『1931年式シボレーを楽しむ、ユニークな自動車メディア・イベント2018』そんな少し毛色が変わった催しが、先日都内であった。戦災孤児から身を起こし、1986年に世界第6位の大富豪ともてはやされたバブルの紳士の一人渡辺喜太郎氏の御曹司・渡辺春吉氏主宰の「麻布私塾会」&アンクレア(株)の主催。
シボレーの直列OHV6気筒3.3リッター・エンジンは、創業初期のトヨタがお手本としたエンジンで、トヨダA型エンジン(この時代のトヨタはトヨダと濁るのである)は、まさにこのフルコピーといわれる。フロントエンジン・リアドライブ(FR)の駆動レイアウトに、観音開きのドア、たっぷり大人4名が乗れる室内。まるでセダンのお手本のようなクルマである。90年近くたったクルマだが、軽井沢の車庫から渡辺さんみずからがハンドルを握り都内まで運転してきたという。いまでも十分日常の足として信頼性が高いという。
実は、このクルマ、渡辺さんの解説で、もう一つのエピソードを持っていた。太平洋戦争末期、硫黄島の激戦で破れたとはいえ果敢に戦った栗林忠道陸軍中将(1891~1945年)。梯久美子のノンフィクション作品「散るぞ悲しき」やクリント・イーストウッド監督、渡辺謙主演映画「硫黄島からの手紙」で描かれる名将だ。この栗林が、若き日にアメリカ赴任時、手に入れたクルマがシボレー1931年式だった。このクルマのハンドルを握り、アメリカの軍事施設などを視察して回りながらアメリカ大陸横断をしたという。
このとき栗林は、アメリカの圧倒的国力を肌で感じ、そのことを帰国後説いて回った。だが、そのことで逆に親米派のレッテルを張られ、皮肉にも1944年上司の命で硫黄島の指揮官としてアメリカに対峙することになった。
そんな因縁のシボレー1931年式は、秋の日にさらされ2トーンカラーがひときわ映えていた。
いや~っ、世の中、オジサンの知らないところで、どんどん進んでいるようです!
先日、TOMTOMというオランダのアムステルダムに本社を持つ次世代モビリティづくりをバックアップする企業の東京での技術説明会をのぞいたところ、≪思わず口がアングリ!≫である。
会場は、どこか本格的な自動運転車が、登場する前夜の空気感がただよっていた!?
2018年10月の現時点での話題は、ステージ5のフルスペックの自動運転車が近い将来誰もが買えるかたちで販売されるかどうか? 「自動運転は、大いに疑問だとする」派と、イヤイヤ「できるんじゃないの」派が拮抗している。そんな賛成派&反対派などお構いなしに、各種異業種を巻き込んで、砂糖に群がる蟻のごとく、覇権を目指しビジネス戦争が深く広く展開中である。
そこで、「自動運転に欠かせないツールの一つ」が、地図データだ。
ところが、地図は、厳密にいうとリアルな地図ではない。半年、いや1週間で、地図が書き換えられることもある。しかも、地図作りは現地に足を運び、マッピング技術などの職人テクで、数か月かけてつくられてきた。20年前、LAのAAA(トリプルエイ:南カルフォルニアの自動車クラブ)で、若い女性が磨りガラスのデスクの上で地図を描いていた現場を取材したことがある。
これをどうクリアするか? 意外と答えはカンタンだった。ビッグデータというやつだ。たとえば東京の首都圏なら、車両データをたちどころに集め、これをクラウド・コンピューターで、逐一更新できるというのだ(上の写真はそのイメージ)。大量の車両から吸い上げた情報をクラウドに運び込み、それを瞬時に処理し、再び現在走行中のクルマへ送り込み、地図が刻一刻に書き換えられるというのだ! 誤差わずか10㎝のHDマップである。HDというのはHigh Definitionで高細度が高い、という意味。これなら工事規制で車線が少なくなっても、つねにリアルタイムのリアルで超精密な地図が、クルマ側が把握し、それを自動運転に反映させる。
この技術は、警察や行政が携わる交通行政にも生かされるという。・・・・ということはもし悪意のある行政官がいたら、スピード違反を少しでもした車両は、即天空から伸びたクレーンで上に持ち上げ、排除される! そんなジョージ・オーウェルのSF小説「1984」の続編めいた物語をついつい妄想してしまった!?
