みなさん!知ってますCAR?

2011年10 月15日 (土曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第10回

フジキャビン  フジキャビンの考察は、トヨタ博物館の学芸グループ長の杉浦孝彦氏がおこなっている。
  それによると・・・フジキャビンは、1955年の日比谷のショーで「メトロ125」という名称で出品、さらに第3回の全日本自動車ショウにも出され、そのあいだに10台の試作車がつくられ、1956年末から57年までに100台弱が作られたという。ところが売れ行きは大不振。販売網の弱さだけでなかった。乗降性の悪さと真夏の暑さが思いやられる狭く閉鎖された室内だったからだ。 当時の広告には「キャビンスクーター 屋根付きだから雨も砂塵も暑さ寒さも避けられる快適な乗り心地。ボディはポリエステル製(FRP)で軽く強く、一人で持ち上げて移動もできる・・・」とあった。
  製作した富士自動車というのは、スバルの富士重工とはまったくの別会社。戦前、輸入自動車の木製ボディや洋家具を製作していた日造木工株式会社が、終戦後日産の指定工場になり、1948年に「富士自動車㈱」と改名。在日米軍の車両修理事業(車両再生修理)を請け負い、1950年に始まった朝鮮戦争で特需企業のひとつとして急成長。1953年には高い技術力を持ちながら販売力になかった「東京瓦斯電気工業㈱」を吸収合併し「ガスデン」ブランドを引き継ぐ。だが、特需景気が終了すると徐々に企業力がダウンし、1962年に小松製作所の傘下となった。設計は、一時日産にも席を置いた富谷龍一(とみや・りゅういち:1908~1997年)がおこなったもので、FRPモノコックボディ車は日本初。「屋根付きスクーター」の発想自体は、BMWのイセッタ(1959年)やメッサーシュミットKR200(1955年)にも通じるものだ。

2011年10 月 1日 (土曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第9回

第1回東京モーターショウ   ここ数年「東京モーターショー」は、中国の北京モーターショーや上海モーターショーにおされ気味で、いささか元気をなくしているが、その始まりを眺めると、あの岡本太郎も真っ青になるほどの爆発的な熱気があった。
  12月始まる2011年(今年)の東京モーターショーは、42回目を迎えるが、第1回は、「大日本自動車ショウ」という名称だった。1954年6月だからいまから57年前のことだ。場所は、東京の日比谷公園。10日間の開催で、実に54万7000人の人が押し寄せている。2009年の総来場者数が13日間で61万4400名だということを考えれば、戦後最大規模のショーだといわれるのも理解できる。若者のクルマ離れが叫ばれている昨今とは、ずいぶん乖離(かいり)がある!?
  しかも、面白いことに出品されたクルマは全部でわずか267台。そのほとんどがトラックやオートバイで、乗用車はわずか17台! その乗用車も比のルノーやいすゞヒルマンミンクスなど、ノックダウン車を含めた数字で、純粋な国産乗用車を出品したのは、プリンス自動車、トヨタ自動車、日産、それにオオタの4社のみ。
  翌年1955年の第二回全日本自動車ショウになると、相変わらず商用車が多いなか、トヨタの初代トヨペット・クラウン、トヨペット・マスター、日産のダットサン110型などの乗用車のほかに、フジキャビンやフライングフェザーといった超軽量車も出品され、純国産乗用車が花開く基盤ができていった。

