こうした三菱の習作ともいうべきクルマ造りの経験を基にして、三菱は戦後初の自社製作の乗用車をデビューさせた。1960年発売された三菱500(写真)がそれだ。三菱A型乗用車から数えて、43年目のことである。全長3140ミリ、全幅1390ミリ、全高1380ミリ、ホイールベース2065ミリ・・・・現代の軽自動車より一回り小さい軽自動車サイズである。
このクルマは、よく知られているように1955年に通商産業省が打ち出した≪国民車構想≫に応えたものである。この国民車構想というのは正式には「国民車育成要綱案」というもので、この中身は以下の3つに集約される。
1. 最高速度100キロ以上で、乗員が4名。燃費はリッターあたり30㎞/ⅼ以上走行可能。
2. 月産2000台の場合、工場原価が15万円以下、最終価格が25万円以下。エンジンの排気量は350~500㏄。
3. 通産省はこの条件を示し、一定期間までに試作を奨励する。試験したうえで量産にふさわしい1車種を選定し、財政資金を投入し育成をはかる。
現在インドのタタ(TATA)のナノ(NANO)というマイクロカーが話題にのぼっているが、昭和30年ごろの日本にもちょうどそんな空気が充満していたのである。当時の技術力を考えれば、これはかなりハードルが高い。この条件を満たすクルマをつくるのはとうてい無理があった。いわば通産省の音頭とりというカタチで、日本の自動車メーカーが国民車をイメージしたクルマをつくったのである。三菱500だけでなく、トヨタのパブリカ(1961年10月デビュー)もそうだし、少し前のスズキのスズライト(1954年10月)もそうした背景で誕生したクルマだった。
1950年に、東日本重工がアメリカのカイザー・フレーザー社と1950年に提携。翌年の1951年6月から川崎工場で4気筒エンジン車のヘンリーJをノックダウン生産したのである。カイザー・フレーザー社とは社名がコロコロ入れ替わったこともあり、あまり聞きなれない自動車メーカーだが、第2次世界大戦の終了直前の1945年にグラハム・ペイジ社(日産が一時提携していた企業)の経営をしていたジョセフ・フレーザーと≪アメリカ近代造船の父≫といわれたカイザー・インダストリーズのヘンリー・カイザーの2人が組んだ自動車会社。当時、アメリカの自動車市場はビッグ3に牛耳られていたが、それにチャレンジした自動車メーカーだが、結論から先に言えばこころざし半ばで不発に終わっている。日本で1951年からノックダウン生産されたヘンリーJは、当初4気筒OHV2.2リッター搭載車だけだった。途中、排気量2638ccの直列6気筒エンジン車も追加され、1954年(昭和29年)1月まで計509台をラインオフしている。フレーム付きボディである。生産数509台のうち、200台近くは当時米国保護領だった沖縄やタイへ、さらに一部はアルゼンチン、ブラジル、ウルグアイなどの中南米諸国にも輸出された。
当時は、日本経済はいまだ戦後の混乱期の中にあり、とても庶民が自動車を手に入れる空気ではなかった。日本での販売会社・東日本カイザー・フレーザー株式会社を設立したが、もっぱらアメリカ軍属を目当てに作られたため、この程度の生産数で終わった。当初2ドアで左ハンドルという形態も販売に結びつかなかった要因のようだ。だが、この事業で三菱としては生産のノウハウ、プレス技術や塗装の技術の向上に結びつけることができたという。
ヘンリーJの組み立ての関しては、米国からスポット溶接機を導入するだけでなく、塗装は赤外線と焼き付けをおこなうなど、当時としては最先端の生産技術を取り入れ、同業他社からの見学者が引きもきらなかったという。ちなみに、その後、日産が英国オースチン社と、いすゞが英国のルーツ社と、日野ヂー-ゼル工業がフランス・ルノー公団とそれぞれ技術援助提携を結び、ノックダウン生産を始めたことを思えば、三菱はこの面では一歩先をリードしていたともいえなくもない。
