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2010年2 月15日 (月曜日)

タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第6回

IMG_5362  「ゴム靴」の製造は地下足袋の発売と同じ年の1923年(昭和元年)にスタートしている。
 この時代、洋服の普及にしたがい、下駄や草履から靴へと移行しつつあった。革靴は高価なため、安価な布製ゴム底靴が日常品として使われだした。こうした需要の伸びを見逃さなかった日本足袋社は、地下足袋の製造のかたわらゴム靴(ズック靴とも呼ばれた)の製造に乗り出したのである。そのころ学生がゴム靴をいっせいに使い始めたこともあり、さらに需要が伸び、原料としている生ゴムと綿花の輸入量が膨大なものとなっていく。
 そこで正二郎は、輸入超過を食い止めるため、海外にゴム靴を輸入できないかを調べてみた。すると中国、東南アジア、インドなどの住民の足元は実にお粗末なものだった。なかには裸足の生活を強いられている住民も珍しくなかった。膨大な海外需要があることは判明したのだ。1927年に輸出課を創設し、商社と提携し、海外市場への販売を開始した。
 相前後して、正二郎は、専売店制度による販売網の確立に尽力している。各地方の一流の商店、主として呉服屋や小間物屋、雑貨屋、下駄屋などを選び特約契約を結んだ。専売店は、1926年には6万店に達している。地域の販売担当者が地道に足を運び、商品の優秀性を説き、小売店主の理解が得られた結果だった。拡張奨励金制度を設けるなどして販売促進を展開。これらは、アメリカのシンガーミシン社の販売方式を、日本の風土や日本人のメンタリティに合わせて実施されたものだ。加えて正二郎は、代理店への積極的な経営指導を展開。旧態依然たる大福帳式から複式簿記を原理とする「アサヒ簿記法」を制定し、代理店の近代的合理化を図っている。
 宣伝広報の面でも、正二郎は腕を振るっている。1923年に代理店、小売店向けの宣伝機関紙「アサヒ時報」を発刊している。メーカーから販売店、代理店へのメッセージを盛り込んだもので、販売網を育成強化するという面できわめて効果があったという。当時としては画期的なものだといえる。社内での合理化策も怠りなかった。1925年にはタイムレコーダーを導入、宛名印刷機を採用して近代化を促進。大正中期には原価計算、監査などをおこない、1934年(昭和9年)には事務改善委員会を発足させるなど、無駄の排除をとことんおこなっている。
 かくして、日本足袋の地下足袋およびゴム靴の量産・量販体制が確立していったのである。
 こうしているなかで正二郎は、自動車用のタイヤ部門への進出のタイミングを図っていた。当時(昭和のはじめ)日本の4輪車の保有台数はわずか7万台に過ぎなかったが、アメリカではすでに2300万台のクルマが走っていた時代。正二郎の脳裏には日本にも早晩モータリゼーションが実現する風景が見えていたのだ。

