みなさん!知ってますCAR?

2016年8 月 1日 (月曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第22回

スバル360林道  スバル360の試作車は、当初5台つくられた。うち3台が耐久試験のために費やされた。実験担当の家弓たちは、8時間3交代、一日あたり600キロは走ることにした。おもなコースは伊勢崎から高崎までの往復40キロのほとんどが砂利道。最終的には1台あたり5万キロにおよぶ過酷な耐久試験には、自分が設計したクルマは自分で確認しないと納得できないという百瀬たちの精神が息づいていた。「たぶん、これほどの過酷な耐久試験は富士重工だけではないか」と走行テストを担当した一人福島は回顧する。
  走行テストが始まるとエンジンの初期トラブルがどんどん発生した。
  クランクシャフトを固定しているボルトが振動で緩みベアリングが焼きつく。発電機の不具合でプラグに火が飛ばない。スターターが破損する。クラッチが摩耗して焼きつく。冷却性能の不足でオーバーヒート。伴走車のP-1に牽引されて伊勢崎に帰ってくる光景は珍しくなかった。
  走行試験4日目のこと、深刻なエンジン・トラブルが起きた。
  排気ポートを塞ぐほどのカーボンが付着したのだ。カーボン付着は混合燃料を使う2ストロークエンジンの宿命ではあったが、これほどひどいカーボン付着は解決しないと前に進めない。調べてみると、出力向上を目指して大きくした排気ポートを2分割にしてあり、その根元のところでカーボンが付着していることが分かった。そこで、カーボンが付着しづらいシリンダー温度を見つけることで解決しようと、冷却システムを見直したが上手くいかない。そこで、2ストロークエンジンに詳しい東大の富塚清教授に策を尋ねたところ、「ポート形状を楕円形にしたらどうか」というアイディアを授けてくれた。だがこれも決定的な解決には結びつかなかった。

2016年7 月15日 (金曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第21回

スバル360エンジン  リアエンジン・リアドライブK-10のためのエンジンは、横置き2ストロークの360cc空冷2気筒。いかに軽量で高性能なエンジンを創り上げるかが大きな課題だった。参考にしたのは、ドイツ製のロイト2気筒2ストローク400cc12馬力エンジン。これを360ccにサイズダウンして、目標馬力を2馬力高い14馬力とした。当初、試作した360cc用のピストンとコンロッドをロイトのエンジンに組み込みベンチにかけテストしてみると、わずか10馬力しか発生しなかった。そこで、冷却性の高いアルミのシリンダーヘッド、鋳鉄製のシリンダーブロックを試したり、吸排気系にチューニングを加えるなどした。キャブレターに吹き返し現象の不具合が現れた。これにはキャブの前にパイプを付けることで解決。数々の紆余曲折があった。
  こうしてエンジン開発の技術者は、細かいデータをひとつずつ積み重ねチューニングをしていった。やがて360ccのロイトのエンジンは16馬力を発生し、車両に組み込み実験走行を繰り返し、充分な低速トルクを発生することを確認、エンジンの実用性能を詰めていった。
  ようやく耐久テストベンチの段階をへて、量産間近の試作エンジンが完成した。シリンダーヘッド、クランクケース、ピストン、排気マニホールド、デフケース、クラッチカバー、冷却フィンまではすべてアルミ製、シリンダーは新素材のSH鋳鉄という軽量素材が採用された。当時としては最先端技術が盛り込まれたのだ。

