2013年1 月15日 (火曜日)
現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第3回
天は少年を見放さなかった。青空に舞うゴム式模型飛行機を差し置いて、矢野倖一少年の自作エンジン付き手作り模型飛行機がみごと最高の金賞に輝き、イーストマン・コダックのカメラまで副賞でもらった。手作りエンジンへの挑戦が審査員たちの心を掴んだのだ。倖一の空への憧れは、同じ福岡出身で14歳年上の矢頭良一(やず・りょういち:1878~1908年)からの影響だといわれる。矢頭良一も、忘れられた天才エンジニアのひとり。鳥の飛翔に興味をいだいた矢頭は13歳で、大阪に出向き、英国人の私塾に通うなどして数学、工学、語学を学ぶ。手回しの機械式の計算機や漢字早繰り辞書や歯車式計算機などを編み出す一方、鳥類の飛翔を研究。福岡日日新聞に「空中飛行機研究家」として15回ほど連載記事を載せている。たぶん、こうした記事で倖一少年はすっかり飛行機少年になっていたらしい。ちなみに、矢頭良一は、井上馨(明治維新の立役者の一人)や鮎川義介(日産の創業者)などの援助で、東京・雑司が谷の工場で試作エンジンをつくりかけたが、悲しいことに明治41年にわずか31歳で病没している。
明治という時代は、パソコンのOS(オペレーティングシステム:基本ソフト)が一新したようなもの。時代の風を受け、さまざまな分野で秀でた人材を輩出したようだ。人間の能力とは不思議なもので、時代の変化を追い風にしたり、人との出会いでいわば化学反応がおき、飛躍する人もいる。矢野青年にも人との出会いで大きく化学変化を起こす出来事であった。
2013年1 月 1日 (火曜日)
現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第2回
主人公は、明治25年(1892年)に福岡県遠賀郡芦屋町の造り酒屋の長男として生まれた矢野倖一(やの・こういち)だ。身近にあった時計を分解したり、叔父が近所で営む精米所の精米機の動きを日長一日眺めていた。すでに子供時代から機械いじりに異常な関心を抱いたという。
矢野青年の記録に残るモノ作りの始まりは、「模型飛行機大会」。旧制・福岡県立福岡工業学校の機械科の4年生、19歳のときに福岡日日新聞社(現・西日本新聞)の主催で自作の模型飛行機を飛ばし、その飛行と技術を競うイベントがあった。ライト兄弟が始めて飛行に成功したのが1902年。それから8年後に東京の代々木練兵場(現・代々木公園)において、徳川好敏(1884~1963年)と日野熊蔵(1878~1946年)の2人が、ヨーロッパから持ち帰ったフランス製のアンリ・フォルマン機(空冷7気筒エンジン)とドイツのグランデ単葉機(空冷4気筒エンジン)で、日本初飛行に成功している。
連日10万人ほどの観客が集まったといわれ、当時の飛行機への熱い思いがうかがわれる。福岡で開かれた模型飛行機大会も、その熱気を込め熊本県人吉出身の日野熊蔵大尉も審査員の一人として立ち会っていた。
この模型飛行機大会の出場者の大部分がゴム巻式のプロペラ機だったが、唯一エンジン付きの模型飛行機が登場した。これが倖一青年だ。200回転、4気筒1/12スケールの手製のエンジンを取り付けていたのだ。ところが、期待を一身に集めた倖一青年の模型飛行機は、飛び始めてしばらくたった時点で、あえなく失速し墜落してしまった。倖一青年の希望も墜落しかけた・・・。
2012年12 月15日 (土曜日)
現存する最古の国産乗用車アロー号のナゾ 第1回
大正から昭和期にかけて、綺羅星のごとく国産乗用車製造にチャレンジした人たちがいる。
豊川順彌の「オートモ号」、日産の源流となる橋本増治郎の「ダット号」、晩年は日本に帰化したウイリアム・ゴーハムの「ゴルハム号」や「リラー号」、日本初の前輪駆動車「筑波号」をつくった川真田和汪(かわまた・かずお)・・・そうしたなかで、歴史の闇の中に隠れているのが『アロー号』をつくった矢野倖一(やの・こういち:1892~1975年)だ。量産車でこそないが、日本初の乗用車。現在でも、動かそうと思えば動かせるれっきとした乗用車である。1916年(大正5年)に完成した『アロー号』は、現在福岡の博物館に保存されている。
