1932年になると、タイヤ生産は一日1000本近くになり、仮工場では間に合わなくなった。そこで、久留米に3万6000㎡の敷地を確保し、3年後の1935年10月には5階建てで延べ床面積2万3100㎡の東洋一のタイヤ工場を建設した。このころにはすでにブリッジストン、ダンロップ護謨(極東)、横浜護謨製造の3社が三つ巴の市場争奪戦を展開していた。
戦時色が濃くなる1930年代後半に、航空機用タイヤの生産や軍用機や計器で使われる防振ゴムの生産を開始。1942年に英語名の社名を変更せよという軍部の要請があり、「日本タイヤ㈱」に改めている。このころになると戦時統制で天然ゴム量の割り当てから生産量の縛りも出るなど自由なビジネスではなくなった。
1945年8月15日、終戦。東京・京橋の本社は空襲で全焼したが、久留米をはじめタイヤ工場はほとんど無傷だった。終戦から2ヶ月足らずで久留米工場は生産が再開した。
戦後は自転車業界やバイク業界に進出したり、戦後から展開していたゴルフボール作りにも邁進、その後のブリヂストンの隆盛はよく知るところである。
ただ、意外と忘れられているのは石橋正二郎とプリンス自動車のかかわりだ。のち日産に吸収されていった名門の自動車メーカーであるプリンス自動車。プリンス自動車工業の発端は、1949年に石橋正二郎が「東京電気自動車」に出資し、経営に参加したことにはじまる。「東京電気自動車」は立川飛行機の従業員たちが戦後、自動車製造事業への転換を構想し、1947年6月に設立した企業。社名から分かるように当時の燃料事情(石油製品の不足)を背景に、バッテリーで走る電気自動車「たま号」などの製造を計画していた。だが、同社は少量生産による採算難と資金不足に悩まされ、正二郎の出資協力に頼ることになった。2年後、府中にあった2000坪ほどの古い工場から1万2000坪の広い敷地の三鷹・上連雀に引越しを機会に「たま電気自動車」と改称している。
返品タイヤの間の損出は100万円を超えた。「石橋は地下足袋やゴム底では成功したが、自動車タイヤでは大失敗。ブリッジストンタイヤはあと3年もたずに破産するだろう」と囁かれたのはこのころである。
正二郎には、こうした逆風はいわば織り込み済みだった。1931年4月には、乗用車タイヤだけでなく、トラックタイヤ、バスタイヤの生産も始められた。それでも、不具合による返品はあとを絶たなかった。その背後には熟練不足と工程の不慣れがあった。輸入品やライバルのダンロップ製品の模倣に満足せず、背伸びして最初から独自性を出そうとしたことも、不具合を生む背景だった。その間、石橋正二郎社長もふくめ技術担当者たちの血がにじむような努力と研鑽が重ねられた。この時期はまさに生みの苦しみの段階だった。
いつまでも闇の中にいたわけではなかった。やがて不具合頻度も少なくなり、返品タイヤの数も日増しに少なくなった。1932年1月に商工省から優良国産品の認定を受けたほか、アメリカ・フォード本社の品質試験に合格し日本フォード自動車に対する納入適合品として認められた。さらに日本ゼネラルモーターズにも採用されるなど,徐々に品質向上が示されるときがようやく訪れた。
正二郎には、自動車タイヤの製造は、当初から輸出することで外貨獲得に貢献する狙いがあった。東南アジア、ニュージーランド、インドなどに向けて市場調査と並行して、三井物産の協力を得て、輸出業務を展開。初年度の1932年には1万4000本の海外輸出に成功し、翌年には海外部を創設することでさらに輸出体制を整え、8万4000本と大きく実績を伸ばしていった。
一方、補修用のタイヤ分野では順調にシェアを獲得しつつあったが、新車へのタイヤ装着(OEM用のタイヤ)は依然として大きな壁が立ちはだかっていた。ところが、モーティマー・C・クックというスコットランド出身のアメリカ人が入社したことで、事態は好転する。クックは、グッドイヤー極東代表者として自動車タイヤの輸入と販売に長年携わってきた人物。彼の力で、日本ゼネラルモーターズと日本フォード自動車への新車用タイヤの納入を実現できたのである。
