みなさん!知ってますCAR?

2021年10 月 1日 (金曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第18回)

日産NB型サイドバルブエンジン

  1945年8月15日、ようやく長い戦争が終結した。
  東京、横浜は、爆撃で大半のところは焼け野原となった。とくに軍需工場の被害はすさまじかった。ところが、日産の横浜工場は軍用機のエンジンを製作していたにもかかわらず、ほとんど被害を被ることはなかった。あとでわかったことだが、戦後アメリカ軍が接収して、敷地だけでなく、設備一式を活用しようと考えていたからだ。
  だから、この年の10月から日産は、トラックの生産を再開することができた。もちろん日本の復興のためのトラックである。ゴーハムは、このとき取締役技術長として、大車輪の活躍をした。機械設備の再編成、資材の調達など寝る間を惜しんで働き続けた。このころのゴーハムは、部下たちからひそかに“ブルドーザー”というニックネームを頂戴している。
  日産の復興にめどがついた時点で、ゴーハムは次の仕事に取り掛かった。
日本および東南アジア各地に戦争で放置された車両を回収し、修理できるものは修理、部品取りするものは部品、スクラップになるものはスクラップという分別業務を展開する会社「富士自動車」という新会社を立ち上げ、元日産の社長・山本惣治(1888~1962年)とともにおこなうのである。
  日本国内の車両修理業務は、日産同様トヨタもおこぼれにあずかり、朝鮮戦争(1950年)で、特需景気が起きるまでのつなぎの業務として、事業永続のカギを握った。南洋諸島や東南アジアにある車両は、戦車陸揚げ船(LST:タンク・ランディング・シップ)や上陸用舟艇(ランディング・クラフト)で運ばれてきた。富士自動車が1958年までに再生した米軍の車両は、のべ23万台ほどだったという。
  ちなみに1955年、独自開発した超小型3輪自動車フジキャビン。これは富谷龍一(1908~1997年)のデザインで、FRP(強化プラスチック)ボディの斬新なものだったが、量産性も悪くけっきょく試作85台ほどで終わっている。富士自動車という企業は、いまから見ると不思議な会社だった。
  (写真は、日産トラック480型などに載せられた当時のサイドバルブ直列6気筒エンジン。アメリカのグラハムページ社の技術でつくられたエンジン。排気量3670㏄、圧縮比6.8、最高出力95HP)

2021年9 月15日 (水曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第17回)

戦時中の日産

  満州国というのは、よく知られるとおり清朝最後の皇帝溥儀(ふぎ:1906~1967年)を擁して建国した傀儡(かいらい)国家だった。国務院をはじめ大半の大臣は満州人だったが、各部の部次長には日本人を配し、実権は日本人が握っていた。
  そして満州の利権は、すべて満州鉄道(満鉄)が握っていた。ここにいきなり、鮎川の日本産業が、大挙して押し寄せてくれば、満鉄の利権が脅かされる。これをまるで魔術師のごとく排除して、鮎川に「満業」を営業させたのが、昭和の妖怪とも呼ばれた岸信介なのである。当時の日本産業は、いまの日産をイメージすると大間違い。傘下には、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、日本化学工業など関連会社まであわせると130社、約15万人の従業員を抱えた一大コンツェルンだった。日産は、満州進出にあたり、2億2500万円を出資、同額を満州国が出し、計4億5000万円で事業がスタートしたという。当時の1円は、現在の1767円というデータから計算すると、約8兆円となる。
  岸の青写真には、ソ連の5か年計画の満州版があった。ソ連の5か年計画とは、1928~1932年のあいだに、ソ連のスターリンの指導のもとおこなわれた、急激な重工業と農村共同化を柱とした社会主義建設計画のことだ。
  岸は、新国家を運営するうえで、鮎川の資金と経営能力を高く買っていたのである。当初は、戦線拡大にともない、重工業が特需に見舞われ日中戦争拡大のなか、日産の業績は順調だった。満州国の運営には、非合法なアヘンの売買があったなど、いまも謎に覆われている部分が少なくない。
  いずれにしろ、莫大な資金や財産をめぐって、怪しげな人々が暗躍していた。そのなかに日産も位置付けられていたのだ。こうした財産、汗や血で積み上げてきたものが、完膚(かんぷ)なきまでの敗戦で、露と消えたのである。満州国はわずか16年で消えたのだ。
  余談だが、岸信介が権勢をふるった商工省の跡地に戦後、日産が本社をそっくり移している。このビルは筆者が駆け出し時代に何度も通ったなじみのあるビルで、地下鉄の駅から歩いて1分ほどなので、雨の日でも傘なしに出入りできた思い出がある。ともあれ、2010年に横浜に引っ越すまで、日産は、旧商工省の跡地に半世紀以上存在したのである。