2016年7 月 1日 (金曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第20回

スバル360  エクステリア・デザインは、外部のフリーの工業デザイナーの佐々木達三(1906~1998年)にゆだねることになった。
  佐々木は、もともと楽器作りを学ぶために東京高等工芸学校(現・千葉大学)に入ったものの、その学校には楽器のコースがなく、卒業後日本最大の客船「秩父丸」や「氷川丸」のインテリアデザインに携わった。その仕事をかわきりに黎明期の工業デザインで活躍した。戦後はフリーランスの工業デザイナーとして、大型バイク陸王(りくおう)のガソリンタンクや西鉄バスの大型観光バスのデザイン、カラーリングを手がけた。佐々木と百瀬は都内ではじめて顔を合わせたのだが、すぐ意気があい、互いを認め合う仲となった。佐々木はそのとき50歳。運転免許を持っていなかったが、すぐ免許をとった。自動車についての知識はなかったが、だからといってにわか勉強とばかり、世界の自動車のデザインのアルバムを眺める、ということは一切しなかった。伊勢崎工場に来ても、これまで百瀬が手がけたバスやP-1を見学しようともしなかった。やはり自分でハンドルを握り(おもに日野ルノー4CV)、クルマのデザインを自分の心のなかから導き出したかったからだ。
  こうしてあの愛くるしい無駄のない、しかも飽きのこないユニークなスバル360のエクステリア・デザインがつくられたのである。

2016年6 月15日 (水曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第19回

スバル360  足回りができるとそれを台車に載せ、サスペンションなどを煮詰めるための走行試験に入った。ボディをつくる前に足回りを固めたいという意図である。試作車のエンジンルームには、当初ドイツ製ロイトの400cc(2ストロ-ク2気筒)空冷エンジンを載せていた。パイプとベニア板で構成された台車は、ヒーターはおろかドアもなかったが、テストドライバーの福島時雄のいわばマイカーだった。当初トーションバーを始めて目にした福島は「こんな鉄の棒(ねじれ棒!)で大丈夫なのか!」と思ったという。
  走行テストが積み重ねるうちに、トレーディングアームに亀裂が入った。そこで、ばねのメーカーが鉄素材の強度を高める手法を開発するエピソードも生まれた。ちなみに試作品の足回りを構成するトーションバーは1本1万円で、一台分だと4万円。量産時にはその1/10になったとはいえ、かなり高価なものだった。ダンパーはオイル式ではなく、モノとモノとが擦れあうことで減衰力を弱めるフリクション・ダンパーを採用することで、コスト低減に寄与した。
  ブレーキの前後バランスにも苦労した。制動時に荷重が移動してリアタイヤが簡単にロックした。するとフロントタイヤを軸にして車体が回転しがちになり、横転事故につながる。適正のブレーキバランスを求めて試験を繰り返した。
  10インチタイヤ用のホイールは、前例のないものなので、自社開発するしかなかった。軽量化のため2分割のホイール(いわゆる合わせホイール)を開発した。(写真は『スバルを生んだ技術者たち』から)

2016年6 月 1日 (水曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第18回

スバル360林道  足回りの開発についての多くのドラマも生まれた。
  当時の道路は、バスが走ったうしろを走るとホコリが舞い上がり、2~3分待たなければ前が見えず、とても走れたものではなかった。雨が降ると、ワダチに水がたまりところどころに小さな池のようになった。こうした現在の舗装路とは比べ物にならない国道(酷道とも言われた!)や県道などの幹線道路は凸凹道が当たり前で、快適な乗り心地が大きな課題だった。
  ところが、大人4人が乗れるという命題を満足させるため、足回りが使えるスペースは小さい。しかもすでに話したとおり、ドライバーの足先が前輪の車軸まで延びている。足回り担当は、百瀬とは中島飛行機時代からの仲間である小口芳門が担当した。1914年(大正3年)生まれの小口は、旧制長野工業学校の機械電気科を卒業し、19歳で中島飛行機に入社。そこで、いきなり設計部に放り込まれ、のちに名機といわれた九七式艦上攻撃機の油圧式引き込み脚の開発、九七式の後継機「天山」や試作で終わった「深山」など重爆撃機の足回り開発を担当している。
  K-10のサスペンションは、フロントにトレーディングアーム式、リアにはスイングアクスル方式でスプリングにはコイル形状ではなく、鉄の棒のねじりを利用したトーションバーとしている。トーションバーはリーフスプリングなどに比べても場所をとらず軽量化にもなる。ちなみに、戦時中戦車に使われてもいたので、百瀬も小口もそのことを当然知っていた。