「オートノマス(自律運転)」「カーシェリング」「コネクティド」。
このところ、自動車の未来を取り巻くカタカナ文字が、マスコミの世界にあふれている感じ。このなかで一番わかりづらいのは、「コネクティド」なる言葉。
日本語でいうと「繋がる(クルマ)」。クルマが何につながるかというと、他のクルマであり、道路であり、インターネットである。
なかでも、インターネットは、スマートフォンがこれだけ普及したことを思えば、「なぜ、今ごろクルマに?」と思う向きもある。もっと早くに、たとえばカーナビにインターネットがつながれば、お巡りさんにびくびくして、いちいちポケットのスマホを見ないでも、好みのレストランや観光地により安全に、快適にクルマを走らせられるのに!
これはどうも自動車メーカーのエンジニアが、暢気に構えていたというより、「もしバグ(不具合)が生じたら?」とか「ウイルスに侵され、乗っ取られ、いきなりクルマが暴走したら?」という心配があったからだと思われる。でも、すでに一部のクルマにはカーナビをグルーグルマップに切り換えたり、その自動車メーカー独自のネットを検索できる、装置を搭載したクルマも販売されている。
今後は、さらに車車間データやクルマと道路の通信、クラウドコンピューターにつなげて、ビッグデータをもとに自立運転化やカーシェアリングを支える技術にと、果てしなく、クルマとその周辺は進化していく。“もはや自動車は自動車メーカーだけが作るものではない!”そんなフレーズが、真実味を増している。
1960年代、ホンダF1の監督だった中村良夫さん(1918~1994年)に「クルマよ 何処に行き給うや」というタイトルの本があるが、まさにその言葉が重くのしかかってくる。(写真は、コンチネンタル社のコネクティドの構想だ)
こんなことを発言する立場ではないかもしれないが、このところ日本列島は、異常気象、台風、大地震といった自然災害にこれでもかこれでもかと襲われている! 思えば2011年東日本大震災以来の異常事態である。先月、北陸小松にある「日本自動車博物館」に足を踏み入れたところ、7年前の震災に活躍したトラックなどが出迎えてくれた。その中に、少し異色のバスがあった。
「ビューティバス」と銘打った、どこか華やかなカラーリングの小型バスである。
じつは、このバス、「移動式ビューティサロン」として、震災の3か月後、つまり2011年4月から2015年3月の丸4年間にわたり、岩手県、宮城県、福島県の被災地にある市区町村、合計13の仮設住宅地などを回り、ボランティア美容師さんによる、地元女性のヘアスタイルとメイクアップを提供してきたのだ。震災のあわただしさのなかである。オシャレなどどこかに置き忘れてきた地元の女性に大いに喜ばれ、明るく晴れやかな笑顔をたくさん見られたとのこと。震災を受けた美容師さんには、働く場所を提供した役割も果たしたという。協力した美容師さんは全部で157名、この試みに参加したボランティアは238名にのぼったという。
実家が理容店だった筆者は、子供のころダイハツミゼットで、こうした移動美容室の夢想に一時熱中したことがある。それだけに、このバスの内部を見渡すと、感無量である。自動車が、ただ目的地までの移動手段だけでなく、もう一つの付加価値を持たせることで、世の中を少し住みやすくできる、そんなビジネスモデルのひとつ、といえなくもない。
ちなみに、このバスは、日産のシビリアン(エンジンはガソリンOHV直列6気筒4.5リッター)である。
「完全自動運転」(写真は自動運転のイメージ:出典はコンチネンタル)は、大げさに言えば人類の夢だ。