試作品の販売はまず、小売店に売り込むことからスタートしたが、品質も信用も未知数の「ブリッジストンタイヤ」はまったく相手にされなかった。社員の名刺に書いてある社名自体が「日本足袋(たび)タイヤ部」では「足袋屋のタイヤか!?」といわれるのが落ち。そこで、いきおいタイヤ小売店以外の販売ルートを作り出すしか道がない。タイヤの修理業者や日本足袋の販売ルートに頼るということだ。だが、修理業者や弱小のタイヤ小売店には経営地盤の弱い場合が少なくない。それらを代理店として育てるためには資金援助も必要となった。
とにかく「ブリッジストン」という耳慣れない名称からの説明から商談を始めなければならなかった。当時の営業担当者は、新規取引の開拓ではタイヤを置いてもらうだけで精一杯だったという。そのためには10本のタイヤの取引に対して現物2本をつけるといった、条件を出すことも珍しくなかった。数こそ少ないが、「石橋さんのつくったものなら・・・」という信頼感から、新たにタイヤを扱う部門を新設するなど進んで応援してくれた代理店もなかにはあったが、大手のタイヤ小売店に割り込む余地はほとんどなかった。たとえば、東京でブリッジストンが獲得した有力代理店の数はわずか2店舗に過ぎなかったほどだ。
それでも、販売部員の必死の努力で、1932年には代理店網が全国に形成されていった。全体としては日本足袋時代からの代理店が多かった。
タイヤは安全にかかわる製品だけに、商標に対する信用が売れ行きに大きく左右される。そこで、製品の不具合に関しては無料で新品と交換するという徹底した「品質責任保証制」を採用した。製品に対する愚直なまでの保証制度のおかげで、2度目、3度目の取り替えにも応じるなど、無理を承知で消費者サービスに徹した。だが、当初はこれが裏目に出た。3年間で返品タイヤは10万本に達したのだ。生産本数42万本のうちなんと25%近い返品率に上ったのだ。広大なストックヤードには不良品タイヤが山となって積まれることになった。現在からそういた過去を振り返れば「損して得をとれ」という格言が生まれなくはないが、とにかくBSにももうしたイバラの道があったのだ。
石橋正二郎は、タイヤの創業に先立ちアメリカにタイヤ製造機械を発注した際、あわせて金型を注文したが、金型には製品のブランド名と社名を刻む必要があった。日本足袋社という社名では見栄えがしない。やはりここはカタカナ文字で表示しないといけない。将来の海外への販売を考えても、英語名で社名を表示する必要のあることを考えた。自動車タイヤにはダンロップをはじめ、ファイアストン、グッドイヤー、グッドリッチなど、発明者や創業者の名前が付けられている例がほとんど。正二郎も、これにあやかり石橋を英語流に読み替え「ストーンブリッジ」としてみたが、どうも語呂がよくない。そこで「ブリッジストン」とさかさまにし、これを社名、商標名とした。
話は前後するが、タイヤ試作チーム20名ほどが苦労を重ねながら、ようやく試作第1号を作り上げたのが1930年4月9日。サイズは乗用車用のタイヤで「29×4.50 4プライ」というものだ。ついで1月後には小型乗用車用のタイヤの試作にも成功した。
今度は試作品タイヤのテスト販売と、タイヤ市場の調査である。これにより品質、技術、製造データなどを得るとともに、将来の販売代理店の確保を見据えたものだ。半年間をメドにこうした動きを展開した。
当時日本のタイヤの販売は、いわゆるタイヤ屋と呼ばれる店舗(小売店)でおこなわれていた。大手の商社が輸入した舶来製タイヤをそうしたタイヤ屋(小売店)が窓口になり販売していたのである。また一部はダンロップ護謨(ごむ)、横浜護謨製造との契約も結んでいた。
1930年(昭和5年)1月、到着した機械類の据え付けをおこない、さっそく試作の準備に取りかかる。実は、この年の同じ月に、浜口雄幸内閣のもとで金輸出解禁されたている。前年アメリカのウォール街で大暴落から端を発し、世界恐慌のアラシが吹き荒れていたころ。現代のリーマンショックに匹敵する大不況時代。世の中が深刻な不況に見舞われていた時代に正二郎は、新事業に乗り出したのである。
購入した機械は、タイヤ成型機2台、垂直式の加硫機5台、金型が2面(サイズは29×4.50と30×4.50の各1面)など。機械類のほかにスダレ織コード、ブレーカー、ビードワイヤーなどの素材も購入している。本社事務所の一部敷地2640㎡をタイヤ工場にあて、部署として日本足袋社に「タイヤ部」を設置し、社内から選抜された従業員20名を投入し、自動車タイヤの試作をスタートさせた。試作担当技師には君島博士が推薦してくれた北島孫一に担当させ、ゴム配合にはヒンシュベルゲルが担当した。
