みなさん!知ってますCAR?

2013年6 月15日 (土曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第13回

矢野洋祐さん  博多の地で日本の乗用車のパイオニアとなるアロー号ができたのは、天才的エンジニアの矢野倖一のチカラだけではなかった。九州の政商・村上義太郎の力強い援助があった。背景に詩人・正岡子規と交友関係もあった、倖一のココロザシに理解を示す九州帝国大学(現・九州大学)工学部の岩岡教授がいて、なによりも北九州には官業の八幡製鉄所やそれに繋がる工場群があって鋳物生産や金属加工などのモノ造り技術が蓄積されていたからだ、と想像できる。
  アロー号は、全長2590ミリ、全幅1160ミリ。たしかに現在の軽自動車よりもひとまわりもふた周りも小さく、しかも車両重量が272kgという現在なら大型バイクほどの重さ。この軽量ボディには秘密があるはず。「ボディのフレームに合わせて金網をはり、そのうえに名古屋の張子の虎の“一閑(いっかん)張り”(竹籠に和紙を張り、その上から柿渋を塗った器)をまねて、和紙を何度も張り重ね柿の渋で防腐処置をして、雨天に備えアルミ箔でカバーするというもの。この作業に2ヶ月かかっています。倖一の軽量化の考えは徹底していて、4人乗りのクルマは4人の大人が持ち上げられる重量に、2人乗りなら2人で持ち上げられ、オートバイは1人乗りなので、1人で持ち上げられる、そんな考えでした」(矢野羊祐氏)
  現在ではありえないようなクルマ造り、というのはカンタンだが、創意工夫の中に日本文化が色濃くにじんだクルマ造りといえなくもない。

2013年6 月 1日 (土曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第12回

アロー号の制作費一覧表  面白いのは、矢野は底抜けに几帳面な気質だったらしく、「アロー号の全製作費の詳細一覧表」を残していることだ。
  全製作費の総額は1224円75銭。外車が一台らくに手に入る金額だった。朝日文庫の「明治・大正・昭和・値段の風俗史」によると、大正5年当時の家賃が7~8円だった。ということは、現在の値段に直すと、約2000万円といったところか? これには、旋盤工3名、仕上げ工2名、鍛造工2名、計7名の職工の約3ヶ月にわたる給料、計334円31銭。福岡工業高校で工作機械を借用したときの4円85銭、上海でキャブレターを購入したときの費用49ドル30セントを含まれている。
  このほか、木型製作費48円45銭、鋳造費6円85銭、アルミ鋳物10円80銭、歯車18個工作費75円、東京向柳原(現在の台東区浅草橋2丁目)にあった武田鉄工所に外注したベベルギアの歯切り代金76円、東京鶴岡工場に外注したスプリング代16円、ヤマトメタルから購入したエンジンのメタル代2円60銭、ホイールのスポーク171本分の代金17円25銭、東京渋谷の業者に依頼して作らせた幌の曲げ木代2円50銭、グッドリッチ製のタイヤ4組が116円、リム4本で20円・・・ときわめて詳細である。
  これを見ていると、なんだか当時の日本のモノづくり世界が透けて見えてくる。

2013年5 月15日 (水曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第11回

博多の街を走るアロー号  「アロー号」の晴れの舞台は、大正5年〔1916年〕の秋だった。
  大正天皇のご臨席で、陸軍の大演習が筑紫平野で展開され、そのときの統監部の直属自動車として、書記官を乗せて演習地を走ったのが、アロー号である。翌日には天皇の九州帝大(現在の九州大学)行幸(ぎょうこう)があり、倖一青年みずからハンドルを握り、九州帝大総長などオエラ方を乗せて先頭の列に加わった。翌大正6年8月には自家用自動車として福岡県に登録し、「F-36」のナンバーが付けられていた。アメリカではフォードのモデルTが誕生して8年たち、人々の暮らしが自動車を中心にしたモータリゼーションが徐々にカタチづけられつつあった。だが,日本に自動車そのものがほとんど存在しなかった時代。
  息子の矢野羊佑氏によると、アロー号の性能は、時速40キロはらくらく出るが、50キロとなると瞬間には出ても、とても巡航はできないほどだったという。倖一70歳のときに、学習研究社(学研)の学習雑誌「2年の学習」の表紙を飾ったこともある。博多の街で、倖一がハンドルを握る姿がかっこいい。
  ちなみに現在の福岡市博物館にアロー号が寄贈されたのは、倖一が亡くなって18年後の平成5年だという。

