過酷なレースとして知られるル・マン24時間に、トヨタはようやく勝利した。文字通り、悲願の優勝であった! その背景に興味深い事実がある。「トヨタのル・マンのエンジンは熱効率のうえでは市販車の燃費チャンピオンのプリウスやアクアをしのぐ!」という。先日東工大・大岡山キャンパスでの講演を傾聴して、そのことを知り軽い衝撃を覚えた。
新型プリウス2ZR-FXE型エンジンの最大熱効率は40%とされる。昨年のトヨタのル・マンのマシンのV6 2.4リッター直噴ターボチャージャー付エンジン(500PS以上の最大出力)は、約5年かけて熱効率を40%から45%に高めたという。エンジン本体の熱効率を高めたほかに、リチウムイオン電池を高温でも充放電効率の高い電池セルに変更、加えて電池冷却システムの改善、モーターの小型、高出力化など合わせ技を動員した成果である。
トヨタ車優勝の陰には、エンジン以外の世界でも目を見張る努力があったという。
レースはいつも何が起きるかわからない。24時間となると、たとえトップを走っていてもヒヤヒヤだ。2016年ではあとわずか3分でレース終了! という土壇場でマシンが故障し、ライバルのポルシェに優勝を掠め取られた。そんな悔しさがある、今回は3200項目にわたり、「もし不具合が出たら…」のシミュレーションを実行し一個ずつ潰していった。それと、わずか1アイテムに付き20個ほどしか作らないスペアパーツについても、部品メーカーに頼み込み、量産部品並みのクオリティコントロール(QC)を施したという。悲願の優勝の裏には、前例を打ち破る分厚いレース対応布陣の構築があったということだ。
わずか5分ほど、という短時間ではあったが、それは夢のような体験だった!
運転席にドライバーのいない自動運転車の後席で不思議な移動体験をしたのである。要はドライバー不在の車に乗ったのだ! レベル4の自動運転車両。
ゆりかもめ、シーサイドラインといった無人の電車には何度も乗ったが、ドライバーシートに人がいないクルマに乗せられるというのは、なんとも不思議な異次元感覚である。公道を何事もなく、右左折し、信号が赤ならきちんと停まるし、横断歩道に人がいるのを見つければ、粛々と停止する。なかなか賢いクルマ・ロボットの印象だ。ところが、耳を澄まし、こころを落ち着かせて、そのロボット運転テクニックを評価すると、いくつもの疑問符が付いた。たとえば、ややブレーキングがヘタッピーなのだ。路面が荒れたところを通過するとき、上手なドライバーはアクセルとブレーキでうまくいなすものだが、これもできていない! 乗員にやさしいフレンドリーな運転ができていない。
開発担当者に聞くと、「いまのところせいぜい初心者かシニアの下手なドライバーのスキルどまり」だと正直に告白してくれた。ライダー(Lidar)で障害物を感知し、詳細で常にアップデイトする地図で自立運転を実行している方式だ。
まだまだ課題があるようだ。ところが、その開発者たちは、プログラム製作が東大初のベンチャー企業、通信はNTTの関係企業、それに3Dの地図製作の企業がそれに絡んでいた。およそ、かつてのカーガイといわれた、どこか油の匂いがする“自動車野郎”はそこにはいない。
『自動車はここにきて大きな曲がり角!』という言葉が、真に迫っているのが痛いほど感じられた。
『最新の自動車セキュリティへの企業の取り組みの調査結果の記者会見!』
タイトルだけ見るとやや意味不明な、筆者には手に余る感のある都内での記者会見に先日、恐る恐る首を突っ込んでみた。要するに、来るべき自動運転、コネクティドカーのクルマ社会に対して、サイバー攻撃(ハッカー)が予想される。いまどきのクルマは、人やモノを運ぶ単なる箱ではなく、安全性や効率を高めるべく、多くのセンサーが組み込まれている。通信網を介してデータのやり取りをおこなう。それだけにサーバー攻撃の対象となる。すでに2015年7月にクライスラーのジープが、サイバー攻撃を受け140万台のリコールに追い込まれている事例からもわかるとおり、危機が足元にまで迫っている!