輸入した機械は、成型と加硫用のものであった。それ以外の作業はほとんど手作業。各担当者は、全員がタイヤ製作の知識や経験ともゼロ。わずかに輸入機械に添付されていた10枚ほどの取扱説明書を唯一の手がかりとして試作を進める状態だった。いわば闇の中を手探りで進むような作業のため、作業は困難を極めた。なかでも、タイヤの骨格となるプライコードの作製が大きな壁だった。すべて手探りで、苦労の末に作製したプライコード(この時代は綿製)であったが、成型の段階でまったく密着しなかったり、裁断角度、幅とタイヤ構造との関係が分からず、コードウエーブ(コードの波うち現象)が発生したり、コードがビードから外れるなどのトラブルに悩まされた。加硫工程においてもまったくの手探り状態。何度も失敗を重ねながら進んでいった。
とにかく当時(大正末~昭和はじめ)正二郎の自動車タイヤ国産化についての考えに同調する人物は、まずいなかったのだ。
ただ、唯一の例外ともいえる人物がいた。九州帝国大学でゴム研究を続ける君島武男(きみしま・たけお)博士だけはいささか異なっていた。正二郎から、タイヤ国産化についての相談を持ちかけられ、さらに技術的協力を求められた博士は、こんなふうに答えたという。
「私はアメリカのゴム化学を学ぶためオハイオ州アクロンの大学に留学していたので、タイヤの製造技術はいかに難しいものであるかということはよく知っている。しかしながら、日本足袋の年間利益相当分くらいのお金を研究費として注ぎ込み、100万円や200万円を捨てる覚悟があればお手伝いいたしましょう」
正二郎の前に理解者が現れたのだ。正二郎はこの博士の言葉に意を強くした。
そのころ日本足袋は業績が好調で資金的にも余裕があり、100万円くらいの研究費をつぎ込むことは難しくなかった。正二郎の心は決まった。国産タイヤを事業化することを決意し、行動を開始したのだ。まず、ヒンシュベルゲルと森鐵太郎(もり・てつたろう)に命じて、1929年極秘裏に、自動車タイヤを1日300本製造するに必要な機械類一式を大阪の商社を通じてアメリカのオハイオ州にあるスタンダードモールド社に発注した・・・。
大正の初期に、日本の自動車タイヤの黎明期が訪れている。
1913年(大正2年)に英国のダンロップの子会社である「ダンロップ護謨(ごむ)」がタイヤの生産を始めている。これが日本での始めてのタイヤ製造だ。それから4年後の1917年(大正6年)に古河電気工業の前身・横浜電線製造㈱とアメリカのB・F・グッドリッチ社の折半出資の合弁企業として「横浜護謨製造㈱」(のちの横浜ゴム)が設立された。両社とも、英国やアメリカの資本と技術によるもの。日本のゴム技術そのものは欧米とは比べ物にならないほど立ち遅れていた。
日本法人である日本フォード社も日本ゼネラルモーターズも、アメリカ本社での厳重な品質試験に合格したタイヤでなければ採用しなかった。技術力の劣る日本製のタイヤが新車装着用として採用される見込みは100%なかった。補修用のタイヤには、当時舶来品尊重の厚い壁があり、よほどのことをしなければ壁を打ち破れなかった。
こうしたなかで、正二郎は、タイヤの国産化を決断するのである。地下足袋やゴム靴で築いた巨大な資本をもとに、自分の手で新しい産業を開拓するパイオニア精神だ。でも正二郎は独断で、何が何でもやろうという人物ではなかった。まわりの人たちの意見をよく聞き、総合的に判断して、決断すべき時は決断するという人物だった。
そこで、自動車タイヤの企業化について正二郎は、まず兄の徳次郎社長に相談した。すると「新事業は危険。やらぬがよい。日本足袋は現在立派な業績を上げているのだから、何もそのような危険な事業に飛び込んで苦労しないほうがよい」。地下足袋の開発に活躍した信頼の置けるドイツ人の技術者・パウル・ヒンシュベルゲルや同じく技師である森鐵之助(もり・てつのすけ)などに意見を聞いても「タイヤの製造技術はきわめて難しい。たとえ多額の研究費を投じたところで容易に製造技術の見通しをつきかねるから、企業化はきわめて危険である」 そんな異口同音の反対意見。あるいはゴム靴の輸出担当の三井物産にも意見を求めたところ「アメリカにおける自動車タイヤは、巨大な近代設備による大量生産方式で生産されている。現在の日本の自動車市場はすこぶる小さく、アメリカのタイヤメーカーが価格のダンピングをして日本に持ってこられれば、国産タイヤはひとたまりもなくつぶれる」。正二郎のタイヤ国産化へのココロザシは、四面楚歌となった。