2021年9 月 1日 (水曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第17回)

岸信介

  ここで少し横道にそれることにする。
  ゴーハムさんとは間接的でしか、かかわりがなかったが、日産の満州進出についてである。かつて、このサイトで「日産をつくった男 鮎川義介の謎」を連載したのを覚えておいでであろうか?
  そのなかで、満州事変から6年後の1937年(昭和12年)に、鮎川は日産つまり「日本産業」を満州にシフトするという大胆な挑戦を開始したことをお伝えした。満州国は、日本の敗戦と同時に1945年8月15日、わずか16年で地上から跡形もなく、なくなったため、いまでは遠い過去の歴史となった感がある。
  でも満州問題は、戦後長く尾を引いている。
  満州からの命からがらの引き上げ、それに残留孤児問題など、のちの日本に大きな禍根を残した。戦後の復旧・復興にそうした記憶はブレーキをかける、そんな思いがあったのか、満州国の総括は、いまだなされていない。謎の部分が多く、今に生きる日本人の大半は、忘れられた歴史の一断面として処理している。
  鮎川の日本産業が、満州重工業開発(略して「満業」)を満州で展開し始めたのは、当時の革新官僚として活躍していた岸信介(1896~1987年:写真)の強力な旗振りからである。鮎川より16歳若い満州国総務庁次長にして、のちの商工大臣であり、戦後首相にまで上り詰めた男だ。鮎川と岸信介は、実は同じ長州(山口)出身なのである。しかも遠い親戚筋にあたる。現在の長州閥の人材が政治の中枢に登ることがしばしばあるように、当時も長州人は、日本の中枢を占めるケースが少なくなかった。外務大臣で、例の国際連盟で捨て台詞を履いて退出した松岡洋祐(1880~1946年)も、実は長州人で岸の親戚筋(義理のおじさん)にあたる。
  つまり日産を作り上げた鮎川義介は、長州閥の一員として、戦前はとくに恵まれた立場で自由に動き回れる人間だったのだ。

2021年8 月15日 (日曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第16回)

ゴーハム一家

  13歳のとき、父親に連れられ初めて日本を訪れ、そして30歳のとき家族そろって日本に移住して23年の年月がめぐった1941年(昭和16年)5月、ゴーハム夫妻は、大きな決断をする。正式に日本に帰化することになったのだ。日本がアメリカとの戦端をひらいた真珠湾攻撃の半年前だから、ゴーハム夫妻は日本に骨をうずめる決意をしたことを意味する。
  日本の暮らしにすっかり溶け込んでいたし、日本人以上に日本人という側面もあった。
  4半世紀ものあいだ、東京や横浜の変わりようを見てきたゴーハムは、若い日本人に、「昔はここにこういう建物があったんだよ」と古老の日本人以上に日本のことを知る人間になっていた。四季のある日本が大好きだった。日本人の器用さ、誠実な人の多い日本人を愛し、自分の技量を高く評価してくれる日本は、ゴーハムにとってかけがえのないものだったようだ。
  ゴーハムの日本名は「号波武克人(ごるはむ・かつと)」、ヘーゼル夫人は「翠(みどり)」と名乗ることになる。
  ちなみに、ヘーゼル夫人の行動をたどると、戦前から戦後にかけて「生け花大観」、「陶器について」という英文の書籍を残している一方、学習院大や青山大学で英語の授業の教鞭をとり、隣人だった三笠宮妃などの英語個人教授、「東京夫人クラブ」の主要メンバーとして社会貢献をおこなっている。
  日本籍を取得したその年の12月8日、日本はアメリカと戦闘状態に入る。太平洋戦争が始まった。ゴーハムの自宅と会社を往復する日々の暮らしにはほとんど変化はなかった。だが、外出はできなかったという。身長190センチもある大男のゴーハムは、遠くからでも外国人だとわかり、知らない日本人からは白い目で見られがちだった。以前のようには自由に活動できなくなった。夫人は、日本駐在の外交官などとともに軽井沢につくられた外国人コミュニティで暮らしていた。いちおう憲兵の監視付きであったが、比較的自由な暮らしを送ったようだ。いっときでも心やすまる時間が持てたのだろうか?