だからこそ、その脅威に向けて、現時点の自動車メーカーや自動車部品メーカーが、どのくらい真剣に取り組んでいるか? これをリサーチしたというのだ。
「万全ではないにしろ、モノづくりの世界の人は、ある程度進めているんじゃない!」
門外漢には、ノー天気にそんな風にとらえていたが、わずか60分の講演を聴くと、見事にドンデン返しを食らった。ちなみに講演者は、岡デニス健五(写真:Dennis Kengo Oka)。この道13年の超ベテランである。
講演のキモは・・・・「約3割の企業が確固たるサイバーセキュリティ対策をとる部署を持っていないばかりか、6割強の関係技術者がセキュリティの脆弱性、つまりいつ攻撃されヤバいことになか! そんな危機感を抱いている!」。
かなりの衝撃的データだ。だれがいつ、どんな風にリサーチしたかというと、昨年の8月、SAE(自動車技術協会)とシノプシスという世界15位のソフトウエア企業が共同で、関連の企業人593名にアンケートして判明したのだ。
この結果を踏まえて、「やっぱり自動運転車はしばらく様子を見てから…購入するか」と疑心暗鬼に陥ったり「電子制御ではない昔のクルマに乗ろう!」と後ろ向きにも考えがち。でも、待てよ! 50年前のクルマは、“シートベルトなし”が当たり前だった!? シートにヘッドレストが付いたのもその前後だ。「技術はいつもある程度のリスクを伴い進化する」…‥とは分かってはいるが、う~ん、なかなかに現実のチョイスは複雑で難儀である。
「ファースト・ワンマイル・モビリティ」という新しい自動車のジャンルをご存じだろうか? 略してFOMM(フォム)というそうだ。自宅から駅、自宅からカーシェア・パーキングなど、自宅からせいぜい1マイル(1.6㎞)ほど離れたところまでの移動をもっぱらとする新発想の“乗り物(モビリティ)”である。
大きさでいえば、マイクロカーと軽自動車の中くらい。先日、横須賀での催しでこうしたクルマの一台に遭遇した。商品名「FOMM ONE(フォム・ワン)」である。川崎にあるベンチャー企業が企画・生産し始めている4人乗りのEV(電気自動車)である。
マイクロカーCOMS(トヨタ車体製)の開発リーダーだった鶴巻日出夫さん(56歳)が指揮を執り、国内自動車メーカーの元エンジニアたちが知恵を絞り作り上げただけに、完成度は高い。後部と前席下部、計4個のカセット交換式電池を備え、EVの課題である充電時間を短縮。しかもスマホを使い蓄電池ステーションを知らせるというインフラまで編み出し、さっそく今年2月末からタイで走り始める。生産は、タイの工場で当初は月産800台、ゆくゆくは年産1万5000台を目指す。一回の充電での航続距離は約160㎞(エアコン使用時は約100㎞)、最高速度80㎞/h。
このコンパクトな「フォム・ワン」というEVがすごいのは、これだけではない。駆動輪のフロントにホイールイン・モーターを備え、なんと万が一水害などに遭ったとき水に浮くことができる。しかもホイールのフィンで歩くほどの速さで前に進める。水陸両用車ではないが、ボート代わりになる。これは福島出身の鶴巻社長が東日本大震災の教訓を生かしたユニークな機能である。いまのところ日本での発売はないというが、気になるクルマではある。
知の巨人であり、偉大な哲学者である梅原猛氏が、先日亡くなった。三島由紀夫と同年の1925年生まれなので、93歳だった。
奈良の法隆寺は実は聖徳太子の怨霊を鎮めるお寺だ、と説いた『隠された十字架』(1972年)や飛鳥時代の歌人・柿本人麻呂は実は刑死した、という説を唱える『水底の歌―柿本人麻呂論』。こうした著書で、学会ばかりか好事家のあいだに波紋を広げた梅原猛は、思いっきり独創的な学者だった。
そんな学者と自動車とは何の関係もない!? と思いきや、実はその出自を調べると日本の自動車産業の勃興期で活躍した人物にぶち当たるのである。
父親の梅原半二(1903~1989年)である。