2016年5 月15日 (日曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第17回

スバル360クレー-②  いずれにしろ車両重量の目標350kgを実現するには、相当の革新技術を注入しないと成功しないことが、開発者グループのあいだで徐々にわかってきた。たんに航空機の技術であるモノコックボディ構造を採用しただけでは、その目標値には届かないということだ。
  試作車P-1には当時標準の0.8ミリ厚の鋼板をボディの素材として使ってきた。これだと軽く500kgを超えてしまう。頭を悩ませていたボディ設計担当者のもとに、資材部のスタッフが0.6ミリ厚の鋼板を見つけだした。これなら劇的に軽量化ができるはず。ところが、手に持っただけで、薄すぎて使い物にならないことが分かった。
  そのときボディ設計者は、百瀬が描いたスケッチ画を思い出した。「ボディを卵の殻のようにすれば、薄い鋼板でも充分な剛性が得られるボディをつくれるのではないか?」さっそくP-1のトランクリッドを活用し、試作してみたところ、この卵の殻形状デザインで解決が付くことがわかった。薄板は溶接も難しく成型にも神経をつかった。いくどとなくトライ&エラーを積み重ね、実現に漕ぎ着けた。そこで、まず1/5のクレイモデルをつくり、さらに原寸大のクレイモデル、さらには石膏で型をとった石膏モデルをつくり量産への足固めをすすめた。
  いっぽう天井は強化繊維プラスチックのFRPを採用し、リアウインドウにはアクリル樹脂を用いることで軽量化に努めた。こうして、目標の350kgには10kgおよばないながらも360kgの試作車を作り上げることができたのだ。

2016年5 月 1日 (日曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第16回

イセッタ  10インチタイヤの提案は、サプライヤーのブリヂストンが大いに協力を惜しまなかった。当時10インチの規格がなかったので、規格作りからはじめ、乗り心地を高めたいという申し出に2プライ構造のタイヤを逆に提案してくれた。当時の小型自動車のタイヤは4プライが常識だったが、4プライでは乗り心地が硬くなるので、4プライの強度を持った2プライにすることで乗り心地と軽量化を両立させることになった。タイヤひとつからすでにチャレンジだった。
  このころになると百瀬たちはシトロエン2CVだけでなく、ドイツのロイト400とイタリアのイセッタ300をサンプルとして入手し研究した。イセッタ(写真)はRR(リアエンジン・リアドライブ)で前輪とレッド1200ミリ、後輪520ミリというスクーターから進化したような車で、フロントパネルが1枚ドアになったユニークなミニカー。自動車を作るうえで自由な発想が大切ということをイセッタは教えてはくれたが、今回の百瀬たちが目指すプロジェクトには参考にはならなかった。むしろロイト400のほうが大いに参考になったようだ。このクルマは、スズキのスズライトが参考にした車両で2ストローク2気筒396cc13馬力エンジンをフロントに載せたFFレイアウトでホイールベースは2000ミリ。全長3450ミリ全幅1405ミリ、車両重量500kgであった。スズライトが540kgあったので、K-10の目標値350kgは、そもそも現実味があるのか担当技術者のあいだにいくらか不安が広がった。

2016年4 月15日 (金曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第15回

シトロエン2CV  ところで、シトロエンの2CV(写真)は、実は百瀬たち当時の技術者に大きなインパクトを与えたクルマであった。第2次世界大戦が終わって3年後の1948年パリ・サロンで発表された2CVは、戦後のフランスの大衆に生活道具として大歓迎され40数年間で400万台を世に送り出したベストセラー。
  設計開発を担当したシトロエンの3代目社長ピエール・ブーランジュは2CVのコンセプトを「こうもり傘の下に4つの車輪を付けたもの」と表現。375ccのOHV水平対向2気筒エンジンに1200cc並みの大きなボディは、軽量化のためなんの飾りもなく、ユニークなコイルスプリングによる4輪独立権が方式で、独特の乗り心地をもつ。「籠いっぱいの生卵を載せ農道を走ってもひとつの卵も割れることなく走行できる」「クルマのことを知らない主婦でも簡単に運転できる」など割り切ったコンセプトで大成功したクルマでもある。
  K-1も、割り切り具合については2CVに負けてはいない!?
  「大人4人を乗せる」という命題を実現するため、開発初期段階でタイヤの径を10インチとした。当時日本のタイヤメーカーが商品化しているのは12インチが最少だった。それより小さいとなるとスクーター用の9インチとなるため、10インチとなるとタイヤメーカーに特別誂えを依頼するしかない。百瀬は、軽量化と室内空間の確保を考えると、10インチタイヤが必然だった。

