アロー号の完成後、矢野は、梁瀬商会(現・ヤナセ)福岡支店の自動車修理工場の主任として迎え入れられ、ダンプボディの製作などに従事。その後、1922年、矢野オート工場(現・矢野特殊自動車)を設立、時代の要請にこたえさまざまな特殊自動車の開発・製作を幅広く展開。戦時下の1942年には、矢野式ダンプカーの生産を軌道に乗せている。さらに戦後モータリゼーションが始まった1959年には、冷凍機付き冷凍車の開発に成功している。矢野は、こうした仕事のかたわら、村上(村上は1922年に死去)から託された夢の実現を忘れてはいなかった。「大衆自動車の普及」を目指し、空冷と水冷の2つのV型8気筒エンジン(写真)を試作していたのである。矢野氏は、昭和50年(1975年)に82歳で亡くなったが、晩年までカメラなど機械モノに凝り、立体カメラを自作して孫と楽しみ、海外旅行に出かけ旺盛な好奇心は生涯続いたという。
現在、アロー号、2つのV型8気筒エンジンなどは、矢野の子息や孫などの手で大切に保存されている。アロー号は2008年、日本機械学会により「現存する走行可能な日本最古の国産乗用車」と認められた。現在、福岡市博物館で常時展示されている。ユニークなV型8気筒エンジンは、昨年トヨタ博物館で公開されているのである。いずれにしろ、矢野倖一と村上義太郎は、日本の自動車産業の先鞭者だったことは間違いない。
●参考文献 「国産車100年の軌跡」(三栄書房)/「20世紀の国産車」(国立科学博物館)
こうして矢野の情熱と、村上の支援、それに多くの人の協力で、「アロー号」は完成した。1916年(大正5年)のことだ。村上義太郎が68歳のときである。全長が2590ミリ、全幅1170ミリ、全高1525ミリ、ホイールベース1830ミリ。車両重量272kg。エンジンは水冷2気筒サイドバルブ方式で排気量は1054cc。最高馬力は12PSで、最高速度は56km/h、乗員4名だったという。
面白いのは、矢野は「アロー号の全製作費の詳細一覧表」を残していることだ。
全製作費の総額は1224円75銭。朝日文庫の「明治・大正・昭和・値段の風俗史」によると、大正5年当時の家賃が7~8円だった。ということは、現在の値段に直すと、約1300万円といったところか? これには、旋盤工3名、仕上げ工2名、鍛造工2名、計7名の職工の約3ヶ月にわたる給料、計334円31銭。福岡工業高校で工作機械を借用したときの4円85銭、上海でキャブレターを購入したときの費用49ドル30セントを含まれている。このほか、木型製作費48円45銭、鋳造費6円85銭、アルミ鋳物10円80銭、歯車18個工作費75円、東京向柳原にあった武田鉄工所に外注したベベルギアの歯切り代金76円、東京の鶴岡工場に外注したスプリング代16円、ヤマトメタルから購入したエンジンのメタル代2円60銭、ホイールのスポーク171本分の代金17円25銭、東京・渋谷の業者に依頼して作らせた幌の曲げ木代2円50銭、グッドリッチ製のタイヤ4組が116円、リム4本で20円・・・ときわめて詳細である。これを見ていると当時の日本のモノづくり世界が透けて見えてくるようだ。
村上の自宅には、日露戦争(1904~1905年)の戦利品だった一人乗りのド・ディオン・ブートン車(パナール・ルヴァッソールと並ぶフランスの最古のメーカー)があった。若き矢野は、これをまず2人乗りに改造することに村上翁から頼まれた。この仕事を通じて矢野は自動車作りに没頭していったという。このことがキッカケで、矢野は自らの手で4人乗りの自動車を設計した。九州の資産家・村上義太郎からの「日本の国情にあった自動車を作ってみないか」という勧めがあったからだ。村上邸に住み込み、自動車の研究・開発に没頭した。このクルマが「アロー号」である。矢野の苗字「矢」かにちなんでつけた車名である。アロー号を作るうえで、想像を絶する労苦を重ねるが、さまざまな人物の協力も得る。いまから見れば、矢野の仕事はまるで奇跡を見るようなものだ。
矢野は、上京の折には、東京の赤坂・溜池にあった日本自動車に立ち寄り、九州出身の技術者の指導を仰いだ。また、地元福岡では九州帝国大学・工学部・岩岡保作教授の指導を受け、内燃機関に関する基礎理論や最新の技術を学んだ。同時に、地元福岡で当時最新の工作機械を所有する斉藤鉄工所という会社から設備と職人を借り受け、部品製作を進めている。