2011年9 月15日 (木曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第8回

ポルシェ博士   1936年10月に≪大人2人、子供3人が充分に乗れること、1000マルク以下の価格≫などの条件が決められた。3台の試作車(VW3)がつくられ、5万キロにおよぶテスト走行が実施されている。翌年の1937年に試作車VW30が30台生産され、ヒトラーの親衛隊により大規模な走行試験が展開。さらに1938年の5月26日に最終量産モデルのプロトタイプVW38が3台完成。これをヒトラーはk.d.f.(カーデーエフ=「喜びによる力のクルマ」)と命名している。
  トヨタ博物館に展示してあったのはタイプ60というフォルクス・ワーゲン車で、西ドイツ時代の1990年7月にVW社から寄贈された車両。初期型モデルで、1940年~1944年までのあいだにわずか630台生産されたうちの1台で、VW社がほぼ1年をかけて復元作業をおこなったものだ。
  意外と知られていないが、戦後、この通称ビートル(BEETLE:甲虫類の意味)が、半世紀にもわたり生産が続けられ、アメリカにも輸入され、西ドイツ経済の復興の鍵ともある。しかも世界の小型車のお手本として革命を巻き起こす。その大躍進の立役者であるのはハインリッヒ・ノルトホフ(1899年~1968年)だ。彼は、ベルリン工科大学からBMW社の航空機エンジン部門の責任者になり、戦後VWの工場責任者から、社長になった人物で、もともとポルシェのOHVエンジンを批判していた。歴史の皮肉なめぐり合わせといえる。ちなみに、ビートルの生産台数は約2150万台とされる。(写真はポルシェ博士)

2011年9 月 1日 (木曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第7回

VW   自動車125年の歴史の中で、ひときわ聳え立つ存在は、フォルクス・ワーゲンのビートルだとする意見に異論をさしはさむ人はないだろう。
  1929年から1945年ののべ15年間は、世界大恐慌による経済不況。それがきっかけとなる第二次世界大戦という人類が体験した未曾有の混乱と総力戦(TOTAL WAR)の時代。自動車の歴史も、こうした時代背景に大きく左右されている。まず大不況による暗雲でそれまでの大排気量車が衰退し、小型車が台頭している。いわば2周ほど遅れをとっていた日本では、日産、トヨタをはじめいすゞ、三菱、日野など現代につながる自動車メーカーの成立と自動車生産の開始など、大きな節目に当たっている。ちなみに、大排気量車というのはどんなものがあったかというと、1930年に発表されたキャデラックのV16とかV12であり、フォードも1932年にV8モデルをデビューさせている。一方、小型車は、1936年にデビューしたフィアット500トリポリーノである。
  この時期にとりわけエポックメーキング的存在のクルマは、フォルクス・ワーゲンだった。もともとこのクルマは、フォルクス・ワーゲン、つまり“国民車”というコンセプトで研究され、ちょうど第二次世界大戦直前に、プロトタイプが完成。1933年2月にヒトラーによる国民車構想が表明されている。これを踏まえ、その年の秋にフェルデナンド・ポルシェ博士が開発を指示した。ポルシェ博士自身が描いた基本デザインは、空冷エンジンをリアに置くリア・ドライブ。最良のロードホールディングをもたらすサスペンション、100km/h前後の最高速度、30%の登板能力。低価格で低燃費の進歩的で実用的な小型経済車がのちにカブトムシと呼ばれるクルマだった。

2011年8 月15日 (月曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第6回

フォード   関東大震災で東京市が壊滅的被害を受け庶民の足だった市電が全滅。そこで800台のモデルTTのシャシーを購入し、これを架装して11人乗りの小型バスをつくった。当時の落語家の名前にちなみ「円太郎バス」と呼ばれ、日本人に自動車の有効性を広く知らせることになった。これを機に、フォード社は、1925年に横浜の子安にノックダウン工場を作り、戦前の日本に自動車という乗り物を広める役目を果たしたのである。
  モデルTはヘンリー・フォードが45歳のときの作品。大成功を収めた秘密は何なのか? アメリカンドリームを実現した一大事業家である前に、実は技術者であり、レーシングドライバーでもあった。アイルランド系移民のヘンリーは、16歳で学業を終えると、船舶用のエンジンをつくる工場で仕事をし、そののち発明王エジソンの電灯会社の技師になるなど技術を習得。ところが給料の大半は、自動車作りの研究に費やす。37歳のときに独立を果たし、デトロイト自動車会社を設立し、自らつくったレーシングカーのハンドルを握り名前を全米に知らしめていく。こうして資金を得て、つくったのがフォード社で、社長になったのは、1906年、ヘンリーが44歳のとき。
  モデルTを売り出したときヘンリーは、新聞広告に次のような宣言をしている。
  「私は、大衆のための自動車を作ろうと思います。それは家族にとって十分な大きさと、しかも運転する人には走らせやすく、扱いやすい小型自動車です。最良の素材を使い、最高の働き手を雇い、最新の技術を生かして可能な限りシンプルな設計を採用します。その上、誰にでも買うことができる値段で販売します。どうか、このクルマで神に与えられた広い戸外で、あなたの家族とともに楽しい時間をお過ごしください」具体的なクルマのスペックではなく、≪自動車のあるすばらしい暮らし≫をわかりやすくイメージしているところが、ヘンリーの深い思いが感じられ面白い。

