われわれの祖父母が少年もしくは青年時代を送った大正時代とは、どんな時代だったのか?
ひとつは、大衆文化が誕生した時代であった。日露戦争(1904~1905年)後すでに義務教育が徹底して1940年(明治40年)には、これまでの4年以内だった義務教育が6年生となり、ほとんどの人が文字を読めるようになった。識字率の飛躍的な向上というやつだ。庶民の手紙も、いわゆる候文から言文一致体の文章も徐々に広がりつつあった。都市を中心にインテリ層が増加し、活字文化を支えて側面もある。新聞が100万部を超え、岩波文庫が誕生し、講談社の前身である大日本雄弁会講談社の雑誌「キング」が100万部を越えたのも大正期である。活字だけでなく、大正の末には、ラジオ放送が始まり、レコードの販売数がうなぎのぼりとなり、歌謡曲が全国に流行したのもその頃だ。流行歌の誕生だ。
都市を中心にライフスタイルが大きく変化したのもこの時代だ。
洋服の普及、和洋折衷の食生活、鉄筋コンクリート造りの公共建築、家庭のおける電灯の普及、水道・ガス事業の発展など現代の生活につながるモダンライフの萌芽が都会では見られている。だが、こうした大衆文化や近代化は、当時多数派だった農村にまでは普及せず、都市と農村の格差が際立ち始めたのもこの大正時代からだ。
自動車という乗り物が、日本に始めてやってきたのは明治31年(1998年)。フランスの技師のジャン・マリー・テブネという青年が日本に工作機械を販売しようという野心を秘めて来日したのがキッカケ。パナール・ルヴァソールを携え、フランスの機械技術を近代的な工業製品である自動車で伝えようとしたらしい。ところが、日本はまだ人力車、大八車の時代。当時の日本人には、はるか雲の上の乗り物。現代でいえば自家用ジェット機をみる眼差しだったようだ。
意外とスルーしてしまったが、昨年平成23年は、大正元年(1912年)から数えてちょうど100年にあたる。
大正時代というのは、明治の45年間と昭和の64年間のあいだに挟まり、わずか15年と短いこともあり、その時代の特徴や世相などがどうも霞がかかって輪郭がぼやけがち。だが、実は、大正時代こそが人々の生活に自動車が役立つように使われだした時代。“初期の自動車実用化時代”ともいえる。国産自動車工業がスタートを切った時代でもある。とりわけ、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災後、壊滅的な被害を受けた東京の市電の応急措置として導入された市営バスは、日本人の自動車への関心を呼び覚ましたとされる。この市営バスは、“円太郎バス”と呼ばれ愛されたもの。実はフォードTT型のシャシーにバスボディを架装したものだ。皮肉にも震災で日本人ははじめて自動車というモビリティに目覚めたのである。そこから国産初の量産乗用車クラウンの誕生まで、30数年待たなければならない。
奇跡の無血革命といわれる明治維新が、江戸期の知的経験や産業育成にその成功の背景にあったのと同じように、昭和30年代から花開く日本のモータリゼーションも実は、種を蒔き若葉を育てる長い期間があった。それが大正時代から昭和初期にかけてだった。そう考えると、われわれの祖父や曽祖父が生きた時代がどんな時代だったのか知りたくもなる。このほどトヨタ博物館で催された「大正100年記念 大正 自動車(くるま)物語」を踏まえ、その時代とクルマにまつわる人々を覗くことにしよう。
「G21プロジェクト」が誕生したのは、1995年。これはプリウス開発の中心になる各分野からの選抜チームで構成されたチーム。その年の東京モーターショーにはパラレルタイプのハイブリッド車「プリウス」を出品している。これを踏まえ、さらに未知な領域に踏み込んだ研究&開発が展開され、1997年(平成9年)10月に初代プリウスが誕生した。世界初の大量生産型ハイブリッド乗用車プリウスは、多くの課題を克服して量産にこぎつけたのだが、粘り強い技術開発と強いリーダーシップによる決断する勇気。エコロジーを求める時代の機運も後押しした。次の3つの技術的進化がその製鋼のカギを握ったといえる。それは・・・
1.バッテリーの進化である。つまりニッケル水素バッテリーの開発による大幅な性能アップ。
2.電子制御技術の進化。
3.開発時のシミュレーション技術の向上。
制御技術に注目したい。アクセルペダルの踏み込み量と車速から必要なエンジン出力を計算し、最適な燃費となるエンジン回転数を求める。同時に必要に応じてモーターでの駆動分担具合を算出。エンジン効率が悪い発進時などには、エンジンを使わずにモーターで走行する。バッテリーの充電状態を一定に保つために、蓄電量の低下時にはエンジン出力を上げ、発電し充電するなどいまのエコカーの技術の先取りだ。