2021年8 月 1日 (日曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第15回)

DATSUNラインオフ  1年ばかりで年間500台生産可能規模の自動車工場が完成し、昭和10年(1935年)4月ダットサン第1号がラインオフした。
  横浜工場は、1937年4月に、鋳造、熱処理、機械加工、プレス加工、車体組み立て、溶接、塗装工程など東洋一の規模を誇る流れ作業による、本格的マスプロダクション・システムを導入している。が、こうしたモノづくり工場づくりの司令塔的存在だったゴーハムは、ライン完成の見通しが立ったところで、次の新しい仕事に着手し始めた。
  ゴーハムの新しい仕事は、「戸畑鋳物」あらため「国産工業」での工作機械の制作だった。
  当時の国産の工作機械は、欧米製に比べ精度が低く、耐久性も劣り、使い勝手も、デザイン性にも見劣りするものだった。精度が悪いだけでなく、動作中のギア鳴りが大きかった。よりいいものを作ることにかけては人一倍高みを目指すゴーハムは、来日時からのこうした工作機械の大改革に着手したかったという。当時の工作機械といえば、旋盤、フライス盤、ボール盤の3つだが、メインの生産は、旋盤だった。とくに旋盤の出来がすこぶるよく、高い評判を得た。
  おかげで、工場も横浜工場だけでなく、川崎、習志野、大森、我孫子など複数に広がり、規模が大きくなり従業員も1万1000名を数えた。
  この企業はそののち日立と合併し、日立金属になるのだが、ゴ-ハムのもとで薫陶を受けた当時のエンジニアの一人は、日ごろから聴いていたこんな言葉が耳に残っているという。
  「アメリカで大学教育を受け、技術家として社会に出ていくについて最も大切なことは、油で手を汚すことだ」と言われた。「頭でっかちで理論だけになっていては創造的な仕事ができない」というのが日頃からのゴーハムの主張だった。ゴーハムに会うごとに「手を汚していますか?」と聞かれたものだという。いかにも現場主義を重んじるゴーハムらしい言葉だ。

2021年7 月15日 (木曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第14回)

日産の工場内部(昭和8年)  九州の「戸畑鋳物」での仕事では、5年の歳月が流れた。その後ゴーハムとその家族は、東京に移り住んだ。大正15年のことだ。
  このころ鮎川義介は、「戸畑鋳物」を中心としたさまざまな企業のコンチェルンとして活躍していたのだ。
  鮎川が手掛けた企業のひとつ「東亜電機」で、ゴーハムはふたたびおおいに腕を振るった。この「東亜電機」はのち日立製作所のルーツの一つとなる。電動工具を開発したり、スターターやイグニッションコイルといった自動車の電装部品を開発、あるいは手動式だった電話交換機を自動式に改造したり、ドリルやグラインダーを設計製作したりした。
  昭和6年ごろになると、「戸畑鋳物」は自動車部を設立し、そこでは大正末期から昭和の初めにかけ日本に進出してきたフォード(横浜)とGM(大阪)のノックダウン工場の自動車部品のサプライヤーとして稼働している。その年、鮎川は、橋本増治郎(1875~1944年)の流れをくむ「ダット自動車製造」を傘下に収めた。さらにゴーハムがかつて所属していた久保田健四郎(1870~1959年)が持つ大阪の「実用自動車製造」も手中に収めて、着々と本格的な大量生産型の自動車製造会社の創設を計画していたのだ。ダットサンの製造権を得てのことだ。
  そして、1933年、昭和8年12月、横浜神奈川区の埋め立て地に建坪2万数千坪の東洋一の大量生産型自動車メーカーをつくるのである。この新工場の準備のために、ゴーハムは、同じ年にアメリカにおもむいた。フォードの工場があるディアボーン、GMの工場のあるデトロイトなどを回る一方、工作機械の購入とアメリカの技術者たちを雇い入れるために動き回った。
  ゴーハムが選んだ技術者は、いずれも優秀な人材10数名。その後の日産のモノづくりのベースを作り上げた。余談だが、そのなかに鍛造のエキスパートでマザーウエルという男がいて、彼は、そののちドイツのVWでも雇われ、VW(当時はKDF)の工場の鍛造設備のデザインをしている。(写真は、昭和8年、ダットサンボディの組み立て工場内部)

2021年7 月 1日 (木曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第13回)