歴史教科者に出てくる『漢の委(わ)の奴(な)の国王印』の金印が収められている同じ博物館で見ることができる。 その実物は、意外と小さいのに驚かされる。1辺が2.3センチ、重さ約10g。江戸時代末期に福岡の志賀島で農夫が農作業をしている最中に偶然に見つけたもの。いくら金製で光り輝いていたとしても、よほど注意深い性格の持ち主にちがいない・・・そんな想像をしてしまった。“偶然”といえば、その金印の展示物からわずか20メートルほどの距離に展示してある『アロー号』もいくつもの偶然が重なり、造られたものだ。偶然は別の側面から見ると≪必然≫ともいえるかもしれないが、凡人には、やはりいくつもの偶然が折り重なり、ひとつのクルマが出来上がった。およそ100年前に一人の気骨ある明治人が設計し、独力で創り上げた日本の最古の乗用車をめぐるナゾに満ちた知られざる物語を追いかける。
2012年12 月 1日 (土曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第19回
ところで、「日米スター自動車」がフォードやシボレー上陸以前にアメリカ車の「スター」という名の乗用車を輸入し、日本で販売していた事実を発見した。このクルマは、GMの創業者ウイリアム・デュラントが大きく関わった自動車で、当時としては格安車というのが大きな魅力だった。いまで言うと“アフォーダブルカー(入手しやすいクルマ)”である。目をつけたのは、先に話した宇都宮の呉服商のもとに生まれた相羽有(あいば・たもつ)。元・飛行機野郎で、雑誌「スピード」を発行した人物だ。スターの代理店権を得て、横浜にノックダウン工場をつくって、事業を始めたのは大正12年。組み立て主任は、東京の蔵前工高の機械科新卒者・兼松魏(かねまつ・たかし)だった。一時隆盛だったもののスター自動車もフォードとGMの巨大資本の前に手を上げ倒産。兼松氏は、のちに日産に入社し、戦後の自動車の発展に尽力したという。
大正時代はわずか15年と短かった。あとから思えば、激動の昭和につながる大きな節目の15年間だった。でも、大正デモクラシーと呼ばれる民主主義が台頭し、女性の地位が向上し、新しい文芸や絵画、音楽、演劇、映画など芸術・文化の面で大きな広がりを見せ、大衆文化が花開いた時代でもあった。その15年間は日本人がはじめてクルマという近代を代表する高度な乗り物を目にし、あこがれた時代。現在、クルマの利便性が常識化し、むしろ退屈な乗り物という印象を若者に与えているようだ。“若者のクルマ離れ”という言葉がそれを物語っている。でも、クルマなしの庶民の暮らしはむろんクルマなしの社会は、もはやありえない。一方、車社会が持続できるためには、環境性能と経済性を劇的に高めた自動車が求められている。適切な答えは、現在模索中。だが、こうして大正時代のクルマをめぐる物語を考えることで、どこかにヒントがありそうな気がしてきた。
● 参考文献:「20世紀の国産車」(国立科学博物館)、「国産車100年の軌跡」(三栄書房)、「日本自動車史年表」(グランプリ出版)、「日本史年表」(岩波書店)
2012年11 月15日 (木曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第18回
ところが、当時の国産車は事業的には成功とはほど遠かった。オートモ号を含む国産車は、フォードとGMとの低価格競争に巻き込まれ、一台作るごとに1000円(現在の約200万円)の赤字が出るほどになり、白楊社は昭和3年に閉鎖に追い込まれる。フォード、GMの2社は、割賦販売を展開するなどの販売手法の巧みさでも国産車を圧倒していた。昭和11年7月の自動車製造事業法により、国産自動車保護政策がとられるまで、しばらくのあいだ国産自動車はフォード、GMの後塵を拝するカタチだった。このあたりの事情は、資料から見る数字も大いにそれを物語る。フォードとGMは、1930年代までの日本の乗用車市場を独占しているからだ。ピーク時には、フォードが年産1万8000台、シボレーが年産1万6000台を記録。国産車は全部あわせて年間5000台を切る状況だった。
自動車といえばフォードとシボレーだ、といわれた時代。創業者ヘンリー・フォード(1863~1947年)の成功を伝える書籍が日本でも多く出版された。ベルトコンベアに代表される大量生産方式を具現化し、富裕層しかクルマを持てなかった時代に低価格の自動車の製造を実現した実業家としてだけでなく、「奉仕を主とする事業は栄える。利得を主とする事業は衰える」など数々の示唆に富んだ名言を残した人物を知りたい読者が少なくなかった。現在アップルのスティーブ・ジョブズ氏が脚光を浴び多くの本が書店に並ぶ。それと同じでヘンリー・フォードに関するサクセス・ストーリーが愛読されたのである。極東の島国で自動車生産が軌道にのるのは夢のまた夢だった。
2012年11 月 1日 (木曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第17回
いっぽう、フォードとGMは、極東の国に自動車ビジネスを持ち込み始めた。