出発の際に、行き先を入力すれば、自動車が勝手に目的地に運んでくれる。その間、ハンドルを握りアクセルペダルやブレーキペダルを踏まなくてもいいので、乗っている人は楽ちん。障害物をよけたりして自動でクルマがスイスイ走ってくれるので、疲れません。車内では、向き合ってお茶を飲みながらおしゃべりを楽しめる。それに、たとえば観光地に出かけた時、行きはハンドルを握って運転を楽しむ、帰りは疲れたから、ドライバーは電車で帰宅。クルマだけ、自動で自分ちのガレージまで自走で帰らせる、なんて芸当もできるかもしれない。
これがトラックやバスなら、いま、どこも人手不足で悩んでいる運転手不足がいっきに解消する。
ところで、自動運転という技術は、5段階で進化するといわれる。レベル1は「運転支援レベル」。レベル2は「部分的な自動運転」のこと。現在販売されている一部のクルマにすでに登場している。高速道路を走行中に、前のクルマと適当な距離を置きながら自動で走行してくれる。カメラやレーダーで前のクルマをとらえながら、前方車両自動追従装置、車線維持装置などの働きで、自動運転を行う。もちろんハンドルから手を離すことは許されません。レベル3では、さらに自動運転の領域が広がる。高速道路など特定の場所で走行中に、クルマが自動で走ってくれる。この限られたところでは、ハンドルから手を離し、たとえば、流れる風景を愛でながらコーヒーブレークを楽しめる。ドライバーはストレスからかなり解放される。でも、緊急時や自動運転システムが作動困難な時には、ドライバーにハンドルを握ることをクルマが委ねます。
レベル4では、さらに自動運転の領域が増える。「高度自動運転」。緊急時の対応も自動運転システムに操作をゆだねます。もちろん、ハンドルやアクセルペダル、ブレーキペダルなどは付いてはいて、ドライバーの気分で手動運転を楽しめる。でも、自動運転のシステムが働いている限り、ドライバーは運転操作をする必要がない、そんな世界。レベル5は、あらゆる状況においても操作自体が自動です。クルマにゆだねられている。「完全自動運転」。クルマが交通状況などを認知して、クルマ自体が自立して動く。だから、この場合、ハンドルやペダルが付いていない、といわれる。(次回に続きます)
「う~ん…‥軽自動車にも、こんな着想があったのか?」
ライバルメーカーのデザイナーは、たぶんこのクルマのカタログを手にし、そんな悔しい思いが込み上げたのではなかろうか。
なにあろう、2018年夏、主役に躍り出たのは、ホンダN VAN(エヌ・バン)である。4ナンバーの軽である。バンである。働くクルマである。なぜに、「働くクルマ」、それも「軽の働くクルマ」に注意を注ぐかというと、パッケージングが度肝を抜くからだ。
パッケージングというと、なんだか閉じられた感じを与えるが、このクルマは、グググ~ン! と広がる感じが内包されている。たぶん、これはこれまでのクルマが“クルマありきの発想”だったとすると、このクルマは“生活ありきで発想”したからだと思う。言葉をかえると「開発者みずからが、お金を出して買いたいクルマ」。
フロントの助手席がダイブさせられ、セカンドシートもパカパカっと折りたたむことで、フラットな床面をつくり出せる。助手席側のセンターピラーがないので、荷物の出し入れが楽々だ。しかも、ハイルーフ仕様だと、荷室高が1365㎜、テールゲート開口部高1300㎜と高い(ロールーフ仕様だと1260㎜、1200㎜)。カタログでは「すみずみまで使える四角い荷室」と謳う。花屋さん、酒屋さん、それに電気工事屋さんなど、働く軽自動車に夢を与えている。仕事中の夢と、仕事を離れた夢もこのクルマは与えている。キャンピングカーにもなるし、バイクを運んでサンデーライダーの楽しみを与えてくれる。言葉を変えればONとOFF、どちらもOK!