2010年2 月 1日 (月曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第5回

Pho2  「アサヒ地下足袋」のデビューである。もともと≪地下足袋≫というネーミングは商品名でしかなかったが、今日では普通名詞にまでなっている。広くカンボジアをはじめ東南アジアでも現在活躍中の履物。ところが、こうして苦労して作り上げた「アサヒ地下足袋」も当初は、売れ行きが芳しくなかった。新製品に対する消費者のなじみのなさが、不評の原因だった。
 さっそく、履きやすく使い心地のよいものに改良。さらに日本足袋の従業員みずからが地下足袋を履き、炭鉱や農村を歩き、その優秀性を説いて回ることで、商品の優秀性を訴えた。こうした努力の蓄積で、「アサヒ地下足袋」は、徐々に消費者の認識を勝ち取ることができ大ヒットにつながっていく。
 この商品が受け入れられた背景には、圧倒的なコスト・パフォーマンスだった。このへんはわらじという履物を想像してもらうと分かりやすい。1足1円50銭の地下足袋を使うと、耐用年数が半年。履物代が年3円で済む。わらじのときの年18円に比べ1/6。作業能率の向上や安全性も高まるため、屋外労働者にとっては文字通り革命意的な商品であった。
 1923年1月の発売当時日産1000足だった「アサヒ地下足袋」は年末には日産1万足にまで増加している。この年ちょうど関東大震災が東京を襲い、その復興過程でもアサヒ地下足袋が重宝されたことも人気に拍車がかかった。
 よき事だけではなかった。翌1924年5月、日本足袋の久留米工場が火災にあい全焼する災厄が生じたのだ。加えて、日本足袋の生産停止の隙を突いて、ライバルメーカー10数社が、地下足袋の模造品の製造を開始。日本足袋社は、これに対抗すべく直ちに特許権侵害の訴訟を起こし、2年間の係争をへて勝訴。その後地下足袋製造を希望する向きには1足あたり2銭のロイヤリティを支払うことで、製造を許可するようになった。いわば北風よりも太陽のような解決法だ。粗悪な模造品を追放する手法としても、このやり方は成功だった。
 一方消失した久留米工場は、跡地に従来の2倍の6万6000平米の広大な土地に鉄筋コンクリート製の工場を建設。このとき、手工場生産から、近代工場へと大きく転換させた。正二郎はかねてよりヘンリー・フォードの大量生産方式を研究していたので、再建にあたりベルトコンベアやエレベーターなどを導入し、工程と工程をつなぐ合理化を図り量産体制を具現化させた。これはゴム工場の世界では画期的な試みだった。こうしてコスト削減はいっそうの需要増加を呼び起こし、アサヒ地下足袋の生産高は急増。生産開始から5年目の1927年には年産1000万足、13年目の1935年には年産2000万足となった。

2010年1 月15日 (金曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第4回

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「アサヒ足袋」の製造販売の拡大もつかの間、1914年7月、第1次世界大戦が勃発したことから経済不況に陥った。製品在庫が約100万足、従業員も1000名を超え、生産も1919年度の406万足を頂点に1920年度には300万足と激減。このままでは未曾有の危機が訪れるのは必至。

この苦境を乗り切るために新分野に進出する決意。目をつけたのが、≪ゴム底の足袋(たび)≫。当時の日本の屋外での作業労働者の多くの履物は、わらじだった。わらじは江戸時代以前から続く履物。足に十分力が入らないため作業能率を妨げ、釘やガラスの破片を踏み抜くこともあることから、安全性は高くない。しかも素材が藁(わら)だから耐久性がない。1日1足は履き潰す代物。当時の農家では夜なべして自家生産していたが、買えば5銭はした。そのうえ足袋も必要となるので、月に合わせて1円50銭、年間にして18円の「履物代」の出費が強いられた。

当時の屋外労働者の日給は約1円だったので、わらじ代は大きな負担だった。わらじよりもはるかに耐久性に富むゴム底足袋に対する潜在的な需要があった。ところが、そのゴム底足袋は、1902年ごろから阪神や岡山などで生産されていたが、ゴム底縫い付けの技術は不完全だった。縫い糸が切れやすく耐久性がまるでないという欠点を克服できなかったのだ。

ゴム底足袋の製造に着手したのが1921年。当初、岡山や広島のゴム会社から縫い付け式のゴム底足袋を買い入れ加工したが、採算上不利で製品も満足なものではなかった。ゴム底の自給を図る決意をし、社員にゴム精錬技術を習得させた。1922年初めには12インチゴム練りロール機と加硫罐を購入し、小規模ながらゴム底からの一貫生産に入った。だが、依然として縫い糸が切れやすく耐久性に課題を残した。底の離れないゴム底製造方法を開発することが緊急課題となった。

