三菱合資会社本社から、乗用車の生産が指示された。
当時、その乗用車設計にたずさわった人物によると・・・・「自動車の製作をしようという機運がどのような経緯で出てきたのかは、新入りの私には分からないが、どうも神戸造船所だけから盛り上がってきたものではなく、あくまでも本社の意図から出たものだと思っている」(三菱の社史から)90年以上も昔のことであり、いまとなってはそのあたりの経緯はつかみきれないが、とにかく、イタリア製のフィアットをモデルにして乗用車製造をスタートさせている。当時はフォード、ビュイック、ハドソン、ダッジといったアメリカ車、ルノー、シトロエン、ベンツ、ロールスロイスといった欧州車がごく少数ながら輸入されていた時代。なにゆえにフィアットだったかというと、本社の三菱合資会社で社用車としてフィアットを用いており、当時としては堅牢で経済的だという判断があったようだ。
当事者であるエンジニアが書き残している内容を一言でいうと、“ただがむしゃらに作り上げた”というのが三菱A型自動車だったようだ。30馬力ほどのエンジンは、4気筒一体の鋳鉄製だったが、鋳鉄技術の未熟さから、200ポンドの水圧試験にかけると30%しか合格しなかった。また車体枠や作動歯車箱(デフ・ギアのこと)はハンマー打ちで仕上げたもので、芯出しに苦労したという。まさに手探りのクルマ作り。エンジンのカムおよびカムシャフトの製作のためには研磨機はあったが、タイミングの誤差がはなはだしく、手作業で修正。ときには作り直しも再々あったという。現代のように嵌合の標準が決められていないので、作業者の勘に頼るありさま。そのため焼き付きトラブルは頻発。そうした苦い経験の積み重ねで次第に公差を決めるというものだった。現代の量産とは、程遠い世界のモノづくりだった。
大正中期の3つ目の視点は、それまでの個人レベルの自動車生産への挑戦から、既存の大手企業が本腰を入れて自動車造りにチャレンジしたことだ。投資できる金額の彼我である。
大正7年に、国産初の量産自動車とされる「三菱A型」が世に出ている。このクルマに関して筆者は、以前に三菱自動車の社史などで詳細を調べた経緯がある。少しややこしいが、おさらいをしてみると・・・
このクルマは大正10年までの約5年間にわたり計22台量産された。不思議なことに、このクルマを生産されたところは、三菱造船株式会社神戸造船所。その当時、神戸造船所では内燃機関の研究と開発をおこなっていた。三菱造船は、長崎にも造船所を持っていて,大正4年(1915年)、東京瓦斯が発電機用にドイツから250馬力のディーゼルエンジンを購入し、その検収(けんしゅう:送り届けたものを点検して受け取ること)を長崎造船所が担当した。このとき、部品の一つ一つをスケッチしたのが、≪三菱がディーゼルエンジンを手がけた≫記念すべき最初だ、とされる。
大正6年、神戸造船所に内燃機工場を新設、先のエンジン各部品のスケッチをもとに、研究を加え、350馬力の発電機用のディーゼルエンジンを製作したという。もともとこの造船所というのは、潜水艦と航空機用のエンジンの開発をメインとしていた工場で、大正6年海軍からフランスのルノー製の70馬力空冷V型8気筒ガソリンエンジンの試作依頼を受け、翌年夏には試作エンジンを完成し、5年間で15台のV8ガソリンエンジンを納入している。これと並行して、スペインが生んだ天才エンジニアであるマルク・ビルキヒトゆかりのイスパノ・スイザ社との技術交渉を進め、大正8年春から200馬力の水冷V8気筒ガソリンエンジンの生産に着手、大正11年までのほぼ4年間で154機のエンジンを製造。神戸造船所には、航空機用のガソリンエンジン、潜水艦用のディーゼルエンジンなどの開発を通して、エンジン全般、開発の基本理念など当時としてはかなり進んだモノづくり技術が開花していたと思われる。
いわば牧歌的な時代に、いち早く自動車を中心とした楽しい生活を送っていた人たちがいた。たとえば、銀座2丁目に自動車の輸入と販売を手がけていた商店主・山口勝蔵(やまぐち・かつぞう)氏もその一人。英国製デイムラーをはじめ米国製リーガル、イタリア製フィアットなどを取り寄せ、販売していた人物。のちに現代に続く工作機械やクレーンの販売を手がける銀座7丁目に本社をもつ「山勝(やまかつ)商店」の創業者だが、明治44年(1911年)に自動車宣伝のために「全国周遊自働車旅行」と称して山陽、山陰方面に28日間にわたるドライブ旅行をしている。「自動車の名物男」というニックネームで名を頂戴している。
