みなさん!知ってますCAR?

2020年7 月 1日 (水曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第6回)

労働する鮎川  このアメリカの金属工場での写真が、横浜にあるエンジン博物館の2階に飾られている。
  ひげを生やした長身の白人4名の真ん中で堂々と背筋を伸ばし、台車に片足をかけた20代の鮎川の姿は少しも引け目など感じていない。(前回の写真だが、今回も使います)
  余談だが、鮎川はアメリカ滞在中、言葉にはあまり困らなかったようだ。実は、幼少期、山口の地方新聞に勤めていた父親がカソリックに帰依し、息子たち義介も洗礼を受け日曜日ごとにミサに出ていた。そこで、フランス人神父にフランス語なまりの英語を習ったことが、義介がアメリカ修行に出かけた折に大いに役立ったのだ。
  アメリカ滞在は予定していた1年半よりややや短かったものの、義介に確固たる野心とゆるぎない自信を抱かせるには十分だったようだ。
  帰国後、1910年、明治43年、義介30歳のとき、大叔父井上馨の支援を受け、福岡県の遠賀(おんが)郡 戸畑に、鋳物工場を設立したのである。これが戸畑鋳物株式会社である。現在の北九州市戸畑地区。いまは、イオン戸畑店というスーパーマーケットが建っているそうだ。
  ところが、わずか30歳で戸畑鋳物を発足させたものの、可鍛鋳物は日本では初モノというかほとんど使われていなかったため、注文がまったく来なかった。
  一計を案じた義介は、トップセールスとばかり呉海軍工廠に出向き、大砲の演習用の砲弾づくりを請け負った。ところが、砲弾づくりの経験がゼロだった。そこで、小石川の砲兵工廠の優秀とされた技師、エンジニアですね、これをスカウトした。あにはからんや、これがうまくゆかず、困りはてた義介は、東京上野の図書館に出向き、英語の文献をあさってみた。これも得るところなしで、ふと近くにあるフランス語の文献が目に触れた。偶然にもここに砲弾づくりのノウハウが書かれた文献を見つけたという。さっそく、これを翻訳してもらい、軍向けの合格品を作り上げることができたという。なんだか、窮すれば通ず、あるいは七転び八起き、の世界だ。

2020年6 月15日 (月曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第5回)

労働する鮎川  このころの鮎川のすごいところは、数少ない休日には東京やその近郊にある工場を足で歩いて見て回ったことだ。ビール工場やしょうゆ工場、砂糖をつくる製糖工場など70~80の工場を見ている。このときもおそらく大叔父である井上馨の手配があったと思われる。
  当時の技術はすべて西洋の技術の模倣だということに強く気づき、進んだ西洋の技術を直接自分の目で確かめたいという気持ちが高まり、アメリカにわたることになる。当時の日本は富国強兵の名のもとに軍事力が優先され、民間の工業技術はほとんど育っていなかった。
  鮎川義介は、明治38年25歳のとき横浜港からシアトル向けの船に乗った。船尾のスクリューの近くの移民向けの4等船室で、時化のときには、スクリューが空転し、とんでもない騒音に耳を襲われたというエピソードを先の「私の履歴書」では語っている。でもシアトル港に着くと、三井物産の社員が丁重に迎えてくれている。やはりこのあたりも井上馨の意向が働いている。
  アメリカでは5大湖の近くにあるグルド・カプラー社という名前の金属工場、正確には可鍛鋳鉄工場の工員として生活する。このときも、芝浦製作所と同様に、大学卒のキャリアを隠して、週給5ドルで働いた。ここで、のちに役立つ鋳造技術を会得したといわれる。

2020年6 月 1日 (月曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第4回)