答えは意外なところにあった。1922年初頭、たまたま徳次郎社長が上京し、三越百貨店でアメリカ製のテニス靴を買ってきた。このテニス靴にヒントを得て、これまでのゴム底縫い付け方式から張り合わせ方式に転換することで、課題を解決しようと考えたのだ。そのためにはゴム専門の技術者の力が必要。そこで正二郎は大阪工業試験所のゴム主任技術者や大阪のゴム専門会社に勤める技術者などを雇い入れ、工場の隅に専門の研究工房を急ごしらえし、極秘裏に研究に取り組んだ。短期間で試作品を作るというのが正二郎たちの要望だった。社長と共の専務の正二郎は,毎日研究工房で数時間を過ごし,スタッフを激励するとともにともに,研究にも加わり,1日も早く試作品完成に尽力。こうして、8月12日、ゴム糊をゴム底粘着に利用した堅牢なゴム底足袋の試作に成功したのである。さっそく、試作品を大牟田の炭鉱に持ち込み、実地試験して評判は上々。製品化の見通しがつき、その年の末には量産化。翌1923年1月に販売をスタートさせている。同年10月には張り合わせ方式のゴム底足袋に関する実用新案登録も取得した。

2010年1 月 1日 (金曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第3回

IMG_5353  正二郎が25歳のとき、「志まや」は従来の足袋業界が驚愕する新機軸を打ち出す。
 「20銭均一アサヒ足袋」の発売である。サイズにかかわりなく同一価格。実はこれも正二郎の東京での“体験”からヒントを得たもの。当時の東京の庶民の足だった市電は乗車賃がどこまで乗っても5銭。5銭といっても現代人のわれわれにはピンとこないが、当時のタバコが一箱5銭で、封切りの映画の入場料が15銭、散髪料金が20銭の時代。東京の当時の繁華街である上野や浅草では均一店がたいそう繁盛していたことも正二郎のヒントになった。
 そのころの足袋の値段といえば、品種、文数(もんすう)の大小に応じて小刻みに値段が決められ、製造業者、卸商、小売店のいずれもが値段表と首っ引きでないと商売ができず、複雑かつ面倒さが付きまとっていた。文数というのは、当時の足袋や靴のサイズの単位で、1文銭(いちもんせん)を並べて数えたことからにちなんでいる。10文は24センチのこと。今では、プロレスのいまは亡きジャイアント馬場の得意技である「16文キック」などにわずかに残るだけ。
いずれにしろ正二郎は、均一価格制を取り入れることで取引条件の単純化と合理化を図った。この「20銭均一アサヒ足袋」という価格は、当時の常識からはかなりかけ離れた安値。この均一価格の商品には、これまでの「志まや」という古風なブランド名をつけずに「アサヒ」とカタカナ文字をあてたことも成功の秘密だった。
 「20銭均一アサヒ足袋」は、またたくまに市場に受け入れられた。一般の販売店はもとより九州の炭鉱、製鉄会社、造船所など広い市場で歓迎された。一方、同業者は均一価格では大きな文数の商品は売れても小さなサイズは売れないと判断したり、「均一価格アサヒ足袋」は粗悪品だとする逆キャンペーンをしたが、趨勢は均一価格に傾き、やがて、ライバル会社も次第に均一価格制に切り替えていった。
 こうしたライバル会社のもたつきを横目に、「アサヒ足袋」は独走を続け、業績を伸ばした。工場は拡張に拡張を続け、大量生産によるコスト改善で資産を倍増し、工場新設の資金的余裕も生まれていった。1913年に販売高がわずか60万足だったものが、5年後の1918年には300万足と5倍に延びたのである。ようやくにして、「志まや」は業界の一流会社と肩を並べる基礎がつくられた。足袋専業化を決断してから7年目、正二郎わずか25歳のときだった。

