みなさん!知ってますCAR?

2019年9 月 1日 (日曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(13回)

57P_単気筒空冷エンジン  いまからちょうど100年前、大正時代の後半から、昭和の初期にかけてイギリスなどからの輸入エンジンを使ったオート3輪トラックが日本の都市部で流行し始めた。
  背景にはこんな事情があった。中小企業が徐々に育ちつつあり、小口の物流の手段として比較的安価で手に入る3輪自動車の需要が増えてきたのである。エンジンは舶来品、シャシーは日本国内の小規模のシャシーメーカーが造り上げていた。
  当時の所轄行政の商務省は、産業の育成を想定し、いまではおよそ考えづらいことだが、排気量500㏄までなら無免許で運転しても良しとした。2輪あるいは3輪車ではあるが、無免許でクルマを運転できた時代があったのだ。モータリゼーションのすそ野を広げる狙いがあったようだ。
  ダイハツの前身である発動機製造会社もこれに目を付けオート3輪のエンジンづくりを始めている。輸入品のガソリンエンジンを参考にして図面を引き、試作エンジンを作り上げた。昭和5年のことだ。4サイクル・サイドバルブ単気筒空冷500㏄である。このエンジン、展覧会で優秀品として選ばれ、品質については外国製に引けを取らないものであった。営業と技術担当がコンビで、販売に尽力した。ところが、容易に受け入れてもらえなかった。舶来品への崇拝、というか、“国内品=粗悪品、舶来品は優秀品”という図式が根強く日本人一般の価値観を支配していたからだ。

2019年8 月15日 (木曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(12回)

55P_ダイハツ 小型機関の組立作業   「超ディーゼル」というのは、そもそもアメリカ・シカゴ市にある「アール・エム・ビット社」が持つ小型特殊エンジンで、発動機製造㈱は「小型で扱いやすいエンジン」ということで注目し、大正11年4月に、技術提携を結び、日本での国産化に着手している。これは、空気を圧縮することでそこへ燃焼油をポタポタっと滴下させ、自然発火させ、燃焼させるスタイル。通常のディーゼルエンジンは備える高圧噴射ポンプと噴射ノズル(インジェクター)を省き、燃料を滴下させ、圧縮工程の終るタイミングで自然点火させて、燃焼室全体で燃焼を果たすというシンプルなもの。いまから見ると、かなりアバウトであるが、構造が簡単でそのぶん難しい保守点検も不要なため、好評を博した。
   これを「超ディーゼル」と称して販売した。大正11年から昭和10年まで生産され、累計約2500台販売している。当初は数馬力ほどの小出力エンジンで、現在から見れば、やはり効率もあまりよくなく、圧力もあまり高められなかった。排ガス性能も褒められたものではなかったようだ。
   ただ、当時の小型漁船は指導にコツがいるわりには燃費が良くない焼玉エンジンだったので、一部の船舶には超ディーゼルが引き合いがあったという。ダイハツの社史には、「大正15年には1気筒当たり25馬力の超ディーゼルが完成し、4気筒で100馬力出せるものまで開発。カツオ船の船舶エンジンなどに活躍し、京城(現ソウル)には販売出張所を設けた」とある。

2019年8 月 1日 (木曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(11回)

40馬力堅型超ディーゼル  大正期に入り、発動機の需要が増していった。背景には日本の近代化の波が本格的になり、燃料が節約できる経済的な動力源が求められていたのだ。
  具体的な需要としては、従来からある発電用の大型原動機だけではなかった。
  灌漑用、精米用、織布用、遠洋漁業の原動機、精錬や採鉱などの鉱山用にもガス機関が使われはじめた。大正4年ごろからは鉱山での利用が多くなり、当時としては国産最大の400馬力ガス発動機を日立鉱山から3基受注している。その年、受注した市場で一番多かったのは、船舶用で26基だった。2番手が鉱山での精練用として18基だったという。
  第1次世界大戦で疲弊した欧州はそれまで盛んだった日本への輸出が途切れがちになり、逆に日本から欧州への輸出が増加した。つまり日本は、これを機会に重工業化社会へと大きく舵を切るのである。好景気の波に乗り発動機製造は、売り上げを伸ばしていった。
  ところが、大正7年に戦争が終結すると、またたくまに反動不況が産業界を襲ったのだ。
  そこへ労働争議が起き、大正12年には関東大震災により、東京が大混乱するなど、結局昭和の初めまで日本経済は、長い低迷期にはいる。都市生活者には閉塞感ただよう息苦しい世情だった。でも発動機製造㈱も一時赤字損失を出して、株主には無配となるが、徐々に売り上げが上向いていった。この背景には鉄道車両用の機器生産と小型の「超ディーゼル」が屋台骨を支えた、とされている。
  ※写真は、40馬力堅型超ディーゼル。

2019年7 月15日 (月曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(10回)