2011年8 月 1日 (月曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第5回

モデルT   フォード・モーター・カンパニーは、ヘンリー・フォード(1863~1947年)とその優秀なブレーンたちの手で、1908年10月1日、満を持して1台の新型車を世に送り出した。このクルマこそ、人間の暮らしを一変させる工業製品だった。20世紀の自動車史上、最大の出来事だといわれるフォード・モデルTの誕生だ。自動車を軸にした生活であるモータリゼーションを、地球上にはじめて具現化させたクルマである。
  フォード生産方式ともいわれるベルトコンベアによる流れ作業をはじめ、革新的な大量生産方式による大幅なコストダウン、運転を簡素化する数々のメカニズムで自動車の大衆化を果たしたモデルTは、1908年から1927年の生産終了までの19年間で1500万7033台が生産され、空前のベストセラーカーとなった。
  ある時点では全米の3台に1台が黒色のモデルTだったとも言われる。だから今でもアメリカ人の多くは、“モデルT”を口にするとき、懐かしさを込め遠くを見るような目で語ることが多い。1台のクルマが、アメリカ人の原風景のひとつなのかもしれない。技術的には、一体鋳造シリンダーブロックと取り外しができるシリンダーヘッドからなる直列4気筒エンジンや軽量で頑丈なバナジウム鋼材が有名。それ以上にモデルTが革命的だったのは、購買層を今まで自動車とは縁がなかった労働者(大衆)に的を絞ったこと。そのコンセプトは、次の4つだったという。
①馬車よりもずっと頑丈であること。
②馬車と同じ感覚で運転できること。つまり誰にでもドライブできる。
③アメリカの右側通行ルールにあっていること。つまり左ハンドルの採用だ。
④馬車と同程度もしくはそれより安価である。
  価格は、当初800ドルを超えていたのが、4年後には600ドル、14年後には290ドルと64%もプライスダウン。逆にフォードの工場で働く労働者は、日給5ドルで、8時間労働という当時としては高待遇。モデルT造りに従事する工員の多くも、こぞってモデルTのオーナーになった。こうして、モデルTは世界中に普及し、19カ国で生産、25カ国以上で販売された。