岡崎にある≪三菱オートギャラリー≫は、乗り物博物館としてはひとつの分かりやすい誇るべき“自慢”がある。自転車あり、バイク(スクーター)あり、3輪自動車あり、もちろん4輪のクルマがありと、地上の乗り物の形態ほぼすべてを見ることができるという点だ。トヨタの博物館には自社製の3輪車はないし、茨城県もてぎにあるホンダの博物館には2輪や3輪、4輪車はあるが、自転車はないということだ。実はそんなことよりも、三菱オートギャラリーの入り口近くにある展示物で、なにやら≪違和感のある展示物≫が目に入った。いすゞのヒルマンミンクス(写真)と1950年代のアメリカ車カイザー・ヘンリーJである。
いすゞのヒルマンミンクスは、2トーンカラーのイメージ。いまでもシックなシルエットで魅力をたたえるセダンとして位置づけられるが、実は、このボディを三菱自動車工業の前身である中日本重工が請け負い、生産していたのである。その数が約5万台分だった。
よく知られるように、第二次世界大戦後、戦闘機や爆撃機、それに軍用トラックなど幅広く軍需産業を展開してきた三菱重工は、GHQ(連合国最高司令官司令部)によって財閥解体という大ナタを振るわれ、東日本重工(川崎の大型車両の部門、のちの三菱ふそうトラック・バス事業)中日本重工(自動車および航空機部門)、それに西日本重工(長崎造船所を中心にした事業所)の3つに分割された。なかでも中日本重工は、航空機の大型プレスを所有していた。当時戦後すぐの自動車メーカーにはこの設備がなく、いすゞだけでなく、日産は1948年のダットサンDB型、トヨタも1950年からトヨタRHNという車種のボディプレスを、じつは三菱に依頼していたのである。
こうした背景のもとで、三菱A型乗用車は誕生し、消えていったのである。三菱は戦前には軍用の乗り物こそ生産したが、いわゆる民営用の乗り物造りからは背を向けていた。三菱が、人々の暮らしに直結する自動車を本格的に作り出すのは第二次世界大戦後である。
そのスタートを切ったのが、小型3輪トラックである。この3輪トラックは、水島航空機製作所、戦後は民需用の生産工場に転換した「水島機器製作所」である。3輪トラックはよく知られているように戦前東洋工業(現在のマツダ)とダイハツの2社、それに今はなき名古屋の愛知機械工業製のヂャイアント号が有名。三菱は、この3輪トラック業界に打って出たのである。
水島航空機製作所時代、約3万人いた従業員は終戦とともに約2000人に激減したが、三菱グループの各所で航空機の開発や生産に携わっていた精鋭スタッフが加わった。それまで航空機を手がけてきたものが、今度は3輪車かという忸怩(じくじ)たる思いが当初はあった。
だが、当時のエンジニアが思い出して語るには「これは近い将来本格的な自動車の製作につながる仕事」だという思いを抱くことで、新たな希望がわいたという。まず、空冷4サイクル単気筒750㏄のガソリンエンジンを完成させ、それがやがて900㏄に排気量アップしたエンジン搭載車を完成させた。当時のライバルメーカーの製品との大きなアドバンテージは、頭上に幌を張った屋根付きとした点。いまでこそたいした装備ではないと思えるが、当時の3輪車にはなかった斬新なアイディア構造で、航空機技術から得たものだったという。
こうして、昭和21年(1946年)に試作車XTM1型(0.4トン積み)3輪トラックの第1号が完成。「みずしま」と命名された。翌1947年1月までに11台の試作・改良を重ねながら、箱根などで試験走行を繰り返し、1947年5月に、0.5トン積みのTM3型(写真)に進化させ、本格的な生産と販売に乗り出した。その後、0.75トン、1.0トン、1.25トン、1.5トン、2.0トン積みトラックのほかにワゴン車や常用バージョンにまで車種の幅を広げてゆき、三菱の3輪トラック「みずしま号」は1962年7月まで生産が続けられた。
1917年に三菱造船、三菱製紙、1918年に三菱商事、三菱鉱業、1919年に三菱銀行、1920年に三菱内燃機製造、1921年に三菱電機と次々に分割化していった。満州事変から第二次世界大戦にかけて軍需の膨張拡大を背景に三菱の事業は飛躍的に拡大したのである。
