2013年11 月15日 (金曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第8回
慶応義塾大学経済学部から、日産自動車に就職したのちのミスターKこと、豊(ゆたか)が配属されたのは、販売課だった。販売店に出荷した台数を管理し、販売店とノルマの折衝をおこなうという単なる橋渡しの仕事は、ひどく物足りないものだった。そんな不満がくすぶっていたある日、工場案内の人手が足りないので手伝ってほしいと上司から言われる。日本初の自動車の量産工場を見学したいという希望が多く、担当部署である庶務課では手が回らなかったのである。
豊は、工場内に足を踏み入れると、見学者以上に心が高鳴った。新しい自動車部品ができ、クルマが組み立てられていく工程を見ると自分もその中の一員のような気持ちになり、より多くの人にすばらしい物づくりの現場を理解してもらいたいと強く思うようになった。大学では経済を学んではいるが、もともと理工学部希望だった豊は、自動車を心を込めてつくっている日産という企業の姿勢を正しく伝える、「工場案内」のパンフレットを作ることを使命だと考えた。当時、自動車メーカーにおいて宣伝や広報という仕事はあまり重要視されていなかった。
自動車のボディは外注の架装メーカーに任せていたこともあり、自社のクルマのカタログの作成も、いまから比べるとずいぶんお粗末なものだった。広告代理店も今ほど発達していなかったので、制作担当の片山のもとで、撮影から割付まで手探りの状態でおこなったという。
こうしたなかで誕生したのが、映画≪ダットサンができるまで≫である。横浜市神奈川区宝町にある“エンジン博物館”で今でも見ることができる貴重なドキュメントである。
2013年11 月 1日 (金曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第7回
大学在学中は、日本国内および朝鮮満州などの旅行に興味深く、まだ関東軍がことを起こす前の張作霖時代の北京。燕京大学で中国の歴史の講座などを聞く機会もあった。そんな思い出を豊は語る。
「当初、エンジニアを志望していましたが、慶應義塾という文科系に入学したため、自分の将来の生き方を暗中模索していましたが、アメリカを訪れる体験を通じて、ハッキリと自分の進むべき道が見えて来ました。直接、モノ造りに携わらなくても、広い視野から、その基本となるモノ作り思想(商品コンセプト)を構築し、市場での愛され方(商品の付加価値)を創造する等の重要な仕事に注目するようになりました」
慶応に工学部が生まれるのは、昭和19年に藤原銀次郎がつくった藤原工業大学との合体を待たねばならない。当時の慶応には工学部系がなかったわけだ。だが、片山豊には、アメリカ体験や大学でのこうした経験が、戦後1954年に初めて業界が一丸となって開催した全日本自動車ショーを推進したり、あるいは米国日産の責任者として、長期的な経営ビジョンを描くことができる下地になったのだという。豊の大学生時代を彩った経験は43日間のアメリカへの旅行のほかにもう2つあった。ひとつは、創設後間もない自動車部で活動したこと。もうひとつが、音楽を通じて4年後輩の渡辺忠恕(わたなべ・ちゅうじょ)と出逢った思い出だ。とくに渡辺忠恕との親交は、彼のフィンランド人で声楽家の教養の高い母上をはじめ、社交的な家族を交えて、大変意義の深いものだったという。渡辺の父は青年の頃フィンランドに渡り、キリスト教の牧師になり現地で結婚して日本に戻った。その子供が忠恕で、やがてかれは慶応義塾を卒業して、豊のいる日産に入社してくることになる。(写真は大学時代。片山豊は左)
2013年10 月15日 (火曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第6回
慶応義塾大学に入学した豊(ゆかた)青年は、その夏43日間をかけアメリカへの旅に出た。当時の学生の海外はいまから見るとひどくイレギューラー。貨客船「ろんどん丸」のパーサーのアシスタント兼雑用係として働きながら洋行することができた。大阪商船所属の7190トンの貨客船。関東大震災ではたまたま横浜港に停留中だったため、救助活動に大活躍した船であった。当時は太平洋の船旅は片道約2週間。シアトルに着いた豊は、最新型(1928年式)の高級乗用車スチュードベーカーに乗せてもらったり、大型バスを生まれてはじめて目にして度肝を抜かれる。当時日本ではバスといえば関東大震災後に登場した円太郎バス(T型フォードを改造した10数人乗りのバス:写真)だったので、40人も乗ることができる大型バスが活躍するのを見て驚くばかりだった。