2013年5 月 1日 (水曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第10回

アロー号  クルマ作りをはじめてから3年後、車両が一応完成。ところが、エンジンを始動してみたがどうも調子がでない。矢野青年はここで大きな壁に突き当たった。当時第一次世界大戦のアオリで、福岡に収容されていたドイツ軍の捕虜の中にベンツ社のエンジニア・ハルティン・ブッシュがいることを聞きつけ、この人物に車両を見せたところ「調子が出ないのは、気化器。つまりキャブレター」と指摘された。どうも燃料の噴霧化がまずかったようだ。英国製のゼニス・タイプのキャブレターの購入先まで紹介され、わざわざ矢野自身が上海の販売店まで出向き、購入している。代金が42円60銭、往復の船賃が16円だった。これを取り付けエンジンは、ようやく好調に動き始めたという。たぶん、このほかにもさまざまな苦難があったことは容易に想像できる。
  こうして矢野の情熱と、村上の支援、それに多くの人の協力で、「アロー号」は完成した。1916年(大正5年)のことだ。村上義太郎が68歳のときだ。
  スペックは、全長が2590ミリ、全幅1160ミリ、全高1525ミリ、ホイールベース1830ミリ。車両重量272kg。4人乗り。エンジンは水冷2気筒サイドバルブ方式1054cc。最高馬力は15PSで、最高速度は56km/hだったという。

2013年4 月15日 (月曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第9回

博物館内のアロー号  旧制福岡工業高校を卒業した矢野倖一青年は、いよいよアロー号の製作にとりかかる。大正2年(1913年)8月、倖一、20歳のときだった。村上邸に住み込み、自動車の研究・開発に没頭した。このクルマが「アロー号」である。矢野の苗字「矢」かにちなんでつけた車名である。アロー号を作るうえで、想像を絶する労苦を重ねるが、さまざまな人物の協力も得る。タイヤ、スパークプラグ、点火装置のマグネトーだけは、当時国産製が存在しないため外国製品に頼った。何しろブリヂストンタイヤ(BS)の前身・日本足袋(にっぽん・たび)が国産初のタイヤをつくったのが1930年(昭和5年)、その7年後にNGKがスパークプラグを生産し始めた。その3つ以外の部品はすべて自作あるいは設計して、倖一が設計し、日本の業者に依頼して作り上げたという。
  矢野は、上京の折には、東京の赤坂・溜池にあった大倉財閥の2代目・大倉喜七郎が創設した輸入ディーラー「日本自動車㈱」に立ち寄り、九州出身の技術者の指導を仰いでいる。この日本自動車は、大正時代から昭和40年代前半まであった自動車好事家(富裕層)たちを顧客にした販売店。地元福岡では九州帝国大学・工学部・岩岡保作教授の指導を受け、内燃機関に関する基礎理論や最新の技術を学んだ。ちなみに、岩岡保作は、俳人正岡子規と明治21年ごろ≪野球≫に興じた間柄だった。いっぽう、地元福岡では当時最新の工作機械を所有する斉藤鉄工所という会社から設備と職人7人を借り受け、部品の製作を進めている。ギア類の加工は母校の機械科実習工場でおこない、シリンダーブロックのボーリング加工は、九州帝大の工学部の機械科教室の施設を活用しておこなったという。
  ほとんどゼロからのクルマ造り。文字通り、闇のなかを手探りしながらのモノづくりだった。無限大の不安を抱えながらも、無限大の喜びをかみしめての作業だったに違いない。