今回は少し自動車から離れた話をしよう。
いわゆる三菱財閥は、三井、住友とともに3大財閥と称される。三井と住友の2つが江戸時代からの呉服屋など300年以上の長い歴史をあるのに対し、三菱は岩崎弥太郎が明治期の動乱に政商として、巨万の利益を得てその礎を構築した。
三菱財閥の名残をいまにとどめるものとして3つを挙げておこう。ひとつは、東京・湯島にある「旧岩崎邸」で、3代目岩崎久弥が別邸として使っていたもの。戦後接収され司法研修所になる際に大部分が取り壊されたが、上野の東京国立博物館や鹿鳴館をデザインしたイギリス人ジョサンナ・コンドルの設計の洋館を見ることができ、岩崎家の栄華を偲ぶことができる。2つ目は、東京江東区にある「清澄(きよすみ)公園」。岩崎弥太郎が社員の慰安や貴賓所として造成した回遊式の庭園。全国から取り寄せた銘石をどんな手段で運んだのか推理するだけでも面白い。
3つ目は岩手にある「小岩井(こいわい)農場」。小岩井と聞いて三菱と関係がないものだと思いがちだが、実は、この小岩井という漢字3つにナゾがある。この農場は、明治24年に開設されたのだが、共同創始者が3名いて、小野、岩崎、井上というそれぞれの頭文字を取ったもの。2つ目の岩は弥之助の弟で2代目の岩崎弥之助である。3代目久弥は明治32年から小岩井農場の場主となっている。日本人の体位向上のための畜産振興の始まりだった。
ところで、もともと三菱A型の生産を指示してきた本社の「三菱合資会社」とはどんな企業だったのか? その成り立ちはどういう流れなのか、を調べてみると実に面白い。幕末から明治にかけて活躍した土佐(高知)の岩崎弥太郎が創設した三菱商会をルーツとしている。
土佐藩は、坂本龍馬が1967年に京都近江屋で暗殺されたことで解散した海援隊(海運に従事しながら航海術を磨いた龍馬を隊長としたグループ)の後身として、大阪の土佐藩蔵屋敷ではじめた九十九(つくも)商会が設立。その監督を明治3年に岩崎弥太郎が当たる。翌年の廃藩置県後、九十九商会は個人事業となった。
弥太郎は、県から土佐藩所有の船3隻を買い受け、1973年(明治6年)に三菱商会と改称、海運と商事を中心に事業を展開する。弥太郎の事業がぐんと伸びるのは、明治10年の西南戦争(西郷隆盛の乱)である。政府側の軍隊・軍需品の輸送を一手に引き受けたばかりか、戦争終結で余った軍需品の処分までをまかされ、一挙に莫大な利益が転がり込んだのである。
海運業においては三菱の独占かに見えた。だが、これを快く思わなかった実業家・渋沢栄一や政治家の井上馨などが結集して三菱に対抗できる勢力を結集し、共同運輸会社を設立。三菱との露骨な価格競争を約2年間にわたり展開。両者消耗戦になり、この状態では共倒れという事態を避けるため政府がなかに入り、対等合併となった。これが「日本郵船会社」である。明治18年、西暦では1885年のことだ。このとき、三菱は中心事業であった海運業を一時的に失ったが、数年後には人的にも経営の実権を握ることになる。
1885年の弥太郎死後、その弟の弥之助が後継となる。弥之助は三菱社と改名し、1881年(明治14年)に買収した高島炭鉱(日本最初の洋式炭鉱で、現在軍艦島として注目を浴びる)と1884年(明治17年)に借り受けた官営長崎造船所(もともとは江戸幕府が開いた溶鉄所で、のち国内最大のドックを誇る三菱重工業長崎造船所)を中核にして事業の再興を図った。さらに1887年には東京倉庫(のちの三菱倉庫)を設立。
1893年(明治26年)に商法が施行され、三菱社は「三菱合資会社」と改組されたのである。同時に弥太郎の長男である久弥が三菱合資会社の3代目社長に就任。総務、銀行、営業、炭鉱、鉱山、地所の各部を設置して分権体制を敷き、長崎造船所の拡張と神戸、下関造船所の新設、麒麟麦酒(キリンビール)の設立など、幅広く事業展開していった。1916年(大正5年)に今度は弥之助の長男・小弥太が4代目社長となった。
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