシンは、1957年10月に登場したダットサン210だ。イギリスのオースチン譲りのOHV(オーバーヘッドバルブ)方式の1リッター、34PSエンジンを載せ、曲面強化ガラスを採用し、電装を従来の6Vから12Vにグレードアップしたものだ。本番を半年後に控え、トレーニングと車両作りをかねて、東北地方各地の未舗装路を1日1000キロ目標に試走したものの、VWをはじめヨーロッパ勢の参加車両を眺めるにつけ、ノウハウもなくいわば手探り状態。当初絶望的な空気が支配していた。想像以上にダットサン210が丈夫でよく走ることを確認できたが、何しろ初挑戦の不安と期待がうずいた。
1958年8月、日産から富士号と桜号の2台がエントリーした。
車体前方にはカンガルーの衝突事故に備え、鋼鉄製のガードを取り付けていた。トヨタ自動車からも3台エントリーしていたのだが、このカンガルー対策を怠っていたおかげで、車両が破損し途中棄権を余儀なくされている。だが日産チームにも苦難はあった。
サポートカーを持たないため、とくに工具の問題が深刻だったという。エンジンがオースチン製だったため、ボルトナットがインチ工具、シャシーやボディはメトリックス(ミリメートル)のため、工具自体を2セット揃えないといけないなど、むだな時間とスタッフの疲労を誘った。それでも、ダットサン210の高い耐久性に力を得て、過酷な19日間1万6600メートルのレースに耐え抜き、富士号はクラス優勝、桜号はクラス4位という予想外の好結果をもたらした。
たまたま覗いていた外国の新聞記事からオーストラリアのモービルガス・トライアルのことを知る。1万9000キロを19日間で走破する過酷な自動車レース。ちょうど東南アジア諸国への輸出が始まっていたころで、企業の宣伝効果と、将来モータースポーツで実力を極める足がかりにしようという目的を掲げ、片山は出場を提案してみた。当時日産社内は、1953年から始まった大規模な労働争議で経営者側・労働者側だけでなくそれぞれの派閥が入り乱れて浮き足立っていた。それ以後長く続く、労使の奇妙なもたれあい体質が始まりつつあった。内部抗争にエネルギーをそがれ、徐々に経営が弱体化していく時代だった。
こうした社内の空気のなかで、新たにモータースポーツの世界で打って出ようという彼の提案を受け入れてもらえる余地などどこを捜してもなかった。たとえ実現しても、ラリーに負けでもしたら、その責任を取らされて首になることは必至。しかし片山は心の中で考えていた。社内で縮こまっているよりは、自分を賭ける世界を切り開きたい。そんな思いにせかされていたのかもしれない。
当時、不思議なことだが日産では、海外への出張は組合との協議事項となっていた。
ラリーのレース出場も海外出張の範囲。結論から言えば、組合主導でオーストラリアでのラリーに参加することになった。ドライバーやメカニックの人選も組合の意向を汲んでのもので、片山はいわば蚊帳の外。組合推薦の選手と整備担当者は、海軍兵学校出身、戦車隊の元隊員、剣道の上級者、特攻隊の生き残りなど猛者ぞろいだが、およそモータースポーツが何たるかを理解していなかった男たちだった。しかし日産チームの中では、英語を操れ、外国人とコミュニケーションできるのは片山しかいなかった。
フライングフェザーは、1954年4月、日比谷公園内で開かれた「第1回全日本自動車ショー」で発表されたのだが、のちの東京モーターショーに続くこのイベントの開催に尽力したのも片山豊だった。シンボルマークのギリシャ神話の勇者が大きな車輪を抱えるユニークなロゴは、片山のアイディアを画家の板持龍典(いたもち・りゅうてん)が図案化したものだという。
展示車両267台、うち国産車229台が春の日の日比谷公園を飾った。乗用車がわずか17台で、大半はトラックとオートバイであった第1回の自動車ショー(写真)は、それでも54万人以上の来場者を集め10日間の日程を終えている。
第1回の自動車ショーに展示された乗用車のなかには、富谷龍一がつくったフライングフェザーのほかに「ダットサン・スポーツDC3」が展示されていた。戦後初の国産スポーツカーである。戦前多摩川レースで大活躍したオオタ自動車の経営者兼エンジニアで、日本初の4輪駆動車「くろがね四起(よんき)」(1939年)の車体設計をした太田佑一(おおた・ゆういち:1913~1998年)の作品だった。当時日産の宣伝課長であった片山は、このクルマの開発を推し進めたひとりでもあった。