仙台にある東北帝国大学工学部機械工学部に在学中、地元の魚問屋の娘と恋に落ち25歳のとき結婚、そのとき授かったのが猛だった。ところが猛の母親は結核にかかり早世。猛はその後、半二の実家である愛知県の知多で育てられることになる。温暖な土地で、祖父と祖母の深い愛情ですくすくと育つが、感受性の豊かな猛は、父母のいない少年時代の経験がのちの研究に“絶妙な影”を落としたと思われる。
いっぽう半二は、青年期のこうした不意の不幸を振り払うようにエンジニアの道を究めていく。
トヨタ自動車の創業者・豊田喜一郎(1894~1952年)の知己を得て、34歳のときにトヨタの前身・豊田自動織機製作所自動車部の嘱託技師になり、熱交換器であるラジエーターの研究を始める。そののち、44歳のとき技術部長になり、52歳のときには技術担当重役として国産車の金字塔である初代クラウンの陣頭指揮を執る。その後、品質保証の統括などでデミング賞を受賞。そして65歳、1987年に豊田中央研究所所長に上り詰める。
いわば、いまや盤石とも見える“トヨタの土台を作り上げた一人”なのである。息子同様、独自の井戸を掘り当てた人物なのである。
(参考文献:梅原猛が編集した『平凡の中の非凡』梅原半二著、写真は梅原猛の死亡を伝える1月14日付け朝日新聞と著書のなかの写真のコラージュ)
「水兵リーベ、バックの船、な~に間があるシップはすぐくらぁ!」
ん!? 新年早々気がふれた? じつは、これ「元素の周期表」の上部3段、計14個の元素を語呂合わせしたフレーズ。H(水素),He(ヘリウム)、L(リチウム)、Be(ベリリウム)、B(ホウ素)、C(炭素)、N(窒素)、O(酸素)、F(フッ素)、Ne(ネオン)、Na(ナトリウム)、Mg(マグネシウム)、Al(アルミニウム)、Si(シリコン、ケイ素)、P(燐)、S(硫黄)、Cl(塩素)、Ar(アルゴン)……。
工業高校に入ったころ、何しろ工業化学科だったものだから、なかば強制的にこの周期表に付き合わされたものだ。リーベとはドイツ語で、「恋人」の意味である。不思議と半世紀以上たったいまもすぐ口について出てくる!
自動車は約3万個の部品でできていて、その元をたどれば元素に行きつく。上の14個のほかに、すぐ思い浮かぶのは、鉄を強くするCr(クロム)、Mn(マンガン)、Mo(モリブデン)、スパークプラグなどに使われるPt(プラチナ、白金)、Cu(金)、Ir(イリジウム)、バッテリーに構成物質であるPb(鉛)、Sb(アンチモン)、ランプで使われるXe(キセノン)、W(タングステン)。そのほかCu(銅)、Ti(チタン)などがすぐ浮かぶ。そういえば数年前、原子番号113の「ニホンニウム」という日本ゆかりの元素が、登録されたのを新聞で読んだことがある。
クルマの素材を調べる機会などに、年に数回は、いまでも、この「周期表」を眺める時間がある。もちろん、このなかに原発問題で登場するストロンチウム(Sr)、セシウム(Cs)、ウラン(U)なども目に入る。
この「元素の周期表」が誕生したのが1879年、指折り数えて今年で150年なのである。ロシアの化学者ドミトリー・メンデレーエフ(1834~1907年)が、炭素や酸素や水素などの原子を質量順に並べると、似た性質の元素が周期的に表れることに気付いたのがきっかけだ。ただ気づいただけでなく、「当時空白になった元素を予言、予測したこと」だ。その後、どんどんその予測した元素が発見された。その功績で1906年ノーベル化学賞候補になるが、一票の差でフランスのアンリ・モアッサンという化学者に敗れたとされる。モアッサンは、クルマなどの合成樹脂部品で使われるフッ素の研究者だったのだ。
長引きそうなアメリカと中国の貿易戦争の心配をよそに、衣料品から日用品まで中国製品なくしては日本での暮らしが立ち行かなくなった。いまやそんな感がある。少し前まで、「チャイナフリー」(中国製品を使わない、という意味)という言葉が限定的には有効ではあったが、知らないうちに愛用していることも。
気にはしているがここまで浸透した背景は、ひと頃にくらべると、中国製品は、安くて品質もそこそこのものが増えているからだ。日本人の低コストライフは中国製品が担っている! そういえなくもない。
ところが、アフターマーケットの中国製自動車部品はどうだろうか?