2011年7 月15日 (金曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第4回

FRのパナール・ルバソール   パナール・ルヴァッソール社の最大の功績とされているのは、1891年にフロントエンジン・リアドライブ、つまりFR方式を開発したことだとされる。それは開発者の名前にちなみ、「システム・パナール」と呼ばれた。FRの駆動方式の優秀性は、世界初の自動車レースである「パリ~ボルドー往復レース」(1895年)や、その後の欧州の都市間レースで証明された。これらのレースは、パリーマルセイユ、パリーアムステルダム、パリーベルリンなどパリを基点にしたレースが大半。年に数回、多いときには年に4回も開かれた。ちなみに、パナール・ルヴァッソールの第1号車はFRではなく、エンジンを中央に置いた、いわばミドシップ。だが、これは走行安定性で課題があったという。翌年FRに切り換え、これがキッカケでレースの世界で華々しい活躍を遂げる。
  パナール・ルヴァッソールが現代のクルマに大きな影響を与えたのは、FR方式だけではなかった。1895年に実用化した密閉式のギアボックス(トランスミッション)である。これは、摺動平歯車選択式と呼ばれたもので、前進3段、後進1段。入力軸と出力軸とが段違いにレイアウトされ、入力軸上の摺動歯車が、出力軸上の歯車にかみ合う構造。歯車は露出した状態で出力軸端のべベル・ギアでカウンターシャフトを回し、シャフトからチェーンで後輪を駆動するというスタイル。ギアボックスの開発のほかにも、冷却性が向上する車体前端へのラジエーター設置、これまでのティラーと呼ばれる棒状のステアリング(第1回のベンツ・パテント・モトールヴァーゲンがそれ)から今につながる丸ハンドルの採用など、その後の自動車の基礎技術を先んじて開発したのである。
  なお、FRレイアウトの話だが、1901年にダイムラーがパナール車に勝てるクルマとして開発したのが「メルセデス35HP」である。これは低重心でロングホイールベースを特徴とした車両で、自動車の性能を大きく塗り替えた。このクルマの登場で、これまでガソリン車は「馬なし馬車」という、いささかシニカルなイメージを払拭し、現代の自動車という新しい乗り物に脱皮したとされる。

2011年7 月 1日 (金曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第3回

パナール・ルッバソール   ベンツが、自動車の祖とするなら、フランスのパナール・ルヴァッソールは、現在の自動車に通じる、自動車技術の“もと”をつくったといえる。フロントエンジン・リアドライブ(FR)などのレイアウトがそのひとつ。 
  パナール・ルヴァッソールと聞いても、よほど自動車の歴史に詳しくない限り説明できない。実は私もそのひとり。「ああ、フランスの自動車メーカーで、世界レベルでもプジョーと並ぶもっとも老舗のメーカーだったかな・・・」という程度ではなかろうか。ところが、調べてみると、このパナール・ルヴァッソールというメーカーは、19世紀末からはじまる自動車勃興期から、1965年にシトロエンに吸収されるまでの約70年間、レースの世界で圧倒的な強さを発揮したばかりでなく自動車技術をリードしたメーカーであった。このメーカーなくしては、現在の自動車は存在しえなかったともいえる。
  パナール・ルヴァッソールは、1896年に学生時代からの友人同士だったエミール・ルヴァッソールとルネ・パナールがもともと家具製造やミシンの生産をしていた工場を、ダイムラーエンジンのライセンスを取得した。このことから自動車の製造とそれを使ってレースに打ち込み始めたことからスタートする。
  余談だが・・・実は、ダイムラーがエンジンの製造権をパナール・ルヴァッソールだけではなく、もうひとつ同じフランスのメーカー・プジョー社にも供給している。つまり1880年代の後半には、ドイツとフランスに2社ずつのガソリン自動車メーカーが誕生していたということだ。ドイツは言うまでもなくゴッとリー・ダイムラーとカール・ベンツの2人がそれぞれ興したガソリン自動車メーカーである。2社が合併するのは1926年のことである。

