みなさん!知ってますCAR?

2021年10 月 1日 (金曜日)

ぼくの本棚:ポール・フレール著『新ハイスピード・ドライビング』(二玄社;小林彰太郎、武田秀夫共訳)

IMG_7611

  世界的な自動車ジャーナリストにしてルマンなどで活躍したレーシングドライバー、ベルギー人ポール・フレール(1917~2008年)の硬派なドライビング・テクニック教則本である。
  文は人なり、とはよく言ったもので、良くも悪くもポール・フレールさんの生真面目さが前面に出た教則本だ。活字を通して彼のロードインプレッションなどをいくつも目を通してきたが、ベルギーの裕福な家族のもとで育ったおかげで、実にまじめで真摯に対象をとらえ、仕事に打ち込んだ人物だということがわかる。
  だから、この本は、ドライビングポジションの決め方からスタートし、ギアチェンジ、ブレーキングとすすむのだが、クルマをあやつる、つまりカードライビングは、クルマのメカニズムを知ること、さらにはクルマのメンテナンス(ブレーキフルードの劣化など)まで話が及ぶ。こうした運転の各動作を深堀することで、クルマを深く理解し、理想的な運転テクニックに結び付けていく。
  しょうじき告白すると筆者(広田)は、こうした教則本が苦手。ところどころにあらわれる数式に面食らうし、そもそもバイクもそうだが、運転というのは失敗してなんぼの世界だと信じているフシがあるからだ。ともあれ、翻訳はカーグラフィックの元編集長が監修しているので、まず間違いないと思われる。
  この本の魅力は、運転免許を取った初心者から、サーキットで競技を楽しむレーシングドライバーまでを対象にしている点のようだ。サーキット走行を安全におこなうまでのスキルや知識がとりあえず述べられている。とりあえずと言ったのは、この本はいまらか50年以上前に書かれた本(翻訳は1993年12月)だから、現在の状況とはかけ離れたことがあるからだ。でも、基本はあまり変わってはいない。
  数年前、ホンダがもてぎのショートコースで展開しているサンデードライバー向けのレーシングテクニックの初歩の初歩講座を取材したことがある。自分のクルマで、普段できないフルブレーキなどが楽しめるところが魅力だ、こうした講習会は、「ふだんの自分の運転を見直すきっかけになる!」として意外と人気である。こうした意識高い系ドライバーは、この本でまず“畳の上の水練”をおこない、もてぎや鈴鹿サーキットで実践をおこなうのがいいのではなかろうか。

2021年9 月15日 (水曜日)

ぼくの本棚:海老沢泰久著『帰郷』(文春文庫)

帰郷

  短編である。文庫本でいえば、わずか35ページの短編である。小一時間で読破できる。
  ところが、一息いれて振り返るとなんだか500ページを超える長編小説を読んだ気分になった。山椒のように小粒だが、ピリリと辛いのとはいささか違う。栄光の日々を暮らしてきた男の人生が、3年でがらりと暗転する物語。そんな運命を背負ってしまった主人公に共感せざるをえない人生の重さが、わずか35ページのなかに濃縮されているからだ。
  タイトル名である「帰郷」という文字は、たぶん読者に誤解を生むにちがいない。一昔もふた昔も前の、いまや死語になりかけている「帰郷」。てっきり戦場から帰ってきた兵士の物語をイメージしがちだ。
  数行読み進めると、F1エンジンを整備するレーシングメカニックの物語であることがわかる。主人公は、栃木の工業高校を卒業し、故郷の街にある自動車エンジン工場に就職。乗用車のエンジン組み立て工員となる。20人の工員が順々にエンジンを組み上げていく、その一人だ。この工場の部署を様々移動することで、3年でエンジンのすべてのことを覚えてしまった。エンジンはボルト1本まで含めて約600点の部品から成り立っているが、その組み立て方、締め付け具合、微妙な世界まで肌感覚で身に付けた。筆者(広田)も取材で、まるで「このひと、エンジンの化身では?」 という人物に出会ってきたが、この主人公もそれに近い。
  そんな時、たまたまF1マシンの整備士を募集していることが主人公の耳に入った。強い意思と周りの勧めと推薦もあり、競争率300倍の難関を突破し、見事F1レーシングメカニックの仕事に就くことができた。ただし3年間という期限付きだ。F1エンジンは、ふだん組み付けているエンジンと重量こそあまり変わりはないが、パワーが約3倍。回転数は1分間に1万3000回転、剥き出しの排気管が真っ赤に染まり、防音装置の付いていないF1はすさまじいエキゾーストノートを発する。でも、それに引き換え、耐久性は10時間とは持たない。レース時間内で、フルに活躍するだけの耐久性しかない。
  主人公は、メカニックとして世界中のサーキットを飛行機で飛び回り、緊張と不安、そして爆発する喜び、戦場にいるのと同じような生活を3年間送る。そして、ふたたび退屈な生活へと戻る。「故郷」に戻った主人公は、大きな喪失感に襲われるだけでなく、付き合っていた女性との心の乖離を覚える。
  ・・・・数か月前だったか、このサイトで「クルマの登場する小説でろくなものはない」、そんなことを迂闊に書いてしまった。いささか無知蒙昧でした。海老沢泰久(1950~2009年)の描くクルマの世界は、一皮もふたかわも剥けた完成度の高いリアルな世界を展開する。余談だが、モデルになったホンダの栃木エンジン工場は、EVに全面的に方向変換することで、4年後の2025年に閉鎖する運命。その意味でも、記念碑的な小説である。(1994年の直木賞受賞作)