こうしたことを実行に移すために、N BOXをベースに、コンセプトを突き詰めている。小さいことだといわれそうだが、荷室の左右側面とテールゲートの内側に計28個のねじ穴を設けている。助手席の足元と後方に2個ずつ、荷室フロアに4個、計8個のフックを付け、タイダウンベルトがかけられる工夫。ここに、そのコンセプトの集約が見える。自動ブレーキをはじめとするホンダセンシングと呼ばれる衝突安全技術も標準装備していることも忘れない。
このクルマの欠点は、ショボいシートと指摘するのはカンタン。ショボいシートのおかげで、たぶん長距離で、不満をこぼす同乗者が出るだろう。この辺はトレードインの世界。こちらを立てれば、あちらが立たず‥‥。いかに割り切るかで、そのクルマの魅力が増幅する……。ホンダN VANはそんな開発者の喜びと悲しみが伝わるようなクルマなのかもしれない。ただし、価格は126万円台からと安くはない。
新車を購入後3年目、それ以降は2年ごとに車検という、クルマを所有し、使ううえでの「関所」というか「関門」がある。そのタイミングで、重量税を払わされ自賠責保険に入り、車検整備で発生する費用を考えると、ウ~ン確かに日本の車検制度は「関所」と見えなくはない。
でも、約10分という短時間ながらも“国(国土国交省の出先機関だが)が公道を走れるだけの安全性を備えているか”を見てくれる! そのように、プラス思考で考えれば、世界一厳しい日本の車検も目の敵にする制度ではなく、育てていくべきものと思えてくる。
……といった理屈はともかく、ひさびさに川崎の自動車検査登録事務所でユーザー車検に挑戦した。3年ぶり、累計12回ほどか。
シエンタ・ハイブリッドの初回(3年目)の車検である。走行キロ数が、3万キロ弱なので、整備するところはほとんどなかった。半年前早目にフロントタイヤを変えているし、オイルとフィルター交換も走行7000㎞毎にしているし、メンテナンスノートの項目をチェックしたが、タイヤの空気圧を調整するぐらいだった。冷却水の減りもなかった。もし、車検ラインで、はねられたら「あと整備」で整備すればいい、という考えも頭の隅にあった。
ただ、一番のネックは、「整備モード」に即切り替えられるか? である。
排気ガスチェックのときにアイドリングストップしていると、排ガスが測れないし、スピードメーターチェックのときTRC(トラクションコントロール)を解除していないとまずいからだ。「エンジンOFFしたあとスタートボタンを2回押し、アクセルペダルを全開で2回踏む……云々」という、「整備モード」という文字をインパネに表示させるには、やや煩わしい操作が必要なのだ。
このあたりの説明は、畳の上で泳ぎ方の説明をしているようで、何だかもどかしい‥‥。
ところが、こうした心配はすべて杞憂(きゆう)に終わった!
検査ハンマーを手にもつ検査官は、灯火類のチェックや同一性の確認をしてくれる。これとは別のもう一人の検査官が、試験ラインにクルマを入れるや否や、横に付いて逐一、操作を教えてくれるのだ。世にいう「行政サービス」である。そのぶん、少し緊張を強いられたものの、一発で車検合格! メデタシメデタシ! である。
ネットでの受付もスムーズにできるし、現場のユーザー車検受付カウンターもちゃんとあるし、係官の物言いも分かりやすく、親切だった。どうやら、「嫌われたくない公務員になろう!」みたいな標語を掲げ、事前にロールプレイングの訓練をしているに違いない!? 車検手数料こそ1700円とかなり高額になったが、車検時に必要な書類代20円が1年半前から無料化されたのは悪い気分ではない!
…‥車検という敷居が低くなった感じだ。これなら、少しクルマに詳しい主婦が、お買い物帰りに自分のクルマの車検を受けにくる! そんな妄想がまんざら絵物語でなくなる気がしてきた。振り返ると、日本のクルマ社会もずいぶん進化したのかもしれない。
スズキのコンパクト本格4WD車のジムニーは、その成立過程(下記の記事参照!)を振り返ると、まことに偶然の世界に満ちている。不遇時代の鈴木修氏(現会長)の人間関係から誕生した異色のロングセラーの軽自動車だからだ。それだけでなく、開発者に言わせると、このジムニーがあったからこそ、アルトやエスクードが誕生したという経緯もある。だとするとジムニーはスズキにおいてモノづくりのベースを構築したクルマだといえる。
そのジムニーが、20年ぶりにフルモデルチェンジされた。しかも「機能美」に一段のこだわりをいだいてのチャレンジだという。初期型の発売が1970年、今回で4度目の全面改良である。普通のクルマは、5~6年ごとにフルチェンジであることを思えば、トラック並みの時間の経過。トラックは「生産財」といわれる。レジャー目的で購入する向きもあるが、山岳地帯の生活の足になったり、営林所でのプロが使う道具であることを考えると、ジムニーも「生産財」。いわゆるBtoBの商品かもしれない。