関東大震災直後「円太郎バス」の活躍と人気を見て、日本の自動車市場に関心を寄せ、日本でのノックダウン生産を始めたのだ。フォードは、大正14年(1925年)に横浜に資本金400万円で「日本フォード自動車」を設立。アメリカから機械設備を持ち込み、T型やA型フォードのノックダウン生産を開始する。この場合のノックダウンというのはボクシングのことではなく、分割した部品を運び込み、現地で組み立てる生産方式のことだ。GMも昭和2年(1927年)に大阪の大正区鶴町に資本金800万円で「日本ゼネラル・モータース㈱」を設立し、シボレーの組み立て生産を始めている。昭和5年にはクライスラーも横浜の鶴見に共立製作所に出資し、「共立自動車製作所」を資本金20万円で設立し、ダッジ、プリムス、クライスラーの3種類の乗用車をノックダウン生産し始めている。
当時の国産車は、ダットサンだけでなく、オートモ号、オオタ号である。岩崎弥太郎の従兄弟・豊川良平の長男で、三菱財閥につながる豊川順彌(とよかわ・じゅんや:1886~1965年)。かれが創業した白楊社は、大正13年から昭和3年(1928年)にかけて、初期の生産乗用車オートモ号(写真)を4年間にわたり約300台生産している。東京・洲崎(すざき:現在の東陽町1丁目あたり)にあった自動車レースでも優勝した経験を持つ。東京―大阪間ノンストップレースにも国産車として唯一完走している。大正14年11月には、国産車輸出第1号としてオートモ号が横浜港から船に載せられ上海にも輸出されている。すでに日本車と外国車のバトルが生まれていたのだ。
2012年10 月15日 (月曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第16回
関東大震災後の帝都復興の物流を担ったのが、全国から参集した多くの貨物自動車(いまでいうトラック)だった。明治から大正の前半まで、日本の物流は荷車や馬車が中心で、やや出遅れ気味だったトラック輸送は震災にともなう輸送需要の発生で、急速に伸びていった。昭和13年4月の時点で、東京市内の自動車台数が1万台を越えている。
東京市内の自動車増加の要因のひとつは、「円(えん)タク」の活躍もあった。「円タク」というのは、市内ならどこまで走っても、料金が1円のタクシーのこと。大正末から昭和にかけて「円」を頭に関したビジネスモデルが生まれている。「円本ブーム」「円色ブーム」などがそれ。当時の1円は大学での初任給の約2%に相当した。円本ブームは、大正15年末に発売された改造社の「現代日本文学全集」からはじまり、庶民の読書欲にこたえたもの。
「円タク」は大正末に大阪で誕生し、やがて東京でも登場し人気を集めた。車両はダットサンなどの国産車も一部にあったが、フォードやシボレーが圧倒的に多かった。自動車を所有することなど夢のまた夢の当時の庶民にとって、ちょっと背伸びすれば乗ることができた円タクは、いわば「街の共有の自家用車」。庶民が自動車の利便性を肌感覚で理解するには不足はなかった。この「円タク」は、当時の文化・生活に色濃く影響を与えている。「今日は円タク、おごろうか」といった言葉が当時の人々の口から出たという。ちょっとおしゃれをして、ウキウキした気分で誘い合って円タクを利用する、そんな光景が浮かぶ。軍靴の音が響くまでには少し間がある時代であった。
2012年10 月 1日 (月曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第15回
フォードT型をベースにした日本製乗合バスが、実際走ったのは、震災から4ヵ月後の大正13年1月18日から。巣鴨⇔東京駅間と中渋谷⇔東京駅間の2ルートだった。運賃は1区で10銭。当時の週刊誌の1冊の値段と同じ。
その頃、東京のもうひとつの市民の足・省線電車は電力不足のため運休が続出し、混乱が続いていた。大正13年3月16日までには、当初計画の20系統、全営業キロ数152.53kmの全線運行をおこない、市電に替る公共輸送機関の役割を立派に果たしている。一日の乗車客が5万4000人という記録が残っている。
大半は役目を終えた時点で解体されたようだ。唯一千葉の養護施設で使われていたとされる1台だけが現存。現物を見ると、乗り心地がけっしていいとは誰も思わないつくりだ。乗用車のフォードT型の助手席に一度乗った経験を思い出す。シャシーにショックアブソーバーはおろかスプリングらしきものがなく、唯一クッション能力を持つのは、分厚いシートだった。エンジンマウントもゴムタイプではなくシャシーに直付けで、振動が直接車内に伝わり、まるでマッサージ機の上に乗っている感じだった。