2009年12 月15日 (火曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第2回

IMG_5347   正二郎の事業努力の裏にはいくつもの見るべき特徴がある。ひとつは石油発動機の導入をはじめとする機械化と能率向上。1911年久留米に電力が供給されると、石油発動機に変えて5馬力のモーターを据え、積極的導入で能率を高め、生産高を増やした。
 第2の努力は、資金面での努力。足袋という履物は冬場に使われる季節商品のため、製品ストックが多かった。その結果つくりだめのための大量の運転資金が必要となる。銀行や個人からの借り入れが必須となるが、「志まや」は後発の足袋専業メーカーのため、信用が不十分で借り入れが容易ではない。そこで、正二郎は信用第一をモットーとし、借入金の返済期限を厳守、銀行からの信用を勝ち得ることができた。3つ目に挙げられる努力目標は、同業他社との市場競争に打ち勝つことだった。当時「福助足袋」や「つちや足袋」など岡山や東京に大きな足袋業者があり、互いに競争を激化させていた。そうしたライバルたちと競っていくために、広告手段の開発に重点を置いた。
 正二郎が23歳のとき(1912年)に商用で始めて上京し、赤坂溜池にある大倉財閥系の自動車輸入販売会社「日本自働車合資会社」を訪ねている。このとき生まれて始めて自動車に試乗するチャンスを得、時代の先端を切り開き、機動力のある乗り物を使い宣伝・広告をすることを思いついた。スチュードベーカー(写真)を購入し、自動車による広告・宣伝を展開したのである。ちょうどそのころ,九州すべてに卸業者を擁することになっていたため、この思い切った宣伝作戦は功を奏したのである。
 ちなみに、その当時全国でも自家用車の数はわずか354台。九州にはまだ1台も存在していなかった。九州の消費者たちの目を丸くさせた。正二郎は、これと相前後して「足袋のできるまで」という映画を製作し、劇映画とともに各地を巡回させ、「志まや足袋」をポピュラーなものにしていった。むろん、地方にはまだ映画館がなかった時代で、芝居小屋、学校の講堂、寺院の本堂などを借りての無料上映であったという。

2009年12 月 1日 (火曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! タイヤBSのルーツは足袋だった・石橋正二郎物語 第1回

Img_5349 世界トップメーカーであるブリヂストン(BS)は、よく知られるように創業者の姓である石橋(ブリッジ・ストーン)から由来している。ストーンブリッジでは語呂がよくないから「ブリヂストン」としたとも言われる。でも、これを知る人も、ブリヂストンという企業のルーツが、もともとは足袋(たび)や地下足袋(じかたび)を創って当時の日本人の足元を守っていたメーカーであることは知らない。・・・・今回から世界のタイヤメーカーBSの創業者・石橋正二郎(いしばし・しょうじろう)を探る。

ちょうど100年少し前、いまだ日露戦争の戦勝気分さめやらぬ1906年(明治39年)3月。17歳で九州の久留米商業学校を卒業した石橋正二郎は、兄重太郎とともに家業の「志まや」を引き継いだ。古典的な香りの屋号である「志まや」は仕立物業を生業(なりわい)とした徒弟8,9名を抱える小商い。シャツ、ズボン下、脚絆(きゃはん)、足袋など種種雑多な商品を扱う業種だった。正二郎は神戸高商(現・神戸商大)への進学を志していたのだが、父の徳次郎に懇願され断念、家業を継いだのである。当初、兄が外回り仕事、弟の正二郎が店内部の仕事をしてきたが、その年の暮れに兄の重太郎が軍隊に入ったため、経営のいっさいが正二郎の肩にかかることになる。

これを機会に正二郎はビジネスの大変革をおこなうのである。これまでの種種雑多な品物の注文に応じる非効率的な仕立物業に見切りをつけ、「志まや」の経営を足袋専業に改めることを決断したのである。もうひとつの改善は労務関係。これまで無給かつ無休という慣習だった「徒弟制」を改め、徒弟を職人にして給料を払い勤務時間を短くし、月の1日と15日を休日とするなど思い切った改善を図った。これには父徳次郎の大反対もあったが、見る見る業績が向上したことで、父親も正二郎に従わざるを得なかった。足袋専業になって、朝早くから夜遅くまで稼動し、1日に100足、200足とつくるようになっていった。隣接地に50坪ほどの工場を建て、新しく30名ほどの工員を採用。石油発動機を据付、さらに動力ミシンと裁断機を導入するなどで、生産能力の拡張と機械化を進めた。生産効率が向上することで、足袋専業になって2年後の1909年には日に700足の生産に及んでいる。