アメリカ時代の鮎川義介  ウイリアム・ゴーハムの次なる新天地は、当時青年実業家として飛ぶ鳥を落とす勢いの鮎川義介(1880~1967年)と知り合うことで開けることになる。
  ニューヨーク州バッファロー郊外の工場で、週5ドルの職工として働いた経験を持つ鮎川(写真)は、従業員が1000名を超す鋳鋼品や特殊鋼を手がける「戸畑鋳物」の経営者だった。すでに数年前に丸一日話し合い、肝胆相照らす仲となっていたため、ゴーハムの境遇を知った鮎川は、「戸畑鋳物」のある九州戸畑に呼び寄せ、技術者として招聘したのである。
  ここで、ゴーハムは、農業用や船舶用の石油発動機を開発したり、工場内の工作機械や治具などの改良から始まり、大阪にある木津川工場に出かけ技術指導などをおこなっている。このころの「戸畑鋳物」のドル箱は、鉄パイプの継ぎ手で「ひょうたん接手」(継ぎ手の表面が滑らかであってほしいとしてヒョウタン印とした)だった。こうした製品の品質管理などの指導を展開したのである。
  この時代ゴーハムから薫陶を受けたある技術者は、ゴーハムに「T字型の人間になれ!」とよく言われたという。T字型というのは、好奇心の翼を広げ、自分の仕事にかかわることは何でも知るようになれということで、そのなかで特に自分の専門とするところは十分深く究めよ、という意味だという。別の言い方をすれば、T字型人材というのは、ジェネラリストとスペシャリストのメリットを兼ね備えた人材で、横棒が「知識の広さ」、縦棒が「専門性の深さ」しめし、英語では「シングルメジャー」とも呼ばれる。
  特定の領域で専門性を持ちつつ、専門領域にとらわれない幅広い知見があるため、視野が広く、客観的かつ業界の慣習や常識にとらわれないアイディアを発想することができる。
  くだんの技術者は、昔を振り返り「ゴーハムさんは、いくつものT字を並べたような人物だった」と感想を述べている。

2021年6 月15日 (火曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第12回)

リラ―号  ゴルハム式自動3輪車の価格は、1300円。大卒の給料が40円の時代。いまの大卒初任給が20万円だとすると、いまの値段で約650万円。人力車の動力版としては高価だった。とても庶民には手がとどかない。
  ちなみにT型フォードは約2000円で、シボレーはそれより高く2400円ほどだった。
  しかも、3輪車ということで少し無理なコーナリングをおこなうとすぐ転倒してしまう。このことを知らず4輪車のような運転をするドライバーが多かったことから事故が少なくなかった。価格が高すぎるというだけではなく、3輪車特有の癖が十分行き渡っていなかったこともあり、売れ行きは思ったほど芳しくはなかった。そこで、てこ入れとして大正12年に4輪車に変更した「ゴルハム4輪車」を作った。基本設計はほぼ同じだ。
  だが、あにはからんや、こちらも売れ行きは芳しくなかった。いまから見ると十分に市場調査することなく、ただ思い付き先行の、中途半端な性能のクルマだったからだ。
  けっきょく3輪と4輪合わせ合計250台程度で終了してしまった。
  その後、こうした反省のうえで本格的な4輪車を企画した。それが大正12年に完成した「リラ―号」(写真)である。
  リラ―とは花のライラックの意味で、藤色のボディカラーだった。4人乗りで、V型2気筒1260㏄ 8.4馬力、最高速56㎞/h。箱型、幌タイプ、ロードスター、トラックタイプなど車種も豊富にそろえた。デフを備えた本格的乗用車だった。価格は箱型で2000円。このクルマは、ゴーハムから薫陶を受け、のち日産でも活躍した後藤敬義らが中心に開発したものだ。クルマは200台ほど生産されはしたが、採算の合う商品までにはならず、やがて生産中止となった。実は、リラ―号の発売の2年ほど前に、ゴーハムは、販売不振を理由に責任を取り「実用自動車」を去っていた。

2021年6 月 1日 (火曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第11回)