学生時代の鮎川義介  ここで、20世紀初めの日本の自動車事情から、少し離れ、主人公の鮎川義介に注目したい。
  義介の生まれた家系は、長州の貧乏士族のひとつではあった。だが、当時の長州には、他の地域にはなかった恵まれた環境があった。明治維新の原動力となった長州には、面白いことに東京よりもいち早く西欧の文明が吹き込まれているのだ。たとえば山口には、幼稚園、キンダーガートゥンがあった。6歳の鮎川儀介は、西洋式の教育法が行き届いた幼稚園で、東京のお茶の水女子大の前身を出た女性がつきっきりで教育を受けたという。
  思わず「へ~っ!」といいたくなるエピソードだ。そのときの服装は、ルイ王朝時代の様相だった、そんなふうに昭和40年、1965年の日本経済新聞「私の履歴書」に本人の鮎川が書いているのである。
  貧乏なわりに、当時の幼稚園で優雅に幼少期を送ったというのは、なんだか変な感じだが、おそらく明治の元勲・井上馨が大叔父だったからに違いない。鮎川の母親が、井上馨の姉の次女にあたる人物だったのだ。
  鮎川義介の少年時代は、田舎のわんぱく小僧だったようだが、旧制の山口高校を卒業し、東京帝国大学の工科機械科に進み、ここを卒業し、現在の“東芝”にあたる芝浦製作所に入社する。当時の東京帝大の卒業生は、約300名、うち工学部系は約1/3だったというから、かなりのエリートである。大学卒の初任給が月45円の時、鮎川は現場の仕事にじかに接して学びたいという気持ちで、あえて身分を隠して日給48銭の職工になっている。1日48銭ということは月30日働いても14円ほどにしかならず、大学出の1/3である。ちなみに、このころの職工さんは、月給ではなく日払い制である。
  (写真は東京大学工科大学入学当時の鮎川。日本経済新聞社「私の履歴書」より)

2020年5 月15日 (金曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第3回)

シボレー1925年式  フォードとGMはあらかじめ日本の市場を十分リサーチし、抜かりなく乗り込んできた。それだけに、日本での自動車組み立て&販売戦略は、見事に成功を遂げた。大正14年3400台だったのが、翌昭和元年には2倍以上の8600台、その後2万~3万台と推移している。この時代は、まだマイカーとしてではなく、営業車であるハイヤーやタクシーとして使われはじめ、徐々に日本の社会に定着したのである。フォードとGMは日本上陸4~5年で、それぞれ80店舗ほどの特約店を構築していった。
  この当時のことを知る年配の業界人の口からは「とにかくフォードとシボレーの時代だった!」。
  言葉を換えれば“フォードまたはシボレー”がそのころの自動車を指す代名詞だった。現在日本の輸入車シェアはせいぜい10%である。いまから見ると、高い輸入車シェアはとても不思議に思うが、この時代が外国車に偏っていた自動車市場にはそれなりの理由があった。日本国内での信頼性のあるクルマの量産化は夢のまた夢だった。大量生産VS少量生産という規模の話だけではなく、アメリカ車は国産車にくらべ壊れにくく、万が一壊れてもサービス体制がある程度あるため、信頼耐久性が高かった。それに比べ国産車は、信頼耐久性やサービス体制で劣り、そのうえ車両価格がどうしても量産車のアメリカ車にくらべ高価とならざるを得なかった。クオンティティとクオリティ、この両面で彼我の差は大きかった。
  こうしたいわば自動車だけの世界を見ると、日本がアメリカ車に占領されている状態である。貿易赤字が増える一方だ。
  そこでなんとか、「純粋な国産自動車を育成していきたい。自動車産業は日本の国を富ませるカギをにぎっている! 」当時日本の中枢をにぎっていた人々がそんな思いを抱いて、ひねり出した政策が“軍用自動車補助法”である。1918年(大正7年)施行した法律。日本陸軍が、有事のときに徴用(強制的に使用)する自動車に、製造者と使用者に補助金を与えるというものである。いわば本来自由であるべき自動車に、初めから縛りを加えた法律なのである。
  ところが、この国産自動車保護策は必ずしもうまく機能しなかった…‥。(写真はシボレースペリアシリーズK1925年式)