45P_吸入ガス発動機説明書  明治の末年頃になると、発電用の100馬力吸入ガス発電機を水力発電会社に向け開発したり、船舶用の吸入ガス発電機の製作も手掛けてもいる。当時遠洋漁業用の発電機としてはアメリカから技術導入された灯油を燃料としたユニオン型エンジンが多数派だったが、ダイハツの吸入ガスエンジンは燃料に木炭を使ったもので、燃料代を軽油の1/3程度に抑えることができたという。
  また、明治の末年には電力需要が増加し、発電用の原動機として大型の吸入ガス発電機の受注が増大した。
  営業開始から5か月で純利益を計上するなどまさに発動機製造(株)は、順風満帆だった。何しろ営業開始後5か月で、1700円の純利益。当時公務員の給与が約50円だから、34人分の給料分の利益を上げたことになる。そこで、明治44年には、普通の企業のように社長制を採用してさらに企業としての体制づくりに移行している。
  このとき創業時の岡實康らは辞任している。代わって初代社長に黒川勇熊(1852~1931年)が就任している。黒川は、明治10年横須賀海軍造船学校を卒業して、フランスに留学造船工学を学び、神戸製鋼所で社長を兼務。この後年間売り上げが10万円を突破し、純利益も1万4700円に達している。
  手狭だった工場敷地も3倍以上の1万5600㎡に拡大、工場内も、ただ工作機械が並ぶスタイルから、仕上げ工場、試運転場、鍛造工場、木型工場、鋳物工場、発電所、塗装工場という具合に、目的別になってきた。

2019年7 月 1日 (月曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第9回)

ダイハツ 55P_超ディーゼル小型3HP機関  「吸入ガス発動機」というのは、ガス発動機とガス発生装置で構成され、発生装置は、発生器と清浄機がセットになる。燃料は無煙炭、ガスコークス、木炭などで、明治41年から大正末まで、発動機製造㈱の屋台骨を支え、累計で約1000台生産している。
  輸入品である現物のお手本はあるものの、設計図や文献資料がないため、開発には困難を極めたという。
  ダイハツの社史には、そのへんの話が略されているが、おそらく「現物を分解し、部品一つ一つを絵に描き、寸法を測るなど、気の遠くなる努力でサンプルを作り、組み付け、何度も実験を繰り返し、失敗を重ねて作り上げていった」といった、当たらずとも遠くない物語が展開された。
  工場が稼働してわずか5か月でプロトタイプを完成させたというからすごい。このプロトタイプは完成度が高く、試運転を軽くこなしたという。
  翌年には、6馬力、8馬力、10馬力、20馬力、30馬力などの標準型を量産している。京都や大阪であった博覧会や品評会に出品し、それぞれ金賞や1等賞を受賞、早くも産業界から注目を浴びたという。

2019年6 月15日 (土曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第8回)

42P_6馬力吸入ガス発動機  ダイハツの前身である発動機製造㈱は、こうした時代背景の中で産声をあげたのである。
  事務所兼工場は、大阪駅北側約500メートルのところにあり、敷地面積は約7400㎡。工場の規模はさほど大きくはなかったが、なかに収まる工作機械類は充実していた。6フィートの旋盤が5台、8フィート旋盤が4台、10フィートと12フィートの旋盤が各1台、それに平削り盤(フライス盤)、正面盤、中ぐり盤(ボーリングマシン)など、それに10馬力の発動機などが揃っていた。この発動機は、英国のラストンプロクター社製のもので、吸入ガス機関タイプ。創業時、この地は大阪電燈㈱(現・関西電力)の電力供給区域外にあったため、自家発電装置を取り入れたのである。
  スタッフの陣容はといえば、技師2名に約60名の工員、総勢約70名での船出だった。
  このころ日本で使われていた内燃機関は、輸入品の石油発動機、もしくは動力ガスによるガス発動機。その国産化を目指したのは、5馬力と7馬力の石油発動機だった。
  ところが、自社工場で使っていたのが英国製の吸入ガス機関で、性能のうえでも燃料性能のうえでも石油発動機を上回ることが分かり、急遽方針を変更し「吸入ガス発動機」(写真)の製作に着手した。この「吸入ガス発動機」が、発動機製造㈱のスタート時の売り物となった。

2019年6 月 1日 (土曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第7回)

55P_ダイハツ 小型機関の組立作業  1913年、大正2年には、「乙号」が大阪砲兵工廠火砲製造所と東京砲兵工廠砲具製造所の2カ所で各2台ずつ完成させている。翌年1915年には4トン級の「丙号」、3トン級の「丁号」を完成。このように、明治の末年から大正初期にかけて「軍用トラック製造計画」は着実に進み、1914年から始まった第一次世界大戦参戦の際には、臨時陸軍自動車班が編成されている。
  ついで、技術将校クラスをアメリカなどに派遣して、さらに研究開発が進められていった。いっぽう軍だけでは質量ともに期待できる車両の確保が難しいと考え、民間の自動車産業の育成策を講じている。「軍用自動車補助法」というもので、1918年に制定し、同年に施行された。これは軍制定の基準を備えたトラックとその応用車(バスなど)を「軍用保護自動車」という枠に入れ、製造者に対して一定の補助金を交付、その車両を購入し、使用する使用者側にも一定の購買&維持補助金を支給するというもの。平時には、民間利用させ、有事の際には軍用車として活用するというのが狙いだった。
  この時代の日本は、こうした状態の自動車発展途上国だったのである。