ところで、歴史を振り返ってみると面白い。現在では21世紀の乗り物として注目を集める電気自動車は、ガソリン車よりも早く19世紀の後期である1870年代から、つまり、いまから140年近く以前に欧米で製造・販売され、ハイブリット車も1900年代初頭に登場している。具体的には、VWやポルシェの基礎をつくったフェルデナンド・ポルシェが、1900年(明治33年)のパリ万国博覧会に電気自動車を出品。その後メルセデス製のエンジンを発電機としたシリーズ・ハイブリッド車の「ローナー・ポルシェ・ガソリン電気自動車」を製作している。
エンジンとモーターを併用するパラレル・ハイブリッド車としては、アメリカで電気自動車の老舗メーカーであるウッズ車(デュアル・パワー・クーペ モデル44)が1917年に発売している。ただし、この世界初のハイブリッド量産車は、エンジンとモーターという2つの動力源の制御が初歩的で実用にいたらず、2年で生産を終えている。歴史とは行きつ戻りつしながら進むようだ。
いよいよ、現代に近づいた。現代を代表するクルマといえば、急速に進化した電子制御テクノロジーが後押しして完成した“ハイブリッドカー”である。
昨年3月時点で、トヨタのハイブリッド車が累計販売台数300万台を超えている。むろんこれはプリウスが大きな牽引力になっていることは言うまでもない。世界44カ国で販売されている世界初のハイブリッド・プリウスの誕生は時代背景なしには語ることができない。
話はいまから27年ほど前に遡る。クルマから離れ、少し当時の経済状況をおさらいしてみよう。1985年(昭和60年)の先進5カ国蔵相会議がニューヨークにあるプラザホテルで開かれた。課題は、米国の大幅な貿易赤字の解消だった。プラザ合意と呼ばれる取り決めがおこなわれ、アメリカの貿易赤字を解消するため。為替レートはそれまでの1ドル=235円から、1年後には120円までに下落した。その結果、円高になり日本の輸出産業は大打撃を受けるのだが、政府の低金利政策もあり日本経済は一時的に回復した。
為替によるリスクを嫌った投資資金が日本国内に流れ込み土地や株を買占め、急激に価格を上げていった。こうして出現したのは1980年代末から起きたのが、見かけ上の好景気ともいえるバブル経済である。ところが、1990年には地価が急暴落し、連鎖的に株価が下がり不況となる。1991~1992年には日本自動車業界にも販売台数の前年割れの影響が出て、それまでもてはやされていた高級車市場が縮小し、逆に軽自動車やコンパクトカーのシェアが増加した。しかも円高で輸出での利益が薄くなる状況となり、自動車メーカー各社は原価低減に走り始める。
そんななかに「このままではエンジニアの夢がなくなる!」という危機感を強く感じた技術役員がトヨタにはいた。「まったく新しい設計で理想に近いクルマを作ろうではないか!」そんな機運が高まり「G21プロジェクト」がスタートしたという。これが初代プリウス誕生のそもそものきっかけだ。実は、それ以前からトヨタではハイブリッド車テクノロジーへの研究をしていた。43年前の1969年に、ガスタービン・エンジンとシリーズ・ハイブリッドの組み合わせで開発がおこなわれ、1971年の東京モーターショーには「トヨタS800シリーズ・ハイブリッド」が参考出品されている。それ以降も、アメリカのカリフォルニア州で低公害車を義務付ける法案が出され、省エネルギーの動きにあわせ開発は続いていたという。
トヨタは、米国現地生産の第1歩として、1984年にGMと合弁でNUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング・インク)を設立、日米共同による自動車生産をスタートさせた。カルフォルニア州フリーモントにあるGMの遊休工場を活用したもの。GMは、そこで日本式の効率的なモノづくりを学び、トヨタは現地での部品調達や労務管理のノウハウをその後の単独米国進出に生かすことになる。いわゆるWINWINのビジネスだった。NUMMI工場の生産は、GMの平均的工場の生産性の約2倍となり、NUMMIの奇跡とまで称された。トヨタの方は、翌年の1985年にケンタッキーに100%出資の子会社を設立。ホンダや日産より後発ながらスピーディに北米のオペレーションを展開できたのもNUMMIで培ったノウハウが生かされた。
トヨタ生産方式を導入した高い品質管理を設立当初から実践した結果、同社で生産された車両は米国ユーザーから高く評価され、アメリカを拠点とした世界的な市場調査企業で、自動車関連の顧客満足度調査の結果は、ブランドイメージや販売実績に大きな影響を与えるJDパワーによる顧客満足度調査で、数々の賞を受賞している。