2013年4 月 1日 (月曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第8回

矢野洋祐さん  

倖一の息子である矢野洋祐氏(写真)によると、まず倖一は、自動車の資料代として受け取った金50円で洋書屋の「丸善」(明治2年創業で、創業者は福沢諭吉の門人・早矢仕有的〔はやし・ゆうてき〕)で英国製の小型自動車の写真や資料が載る本を手に入れた。これは、いまのお金に直すと200万円ほど。3.5馬力のエンジンとトランスミッション以外の資料はこれでほとんど手を入れ、手直しを施したという。ラジエーターチューブは1本1本銅管を巻いてつくるなど、全部手作りだった。半年の後、年号が明治から大正に変わった頃に改造作業は終わったという。「丸ハンドルと折り畳み式の幌にランプやラッパも付けたしゃれたスタイルで、どうにか走れるようになった」(羊祐氏)という。ところが、実際に走らせて見ると、行く先々でエンコした。そのため、≪村上のブリキ自動車≫として当時の福岡の人にずいぶんからかわれたという。やはり現在の量産車にくらべると信頼性は、見劣りしたということだ。でも、何度もの不具合で、矢野青年は着実にクルマ作りの本質をつかんでいく・・・。

   この改造ド・ディオン・ブートンは、残念なことにのちに分解され、エンジンが農業機械の動力に流用されるなどしていくうちに現在部品はおろか、そのカケラひとつ残っていない。だが、半年にもおよぶ矢野青年の改造車への経験は、日本の乗用車のパイオニア第1号として、その後、実を結ぶことになる。

2013年3 月15日 (金曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第7回

村上翁と矢野青年  村上義太郎の手に入れたのは、ド・ディオン・ブートンは3.5馬力タイプだった。戦利品のこの車両が、どうして村上の手元に来たかというと、友人の金子堅太郎(1853~1942年)のツテがあったためだ。金子は、明治4年の岩倉米欧派遣団の一員にして、初代首相・伊藤博文の懐刀であり、明治憲法の成文作りで活躍。ハーバード大学留学時代に面識のあったアメリカ大統領セオドール・ルーズベルトを動かし、日露講和に貢献した福岡藩出身の明治期の官僚にして政治家。いきさつは不明だが、そのツテで日露戦争の戦利品であるフランス製のド・ディオン・ブートンを譲り受けたようだ。
  村上は、この1人乗りの3輪自動車を矢野青年の高い技術力を見込んで、4人乗りの四輪車に改造してもらいたい、と頼みに来たのである。当初矢野倖一は、自分が飛行機作りに挑戦したいとして、首を縦に振らなかったようだ。でも、村上義太郎の「どちらもエンジンだから、まず自動車をつくって、それから飛行機に打ち込めばいいではないか」というコトバに夢を膨らませることになる。村上からの「日本の国情にあった自動車を作ってみないか」という説得も心を打ったようだ。村上が64歳、矢野青年は19歳だった。祖父と孫ほどに歳が離れていた2人に、共通の夢ができたのだ。

2013年3 月 1日 (金曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第6回

村上義太郎  当時九州の実業家で有名なのは、石炭王の伊藤伝右衛門(いとう・でんえもん:1961~1947年)だ。その夫人は、大正三美人と謳われた、のちに宮崎龍介(孫文の盟友・宮崎滔天の長男)と駆け落ちの末その妻となる伝右衛門にとっては2番目の妻・柳原白蓮(やなぎはら・びゃくれん:1885~1967年)である。世に言う“白蓮事件”である。そのころ九州で自動車がおそらくその伝右衛門ぐらいしか所有していなかったが、実は村上義太郎も1台持っていた。日露戦争(1904~1905年)での戦利品のひとつ。ロシア軍が旅順で伝令車として使っていたフランスの3輪車ド・ディオン・ブートンである。単気筒の2サイクルエンジンを載せた前進2段式の動力付きの自転車というものだった。
  ド・ディオン・ブートンは、実は現代の乗用車のベースをつくったとされるパナール・ルバソールと並ぶフランスの最古の自動車メーカー。1881年にパリの社交界で浮名を流していた若き貴族ド・ディオン伯爵が25歳のときに、パリのとあるおもちゃ屋で見つけた蒸気エンジンから、ジョルジュ・ブートンという天才肌の技師と知り合った。これが縁で2人は最初蒸気エンジン車を製作。その後ガソリンエンジン付きの3輪車などを作った。パリの博覧会には2サイクル式の星型12気筒エンジンの試作品を展示し、ギャラリーの度肝を抜いている。いまではごく当たり前だが、シリンダーとシリンダーヘッドが分離できる斬新な構造の2サイクル単気筒エンジンは、当時の自動車レースでも活躍し、各方面の自動車用エンジンやバイクエンジンとして採用されている。3.5馬力から徐々に馬力アップし、6馬力まで伸ばしたといわれる。