2019年5 月15日 (水曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第6回)

50P_軍用自動車  ダイハツの前身発動機製造(株)が設立された時代の民間での自動車への取り組みは、実にか細かったわけだ。いっぽう、日露戦争を経験した日本の陸軍は、広大な大陸戦線での兵站(ロジスチックス)の輸送には、人馬による輸送には限界があることを痛感させられる。
  そこで、発動機製造(株)が設立されたちょうど1907年に、陸軍次官から陸軍技術審査部長に自動車に関する調査研究命令が発せられている。これを受けて、1908年、フランスの「ノーム」という車両を購入し、東京・青森間の試験運行。翌年1909年には、フランス・スナイドル社の貨物トラック2台を入手し、東京・盛岡間を運航試験している。加えて、1911年には英国のソーニクロフトやドイツのベンツ社「ガッゲナウ」という貨物トラックを購入し、調査研究をおこなっている。
  こうした研究をもとに、陸軍部内では、1911年(明治44年)つまりタクリー号デビューの4年後には、大阪砲兵工廠にて国産の「軍用貨物車第1号」が完成「甲号・自動貨車」(写真)と命名された。大阪砲兵工廠は、大阪城の東側に広がる220万㎡の広大な敷地に最大6万4000名の工員を擁したアジア最大規模の軍需工場。続いて第2号車も完成し、国内だけでなく中国東北部・満州での運航試験が行われている。ちなみに、「甲号」の仕様目標は、積載量1.5トン以上、総重量4トン、エンジン出力30馬力以上、最大時速16㎞以上だった。いまから見ると、重くて、非力で鈍重な車両の印象だ。

2019年5 月 1日 (水曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第5回)

タクリー号と  真太郎がこのときアメリカから持ち帰ったのが、「水平対向2気筒のガソリンエンジン2基。12馬力と18馬力」だとされる。
  真太郎の自転車販売は、「オートモビル商会」と名を変え、東京市内で稼働するクルマの修理などに携わった。明治42年末(1909年)の警視庁管轄登録自動車が全部で38台、うち8台が国産車(日本製車)なのである。この8台(実際には10台作ったとされるので、2台は地方で使われていたようだ)は、実は、オートモビル商会の技師である内山駒之助とその子弟が造り上げた「吉田式自動車」だ。これが国産自動車第1号である。
  ボディは、顧客の一人である有栖川宮威人親王(ありすがわのみや・たけひとしんのう)のフランス車ダラック号の模倣である。エンジンは、真太郎がアメリカから持ち帰った水平対向2気筒だが、そのコピーを駒之助は寝食を忘れ無我夢中で1年ちょっとで完成したといわれる。そのうちの数台は、甲州街道を立川まで遠乗りに出かけているが、イタリアのフィアットやドイツのメルセデス、フランスのクレメントなどと伍して走りほとんどそん色はなかったとされる。
  この「吉田式自動車」は、ガタクリガタクリと走るということから、いつしか「タクリー号」という異名が付き、その異名が自動車の歴史に残っている。このタクリー号は、輸入車との市場争いの中で、消えていき、吉田真太郎、内山駒之助も、それ以後は華々しい活躍することなく、歴史のかなたに消えていった。
  ●写真は、タクリー号に乗る有栖川宮(左から2人目)。

2019年4 月15日 (月曜日)

知られざるダイハツの歴史―国産エンジン開発の情熱から始まった!(第4回)

内山駒之助  内山駒之助が頼った吉田真太郎は、江戸時代、横浜・関内近くの吉田新田を開拓した吉田勘兵衛の子孫ともいわれている。父親は横浜の大手の土建業者で成功を収めており、真太郎も東京の京橋に「双輪商会」という屋号で、自転車商を開いていた。
  ここで“自転車”の登場だ。
  いまでは想像もつかないが、当時の“自転車”という乗り物は、今でいえばスーパーカーのような憧れの存在。あるいは自分を変えられる魔法の乗り物だった?「当時の稲作農家の若者たちが、田んぼで自転車競技を行い、それは、それは熱いものだった」そんなエピソードを明治30年生まれのじいさんから、中学生時代の筆者は直接聞いたことがある。
  そんな真太郎が26歳の年、1902年、自転車の仕入れと視察を兼ねてアメリカに出かけている。当時のアメリカは、フォードのT型(1908年)が登場する前で、電気自動車、蒸気自動車、それにガソリン自動車がいわば三つ巴のバトルを展開していた時代。
  電動化しつつある100年後の自動車世界を知るわれわれにとって、興味深いことに、このとき電気自動車が1馬身先を抜けていた。ところが、1901年、テキサスに大油田が発見されたことがきっかけで、ガソリン車がシェアを握ることになるのです。このあたりはテキサスを舞台にしたジェームス・ディーンの映画「ジャイアンツ」を観るとリアルに理解できる。

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