2020年5 月 1日 (金曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第2回)

快進社   そもそも、ヨーロッパ、アメリカで自動車産業が成立し、モータリゼーションと呼ばれる自動車が庶民の生活の一つの核となった社会が、先進国に定着するのは20世紀にはいってからである。世界最初の量産自動車であるフォードのT型フォードがデビューしたのが1908年。以後19年間に累計1500万台を世に送り出し、アメリカに世界初のモータリゼーションを実現させた。
   フォードとGMは、こぞって日本に進出したのは、大正末期から昭和の初めにかけて。西暦でいえば1920年代。
   1923年(大正12年)、関東大震災が起き、東京の公共交通だった市電が壊滅的被害を被り、当時の東京市がフォードのボディなしのシャシーを800台輸入し、これを乗合いバスに架装した。これが好評を博したことがきっかけとされる。フォードが1925年(大正14年)に横浜に、GMがその2年後の1927年(昭和2年)に大阪にノックダウン工場をつくった。ノックダウンとは、部品のほとんどをアメリカから輸入し、日本人の工員を雇い、日本の工場で組み立てるというものだ。
   そのころ、日本にも自動車工場がなくはなかった。橋本増治郎の快進社(写真)、オートモ号の白楊社などである。昭和元年から昭和6年にかけて、年間200~400台のレベルである。いわば脆弱な自動車メーカーで、とても量産工場とは言えなかった。まるでドーナツをつくるようにベルトコンベアで日に100台以上つくるアメリカからやってきた自動車工場からすれば、ものの数には入らない。当時のメイドインジャパンのクルマは、風前の灯火だった!
   この物語の主役である鮎川義介は、1880年、明治13年に山口県に生まれている。フォードが日本に進出した1925年のとき45歳である。若き日にココロザシをいだき米国を見ていた。明治維新を功労者を叔父に持つ鮎川には、こうした現状を変革して、日の丸印のクルマを自分の手でつくり上げたい気持ちが胸に迫ったとしても不思議ではなかった・・・・。

2020年4 月15日 (水曜日)

日産をつくった男・鮎川義介の光と闇!(第1回)

鮎川義介  劇映画さながらの逃走劇を演じたカルロス・ゴーン氏の消息がこのところパタッと聞こえてこなくなった。
  いまや遠くレバノンの地で平和な暮らしを送っているようだ。すでに過去の人になったのか、はたまたハリウッド映画に自身の経験を描く映画が近いうち登場し、再び脚光をあびるのか? すでに忘れ去られた存在に近い日産の創業者と同じように、歴史のかなたに消える運命なのか?(先日、横浜市神奈川区宝町にある「日産エンジンミュージアム」に出かけたら、カルロス・ゴーンの名前はほとんど消されていた!)
  …‥よく知られるように日産が窮地に陥ったとき、さっそうと登場したカルロス・ゴーンは救世主そのものだった。マッカーサー元帥の統治時代、“元帥の子供を授かりたいという大和撫子からのファンレターが山のように来た”(ジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」)というが、それに近いリスペクトだった! 
  カルロス・ゴーンは、その後20年近く日産に君臨。2019年に突如として子飼いの部下たちの手で、様々な金銭上の不正が暴かれ逮捕。それ以来、揺れにゆれている日産。フランスのルノーとの関係、三菱自動車とのアライアンスなど不透明な要素を抱えながら、迷走する日産。でも立ち止まって考えると、いまやホンダの後塵を拝しているものの、日本の自動車業界の名門だった日産。
  そもそも昭和8年創業の本格的な量産自動車ダットサンを世に送り出した自動車メーカーなのである。創業者は、戦前から戦中にかけて10以上の業界に関連する日産コンツェルンの総帥であった鮎川義介。自動車産業はすそ野の広い産業構造が必要とされる。昭和一桁といえば、欧米社会とくらべ、モノづくりの面ではいまだ未熟。時代背景としては、だれが見ても自動車づくりは大きな困難が伴う事業だった。既存の三井や住友、三菱などの財閥すら手を出さなかったことからも想像がつく。
  あえて、こうした時代に「確固たる自動車産業をこの国に築き上げたい!」そんな野心を抱き、大いなる冒険に乗り出した鮎川義介とはどんな男なのか? 今回から、知られざる鮎川義介を追いかけてみよう。