先日、コンパクトカーのフロント・ディスクブレーキをネットで検索していたら、格安のブレーキパッドを見つけた。通常1セットで7000円が当たり前だったブレーキパッドが、なんと1700円なのである。ネットでは、純正同等品も自動車部品商で買うよりも安く、5500円である。「好奇心から、両方購入し、この際だから比較してみよう!」という気分になった。5500円の方は、これまで使ってきたものだ。(写真:左が中国製、右が純正同等品)
興味深いのは、1700円のブレーキパッド。さっそく梱包を解いてみたら、異様なにおいが鼻を突く。しかも、純正同等品にくらべると、なんだかグロテスクだ。裏金(ベース部分)と摩擦材が明白に分かれていないのだ。いかにもヤバい感じ。心配が先に立ち、友人の1級整備士に聞いてみた。「うちのお客さんのクルマにも、中国製の無印ブレーキパッドを付けて入庫してくる方がいますよ。ブレーキを踏むたびに鳴きが激しく、しかもブレーキローターへの攻撃性が高く、結局いいところ何もないですよ」とのこと。しかも「製品によっては加工しないとキャリパーに収まらないケースもありますよ」。
これを聞いて取り付け走らせようとした気分は途端に萎えてきた。やはり命を預かるブレーキパッドは、信頼性の高いものを選ぶのが基本だと再認識しました。こうなると、日本もますます自己責任の世の中となりつつあるようだ。
カリスマ経営者の名をほしいままにしていたカルロス・ゴーン(64歳)。
その彼が、日産所有のコーポレート・ジェット機(機体にはNISSANをもじったNI55ANの文字があった!)で羽田に降り立った。待ち構えていた東京地検特捜部の捜査員が機内に乗り込み、空港内で逮捕された。11月19日夕刻のことだ。有価証券報告書に虚偽記載がその罪状。ありていに言えば、年収20億円だったのを10億円と記載していたという。
自動車業界の誰しもが、激震ニュースとしてとらえたが、「こういうこともあるかもな?」とどことなく予測していた向きもある。
“愚直を本分とする日本のモノづくり”これを信奉する人から見ると、あまりにも“強欲”だったからだ。
潰れかけた日産を短期間でV字回復した手腕には、高い評価を与えるのは吝(やぶさ)かではない。歴代の日産の経営者が、柵(しがらみ)に縛られ、実行できずにいた改革を次々に実行し、悪弊を取り除いた功績は認めないわけにはいかない。でも、その裏に全社員14%にあたる2万人余りを切り捨てた。そのなかには取材で知りえた優秀な社員もいたことを思えば、諸手を挙げてゴーンさんを賛美する気にはなれなかった。
ゴーンさんが社長になった頃、張富士夫(81歳)がトヨタの社長だった。新車発表会場で見かけた張さんのズボンは、膝がポコッと抜けていた。いかにも「いま名古屋の工場から新幹線に飛び乗り東京に着いたばかり・・・・」。そんな現場の社長という空気感を漂わせ、街の零細企業のおやじのようで、親しみを覚えていた。いっぽう当時のカルロス・ゴーンの新車発表会では、アルマーニとおぼしきスーツを身にまとい、一分の隙もない印象を筆者には感じさせた。言うところのグローバル・ビジネスマンかもしれないが、廃油が指の先にこびりついているような現場の人ではない。ちなみに、この当時の張さんの役員報酬を調べてみると、1億3000万円。ゴーンの1/8にも満たない。