こうした好景気を背景に、満州自動車から再び日産に戻った片山豊は、宣伝課長としての腕を振るった。当時どこの企業も、新型車開発や販売などに比べ、宣伝という部署はどちらかというと窓際的な存在だったという。
そんな中で、豊の周囲には新しいクルマ作りへの情熱を抱く人物が集まっていた。
富谷龍一(とみや・りゅういち:1908~1997年)もその一人。千葉大工学部出身の富谷は、昭和9年に日産入社。戦前はデザイン課でダットサンのデザインを担当。戦後はダットサンのボディを手がける住江製作所(住江織物の子会社)で、「フライングフェザー」(写真)と呼ばれるコンパクトカーを作り上げ、日本の自動車デザインの鬼才といわれた。
フライングフェザーは、4サイクル空冷V型2気筒200㏄エンジンをリアに載せるRR方式で、前後ともに横置きリーフスプリングの独立懸架方式。車両重量400キロ、定員2名。リアカーを思わせる大径のホイールやパイプ製のシートを組み込み、軽量化を図るなど好燃費を特徴とした斬新なものだったが、フロントブレーキが付かないこと、耐久性に課題があったこと、販売体制が整っていなかったなどで、翌年生産中止。わずか48台が世に出たに過ぎない。
フライングフェザーと相前後して、同じく富谷龍一が手がけた「フジキャビン」も忘れがたいユニークな車だ。これはもともと占領軍所属自動車の修復事業を展開していた富士自動車が手がけたもの。日本初のFRP製モノコック・ボディ。キャビンスクーター「フジキャビン」のエンジンは、ガスデン(瓦斯電)製の2サイクル単気筒125㏄ 5.5PS。日産が、小型エンジンメーカーの東京瓦斯電気工業(戦前戦中航空機エンジンを製造していた名門)を合併した直後で、その小型バイクのエンジンを流用したものだ。定員2名、車両重量140㎏と超軽量だった。これも量産化の困難さや販売でつまずき、わずか85台で終わっている。
日産がとった手法は、英国のオースチン社と技術提携を結び、ノックダウン(部品を持ち込んで組み立てる方式)することだった。オースチンA40をノックダウン方式で年間2000台組み立て、そのあいだに英国のものづくり技術を身につけ、3年後にはオリジナルの国産自動車を完成させる思惑だった。
オースチンのノックダウンは、1952年から8年間続いた。ちなみに当初、国産部品はタイヤ、バッテリー、それに平ガラスの3点だけだったが、3年後の1955年には国産部品が200点以上を超え、さらに1959年には完全国産化に成功、本国(イギリス)製のオースチンよりも性能・品質が高いとの評判を得るところまで行った。
一方、オリジナルの国産車として1955年(昭和30年)に生まれたのが、ダットサンA110(写真)である。フレーム付きのボディで当時の道路事情に合わせた頑丈なものだが、戦前からのダットサンに比べて操縦性が高められ、トランスミッションはシンクロメッシュを備えた4速ギアで、高い評価を得た。同系のダットサントラックと合わせ、月産1200台体制になった。
この1955年という年は、いわゆる神武景気と呼ばれた頃で、白黒テレビ、洗濯機、電気冷蔵庫が家庭に普及し、経済成長率10%を超える好景気に沸いた頃でもあった。
軍需品の輸送・補給という戦争になくてはならない兵站(ロジスチックス)や後方活動の役割を日本が担ったのである。前線で酷使したアメリカ軍の軍需トラックやジープの修理、加えて生産もその仕事の大きな部分だった。それを担当したのが日産、トヨタ自動車などの戦前から自動車製造を展開してきた自動車生産工場。隣国の戦争は疲弊していた生産工場に富をもたらせた。数年前まで戦争で青息吐息だった日本は、今度は同じ戦争での後方支援というカタチで富を得るという皮肉。降って沸いたビジネスのことを≪特需≫(特別需要)と呼んだ。その特需により、日産、トヨタだけでなく開店休業だった日本の産業を蘇らせたのだ。
この特需は、単に衰弱していた日本のものづくり工場に仕事をもたらせただけではなかった。旧態依然の日本のものづくりのクオリティを、いっきに高める役割も果たしたのである。
その当時、外貨をかせぐために盛んに製品を輸出し始めていた。今では想像できないことだが、日本の製品は粗悪品の代名詞であった。≪安かろう、悪かろう≫というのがメイド・イン・ジャパンの海外での評判だった。アメリカやイギリスなどの自動車産業に比べ、日本製の自動車はまるで幼稚園扱いの製品でしかなかった。品質の管理、量産技術など先を行く先進国の自動車メーカーから学ぶべきところは山のようにあった。いわゆる先進国から技術などを学ぶ、キャッチアップの時代だった。