この43日間の旅行は世界の広さを実感させるだけでなく、豊に新しい世界を見る目を植え付けさせた。
「米国への旅から得た経験が印象的です。船の中で働きながら船員達と交歓する初めての洋上の日々、寄港した先々で見聞きした事柄、到着地で味わった初めての食べ物、素敵な人々との出逢い等々。しかし、一方で、大恐慌に続く第二次世界大戦への暗い影が忍び寄っていて、自分の兵役を避けたい気持との葛藤に悩んでいました。アメリカからの帰路で生涯の友人となる若き日の博物学者マイルス・ピールさんと出逢い、戦争をしない宗教こそ真の宗教である事など、自分が中学時代に教わった事象を自分が実際に発見し、復習して、興味を惹くものに向かっていく生活を楽しむ様になりました」
2013年10 月 1日 (火曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第5回
「自動車の体験は鎌倉に住まいを移った12歳からです。近くのタクシー会社でアメリカ製のクルマを使っていて、よく乗せてもらいました。中学3年生の頃、藤沢駅前でBriggs & Strattonという名の手作りとも思える軽量なクルマを初めて見ました。大変、感銘を受けました。草刈り用のスミス・モーターを第5輪に取り付けた2人乗りで、上品な紳士がドライブしていたのが印象的でした。また、ハーレーダビドソンを持っている人が近くに住んでいて、排気の甘く香気に満ちた匂いにも感激しました」
学生時代の豊は、みずから語るように充実した時代だった。
「中学時代は人生の黄金時代でした。湘南中学校の校技はサッカーと定められていました。私は体が大きく、キックも強く、サッカーは大好きで、ポジションはフル・バックでした。毎年、他校との試合に出場しました。校長の赤木愛太郎先生の教育方針は、“何事も本物に触れなければならない”。一流の教育環境づくりを徹底され、とくに英語教育は英米人の先生を揃えて“生きた英国語と米国語”を教えられたという。
また、英語を通じて自由な精神を持つ海外の文学者の思想にも接し、大変、感銘を受けてもいる。幾何代数では作図、方程式の魅力に興味が湧き、美術ではモノを見る自由な発想と創造力を美術学校の白浜徴教授を招いての特別な授業だった。「忘れえぬ友人に永島吉太郎君がいます。私より一級上で、お父様はクリスチャンで、内村鑑三の弟子でもあり、家庭環境が大変魅力的でした。内村鑑三は『大切にするべき思想というのは、形への崇拝ではなく、眼に見えない精神に宿り、教えはそこにこそある』と説いていますが、永島君の家族も、この考え方に基づいて毎日を静かに過していました。文化というものを本当に大切にする人々と過した、貴重な時間は、今も忘れ難いものです」と片山さんは当時を振り返る。
2013年9 月15日 (日曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第4回
ミスターKこと片山豊は、日本初の自動車量産工場である横浜の日産工場の記念すべきラインオフの現場に立ち会った唯一の生き証人。しかも、当時の自動車製造の様子を映し出した映像を製作した担当者でもあった。片山豊の努力で作り上げられた当時の映像を、日産のエンジン博物館で確認できる。横浜工場は、昭和8年から建設や設備の搬入などが始まり、2年後の昭和10年4月から自動車の生産にこぎつける。明治のはじめ、日本国は近代国家を構築する上で、海外からいわゆるお雇い外国人を入れ、西洋の技術や知識を吸収した。それと全く同じ手法で、日産の工場もスタートを切っている。大規模な工場や機械設備のレイアウトと技術指導について、当時の日本人でできる人物は一人もいない。そこで、戸畑鋳物にいたウイリアム・ゴーハムを中心に、機械関係技師のアルバート・リットル、プレス関係のハリー・ワッソン、鍛造関係のジョージ・マザウエル、金型設計のハリー・マーシャルなど10名近くのお雇い技術者の指導を受けてスタートした。