トヨタ博物館で展示されているフランス製ベルリエは、山口勝蔵商店が購入し、山口勝蔵のお気に入りの車両として長いあいだ、大磯の自宅に保管してあった車両。大正時代はフランス車が輸入されることは、ごくまれ。当時の貴族や名士に貸し出されたとされる。ベルリエという車両は、モーリス・ベルリエというフランス人が1894年から自動車造りをはじめ、小規模ながら個性的な乗用車を作り続けた。第2次世界大戦中は、トラックなどの重量車の生産に転じ、1967年からはシトロエンの傘下に入り、その名は消えている。山口が所有していたベルリエは、全長4950ミリ、全幅2000ミリ、全高1730ミリ、ホイールベース3389ミリ。エンジンは水冷4気筒、排気量4400ccで、最高出力は22HPだという。
モータリゼーションが成立するには、自動車が安全に走行できる社会インフラが必要。
大正の中ごろ、次第に自動車の台数が増加するにつれて、初期の交通インフラ整備が進められた。大正8年(1919年)9月に東京の銀座と上野広小路に「交通標板」がはじめて設置された。これは写真に見るように、上部に交差する標板を持つもので、「止レ」と「進メ」をポール根元にあるハンドルで動かし、指示するという今の人からはのどか、というか間の抜けたものだ。夜間はむろん、強い雨が降る日などはほとんど頼りにできない代物だった。同様の交通信号は、大阪では大正11年に渡辺橋交差点に設置され、翌大正12年には名古屋の柳橋の交差点に設置されたという記録が残っている。
自動車の普及度を見てみよう。大正4年のデータでは、人力車が12万台以上、自転車が61万台にくらべ、自動車の台数は全国でわずか1244台と少数派だった。ところが、大正9年になると自動車の数は4600台と約4倍に。大正12年には、東京だけで5000台を超え、関東大震災後には1万台を超えている。
一方交通法規の面では、大正7年(1917年)に「道路法」が成立している。これにより自動車交通の発展を見越して、必要な道路の建設や整備を図ることが定められた。このとき、道路が国道、府県道、市道、町村道の4つに分けられた。また、大正8年1月に「自動車取締令」が全国的に統一され、それまでバラバラだった交通法規が全国的に統一され、大正10年1月1日より施行された。自動車を運転するには試験を受けて許可をとり、免許証を持参する必要があるのはこのときからだ。当時の免許にはどの車種でも運転ができる「甲種」。牽引車両やオート三輪車を運転できる「乙種」があり、試験は自動車を持ち込んで公道でおこなわれた。
女性の社会進出の代表選手として、栃木県の一人の女性の自動車への熱い想いがある。当時23歳だった栃木県出身の「渡辺はま」だ。彼女は、大正6年に上京し、自動車学校に入り、同年4月に卒業後東京の自動車商会にドライバー見習いとして入社。それから2ヵ月後の6月に警視庁の自動車試験に合格。女性初の自動車運転免許取得となった。大正8年に東京市街自動車が通称「青バス」(新橋―上野)を運行、翌大正9年2月2日に白襟姿の「女車掌」が乗務している。
女性の社会進進出の大きな背景のひとつは、当時の女性活動家の努力も無視できない。大正9年に上野精養軒で「新しい女性」で鮮烈デビューした平塚雷鳥とのちに政治の世界で活躍する市川房江などが新婦人協会を発足、雑誌「女性同盟」を創刊している。こうした「新しい女」のなかには詩人の与謝野晶子、岡本太郎の母・岡本かの子、それに関東大震災直後にアナーキスト大杉栄とともに憲兵隊に惨殺される伊藤野枝などが含まれる。銀座の資生堂が、美容・美髪・洋装の3科を設置し、コールドクリームを発売したのが大正11年のことだ。同じ年に牛込に文化服装学園の前身である「文化裁縫学院」が開院している。翌年には丸ビル内に山野千枝子が「丸の内美容院」を開設している。大正末期から昭和初期にかけて西洋文化の影響を受けた新しい風俗や流行を作り出した「モダン・ガール」(あるいは「モダン・ボーイ」)が登場するが、その先駆けというか土壌が大正の中期にできつつあった。