2009年11 月15日 (日曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! トヨタ自動車のルーツ・豊田佐吉物語 最終回

Img_5944 当時世界一の紡織機メーカーであったイギリスのプラット社は、この驚異的な性能を持つG型を知るや約100万円のライセンス料を支払い、日本、中国、アメリカを除くすべての国での独占的生産と販売権を取得した。ところが、実際はプラット社がG型織機の生産や販売をした形跡はない。俗に言う「買い潰し特許」のだったのだ。性能のいいG型がイギリス以外の国が使用するとイギリスの紡績業は行き詰まる。プラット社は、英国の紡績業を守るために特許を取得したのである。

とはいえ、先人のイギリスのメーカーが東洋の特許を莫大なお金を支払い購入したという事実は、何物にも換えがたい自信を、佐吉に与えた。しかも、このとき取得した100円という多額のお金が、のち喜一郎がリーダーとしてトヨタの自動車開発の資金になるのである。100円といわれても平成の現代人にはピンとこないが、「値段の明治・大正・昭和風俗史」(週刊朝日編)をひもとくと・・・昭和7年の東京の家賃が13円の時代。現代のマンションが一部屋13万円と仮にすると・・・1円=1万円。昭和のはじめの100万円は約100億円ということになる。
佐吉はかねてより「一人一業」を説いていたという。喜一郎には新しい事業を開くことを希望したのである。佐吉が欧米を視察したとき、強く印象に残ったのは自動車だった。その自動車製造への挑戦を息子の喜一郎に託したのである。

佐吉は、G型の完成後あたりから体調を崩し、静養に勤める日々を送っていたが、昭和5年(1930年)10月30日、名古屋郊外で静かに63年にわたる生涯を閉じた。
● 参考文献● 「創造限りなく トヨタ自動車50年史」/「日本における自動車の世紀」(グランプリ出版:桂木洋二)/「産業技術記念館」総合案内

2009年11 月 1日 (日曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! トヨタ自動車のルーツ・豊田佐吉物語 第6回

Img_4523 佐吉の研究はいよいよゴールが見えてきた。
横糸を通す杼(ひ)を織機の停止をすることなく交換(自動杼換)、緯糸(横糸)探り、経糸(たて糸)送出、経糸切断自動停止の各種装置をはじめ、これまでに取得した特許をすべて投入した画期的な織機。

発想も構造も、先人のイギリスやアメリカの織機とは異なるオリジナルな連続して高速で稼動することができる織機。「豊田G型自動織機」の誕生である。G型の開発は喜一郎が中心になって進められたもので、その完成は1924年のことだった。
このG型は、当初1年で約6000台を受注、昭和16年までの約16年間のあいだに累計6万台以上を生産している。その販路は、日本国内は言うにおよばず中国、インド、アメリカなど多方面にわたった。しかも基本的な設計は、昭和30年まで変更されることがなかった。それだけの年月に耐える独創性と高い技術水準を持っていたといえる。

文字通りロングセラー製品であった。当時国産の織機が200円程度だったが、G型は3倍の1台600円もした。それほどG型という織機は使い側のユーザーから見ると、魅力的でメリットが大きかったのである。この織機を使うことで、人件費が大幅に削減されるため、大手紡績工場に大量に採用されたのである。

2009年10 月15日 (木曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! トヨタ自動車のルーツ・豊田佐吉物語 第5回

Img_5796 佐吉は紡績業にも進出することを決めた。他社から購入する糸の品質が、自動織機の研究・試験を左右することが研究するうちに明らかになったからだ。佐吉は糸の開発が先決と判断したのだ。ところが当時は小規模な紡績業は割に合わないのが常識。そんなことで周囲からは大反対をされたが、紡績業進出への佐吉の決意は固かった。