実用自動車の工場内部  この工場の完成は大正9年7月。建坪は1349坪、鋳造、熱処理、工作機械、塗装、組み立てなどの工場のほかに、エンジン試験室、検査場、材料倉庫、製品置き場など、自動車工場として必要な設備はすべて整っていた(写真)。
  工作機械として、複雑な穴を加工するブローチ加工機をはじめ旋盤、ネジをつくる転造マシンなど当時の先端のモノづくりマシンが30台ほどそろえていたという。いうまでもなく精度を管理するシステムを導入しており、日本での初の近代的な大量生産方式を導入した工場だともいえた。板金に使う鉄のパネルは、品質の安定したアメリカから輸入。スターターなどの電装部品もアメリカからの輸入だった。
  ちなみに、大会社の重役が月150円程度の時代、ゴーハムの毎月の収入は、破格の1000円だったという。技術レベルの高い外国人に超高給を与える。これは、まさに「お雇い外国人」の扱いである。でもゴーハムはそうした期待に応えるに十分な働きをした。
  そして完成した自動3輪車は、「ゴルハム式自動3輪車」と命名された。「実用自動車」の従業員は、150名ほどいたという。
  なぜ、ゴルハムかというと、GORHAMを無理やりローマ字読みすると、ゴルハムになるのである。残念ながら当時の現車が残存していないので、正確ではないが、エンジンはハーレーダビッドソンのエンジンと同じV型2気筒の1200㏄、空冷タイプの7馬力で、車両重量は400㎏ほどだった。
  全長2420㎜、全幅1060㎜。リアにエンジンを付けチェーンで後輪を駆動する。ハンドルは、バイクと同じバーハンドルだった。最高速度は時速30マイル、時速48キロだったという。のちに隆盛する計3輪のルーツと言えなくもない。
  大正9年9月に試作車が完成し、その年の11月に量産され、販売された。

2021年5 月15日 (土曜日)

遅れてきたお雇い外国人 ウイリアム・ゴーハム伝(第10回)

クシカー  ゴーハムは活動の不自由となった櫛引のために、特別な片足でも運転できる3輪車を作ってあげたのである。
  友情から誕生した手作り3輪車。これがクシ・カー号、のちに量産されてゴルハム式自動3輪車の原型となるクルマだ。大正8年(1919年)ごろの話だ。エンジンやフロン回りは、オートバイ・ハーレーダビッドソンの部品を流用し、後ろのシートは人力車のように2人掛けができるバーハンドルタイプの3輪車だ。片足でも運転ができる仕掛けとした。
  ちなみに、大正時代に入ると、日本は政治的にも経済的にも世界の列強の一角に数えられるようになり、都市部ではハイヤーやタクシーの営業が始まり、自動車の保有台数が増え始めていた。これは欧州を舞台となる第1次世界大戦(1914~1918年)の戦争景気による。ヨーロッパ諸国が戦争に熱中する間に、日本が世界の輸出市場をどんどん奪っていった結果、日本に富が集中し始めたのだ。
「足の悪い櫛引が乗れる3輪自動車が登場し、注目を浴びる!」・・・・ということは、おそらく間違いなく、ゴーハムが手持ちの部品でつくり上げたクシ・カー号は、日本初の“初代福祉自動車、ウエルキャブ”の第1号といえる!?
  川崎の企業によるトラック生産事業は、実は途中で資金繰りが苦しくなり、あえなく頓挫してしまった。
  ところが、捨てる神あれば拾う神ありで、フレンドシップからたまたま作りあげ、横浜などを走り回っていた櫛引弓人が乗る「クシ・カー号」が、大阪の「実用自動車製造株式会社」の幹部の目に留まったのだ。
  「実用自動車」は、「久保田鉄工」(現・クボタ)が大正8年創設した会社。久保田鉄工は、農家の末っ子で広島の尾道出身の久保田権四郎(1870~1959年)が起こした企業。15歳のとき大阪に出て丁稚奉公から身を起こし、鋳物工業で天秤秤(てんびんばかり)の分銅(ぶんどう)から始まり水道管などの鋳物製造で財を作り上げ、その余力で自動車メーカーを立ち上げようとしていた。ゴーハムの3輪自動車の製造権利を手に入れただけでなく、ゴーハム自身を好待遇で技術担当者として招き入れたのである。
  のち日産でダットサンの開発の中心人物となる後藤敬義(ごとう・のりよし:1898~1967年)は、当時ゴーハムのもとで薫陶を受けていた。
  自動3輪車の試作のかたわら、工場の設備計画の指導をおこなっていたゴーハムの仕事に打ち込む姿を見て、のちにこう語っている。「アメリカから世界一流の工作機械をはじめ、自動車の資材、ボルト・ナットにいたるまで、すべてゴーハム氏の計画ならびに斡旋で輸入された。準備は周到をきわめ、少しの手落ちもなかったことに社員一同おおいに感嘆した」。
  ゴーハム氏ひとりで、この工場をまとめたといっても過言ではないのかもしれない。

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