敗戦後の日本の社会は、混乱を極めた。
軍需産業の崩壊と兵士の復員などにより失業者が急増、1945年の秋にはその数は1400万人といわれた。食料不足と戦災などにより住宅も極度に不足、しかも極度なインフレにより国民生活は、未曾有の危機に陥った。クルマ造りどころの騒ぎではなかった。
ところが、戦後新しい国際緊張の時代を迎えたことから日本の立場に変化がおき、日本の経済復興が想像以上に加速する。アメリカを中心とした資本主義勢力と、ソビエトを中心とした共産主義勢力が対立し、日本はアメリカの自由主義圏に入ったことが、その背景。
1950年6月に朝鮮半島で、東西両陣営が戦争状態に入った。北緯38度線を境にして、西の大韓民国をバックアップするアメリカ軍の自由主義連合、東陣営は金日成率いる朝鮮民主主義人民共和国が中国共産党中国人民義勇軍、それにソ連を後ろ盾に、両陣営は一進一退の戦闘状態が約1年続いた。
日本は、この朝鮮戦争が始まる4年前に制定された平和憲法により、戦争放棄している都合上、前線にこそ出ることはなかったが、補充基地としての大きな役割を果たした。このことが、自動車メーカーを蘇らせるのである。
時代は、徐々に戦争の暗い時代に突入していく。1937年(昭和12年)に始まった日中戦争から、日本は戦時体制へと傾いていく。戦争を遂行するために経済が国家の管理化におかれていく。翌1938年には、乗用車の生産制限が始まり、トラックの生産重視時代に移行し、やがて乗用車の生産が止められた。同時に満州への進出が本格的となる。日産の総帥・鮎川義介(あゆかわ・ぎすけ:1880~1967年)は、満州自動車製造を設立し、満州における工業化に乗り出す。満州における重工業の計画は壮大なものだった。
満業(満州重工業開発株式会社)日産コンツェルンの総帥鮎川義介を経営の中心とする国策企業は、鉄鋼業、軽金属工業、自動車、飛行機などの重工業、石炭産業や鉱工業をその傘下におさめた。日本と満州の民間資本ばかりでなく、外国資本の参加を募り、自動車生産を年間5万台、飛行機の生産を年間1万機。これを7~10年で作り上げようとする壮大な計画だった。主人公である片山豊(かたやま・ゆたか)も満州の自動車都市計画の建設要員として満州に出向くが、地に足が着かない軍部の満州政策に絶望し、首になることを覚悟で帰国。
帰国を許された豊は、有楽町にあった満州自動車の東京支社に勤務。戦争が激しくなり、東京は大型爆撃機B29が襲来し、未曾有の被害をこうむった。妻の実家ある自由が丘に身を寄せていた豊は幸運にも焼け出されることなく、1945年8月15日の敗戦の日を迎える。
当時は、自動車といえばフォードとシボレーの時代だった。国産品は、自動車に限らず信頼性が足らないとして、軽く見られていた。量産自動車第1号のダットサンには、ロードスターというスポーツタイプのハードトップとセダンがあったが、売れ行きは芳しくなかった。とくにセダンの販売が思わしくなく、大量の在庫を抱えたといわれる。
そこで、日産は大型乗用車70型、普通トラック80型、バス90型の3系統を1937年(昭和12年)に発売。これらのエンジンは、いずれも共通でサイドバルブ式の排気量3677㏄、85馬力でアメリカのグレハム・ページ社設計のもの。当時デトロイト周辺にはビッグ3のほかに中堅、零細など10近くの自動車メーカーが存在していた。グラハム・ページ社は、当初ガラス瓶の製造で富を得て、自動車産業に進出。T型フォードのモディファイからスタートした小さな自動車メーカーのひとつだが、競争が激しくなり当時数ある自動車メーカーの中で先細りしていた。東洋の新興自動車メーカーであった日産に設計図を売ることで、いわば糊口をしのいでいたのである。
宣伝販売部門を担当した豊は、東北4県のディーラーを訪問することで、当時の自動車販売事情を知る。現在のミス・フェアレディにつながる「デモンストレーション・ガール」なる女性自動車販売部員(写真)を誕生させる一方、ラジオでダットサンソングを流すなど斬新なアイディアを具現化。個人的にもダットサンのロードスターを社員割引で購入し、新婚時代をエンジョイする一方、キャブレターやエンジンを換装するなどクルマいじりの楽しさを体験している。
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