ところが、車両が一応完成し、エンジンを始動してみたがどうも調子が悪い。当時第一次世界大戦のアオリで、1915年9月に福岡に収容されていたドイツ軍の捕虜の中にベンツ社のエンジニア・ハルティン・ブッシュがいることを聞きつけ、この人物に車両を見せたところ「調子が出ないのはキャブレター」と指摘され、ゼニスタイプのキャブレターの購入先まで紹介され、わざわざ矢野自身が中国・上海の販売店まで出向き、これを取り付けエンジンはようやく好調に動き始めたというエピソードもある。
日本の自動車史のなかで、「日本初の最古の国産乗用車」を作り上げたにもかかわらず、ほとんど忘れられた人物がいる。福岡の矢野倖一(やの・こういち:1892~1975年)である。矢野が作り上げた1台だけの乗用車は「アロー号」と呼ばれるのだが、そのとき矢野はわずか24歳だった。独学苦闘のすえ丸3年かけて作り上げた。当時は今のようにモノづくり工場があるわけではない。なぜ、そんな青年にクルマを作ることができたのか? そこにはさまざまな人との出会いを含め、まるで奇跡のような物語がある。
もともと矢野は飛行機少年だった。地元福岡の新聞社主催の模型飛行機大会で最優秀賞を獲得した飛行機少年・矢野は、福岡工業学校機械科4年生だった。当時、飛行機にしか興味がなかった矢野に自動車への関心を呼び覚ませたのは、九州石油会社の社長だった村上義太郎(むらかみ・ぎたろう:1847~1922年)だった。村上は、三菱をつくった岩崎弥太郎と似た人物で、もともとは下級武士の出身。明治2年に発明された大八車に魅せられ失業中の士族の若者を集め「車力組」を結成。村上は、矢野より45歳の年上である。村上が、30歳のときに西南戦争(明治10年)が起こり、官軍に味方し博多湾から田原坂(たばるざか)への荷役を請け負った。大八車を使い物資を輸送して、官軍の勝利に大いに貢献した。莫大な恩賞と利益を得たのだ。これを元に運輸、港湾、都市事業などの幅広い事業を展開、当時「博多一代男」の異名を持つ実業家だった。この大実業家に矢野青年は見込まれたのである。矢野から見ると、今後の自動車への好奇心の大きな後ろ盾を得たということだ。もちろん、村上の胸には、来るべき自動車時代を見据えた夢があった。
1976年11月には、ソレックスのツインキャブレターを付けた1600GSRがデビューし、ラリー競技車両のベース車として注目された。エンジンは、サイレントシャフト付きのサターン80と呼ばれるものだった。ランサーは、サザンクロスラリーに出場し1位から4位まで独占、総合とクラス、チームいずれも優勝の総合完全優勝を飾っている。2年後の1975年2月クーペバージョンのランサーセレステが登場している。これはランサーのプラットフォームを流用し、当時としては画期的な可倒式のリアシートを持つハッチバックバージョン。おしゃれな雰囲気をかもし出したが、販売には結びつかず一代限りで消えている。
2代目ランサーはいわゆる「ランサーEX」と名称を改めている。1979年3月にデビューし、2年後の1981年にはターボ仕様も登場している。エクステリアデザインは、初代モデルが曲線を多用しているのに対し、2代目は直線基調のシンプルなもの。イタリアデザイナーのアルド・セッサーノが関与したとされている。搭載エンジンは1200,1400,1600、1800のいずれも4気筒SOHC,それに1800のSOHCターボとバラエティに富んでいた。翌1982年8月にはWRC1000湖ラリーで、ランサーEX2000ターボ(写真)が3位に入賞。電子制御エンジン付きのクルマはWRCに初登場したクルマでもあった。
こうして振り返ると、三菱にはいくつもの名車、時代を画する忘れられないクルマ、日本の自動車技術史のなかで燦然と輝くクルマ、レースで大活躍した記念すべき競技車など綺羅星のごとく登場したことを、いまさらながらに認識する。
(次回は、大正5年に日本初の国産乗用車アロー号を作り上げた矢野倖一物語をお届けする)
この4G3系のエンジンに愛称「サターン」という名称を付け、1969年12月に発売する「コルト・ギャラン」(初代ギャラン)に搭載するのである。なぜエンジンに太陽系の第6惑星SATURN(土星)という奇妙な名称を付けたのか? かつて第二次世界大戦中に三菱重工業が製造していた空冷星型の航空機エンジンに付けた「金星(きんせい)」「火星(かせい)」などの名称にならい、乗用車エンジンにも「土星」を意味する「サターン」と付けたのである。