2020年4 月 1日 (水曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(最終回)

384P_コペン  シャレードは、昭和58年フルチェンジされたのだが、このとき登場した3気筒1リッターのディーゼルエンジンは、より衝撃的だった。世界最小の1000㏄ディーゼルエンジンCL型は、時速60キロの定値燃費で実に37.1㎞/lをマークしたからだ。
  ただ、このシャレードの成功は、その後このクルマが育たなかった。深読みかもしれないが、トヨタから見るとあまり面白くない事例だったようだ。それから数年後、平成元年に排気量1600㏄の小型車セダン「アプローズ」を世に問うことになる。このクルマも、リコール問題が起きたこともあり、そこそこの成功に終わった。平成14年、貴金属の使用を抑制した「インテリジェント触媒」を開発し、英国の科学誌「ネイチャー」で高い評価を得ている。ダイハツの技術陣の快挙である。
  快挙といえば、同じ年の平成14年、軽自動車の2シーターのオープンカー「コペン」を追加したことだ。電動式のルーフ開閉、専用のチューニングを施したDOHC4気筒エンジンなど、しかもほとんど手作りの組み立て工程でのモノづくり。
  ダイハツはすでにトヨタのグループの一員であるが、独自色を持ったダイハツのクルマの登場に期待するユーザーは少なくない。外野席からモノを言えば、日本市場だけの軽自動車づくりで競合するスズキやホンダと三つ巴の戦いを繰り広げている。いわば消耗戦。ドメスチックな4畳半の世界(軽自動車のこと)から世界を広げてもらいたい。初代ミゼットのような街の風景を変えた偉大な商品を、大阪発のモノづくり思想から生み出せないか? そんな発想のクルマ、顔の見えるクルマが登場すると面白いと思う。
  参考文献/「ダイハツ工業100年史」(2007年刊)、「自動車技術」1996年6号、「カーグラフィック」1972年4月号、「国産車100年の軌跡」(1978年刊)、「三菱自動車工業株式会社史」(1993年刊)

2020年3 月15日 (日曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第26回)

236P_シャレードの新発売ポスター

237P_シャレードCB型エンジン

  ダイハツはトヨタグループの中で、軽自動車の生産・販売に重点を置きながらトヨタのパブリカの受託生産をしたり、トヨタからの役員を招聘して、経営を強固にしていった。
  グローバル経済が進む中で、経営の安定は大前提としても、やはり独自の商品を生み出し、ダイハツのアイデンティティを世の中に示す。そんな野心がダイハツの開発陣の中でムクムクと生まれてきても、不思議ではない。むしろ自然の流れである。
  昭和52年にデビューした「シャレード」は、おそらくそんな野心を秘めたコンパクトカー(当時は“大衆車”と呼んだ)「シャレード」と聞くとオードリー・ヘップバーン主演の同名の映画を思い出す。が、実はシャレードとは、身振り手振りである言葉を言いあてる“ジェスチャー・ゲーム”をさす。“言葉に頼らず、何かに託して表現”する意味らしい。
  ダイハツの関係者が、意味深長な車名に込めた当時の気持ちを、つい忖度してしまう。開発を指揮したのは、西田弘専務だった。
  このクルマは、“5平米カー”と喧伝され(写真)、大人4人がゆったり乗れるミニマムな、それでいてどこかおしゃれなクルマだった。しかもダイハツの技術があちこちに散りばめられていた。その一つが直列3気筒という実にユニークなエンジン(写真)。3気筒1000ccエンジンは、過不足なく回り燃費もよく心地いいエンジンだった。「驚異の1リッターカー」とか「小さな大物登場!」という触れ込みで、その年のカー・オブ・ザ・イヤーに輝いている。各地のエコランでも大活躍している。この3気筒エンジン、いまにつながるエコエンジンの走りだともいえる。