日本メーカーによる米国現地生産が本格化したのちも、NUMMIは従業員数約4700名で、小型車やピックアップ・トラックの生産を続けていたが、GMの経営破綻にともない合弁事業を2010年4月に解消し、25年の歴史に幕を下ろした。この工場の一部を使ってEVスポーツカーメーカーのテスタ・モータースがモノづくりを始めている。
1984年12月にNUMMIでラインオフした、スプリンターをベースにしたGMの「シボレー・ノバ」は、販売面では成功したクルマではなかったが、米国における自動車生産の日米協力のシンボルとして記念すべき1台であることはたしか。
いまや忘れ去られつつある世界巨大自動車メーカー、トヨタとGMの協業の話である。
時計の針を40年ほど戻してみる。1970年代の2度の石油危機をへて、自動車は低燃費でコンパクトなモデルが主流になってきた。とくに、アメリカでは高品質な日本車の人気が高く、輸入台数の急増により乗用車部門でのジャパニーズ・カーのシェアが20%になった。1980年代に入り、GM,フォード、クライスラーのいわゆるビッグ3といわれるアメリカの自動車メーカーの経営がいずれも赤字に転落。そうなると、自国の経済を守るためにアメリカは、日本車の輸入規制の動きが加速、「日米自動車摩擦」が勃発。このままでは貿易立国・日本の屋台骨が崩れる! 日本の自動車メーカーは、相次いでアメリカへの工場建設を開始し、日本の自動車産業はほぼこぞって米国製生産へと大きく踏み出すことになる。かの地に工場を進出することで雇用を確保し、ビジネスを成立させるという戦略だ。
だがそれはアメリカ人にも痛し痒し!? フォードのモデルTに代表するように≪自動車はアメリカの象徴≫。それがアジアの一国である日本に凌駕される!・・・大半のアメリカ人の目にはそう映った。クリント・イーストウッドが演ずる映画≪グラン・トリノ(GRAN TORINO)≫(2008年製作で日本での上映が翌2009年)の中で、そうしたアメリカ人の気持ちを代弁するせりふがある。朝鮮戦争での戦役がある孤独な頑固親父役のイーストウッドは、フォードのトリノを大切にしているフォードの元工員。燃費がよくカッコいいジャパニーズ・カーがはびこる状況のなか。「米の飯を食べている奴らがつくるクルマなんかに乗れるかいっ!」という捨て台詞に、当時のアメリカ人の心情が込められた。トヨタは、米国現地生産の第1歩として、1984年にGMと合弁でNUMMI(ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング・インク)を設立し、日米共同による自動車生産をスタートさせた。
その後、エンジンの電子制御化、触媒技術の進歩によりエンジン本体での複雑な対応がなくとも排気ガス浄化が可能となり、ホンダからCVCCの技術を導入して研究していた自動車メーカー(トヨタや日産など)は採用を取りやめ、CVCCは世界的な潮流とはなりえなかった。もちろん、ホンダも、そうした流れの中で、CVCCの採用をやめている。
この時代、マスキー法を代表とする排ガス規制のほかに、もうひとつ大きな壁が立ちはだかった。2度にわたるオイルショックである。1度目は、1973年(昭和48年)10月の第4次中東戦争による石油輸出国機構(OPEC)やアラブ石油輸出国機構(OAPEC)が原油価格の値上げと原油生産量の削減を決定した事件。2つ目は、それから6年後の1979年(昭和54年)のイラン革命によりイランでの石油生産停止やOPECが原油価格値上げを決定した出来事である。
世界情勢を背景に日本国内では相次ぐ便乗値上げでインフレが加速。原油とは直接関係のないトイレットペーパーや洗剤の買占めなどの社会現象が起きた。それだけでなく、省エネルギー対策として深夜放送の休止、ガソリンスタンドの休日休業、ネオンサインの早期消灯などがおこなわれた。深刻なエネルギー問題は、これまでの中東一辺倒の依存から抜け出そうと、中東以外の新しい油田開発や、非石油エネルギーの活用と推進に向かわせた。原子力、風力、太陽光などの代替エネルギーへのアプローチである。なかでもコストが安いとされた原発は当時社会の正義でもあった。福島第1原発はこの時代につくられた。その原発が、現在深刻な問題となっている。歴史のめぐり合わせとはいえ筆舌に尽くしがたいものがある。
今回は、若い人には≪新鮮≫、年配の人には≪懐かしい≫物語である。
いまから41年前の1970年12月、当時世界で一番厳しいとされた排気ガス規制法が発効された。アメリカの上院議員であるエドモンド・マスキー氏の提案からはじまった法律。「排気ガスであるCO2,HC,NOⅹの排出量を当時の1/10にする。規制値をクリアできないクルマはアメリカでの販売を認めない」という、北米の自動車市場に依存していた日本車にとっては実にシビアなものだった。当時の自動車技術の世界では、機械的に空気と燃料を混ぜ合わせるキャブレター全盛。電子制御技術が生まれる以前。排気ガスを浄化するテクノロジーの開発はほとんど手探りからのスタート。あまりにも高い目標に絶望感すら漂っていたともいえる。