当時の若者が持つクルマのイメージとはどんなものだったのか? 豊の原風景とも言える感動の自動車体験は、湘南中学3年生、1920年(大正9年)。ヤナセの前身梁瀬商会が、ごく少量のシボレーをノックダウン組み立てで販売し始めた頃だ。
藤沢駅の前で一台の手作りの自動車と遭遇するのである。ニッカボッカをはいたジェントルマンが颯爽と5輪タイプの軽自動車に乗っていた。その夜、興奮冷めやらぬ彼は、まぶたに焼きついた記憶をもとに、そのクルマをノートに描いたという。当時、日本の道路を往来するのは荷車や大八車、馬車、人力車の類。たまにすれ違う自動車は大部分が外国からの輸入品で、排気ガスさえ珍しい存在だった。藤沢で出くわした自動車は、彼がのちアメリカに渡ったとき、「ブリックス&ストラトン」という名の電気自動車だったことが分かる。ちなみに、このアメリカ企業は、自動車こそ作ってはいないが、現在も芝刈り機や除雪機、発動機エンジンなど汎用エンジンメーカーとして有名だ。
2013年9 月 1日 (日曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第3回
よく知られるようにダットサンは、日本に自動車産業を興すことを夢見た快進社の橋本増治郎が、大正3年(1914年)につくったDAT(ダット)号の流れを汲む。それが紆余曲折をへて、日本産業の総帥・鮎川義介によって、昭和10年(1935年)に日産自動車の横浜工場でラインオフした。現在、横浜工場にあるエンジン博物館で見ることができるのは、ラインオフした年の1935年式のダットサン14型で、日産の前身であるダット自動車製造が1929~31年にかけて生産した小型乗用車DAT91型の後継車。DAT91はエンジンが4気筒サイドバルブ式の排気量495㏄だったのが、14型では排気量を722㏄にアップ、さらに戦後1950年には860ccに拡大している。
サイドバルブ・エンジンはその後、OHV,OHC,DOHCと続く、ガソリンエンジンのルーツ。教科書でしか知ることができない今やシーラカンスとも言えるエンジンだ(一部の発電機には使われるが)。エンジン博物館には、このサイドバルブ・エンジンの単体が置いてあるだけでなく、シリンダーヘッド、オイルパン、コンロッド、ピストンといったエンジン単体部品を展示してあり、なかでもクランクシャフトの心細さに目をむいてしまう。静寂が支配する博物館の中で、ふと見ると・・・当時のエンジン工場のものづくりのプロセスを映し出す20分ほどの映像が流れている。シリンダーヘッドがベルトコンベアに乗せられ、組みつけられている様子が鮮やかに映し出されている。いまでは内部秘と称して第3者が絶対撮影できないラインの流れが、屈託のない明るさで表現されている。組み立てられたクルマが工場近くにあるテストコースを走る様子もある。当時は高速道路もなく、街中走行が過不足なくできれば合格だったのである。箱根への当時のテスト走行光景など、半世紀以上の時空を超えて語りかけてくる・・・。
2013年8 月15日 (木曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第2回
自動車ジャーナリストは、いわば自動車大好き少年が大人になったような人が多いが、実は筆者は子供のころ自動車にあまり興味がなかった。小学生時代、やけにクルマに詳しい叔父さんが近くにいて薫陶(くんとう)を受けてのめり込んだとか、乗り物図鑑を親から与えられたことがきっかけで、街中で出会う自動車の名前をみな答えられた・・・といった経験が共通項だとすると、団塊世代の筆者はまるでそんな体験はなく、時にそうした話になると仲間になれず、思わず穴を見つけて入り込んだりする。
ところがそんな筆者にも唯一、子供のころの忘れえぬ自動車体験がある。
半世紀もの昔の話、中部地方の人口2万人ほどの小さな田舎町には、当時自動車といえば乗り合いバスとトラックしかなかった。乗用車は、町に一軒だけあったタクシー会社が保有する黒塗りのハイヤー3台だけ。自動車への憧れこそなかったが、岡山にあるカバヤ製菓のカバを模したトラックがやってきたときは、飛び上がるほど興奮した。子供心に難解な翻訳物の小説カバヤ文庫を景品としてプレゼントされて興奮は頂点に達した。クルマにまつわる幸せな記憶だ。