初代ギャランは、この新型エンジンの高い評価とともに、ダイナウェッジと呼ばれる斬新なスタイルでユーザーを魅了し、大ヒット作となった。発売したその月の登録台数が6000台を超え、単独車種でセダンのみとしては記録的なものだった。ギャランはその後、何度もモデルチェンジを繰り返し、そのあいだにシグマというサブネームを使うなどして、のべ10回ちかくの全面改良がおこなわれ、現在「ギャラン・フォルティス」の名称で生き続けている。
ランサーもスリーダイヤモンドの忘れがたいクルマである。ランサーといえば今では「ランエボ」つまりWRC(世界ラリー選手権)で大活躍のランサーエボリューションがすぐ頭にうかぶ。だが、もともとランサーというクルマはミニカとギャランのあいだを埋める5ナンバー車として1973年1月デビューしたものだ。初代ランサーは、4ドアセダンと2ドアセダンの2タイプで、エンジンはOHVの1200(愛称ネプチューン・エンジン)、SOHCの1400と1600(いずれもサターンエンジン)だった。
1968年、三菱はコルトシリーズのフルモデルチャンジ。誕生したのが「ニューコルト1200」「ニューコルト1500」で全車にチルトハンドルを採用するなど三菱流のこだわりメカを備えてはいたが、販売は順調ではなかった。エクステリア・デザインの面でユーザー層をひきつける魅力に欠けていたのである。そのため、「まず売れるクルマ」を目指し、コルトに変わる「コルト・ギャラン」(写真)を世に送り出したのである。これは従来の設計思想を改め見直したこと、車格をゼロから見直すことにしたことから企画した。エクステリア・デザインについては、イタリアのデザイナー・ジウジアーロの意見を取り入れ名古屋自動車製作所・意匠室が中心になり煮詰めていった。
そのころ、自動車の排気ガス問題が社会問題となり排ガス規制が始まりつつあった。
乗用車エンジンの開発は、京都製作所技術部が中心で進めていた。出力向上を第一義としてきた開発思想と排ガス浄化をいかにマッチィングさせるかが大きな課題になっていた。そこで、燃焼室をこれまでのウエッジ型から完全な半球型とし、ボア×ストロークの比をストロ-クのほうが長いロングストロークタイプにした。加えて、三菱初のSOHC機構により吸排気バルブを頭上にV型にレイアウト、吸排気のレイアウトをクロスフロー方式とし、さらに吸気ポートにややひねりを加え過流(タンブル流)を起こさせる工夫を凝らした。
こうした効果により燃焼効率はとても高くなり、出力とトルクは当時の同クラスのエンジンの水準を大きく上回った。燃焼速度が速くなったことで、シリンダー内壁に付着した燃え残ったガソリン成分が低減し結果として排ガス中のCOとHCの量を低下させるという効果もあった。かくして低回転でも大きなトルクを発揮し、高速までスムーズに吹き上がるレスポンスの優れたエンジンが完成したのである。昭和48年排ガス規制をクリアする性能だった。
このデボネアとくらべ、大衆受けしたのがコルトとギャランというクルマである。この2つのクルマの栄枯盛衰を見てみよう。
この時代クルマの排気量は時代が進むにつれて徐々に大きくなるのが一般的だが、コルトだけはいささか異なる。1963年6月、これまでのコルト600の上級車種してコルト1000(写真)がデビューする。これは東日本重工業の流れを汲む三菱日本重工業製。当時流行のフラットデッキタイプの三菱初の4ドアセダン。エンジンを水冷としたのも三菱としては初めてのもので、初代デボネアのハンス・ブレッツナーがデザインチームの指揮を執っている。2年後にはデボネアとの穴を埋めるために「コルト1500」をデビューさせている。このコルト1500は、エクステリアデザインはコルト1000と共通だが、ホイールベース、全長を拡大し、KE45型4サイクル水冷4気筒1498cc、70馬力のエンジンを搭載。ボルグワーナータイプのフルオートマチックで、セダン5型式、バン1型式を発売している。
コルト1500を発売した1965年、実は「コルト800」というモデルを世に送り出している。このコルト800というのは、みずしま自動車製作所で開発されたもので、当時ダイハツ・コンパーノやマツダ・ファミリアなどで構成されていた排気量800cc大衆車市場に参入するためのモデルだった。スタイルは独特のファーストバック。当初テールゲートを持たなかったが、2年後の1967年末に3ドアハッチバックが、さらに翌年はじめには4ドアが追加されている。エンジンは当初2サイクル水冷3気筒843ccで、1968年1100Fというスポーツバージョンが登場した際に2サイクルエンジンが消滅し、駆動方式もRRからオーソドックスなFRレイアウトに改められている。