2013年2 月15日 (金曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第5回

村上義太郎  村上義太郎は、西南戦争における軍需物資の荷役の莫大な利益を元に運輸、港湾、都市事業などの幅広い事業を展開、当時「博多一代男」の異名を持つ実業家として認知された。この利益の一部で長崎のグラバー商会(経営者トーマス・グラバーは岩崎弥太郎や坂本龍馬との交流があった)からフランス製の反射鏡を取り寄せ、博多湾の海辺に博多灯台を作った。灯台を目指して入港する船舶から「灯台銭」という名目で金を受け取るという目論見だ。ところが、これが大問題となる。灯台は本来、公的な設備であり私的な利益を上げるべきではない。すったもんだの末、村上は役所にその灯台を高い値段で売りつけることに成功。
  村上は、日本の資本主義社会形成初期に登場する怪しげな政商のひとりではあるが、時代を読んでダイナミックに活動した大人物。村上は、垣根を越えて展望ができる人物だったらしく、茂登子(もとこ)夫人を通じて現在の福岡女子大学の前身・福岡県立女子専門学校の創立にも支援を惜しまなかった。茂登子は、近代日本の草創期の官僚・政治家である安場保和(やすば・やすかず:1835~1899年)の息女。戊辰戦争に参加した経歴の持ち主で、岩倉使節団の一人でもあり、明治初期にオランダ人技師のファン・ドーンを招き、安積疎水(あさかそすい)を完成させるなど、東北・北海道開拓に尽力したのが安場和正。安場は、福岡県知事をしていて、藩士の娘を東京に進学させた。茂登子夫人は、そのうちのひとりで、御茶ノ水高等師範中退後、横浜のフェリス女学校を卒業、地元に戻り、村上と結婚して、女子教育に尽力している。夫婦仲はよかったようだ。

2013年2 月 1日 (金曜日)

現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第4回

村上義一郎  模型飛行機大会から数日後、矢野倖一青年は、ひとりの紳士と運命的な出会いをした。
  明治10年の西南戦争の軍需品輸送で、財を成した村上義太郎(1847~1922年)である。村上はユニークな発想と桁外れの行動力でのし上がった明治期の怪商のひとり。戊辰戦争のとき木更津に滞陣していた福岡藩士の一人。当時、21歳の村上たちが上野に陣取る彰義隊討伐に向かうべく、準備をしていた。ところが、下準備に追われるあいだに、すでに戦は収束したとの知らせが入り、愕然とする。そのとき村上は「迅速な兵站能力の重要性」を痛いほどに感じたという。いまの言葉でいえば素早いロジスティックスの重要性を身をもって噛みしめたのだ。
  その後、村上は、同藩の勤皇の志士のひとり・早川勇(1832~1899年)からこれからは“実業報国”の時代だと教えられる。立派な仕事で国に報いる。さらに福沢諭吉の「西洋事情」を読み、目からウロコの落ちる思いをする。村上は、いま自分が出来ることに頭をめぐらせた。そこで、手始めに大阪の車力(大八車などの荷物を運ぶ職業)の元締めから荷車の製造・運営のノウハウを学び、帰郷後に福岡から鳥栖、久留米、甘木、柳川一帯での物資の輸送に精を出した。
  チャンスは10年を立たずして到来した。明治10年、村上が30歳のときに西郷隆盛と政府軍が戦う西南戦争が起き、福岡が政府軍の物資(兵站)基地となった。このとき、村上は、大八車をかき集め、維新後に職を失った武士たちを雇い、ピストン輸送で前線の熊本方面に軍需物資を運び続け、大儲けしたのだ。三菱財閥の基礎をつくった岩崎弥太郎もこの時期、同じように輸送業務で大もうけしている。だが、田原坂(たばるざか)での激戦における明治政府軍勝利の遠因のひとつを作ったのは村上義太郎だったのだ。村上は、つねに自分ができることを最大限に生かす努力を惜しまない男だったようだ。

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