2011年6 月15日 (水曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第2回

カール・ベンツ   ベンツ・パテント・モトールヴァーゲンが誕生。それから18年後にライト兄弟が、動力飛行機(複葉機)をノースカロライナ州キティホークで世界に先駆け飛ばした。その動力がオートバイ用の4気筒水冷式12馬力を流用したことを思えば、カール・ベンツ(1944~1929年)がつくった車両のエンジンが自らの手で苦心してつくったことは特段に評価してもいい。
  そのカール・ベンツとはどんな人物か?
  17世紀から続く鍛冶屋に生まれ、代々技術者の血を受け継いだ男。技術への関心が高く、15歳で、カールスルー高等工業学校(のちの工科大学)の試験に合格。そこで数学と機関設計の学位を得る。カールスルー工機械工業社に入社し、機関車の製造に従事する。自動車作りへの情熱を持っていたカールは、その後エンジンの研究をはじめ、15年の歳月ののち1886年世界で初めての実用的な乗用車を完成させた。それがベンツ・パテント・モトールヴァーゲン。この開発成功の裏には、愛妻ベルタの献身があったといわれる。
  そのベルタをめぐる面白いエピソードが残っている。
  カールとのあいだに生まれた2人の息子(15歳と13歳)を連れ、夫がまだ就寝中に、そのガソリン自動車を使い自宅のマンハイムから、親戚が住む約100km離れたプフォルツハイムに出かけた。当時は未舗装路で凸凹した路面が多かった。登板能力もままならず、坂道がくるたびにクルマから降りて後ろを押したり、あるいは途中チェーンが伸びてスプロケットから外れたり、あるいは燃料パイプが詰まったり・・・埃まみれだったが、最高速度15キロなので、当時の路面状況から勘案すると、おそらく10時間近くかけて、トラブルに見舞われながらも目的地に到着。夫であるカールに「無事にプフォルツハイムに到着!」という電報を打ったという。
  夫の作ったガソリン自動車が世間に認められなかったので、いわば命をかけたキャンペーンだったとみられる。当時ガソリンスタンドはもちろんなかった。どこで燃料のガソリンを手に入れたかというと薬局だ。ベルタは途中薬局でガソリンを購入している光景を描く記念切手が残っている。ちなみに、このキャンペーンにもかかわらず営業的には成功したとはいえなかったが、ベルタには“世界最初の女性長距離ドライバー”の栄誉が与えられた。

2011年6 月 1日 (水曜日)

時代を画した7台の名車で語る自動車125年の歴史 第1回

ベンツ 今年は、1886年にガソリン自動車が誕生してちょうど125年にあたる。このあいだに自動車は、多くの人たちの絶え間ない努力と英知の結集で、技術革新を遂げ、人間の生活文化を向上、ライフスタイルまで大きく変化させた。いまやクルマが生活の一部を占め、文化そのもの。いっぽう、地球環境面と資源の有限性から、クルマはいま大きな岐路に立たされている。電気自動車やハイブリットカーなど環境重視自動車が急ピッチで開発されている。
  そこで、かなり無茶を承知で、この125年を7台のクルマを軸に、駆け足で振り返ろうというのが今回からのシリーズ。ヒントは、愛知県にあるトヨタ博物館がおこなった≪クルマ125年の歴史≫を範にした。価値のある自動車約160台を所有する国内最大級の自動車博物館の選りすぐりというわけだ。過去を知ることは、やがて来る自動車新時代に思いをはせることができる。
  第1回目は、ガソリン自動車の誕生した125年前の話。
  いまからちょうど125年前の1886年に、ドイツの田舎町マンハイムで始めて自動車が走った。ベンツ・パテント・モトールヴァーゲンである。車両重量わずか313kg、全長2600ミリ足らずの3輪車である。文字通り「馬なしクルマ」の名にふさわしいスタイル。2ストローク単気筒のエンジンを後方に載せ、その回転をベルトでデフギアの伝え、チェーンドライブを介して後輪を駆動する。シート横の長いレバーを前に倒せば走行し、後ろに引けばブレーキがかかる。前進1段のみで、リバースは付いていない。面白いのは、エンジン下部にでかいホイールのようなフライホイールが横位置に付いていて、これを手でグルッと回すことでエンジンの始動をおこなう。
  フライホイールと同軸上にあるクランクシャフト。長いシリンダーハウジングを持つ単気筒エンジンは、2ストロークだがカムを持ち、現在の2ストローク・エンジンとはまるで異なる構造。だが、熱の発生する燃焼室付近の熱を抑制するため水冷化したり、表面気化式と呼ばれるキャブレター、電気点火方式のスパークプラグなど、その後の自動車エンジンの進化を先取りしたようなメカニズムがちりばめられている。

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