その頃である。黒色をした小さくてかわいい感じの動く物体を目撃したのは。生まれて初めてタクシー会社のハイヤーとはまるで違う、個人所有の小型乗用車という乗り物に、目が点になった。たまたまその横に、東京から夏休みで遊びに来ていた従兄弟がいた。「ダットサンだね、東京じゃ珍しくないよ」。その大人びたひと言は、田舎の子供の心に東京に対する拭いきれないコンプレックスを植え付けた。筆者の田舎の3丁目の夕日は、鮮やかではなかったのかもしれない。
2013年8 月 1日 (木曜日)
今年103歳を迎えたミスターK物語 第1回
人の経済的・社会的営みは、約30年間だといわれる。だから100年という時間の長さで見ると親・子・孫の3世代となるのが一般的。ところが、ここに70年間にわたり、長く日本の自動車の世界で大活躍をしてきた男がいる。1909年(明治42年)に誕生しているので、今年でちょうど103歳になる片山豊だ。日本の自動車の発展史とともに生きてきた人物。
ダットサン7型が横浜工場でラインオフした1935年(昭和5年)に日産に入社し、戦後アメリカ日産の社長としてダットサンを売りまくった人物。単にクルマを販売しただけでなく、アメリカ社会に日本のクルマのすばらしさをアピールし「Z(ジ-)カーの父」と呼ばれた男でもある。Zとは1978年のデビューから9年間のあいだに、54万台というスポーツカー史上とてつもない販売記録を残した名車“ダットサン240Z”のことを指す。
世紀を跨いで生きてきた片山豊は、車椅子ながらも、もちろん現在も矍鑠(かくしゃく)として人生を楽しんでいる。彼の人生の過半は、日本が戦争に打ち進んでいった時代であり、貧しかった時代でもあった。そんな中で彼は裕福な家庭に育ち、当時としては恵まれていた。しかしいつの時代でもそうだが、高いココロザシを抱く若者には、常に課題が立ちはだかる。彼も入社後の人生は、順風満帆とは程遠いものだった。日産マンとして、一介のサラリーマンではあったがどこか違っていた。いっけんノー天気でひたむきで困難に直面しても挫けず朗らかさを失わない、という性格が周囲を明るくさせた。クルマへの愛をひたすら追い求める姿に、いつしかファンが集まり、堅固な片山ワールドが築きあげられていく。
T型フォードの誕生から105年、クルマ史上、未曾有の大不況の暗雲が覆っている今日、日本の自動車の発展とともに生きてきた人物・片山豊の100年の人生を振り返る意味は小さくない。今回から、知られざる“ミスターKの歩んだクルマ世界”を追いかけていく。
•写真は2008年フェアレディZの発表会。日産本社(当時は銀座)でのスナップ。
人の経済的・社会的営みは、約30年間だといわれる。だから100年という時間の長さで見ると親・子・孫の3世代となるのが一般的。ところが、ここに70年間にわたり、長く日本の自動車の世界で大活躍をしてきた男がいる。1909年(明治42年)に誕生しているので、今年でちょうど103歳になる片山豊だ。日本の自動車の発展史とともに生きてきた人物。
ダットサン7型が横浜工場でラインオフした1935年(昭和5年)に日産に入社し、戦後アメリカ日産の社長としてダットサンを売りまくった人物。単にクルマを販売しただけでなく、アメリカ社会に日本のクルマのすばらしさをアピールし「Z(ジ-)カーの父」と呼ばれた男でもある。Zとは1978年のデビューから9年間のあいだに、54万台というスポーツカー史上とてつもない販売記録を残した名車“ダットサン240Z”のことを指す。
世紀を跨いで生きてきた片山豊は、車椅子ながらも、もちろん現在も矍鑠(かくしゃく)として人生を楽しんでいる。彼の人生の過半は、日本が戦争に打ち進んでいった時代であり、貧しかった時代でもあった。そんな中で彼は裕福な家庭に育ち、当時としては恵まれていた。しかしいつの時代でもそうだが、高いココロザシを抱く若者には、常に課題が立ちはだかる。彼も入社後の人生は、順風満帆とは程遠いものだった。日産マンとして、一介のサラリーマンではあったがどこか違っていた。いっけんノー天気でひたむきで困難に直面しても挫けず朗らかさを失わない、という性格が周囲を明るくさせた。クルマへの愛をひたすら追い求める姿に、いつしかファンが集まり、堅固な片山ワールドが築きあげられていく。