2020年3 月 1日 (日曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第25回)

144P_フェロー  モータリゼーションの機運が高まりつつある状況を背景に、ダイハツは軽乗用車の進出を図った。
  昭和41年11月発売の「フェロー」(写真)である。エンジンは水冷2気筒2サイクル29PS。変速機は4速MT。車両重量495㎏。エンジン縦置きのFR方式で、大人4人がゆったり乗れて最高速時速100キロを誇った。居住性、走行性などライバル車を凌駕し、価格も抑えたことで、軽のダイハツというイメージを強く定着させた。
  昭和30年代後半から40年代初めになると、日本の自動車産業は大きな転換点を迎える。
  貿易・資本の自由化が進むなか、海外の自動車メーカーとの本格的な競争が始まろうとしていた。
  具体的に言えば、当時圧倒的存在感を示していたアメリカのビッグ3(GMゼネラルモーターズ,フォード、クライスラー)が日本市場にやってくる。江戸末期の黒船襲来のように、今にも市場を独占するのではないかという危機感が日本の産業界を覆っていた。
  弱小の自動車メーカーではこれからは立ち行かなくなる。通産省の指導のもと業界再編の動きが沸き起こったのだ。昭和39年、軽自動車メーカーの愛知機械工業㈱と日産が業務提携、41年にはプリンス自動車と日産が合併。同じ年トヨタと日野自動車が業務提携している。生き残りをかけて、脇を締め敵に立ち向かおうという体制だ。
  こうした流れの中で、ダイハツもトヨタグループの一員になることを昭和42年に決定する。
  当時の2社の概要は、ダイハツが年間約22万台の生産に対し、トヨタは約83万台。従業員数ダイハツが7600名、トヨタが2万8000名だった。トヨタはダイハツの約4倍の規模の自動車メーカーだった。
  ダイハツとしては、大資本のもとで経営がより安定するし、トヨタとしてはダイハツの小型車技術や日本屈指のディーゼルエンジン技術を得られるという思惑があった。

2020年2 月15日 (土曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第24回)

138P_コンパーノバン  エンジンは、先行して開発した水冷4気筒直列4気筒の排気量700㏄と800㏄。4輪トラックの「ニューライン」に積んだエンジンと同系だ。ダイハツとイタリアのデザインの融合で誕生したクルマは商用車のバン(写真)だった。
  これを昭和37年の全日本自動車ショー(いまの東京モーターショー)で出品した。「コンパーノ」、イタリア語で仲間とか同僚という意味だ。
  このバンは38年5月に発売、翌6月にはコンパーノワゴン800も発売した。月産1000~1200台となり、一般ユーザーからの要望を受けセダンタイプの「ベルリーナ」を昭和39年にデビューさせている。ベルリーナは、イタリア語で「セダン」を意味する。
  こうしてダイハツは、小型4輪乗用車の市場に船出したのである。この年の9月には、昭和5年から数えてダイハツの自動車生産類計台数が100万台を越えた。
  昭和30年代の後半になると、軽乗用車の需要が急速に増加してきた。昭和40年には約40万台と全乗用車の約2割を占めた。これに伴い、これまで車庫証明不要だったが、人口10万人以上の都市部で必要になり、制限速度も時速40キロから60キロと小型乗用車並みに引き上げられた。ときには、「いざなぎ景気」とのちに言われる時代で、カラーTV,クーラー、カーの3つのCが、“新3種の神器”ともてはやされた。日本の自動車生産が228万台(昭和41年)となり、アメリカ、西ドイツに次ぎ世界第3位となった。

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