周囲には反対もあったが、逆に佐吉のシンパも少なくなかった。三井物産の取締役・藤野亀之助からの資金を提供する申し入れ、同じ三井物産の名古屋支店長である児玉一造からの資金援助で、紡績工場が1914年に完成する。もちろん、この紡績工場完成の裏には、佐吉が保有する自動織布工場を抵当に入れてのことだった。

その年に勃発した第一次世界大戦により好景気がもたらされ、幸いにも佐吉の紡績工場は活況を停止、事業の各段を図ることが出来た。

地盤が固まった佐吉の事業。1921年には中国の上海に「豊田紡織廠(しょう)」を設立、海外に進出を決めた。このときも佐吉の周辺では拡大に苦言を呈する人もいたが、そんなとき佐吉がもらしたのはこんな名言だった・・・「そこの障子(しょうじ)を開けてみよ、外は広いぞ」。

佐吉は見事海外での初めての事業経営に成功をした。
佐吉には2人の後継者が成長しつつあった。一人は、娘・愛子の入り婿である利三郎(児玉一造の弟)であり、もう一人は、長男・喜一郎(写真)だった。喜一郎は利三郎より11歳年下。利三郎は、もともと伊藤忠合名会社のマニラ支店支配人を勤めていたが、豊田家に入り佐吉の事業経営を助け、その中心人物となっていった。喜一郎は、佐吉の技術面をアシストし、やがて佐吉に代わり豊田紡織の技術陣の中心人物になっていく。喜一郎は言うまでもなく、のちトヨタ自動車の創業者となる人物なのである。

2009年10 月 1日 (木曜日)

旧きをたずねて新しきを知る! トヨタ自動車のルーツ・豊田佐吉物語 第4回

Img_1597 この事件は佐吉には大きな試練だった。豊田式織機の設立に際し、特許をはじめ工場設備などの多くの有形無形の資産を投じていた佐吉はこれによって活動の基盤を失った気分に陥ったからだ。だが、ここで佐吉の心は折れることはなかった。

明治43年、心機一転アメリカに旅立った佐吉は、シアトル、シカゴ、ニューヨークといった都会をはじめ地方の工業都市を約半年かけて視察。そこで佐吉の目に強く映ったのは、広大なアメリカ大陸、アメリカという国の工業生産力、機械化が進んだモノづくりの世界だった。1910年のアメリカは、T型フォード(写真)が爆発的にヒットし、自動車が庶民の足として使われだしたころ。自動車は、もはやごく一部の人の贅沢品ではなく、地球上にモータリゼーションという世界が登場した時代だった。自動車が織機以上の人々の暮らしに必要な製品だということが痛いほど理解できた。

これまでの佐吉の努力が決して無駄ではなかったことも十分気づくチャンスもあった。
アメリカにおける織機のレベルを調べたところ、佐吉が作り上げた織機の性能がアメリカ製を上回っていることを再認識した。たとえば回転数に関してはアメリカの織機は1分間に160回転だが、豊田式は220回転。アメリカ式の織機は機構が複雑で故障が多く、しかも振動も多いし、経糸の切断頻度も高く、作り出す製品の風合いも豊田式の織機のほうが優れている・・・などだ。

これに意を強くした佐吉は、帰国後、自動織機完成の足場を築き直すべく、愛知郡中村(現・名古屋市西区)に約3000坪の土地を手にいれ豊田自動織機工場を新設した。他人の資金に頼っていては思い通りの研究・試験が出来ないという苦い反省から、独立自営の工場であった。

ここで佐吉は研究に没頭する。佐吉が一生を通じて最も研究に打ち込んだのはこの時期。朝は、工場の機械が動く前から研究所に入り図面と向かい合い、午後は自ら機械の下にもぐりこみ油まみれになり織機の改良に取り組んだ。夜も再び研究所で昼間集めた資料をもとに研究に打ち込んだ。

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