T型フォードの誕生から105年、クルマ史上、未曾有の大不況の暗雲が覆っている今日、日本の自動車の発展とともに生きてきた人物・片山豊の100年の人生を振り返る意味は小さくない。今回から、知られざる“ミスターKの歩んだクルマ世界”を追いかけていく。
●写真は2008年フェアレディZの発表会。日産本社(当時は銀座)でのスナップ。
2013年7 月15日 (月曜日)
現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 最終回
熊本県庁からの依頼でシボレー1トントラックをダンプ・ボディに改装してから、同じような注文が舞い込み、そのうち営業面でも明るくなり、1年半ほどで独立している。大正9年には日本初のダンプカーを仕立てている。1922年(大正11年)、矢野オート工場(現・矢野特殊自動車)を設立、時代の要請にこたえさまざまな特殊自動車の開発・製作を幅広く展開。矢野は、
こうした仕事のかたわら、村上義太郎(村上は1922年に死去)から託された夢の実現を忘れてはいなかった。「大衆自動車の普及」を目指し、空冷と水冷の2つのV型8気筒エンジンを試作していたのである。空冷と水冷の2種類で、なんと冷却性の高いアルミ製のブロックである。矢野は、手持ちの工作機械を操り、たいていのものはつくれたようだ。このエンジンも複雑な中子(なかご)を必要とする鋳造による製法を避けて、分体してボーリング加工を容易にしている。V型8気筒といっても全長が300ミリ程度で、アロー号の設計思想の軽量コンパクトをエンジンにまで応用しているようだ。個人経営の工場で、村上義太郎の意思を継ぐべく粛々とエンジンの開発、小型大衆車作りの夢を持ち続けていたのだ。大学の工学部などで、いわば系統だった技術の勉強をしたわけではなく、個人の好奇心と自力で運命を切り開き、1台のクルマやエンジンを作り上げ、終生にわたり好奇心の火をたぎらせた。そんな男が、日本にいたことに言い知れぬ誇りを抱く。
現在、アロー号は、博多にある福岡市博物館で見ることができるが、2つのV型8気筒エンジンは、数年ほど前にトヨタ博物館で展示されたが、現在は矢野の子孫の手で大切に保存されている。
●参考文献●「国産自動車のパイオニア・走れアロー号」(博多に強くなろう№91)「20世紀の国産車」(国立博物館)、「クラシックカー」(主婦と生活社)、トヨタ博物館、福岡市博物館、「国産車100年の軌跡」(三栄書房)
2013年7 月 1日 (月曜日)
現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第14回
ヘッドライトは、カーバイドランプである。年配の読者は、夜店を思い出す人もいるかもしれない。カーバイド(CARBIDE)は炭化カルシウムのことでアセチレンともいう。化学式はC2H2である。円筒形の容器のなかに上部に水を下部にカルシウムカーバイドを入れ、上から水が滴り落とすことでアセチレンガスを発生させる。これを燃やすことで明かりとして活用している。光量の調節も比較的簡単で、蓄電池や送電線が普及するまでは、炭鉱の坑内灯やカンテラ(携帯の灯り)、蒸気機関車のヘッドライトなどにも使われてきたものだ。微量の不純物を含むため特有のニオイがある。方向指示器は、滑車と糸巻きを使った実にプリミティブというか長閑(のどか)さを覚えるものだった。
ところが、このアロー号は、現存する最古の国産車であるが、厳密にいえば3番目につくられた日本の乗用車である。第1号は、明治40年に自動車輸入業の吉田真太郎(信太郎の文字を使うこともある)と技術者の内山駒之助がつくった「タクリー号」。2番目のクルマは、明治42年に築地自動車製作所でつくられた「国末(くにまつ)号」とされる。そして、大正5年に完成した「アロー号」が第3番目の国産車となる。ちなみに、タクリー号も国末号も現存しないだけでなく資料もほとんど残っておらず、ほぼ幻のクルマでしかない。アロー号の完成後、矢野は、自動車の本場のアメリカに留学の話もあったようだが、輸入車を扱う梁瀬商会福岡支店の自動車修理工場の主任として迎え入れられ、破格の月給30円の高級待遇だったという。
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