ゴムおよびタイヤのヒストリーを駆け足でおさらいしておこう。
そもそもヨーロッパ人がゴムを「発見」したのはコロンブスの新大陸発見の翌年1493年。ハイチ島で原住民が天然のゴムボールで遊んでいるところを見かけたところからだとされる。当初は大きく弾む、不思議な物体くらいの認識。ゴムの利用方法が見つからなかった。ところが、19世紀の中ごろ、英国人トーマス・ハンコックが加硫法を発見したことで、近代的なゴム工業が始まった。それまでのゴム製品は、寒さで硬くなりひび割れたり、暑さで粘りついたりと、課題が多い代物。だが、硫黄を生ゴムに入れて過熱する≪熱加硫法≫の発見が、その後のゴム工業に多大の貢献をするのである。
これに前後して、1845年にイギリス人のR.Wトムソンによる空気入りタイヤの発明。さらに1888年に同じくイギリス人のJ.B.ダンロップが空気入りタイヤを改めて見出し、7年後の1895年のパリ~ボルドー間でおこなわれた自動車レースで、ミシュラン社の空気入りタイヤを装着したプジョー社が出場。これにより空気入りタイヤが急速に広まっていく。(それまではクルマのタイヤは空気が入っていないソリッドタイヤだった!)
自動車の性能が高まり、車速が速くなるにつれ、タイヤにまつわるさまざまな改良が加えられ、耐久性や性動力性能が向上していった。それまで困難を極めていたタイヤの着脱に関しても、ビード部にワイヤーを入れた現在のタイヤ構造の基本となっている方式に統合されていった。1920年代にはいると、クルマの機能として乗り心地が重要視されるようになり、低圧タイヤが開発された。素材面では、1912年ごろからゴムにカーボンブラック(炭素)を混ぜることで耐久性が一挙に10倍にもなる大改革もおこなわれた。
タイヤメーカーの世界では当初空気入りタイヤの実質的な発明者である英国ダンロップ社が20世紀初頭にはすでに世界に君臨する勢力を確立し、世界のリーダーの地位を占めていた。その後アメリカでモータリゼーションが爆発的に勢いを増し、アメリカの自動車産業が世界をリードする立場になるにつれ、英国とアメリカの勢力地図が逆転。グッドイヤー社、ファイアストン社、グッドリッチ社、ユニロイヤル社、ゼネラル社などアメリカのタイヤメーカーが世界のタイヤをリードしていった。石橋正二郎率いるのちのBSは、ここに突き進もうというのである。
日本足袋の地下足袋、ゴム靴の量産・量販体制が確立しつつあった1928年(昭和3年)のころ。ゴム素材を輸入し、地下足袋事業を展開してきた石橋正二郎には、ゴムについての強い思い入れが、目覚めていく。欧米諸国のゴム工業の主力は天然ゴムの6割を消費する自動車タイヤであること、将来日本にもモータリゼーションが起こり、自動車用タイヤは必須の産業と成長するであろうことが予測できた。タイヤの国産化に手を染めたい。日本人の資本で、日本人の技術によるタイヤの国産化をすることで、安くてよいものを供給したい。ゴム材料の輸入代価のことが頭にある正二郎は、国産タイヤをつくり輸出することで、その輸入代価を相殺できるし、国際収支の健全化にも結び付けられる・・・そんな思いに駆られていた。
1920年代の後半といえば、アメリカはフォードT型が累計1500万台を販売し、地球上に初のモータリゼーション(クルマ社会)が出現していた。フォードのライバル・GM(ゼネラルモータース)がフルラインナップ戦術で攻勢をかけ始めていたころでもある。アメリカの自動車生産台数は年間約500万台で、保有台数は2300万台。タイヤの年間生産量は56万5000トン。
これに対し、日本ではトラックや消防車などクルマというクルマをひっくるめても8万台に達していなかった時代。自動車の大部分は外国車で、なかでもGMとフォードは乗用車の6割、トラックの9割弱のシェアを占めていた。両社は大正末期から昭和はじめにかけ大阪と横浜にノックダウン工場を設立、本格的に日本市場を席巻し始めていた。
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