2016年4 月 1日 (金曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第14回

238 2016年4月1日スバル360クレー-  ちなみに、この百瀬の軽自動車におけるRR方式は、2年後の1957年、イタリアのフィアット社のダンテ・ジアコーザ設計部長の主張とまったく同じだった。「室内スペースを稼ぐためにはリアエンジン・リアドライブ(RR)が有利」だという研究結果をイタリア機械学会で報告しているのである。この考えは、英国のアレックス・イシゴニスがフロントエンジン・フロントドライブ(FF)の「モーリス・ミニ」を設計するまで、小型自動車のメインストリームとなったのだ。ちなみに、FFには欠かせないドライブシャフトには等速ジョイントと呼ばれる機構が必須。当時この等速ジョイントがまだ安定した技術ではなかったことも背景にはある。
  昭和30年12月、百瀬の案が正式に認められ、開発がスタートした。
  エンジンはラビット・スクーターで成功を収め、シトロエン2CVなど外国製小型自動車をサンプルとして乗用車エンジン開発に着手し始めていた三鷹製作所が担当することになった。百瀬が所属する伊勢崎製作所では、ボディの開発と全体を統括することになった。こうしてコードナンバー「K-10」(スバル360)の開発がスタートした。

2016年3 月15日 (火曜日)

スバル360と百瀬晋六の物語 第13回

IMG_1773  ホイールベースを決めてから、全体のレイアウトをまとめていくのは無理だった。それは最初スケッチ画を描いてみてよくわかっていた。百瀬の哲学は、「機械という存在が、人間にサービスするものだ。人間をさしおいて機械がのさばるのは技術屋じゃない」つまり、「人間ありきの技術」をいつも念頭においていた。いまの言葉でいえばMMI(マン・マシン・インターフェイス)である。
   そこで、まずドライバーに必要なスペースを割り出してみた。ゆったりと座れ、ひどいオフセットをしなくてもいいシート、ステアリング、ペダルの位置を求めた。とりわけ着目したのはペダルの位置だ。「フロントタイヤのホイールハウスは半円弧状になる。その中心のくびれた部分、つまり車軸となる部分を車内から見ると、少しスペースがとれる。そのスペースにアクセルペダルを置けば、ドライバーの右足をまっすぐ伸びてアクセル操作ができるはず。普通の自動車のペダルがフロントタイヤの後方にある。そのペダルを少し前方にずらせば、車軸の当たる部分にできるスペースを無駄なく利用できる」。この着眼がすべてを決定した。
  「フロントタイヤの車軸あたりにペダルを置き、大人4人を乗せるスペースをとったポンチ絵を描くと、リアのスペースが残った。通常のセダンであればトランクルームとなるところだが、そのスペースはまるでエンジンを置いてくれといっているようだった」リアエンジン・リアドライブにすればいいのだ。その絵はそのことを訴えていた。
  だが、リアエンジン・リアドライブは、強い横風を受けたときに操縦安定性が悪いという側面があり、百瀬はそのことを充分認識していた。だが、限られた寸法のなかで、人間のスペース重視を優先してデザインするとどうしてもRRになる。FFだろうが、RRだろうが、どんな方式にも長所と短所があるものだ。だから、長所を活かし、短所をできるだけ技術で押さえ込めばいいのではないか、百瀬はそう考えた。

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