このジムニー、日ごろは地味な存在に見えなくもないが、年間1万台以上が着実に売れていて、世界累計285万台と大健闘。一時期ライバルだったパジェロミニが2013年に発売中止に追い込まれているので、「日本が世界に誇る唯一無二のコンパクト4WD」だと大書するスズキの自慢も許されていい。ちなみに、パジェロミニは、モノコックだった。本格4WDにはフレーム必須なのは分かり切ったことだが、コストを考えると当時の三菱経営者はその一歩を踏み出せなかった。
ジムニーは相変わらずラダーフレーム方式、しかもエックスメンバーと前後にクロスメンバーを追加することで、先代より1.5倍の剛性を高めている(写真)。FRのレイアウト、副変速機付きパートタイム4WDや3リンクのリジッドリアサスなどを踏襲しながら、今回「ブレーキLSDトラクションコントロール」が追加され、泥濘地での走破性に磨きがかかったという。
トランスミッションは、6速を導入も考えたようだが、スペースの関係で5速にとどまり、結果的には5MTとアイシンAW製の4速ATのどちらかを選択できる。価格は145万8000円から。同時発売の『ジムニーシエラ』はエンジン排気量1.5リッターで、年間1万200台。価格は176万円台から。
ここ数か月“バスの世界”にすっかり嵌っているせいか、長距離の深夜バスへの好奇心が高まる一方。
たまたま、北陸小松にあるJバスの取材のため、ゼロ泊3日の旅を計画した。世にいう「弾丸ツアー」である。
木曜の深夜に横浜を立ち、翌金曜日の朝小松に着く。午前は同市にある日本自動車博物館、午後Jバスの工場取材、そのあと最寄りの小松駅に戻り、夜8時半発の深夜バスで帰路。横浜に戻るのは3日目の早朝、という強行軍だ。乗車前にあらかじめ調べておいた最寄りの銭湯でリフレッシュし、ゆったり地元飯も楽しむ予定だ。
行きも帰りも、日野のセレガの一代前の貸切バスだった。薄手のダウンジャケット、耳栓、空気枕、それに睡眠導入のためのトラベルミンを携え、いざ乗車。3列シートなので、リクライニングはほぼフラットに倒れ、悪くない。ところが、タイヤが路面の継ぎ目を超えるたびにガタガタっと突き上げが来る。最近の大型バスは、電子制御式サスで、ダンパーの減衰力を好みに変えられる。たぶんドライバーの好みの“高速での安定性を重視して”一番硬くしていたようだ。このおかげでなかなか寝付けなかったものの、帰りは微妙にその突き上げが少なく、おおむね快調。
ところが、帰路で「なんだなんだ!」という体調異変が不意に襲いかかった。明け方、埼玉の三芳サービスエリアでバスを降りトイレに行こうとしたら、足がふらつくのだ。同じ姿勢で9時間ほどじっとしていたため、「エコノミー症候群」の兆候を見せ始めたのだ。やはり、眠い目をこすりながらも、休憩時には積極的に体を動かす必要があるようだ。トイレから戻ると、さっきは気づかなかったが、お仲間の深夜バスがずらりと並んでいたのには驚く(写真)。年間の深夜バス利用者はいまや1億人を突破したということがリアルに迫る。
後日譚は、帰宅後疲れがたまっていて、仕事ができず一日ごろごろしてしまった。ちなみに、往復のバス運賃は行き5000円、帰り8000円だった。
年齢を重ねると、なんだかヒストリーが気にかかるものだ。
先日、10年ぶりに伺ったJバスの宇都宮工場は、インバウンド需要を背景にバス需要が膨らみ景気がいいようだ。ところが、この工場、調べてみると、少しばかりややこしいが、かなり気にかかる歴史がある。
なんと、あの「日本鉄道の父」として知られる井上勝(1843~1910年)に行き当たるのである。
長州萩生まれの井上は、藩家老周布政之助の計らいで弱冠20歳でイギリス留学(のちの首相となる伊藤博文や井上馨らとともに長州5傑の一人)。ロンドン大学で鉱山技術や鉄道技術を習得、帰国後東海道線をはじめとして日本各地に鉄道網の基礎をつくった。明治29年、汽車そのものを製造するための「汽車製造㈱」を大阪に設立。それまでは、海外から汽車車両などを輸入していたのだが、日本国自前の汽車や貨物をつくったのだ。
1948年からバス製造していた川崎重工業が、井上勝ゆかりの「汽車製造」を1972年に買収。さらに、1986年いすゞと川重が合弁でバス製造会社をつくり、岐阜・各務原工場から宇都宮工場に移転したのが、1987年ということだという。そして1995年に、いすゞと日野自動車が、経営統合して、Jバスができ、現在に至るという流れ。
現在、路線バスをつくる宇都宮工場では年間1700台、観光バスなどをつくる北陸の小松工場では2300台ほどのバスを製造している。写真は、宇都宮工場で、6面体となった路線バスの半製品で、これから塗装工程に入るところ。
« 前 | 次 »