ちなみに、この時代は、その後の暗い世相だった第2次世界大戦下と異なり、明らかに自由な空気が世の中にあったとされる。大正デモクラシーの時流に乗り、大正14年に満25歳以上の男子が衆議院の選挙権を持つ“普通選挙”が実施(女性の参政権は第2次世界大戦後)、教育分野では「大正自由教育運動」が起こり、かつてはごく一部の恵まれた子女しか許されなかった教育が徐々に庶民にも拡大。個人の自由が自我の拡大が叫ばれ、進取の気風と称して西洋先進文化への積極的な取り組みが尊ばれた。平成の現代から見ると、かなりの前段階ではあったが、こうした自由な空気のなかで、女性の社会進出が進んでいったのだ。
大正6年~大正12年は西暦でいえば1917年~1923年。その大正中期をトヨタ博物館の担当者は、3つの視点でとらえている。
ひとつは、『女性の社会進出』だ。
女性の社会進出は、大正初期からすでに始まっているが、第1次世界大戦後の好景気がその後押しをしたといえる。現在から見ると女性の職場はまだまだ限られていたとはいえ、官庁、銀行の事務、電話交換手、タイピストなど女性の新しい職業が脚光を浴びた。「職業婦人」という言葉が生まれたのもこの時期だ。女性誌が数多く誕生した時期でもある。自動車の分野でも「女運転手」「女車掌」が誕生したのは、すでに述べたとおり。つまりそれまで男性によって独占されていた職業への新たな進出が話題となっている。
ふたつ目の視点は、次第に増加する自動車に対応する道路整備や交通信号の設置など、『社会的なインフラ整備』が少しずつ進められていったこと。同時に全国統一の自動車取締令が施行され、法制面での整備も進んだ。
3つ目が、これまで個人レベルで進められていた自動車造りの段階から大手の既存の企業が自動車造りに乗り出した点だ。つまり『大規模な自動車生産時代への移行』。大正11年(1922年)に開かれた平和記念大正博覧会は、こうした企業が挑戦した初期作品の展示場となった。
以上を踏まえてさらに詳細に、次回から大正中期の日本人が自動車にどんなふうに向き合っていたかを眺めてみよう。
大正3年(1914年)3月から7月まで、東京の上野公園で「東京大正博覧会」が開催された。ロープウエイ、エスカレーター(写真)が会場に設置され、飛行機の編隊飛行がおこなわれるなど、当時の最先端技術で庶民の度肝を抜いた。約4ヶ月間でのべ746万人が来場したという。注目を集めたのは、自動車だった。国内外から10数台が出品・展示された。大半は輸入車だったが、国産車はいまだ個人による研究、開発の時代。というのは、岩倉具視(いわくら・ともみ)らの欧米視察派遣団による刺激で富国強兵・殖産興業などの明治政府の官民一体の青写真が描かれ、鉄道敷設や重工業振興が図られ、日本は急速に近代化の道を進む。だが、その視察派遣団が帰国(1873年)後、30数年たって自動車産業が欧米で沸き起こったため、自動車産業を国家事業として視野に入れることが適わなかったという事情がある。
そんななか、東京大正博覧会では、橋本増治郎の快進社自働車工場製「ダット号」、宮田栄助の宮田製作所「旭号」が展示され、褒章を受けている。ダット号は、のちのダットサンのルーツで、日本の代表的国産車の礎を築いた存在だ。
いずれにしろ、大正時代の始め、自動車は徐々に人々の前に登場してくるものの、多くの一般大衆にとっては文字通り「別世界の乗り物」であり、大部分の大衆にとっては、いまだ「無縁の存在」。その利便性を実感するのはあと10年ほどの時間が必要だった。
当時乗合バスといった路線バスは、京王電気軌道の乗合自動車をはじめとして、東京市外乗合自動車、大正3年に猿投(さなげ)から名古屋の新栄までを運行した愛知県の尾三自動車、大正2年に岐阜から小坂、関~下呂間などドイツ製ローレライ号をベースにした定員6名の幌型自動車6台を使った岐阜県の濃飛自動車など各地で運行されはじめた。
大正2年4月15日、東京の京王電気起動㈱が、新宿追分~笹塚間と調布~国分寺間を乗合自動車で運行したのが、東京における乗合自動車のはしりだといわれる。つまり東京初の乗合自動車は、電車開通までの臨時措置だったのだ。なお、日本初の乗合自動車は、明治36年、京都の二井商会(にせいしょうかい)の福井九兵衛らにより、現在の京都駅から堀川中立売・祇園石段下間の路線で始まったのが、事始めだといわれる。
面白いのは、当時「女運転手」と呼ばれる女性プロ・ドライバーが誕生したことだ。大正6年のことで、東京で17歳と23歳の女性ドライバーが同時に出現している。当時の読売新聞や女性雑誌「婦人公論」で大きく伝えられている。一方「女車掌」と呼ばれる女性の車掌は、まず電車の世界で大正7年に岐阜の美濃電鉄で2名の女性車掌が産声をあげている。いまや車掌とは死語だが、車内での管理や業務をおこなう乗務員のことだ。乗合自動車では、大正9年に東京市外自動車(通称青バス)が一般公募し採用試験をおこない、大正13年12月までに177名の「女車掌」が生まれている。それまで主に少年がおこなっていた車掌業務が女性にとってかわられたのだ。大正の中ごろには、“バス・ガール”と呼ばれ、現在の「山ガール」を初め「○○ガール」などにつながる。