市電という足を失った東京市民は、その“ガタガタぐるま”を体験することで、自動車の便利さをかみしめたようだ。それにこのバスを「円太郎バス」の愛称を付け親しんだようだ。円太郎というのは、当時人気の落語家である「橘屋円太郎(たちばなや・えんたろう)」のラッパを吹き鳴らし演じる十八番「ガタ馬車」にちなんでつけられたニックネームだった。
2012年9 月15日 (土曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第14回
大正時代を通じて、人々が自動車の≪便利さ≫に注目し、その≪増加≫に目を見張ったのは、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災以降のことだった。ちなみに、関東大震災は、関東南部を襲ったマグネチュード7.9の大地震に端を発したもので、昨年3月11日の東日本大震災以前での近代日本がこうむった震災として最大級の被害を記録した。死者数9万9331名、負傷者数10万3724名、行方不明者数4万3476名。家屋全壊12万8266戸、家屋流出868戸、家屋焼失44万7128戸というのがその被害の数値だ。被害領域は、東京、神奈川、静岡、千葉、山梨、茨城の1府6件(東京はそのころ東京府だった)。
とりわけ当時“帝都”と呼ばれていた東京では壊滅的な打撃を受けたのが、市民の足となっていた市電網。いわば現代の都内を網の目のように張り巡らせた地下鉄網が地震で一瞬にして壊滅したようなもの。そこで、その応急処置として、アメリカ・フォード社からフォードTTを800台を緊急輸入した。当時世界最大の自動車会社フォードは注文を受けて、わずか3ヶ月ほどで供給したという。フォードTTというのはフォードT型をベースに作られたトラックシャシーで、これに屋根と対面式のシートを取り付け、11人乗りの市営バスとして走らせたのが、東京市営(当時)バスのはじまりだ。通称言われる「円太郎バス」である。自然災害という未曾有の出来事が、皮肉にも庶民に自動車の存在を強く意識させたのである。
2012年9 月 1日 (土曜日)
大正100年 日本人のクルマはじめて物語 第13回
断片的だが、もう少し当時のモノづくり世界を見ていこう。
金属の性質を高める技術である熱処理も書物や数少ない経験を頼りにおこなった。歯車の製作は軸心の平行の狂いのため、歯形の磨耗がはなはだしく、雑音も出たという。とくに困難を極めたのは、後軸に作られた作動用の傘歯車の製作。ケースや部品のゆがみの連続のため,そうした誤差が重なり合い、より誤差が拡大し,試運転するごとに大音響を発し,不愉快はなはだしく苦情は尽きることがなかったという。
車室の構造や製作は、造船所ではまったく知識も経験もなく、当時の馬車を製造していた業者に依頼。大型の木材をくりぬいて丸みをつけ、その他の部分も木材を使い、大重量の車室が出来上がった。一方、キャビン内は英国製の毛織物をあしらい、いわばコストを無視した贅沢なものだった。こうして完成した三菱A型乗用車は、翌大正8年の福岡博覧会に出品されると同時に、三菱造船と三菱商事が共同出資した販売会社「大手商会」(東京・芝日の出町)を設立。この大手商会は、A型の販売だけでなく、輸入車の販売やグッドイヤータイヤなどの販売も手がけている。ところが、三菱A型乗用車は、わずか22台を製作したところで途絶。諸般の事情があったが、最大の理由は海軍から「自動車よりは航空機をつくれ」という命令に近い圧力があったからといわれる。大正10年に生産が中止され、販売会社の「大手商会」も翌年の大正11年には解散している。
実は、大正時代なかごろの自動車造りへの情熱は、三菱陣営だけではなかった。
ゴルハム式の3輪車と4輪車を製造した大阪の実用自動車製造㈱は大正8年の設立だし、東京・巣鴨にあった豊川順彌の白楊社は大正10年にアレス号を製作している。また、大正8年にはT・G・Eトラック(TGEはトウキョウ・ガス・エレクトロニックの頭文字)を製造した東京有楽町を本社に持つ東京瓦斯電気工業、大正9年にウーズレー号(写真)を製造した渋沢栄一(日本資本主義の父)ゆかりの石川島造船所など、当時の大企業によって組織的にクルマ作りがおこなわれている。こうした「大正生まれの国産車」は、大正11年(1922年)開催の平和記念東京博覧会などに出品され、一部は路上で活躍し、多くの国民大衆が目にするようになる。いずれにしろ、この時期は、国産自動車工業の揺籃期。人々の自動車への眼差しが、一段と増大した時期でもあった。
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