もう一枚の写真をクリックして見てほしい。このミミズが這いずったような写真は、いまから4年前の2014年9月横須賀にある追浜工場を取材したとき撮影した。海外生産拠点で活躍する人材を養成するマザー工場としての役割を担い、そのひとつの「シール剤の塗布の仕方」の良し悪しのサンプル。平面に30センチほどの直線でシール剤を塗布するというもので、右がプロの仕事。左が実はカルロス・ゴーンの作品である。素人は初めと最後にドバっと押し出してしまうものだ。カルロスは、奇しくも、この悪い見本をすでにこのとき日産の社員に披露していたのである。
旧いクルマ、それも歴史的に意味があり、いまでも金銭的価値のあるクルマ、そんなクラシックカーがパレードする明治神宮絵画館での「クラシックカー・フェスティバル」は、なんとなく気になるイベントだ。面白いのは、そうしたオーナーさんに立ち話ながら、直接話が聞ける点だ。
インタビューという作業は、相手が口を開いてもらわないと成り立たない。クラシックカーのオーナーは、例外的に話が聞きやすい。イチを聞くと拾(じゅう)を語りだす感じ。たぶん、自分のクルマを自慢したくて仕方がない、あるいはそのクルマの所有するエピソードを人に聞いてもらいたい。そんな気分が頭の中に充満しているからだと思う。だから、ふだんよりもかなり饒舌になり、こちらもつられて、とても気分が高揚する。
今回、静岡から〈自走で走ってきた〉というロータス・イレブンMKⅡのオーナーさんもそんな感じだった。クルマを取り巻く10人以上がじっとクルマを見つめ、口々に質問を浴びせる……。
1956年製というから、すでに還暦を越えている。アルミフレームに鋼管フレーム。コンベントリー・クライマックス水冷4気筒排気量1098㏄。車重は412㎏と軽自動車の半分ほど。200㎞/hを超え、ルマン24時間などで大活躍したレーシングカー。古いクルマは排ガス装置もエアコンなどの快適装置など付かないから、ひどくシンプル。「メンテナンスはとても楽です」というオーナーさんの言葉を待つまでもなく、納得。ふだんはフランス車に乗っているというオーナーさん、たまに奥様とこのクルマで静岡の郊外を走るそうだ。なるほどね……。
初夏、北陸・小松市にある日本自動車博物館にお邪魔した際、初めて目にした古いクルマ。初対面にもかかわらず、どこか懐かしく感じたクルマのことを秋の終わりになって急に思い出した。
1899年製のフランス製「ドディオン・ブートン4輪車」(写真)である。
かつて、福岡に赴いたとき日本最古の乗用車である「アロー号」のことを取材したことがある。弱冠24歳でアロー号を作り上げた矢野倖一(1892~1975年)が初めてクルマというものに接し、修復までまかされたクルマが、3輪車と4輪車との違いはあるが、同じコンセプトのクルマだった。依頼したのは、戊辰戦争のときに物流を任され大儲けした村上義太郎(1947~1922年)。日露戦争の勝利品として伊藤博文の懐刀・金子堅太郎(1853~1942年)から村上が譲り受けたという因縁のクルマらしい。
村上は、物流だけでなく、港湾や都市事業などのビジネスにも手を広げ、当時「博多の一代男」の異名を持った。その村上のスポンサードで、村上の屋敷内の一部を工場にして、苦心惨憺4年の歳月を経て作り上げたのが、「アロー号」だ。アロー号のエンジンは、水冷2気筒4サイクル・サイドバルブ式排気量1054㏄、12馬力。4人乗りで、車量重量320㎏。日産がダットサンを量産する20年も昔の話だ。
ちなみに、日本自動車博物館所有のドディオン・ブートンは、空冷単気筒サイドバルブ、排気量250㏄、2.25馬力。2人乗りで車両重量は300㎏だという。この頃のクルマは、今の軽自動車の半分の重さもなかったのだ。
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