日本初のタクシー会社は、大正元年(1912年)の2月に有楽町の数寄屋橋際にできた「タクシー自働車会社」。自動車ではなく自働車であることに注目。日本のタクシー、観光自動車業のルーツを築いた長晴登(1866~1916年)が社長。新橋と上野に営業所を置き、フォードT型6台を使っての営業だったという。フォードT型は、1908年に誕生しているので、当時の情報環境や物流を思い合わせると、「いち早く」という言葉で表現してもいいのかもしれない。日本初のタクシーには、驚くべきことに“料金計上器”(料金メーター)が付いていた。当時の読売新聞にはこんなふうに伝えている。「今回麹町区有楽町5丁目1番地にタクシー自働車株式会社なるものが設立された。同会社営業の特色とするところは、市内一定の駐車場に自動車を配置し乗客を待ち合わすことで(途中でも空車の場合には乗客の求めに応じる)・・・・乗車賃金及び走行距離数は、自働車に取り付けてある料金計上器に数字で自然に表れる事、賃金は最初の1マイル(1.6km)に限り60銭、その先は半マイルを増す毎に拾銭を加える外に、雨雷、夜中市外などは特別割引を取り、乗客数は1人から3人まで同一である」
日本初のタクシー会社で使われたフォード・モデルTは、4人乗りで、20馬力とチカラがあり、車体も頑丈で、悪路にも強いなど当時の路面情況のよくなかった日本ではジャストフィット。価格も一台3000円とリーズナブルで、8500円以上したといわれる根津嘉一郎のルノー1台で3台近く買えた勘定だった。ちなみに、大正初期では大工の手間賃が1円15銭だった。
明治の末になると、ごく小数の欧州車などが限られた貴族や上流階級の人たちの手で、国内に持ち込まれ、愛用されていた。いわば趣味の世界の延長線の贅沢極まりない存在。いまなら自家用ジェットに近い。たとえば、有栖川宮威仁親王殿下(ありすがわのみや・たけひとしんのうでんか:1862~1913年)は明治38年(1905年)に渡欧した際フランスのダラック車を購入。その後、初の国産ガソリン自動車タクリー号の完成を支援されたほか、「遠乗会」を開催、日本自動車倶楽部の創設など、わが国初期の自動車界をリード。「自動車の宮様」として敬愛された。52歳という若くして亡くなった宮様を偲んで当時の雑誌「モーター」の主幹・山本愿太(やまもと・げんた)は「我自動車界にとり、第一人者に在りしませり」と哀悼の辞を述べている。
ちなみに、明治45年(1912年)発行の写真画報「グラフィック」という雑誌には、その当時の自動車の所有者のインタビュー記事が掲載されている。その中に根津嘉一郎(ねづ・かいいちろう:1860~1940年)がいる。中央線の開通に尽力した若尾逸平(わかお・いっぺい)や“投機界の魔王”と呼ばれた雨宮敬次郎(あまみや・けいじろう)らとともに甲州財閥の一人。東武鉄道や日清製粉などの社長を歴任し、鉄道王とも呼ばれのちの根津美術館のもとを作った人物でもある。当時フランス車のルノーを愛用していた根津は、「私が自動車を買ったのは、贅沢のためではない。平生の繁忙要務を敏速に弁ぜんが為である(普段の事業の忙しさを少しでも和らげるためだ、の意味)」と自動車の便利さを強弁している。
この根津の愛用していたルノーとほぼ同型のルノーがトヨタ博物館にある。「ルノー・タイプDJ」で、馬車時代の名残から運転席と客席が完全に独立したリムジンボディの高級車。現在のクルマと同じに前方から開閉するエンジンフードとエンジンの後方に置かれたラジエーターが特徴。エンジンは、水冷4気筒L型ヘッドで排気量3365cc。全長4713ミリ、全幅1816ミリ、全高2229ミリ、ホイールベース3396ミリ。車両重量が1746kg。
大正時代に入ると、わずかだが街に自動車の姿を見るようになる。タクシーや現在のバスにあたる乗り合い自動車が街中を走るようになり、庶民も自動車の存在に少しずつ関心を抱くようになる。
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