三菱500のときもそうだったが、三菱の自動車が押しなべて高い性能や高い商品性にかかわらず販売では不振をかこつケースが多かったが、その代表選手とでもいうクルマが1964年7月デビューのデボネアだ。このクルマは、当初から大衆を狙ったクルマではなく、どちらかというと三菱同族会社のビップカー。同じ車型で22年間という超寿命記録を打ち立てたクルマでもあった。ちなみに、これを上回る長期間製造車はトヨタの初代センチュリーで、1967年~1997年の約30年間である。いずれも「走るシーラカンス」と揶揄(やゆ)された。
初代のデボネアは、角ばった独特のエクステリアに魅せられ、ごく普通のおじさんが買い求めるケースもなくはなかったが、先に話した通り大部分は三菱御用達クルマだった。
構造は、モノコックボディに前輪ダブルウッシュボーン独立サスペンション、後輪半楕円リーフスプリングの固定サスペンションでFRタイプ。エンジンは、京都製作所で開発した排気量1991ccのKE64型直列6気筒OHV(105馬力)。ツインキャブレターでしかもデュアル・エキゾーストタイプ。6年後の1970年9月に直列6気筒エンジン6G34型SOHCサターンエンジン(130馬力)が載せられている。さらにそこから6年後の1976年には、オイルショックの影響を受けることになる。コストと排ガス規制で厳しい6気筒エンジンをやめ、直列4気筒の排気量2.6リッターG54B型アストロンエンジン(120馬力)に変更している。
エクステリアデザインは、元GMのデザイナーであるハンス・ブレッツナーが担当したといわれる。そのころの2リッタークラスでは一番長い全長4670ミリ、ホイールベースも最長の2690ミリ。航空機の生産の伝統技術を生かしたユニット・コンストラクションと呼ばれるフレームなどを取り入れ、当時の技術の粋を随所に投入した高級車であった。
デボネアは、1986年に2代目のバトンタッチしている。このときFRレイアウトからFFレイアウトになり、技術供与先である韓国の現代自動車がグレンジャーという名称で現地生産・販売をしている。3代目のデボネアは1992年に登場したが、ディアマンテのシャシーにV型エンジンを載せたモデルで、数回のマイナーチェンジのすえ1999年に生産が取りやめられている。
三菱500のエンジンは、NE19A型と呼ばれるもの。加速ポンプを付加したソレックス・キャブレターを付けた空冷2気筒OHV493㏄(圧縮比7.0)で21PS/5000rpmの最高出力と3.4㎏-m/3800rpmの最大トルクを発生。3速マニュアル・トランスミッションで、最高速度90キロだった。
リアエンジン・リアドライブリブのRR方式である。ボディはもちろんモノコックである。サスペンションは、前後ともトレーディングアームとコイルスプリングの組み合わせで、タイヤは5.20-12インチ。時速30キロ定地燃費が30km/リッターとまさに国民車構想どおりの好燃費。奇しくもリッター30kmとは、走行モードこそ異なるが、いまの小型車の燃費競争のひとつのゴール数値である。ステアリングはラック&ピニオン方式。
価格が39万円と国民車構想のコンセプトには及ばなかったが、他メーカーのエンジニアはこのクルマに込められた高い技術力に驚嘆した。イメージキャラクターとして当時人気絶大だったハナ肇とクレージーキャットを起用している。だが、三菱500は営業的には失敗だった。三菱の販売力不足がその主な原因だといわれる。当時の庶民の心を捉えるに十分でなかったのだ。翌1961年にテコ入れのためにエンジンを594㏄にしたスーパーデラックスを追加した。がそれも市場での人気に結びつかず、同年早くもフルモデルチェンジして三菱コルト600(排気量はスーパーデラックス同様の594㏄)を登場させた。排気量の前にコルトという愛称を付けたのである。この三菱コルト600(写真)は、フロアシフトからコラムシフト(当時はコラムシフトのほうがいけていた!)に変更し、シフトパターンもH型としている。ちなみに、立ち上がりから約2年で生産中止となった三菱500は、累計でのべ5203台ラインオフしている。
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