この厳しい規制に一番乗りしたのが、ホンダのCVCCと呼ばれるエンジンだった。複合過流調速燃焼方式(コンパウンド・ヴォルテックス・コントロールド・コンバッション)。シリンダーヘッド内部に小さな燃焼室を設け、そこでまず濃い混合気を燃やしたのち、主燃焼室で薄い混合気を燃焼させるもの。希薄燃焼でCOの発生を抑え、主燃焼室での安定かつ緩慢な燃焼により燃焼温度を比較的低くしNOⅹの量を低減する狙い。後処理装置を持たないシンプルな機構としては当時としては高い評価を得た。アメリカ自動車技術者協会で1970年にこのCVCCを搭載したシビックは、優秀技術車に選ばれて、日本でも2007年に「日本の排ガス低減技術を世界のトップに引き上げた歴史的機械」として認定されている。
このマスキー法案には、技術的に間に合わない世界の自動車メーカーの大部分から横車で、1975年の実施期限を待たずして前年の1974年に廃止。でも、排ガス規制自体は、徐々に進み20年後の1995年にはマスキー法で定められた基準に達した。
初代パブリカは、低価格を達成するあまり、メッキ部品やヒーター、ラジオ、ミラーなどを省いた。そのことで、自動車に高級感や夢と楽しさを求め始めたユーザーには評価されず、販売は期待はずれとなった。目標である3000台/月を大きく下回る1600台/月だった。そこで、2年後の1963年7月、装備を充実させたパブリカ・デラックスを発表、需要が急伸したという。月販販売を1万台超えたのである。
ちなみに、パブリカ・デラックスは、スタンダードのパブリカにくらべ価格は4万円高の42万9000円。従来のパブリカのキャッチコピーが「あなたのために生まれた本当の大衆乗用車です」だったのが、「強力! 豪華! 経済! これこそ、日本のパブリック・カー(国民車)です」に変わった。パブリカの登場は、日本に本格的なクルマ社会をもたらせたといえる。それまでタクシー会社や法人を対象だった販売政策がサラリーマン層を中心とした個人や家庭にシフト、本格的なモータリゼーションの時代を迎えたのだ。あまり知られていないが、1962年の第9回全日本自動車ショーではこのパブリカの空冷の水平対向2気筒エンジンを10馬力高め、足回りも強化した2シーターのスポーツモデル(写真)が参考出品された。これは関東自動車工業の製作で、デザインはダットサン110やブルーバード310を手がけた佐藤章蔵(さとう・しょうぞう)。航空機の技術に精通している佐藤は、スライディングルーフの採用やボディを2重構造にしてポリウレタン樹脂を注入してサンドイッチ状にするなど、随所に航空機のテクノロジーを取り入れた。その結果、重量はコンバーチブルよりも8kg軽い612kgとなり、1965年に発売したトヨタ・スポーツ800の礎となった。
今回は、日本のモータリゼーション(クルマなしではいられない世の中の意味)が始まる以前の物語である。1955年(昭和30年)5月18日、「国民車構想」が新聞などで伝えられた。これは正確には「通産省」(現・経済産業省)の「国民車育成要綱案」というもので、平たく言えば国民の誰もが買える小型自動車。次の5つがキーワードだった。
1.定員は4名、または2人と百キログラム以上の貨物を詰めること。
2.最高速度は百キロメートル以上。
3.エンジン排気量350~500cc、月産2000台を目標にする。
4.平坦な道路では時速60キロメートルのときには1リットルの燃料で30キロメートル以上を走れること。
5.大掛かりな修理をしないでも10万キロメートル以上走れること。
面白いことに、トヨタはその前年の1954年、小型車構想を練っていた。最初の試作車は1956年に完成。室内空間が大きくとれるFFのレイアウトだった。ところが、当時はまだ信頼耐久性にすぐれたFF用のドライブシャフトがなかったため、量産にはいたらなかった。
その後、4年の歳月をかけ、新たに発表されたFRレイアウトの車両は1960年の第7回全日本自動車ショーで発表され、翌1961年4月に発売された。車名は全国から公募し「PUBLIC CAR」をかけ合わせた造語「パブリカ」と命名された。販売価格は、前年に国民車にもっとも近いクルマとしてデビューしていた三菱500よりも安く設定され、パブリカ店(のちのカローラ店)の設立やマイカーローンの設定などでも、話題を呼んだ。開発の中心には戦時中、立川飛行機で高高度戦闘機「キー94」を開発していた長谷川龍雄(はせがわ・たつお:1916~2008年)である。
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