2021年9 月 1日 (水曜日)

ぼくの本棚:斉藤俊彦著『くるまたちの社会史-人力車から自動車まで』(中公新書)

くるまたちの社会史

  大正12年(1923年)9月1日に起きた関東大震災をきっかけに、壊滅状態の市電(東京は当時東京市だった)に替わりフォードTTの家畜輸送用シャシーをつかった11人乗りの路線バス約800台が東京市民の新しい足として登場。このにわか仕立ての小型バスが日本のモータリゼーションのキッカケとされている。日本人が“自動車という乗り物を”身近にしたはじめの一歩。
  それ以降の日本の自動車をめぐるヒストリーは、このサイトでも何度もあつかっている。でも、それ以前、つまり、機械的動力による乗り物が登場する前の日本の交通事情というのは、あまり語られてはこなかった。
  この本は、総ページ280ページのうちおよそ前半分が、自動車登場以前の日本の乗り物について詳細に語る。
  著者は、昭和4年生まれの大学の先生。しかも社会学の立ち位置で、技術的好奇が向けられていない。だからか、いささか退屈な講義を思い浮かぶ筆の運びとなるが、我慢して読むと面白いところがなくもない。
  劈頭(へきとう)に提示する話題が、超ユニークだ。
  いきなり、江戸城下の侍たちの“年始回り”の実態を読者に突き付ける。ここからは著者の夢想を交えての話だが、上役が約20名いたとして、たとえば本郷から、小石川、白山、牛込、四谷、青山、麻布、白金、墨田川(大川)を越え深川、本所と足を運んだであろう。おおむね、いまの山手線の内側ではあるが30~40㎞、ときにはのべ50㎞を越える侍もいたはず。時速4㎞(1里)で日に10時間も歩く羽目になる。2日3日かかる難事業が正月早々の振る舞いとなった。日ごろエクササイズしない限り文字通り“足が棒になった侍”もいたに違いない。
  このエピソードを読んで徒歩で戦う徒士(かち)という下級武士の存在を思い出す。足軽よりは身分は上だが、武士世界のヒエラルキーの底辺。自転車もバイクも、クルマもなかった時代、ヒトはA地点からB地点に行くには、自分の足で歩く必要があった。この当たり前の大前提を著者は、まず読者の胸に刻ませる。
  だから、明治期に自転車が欧州からもたらされると、移動の選択肢が増えたおかげで、人々は少し解放感に浸ったかもしれない。そして野心あふれる日本人は、乗り合い人力車なるものを作り、事業展開しようとした。2人の車夫で4~5人の乗客を運ぶというものだ。これはリアカーでの荷台に人を乗せ運ぶのと同じで、とても長距離輸送は無理。
  そこで、今度は長距離の馬車輸送に切り替えた。これは郵便輸送を母体にしてのビジネスモデルで、たとえば横浜から小田原間、東京・八王子間、東京・高崎間、東京・宇都宮間など、数年間は続いたという。
  1人~2人乗りの腰掛式の人力車は、古い映画で出てくる、あるいは浅草や鎌倉でいまも観光用で見かける。これは、明治8年に11万台、明治29年にはピークの21万台に増加している。でも、さきの馬車による長距離輸送も、この人力車も鉄道網の発達で消し飛んでいく。
  一方明治9年ごろから、自転車の数が増え、当時の若者の心をとらえていった。丁稚、小僧といわれた店員や職人たち、それに書生(学生)たちが自転車熱に浮かされたのだ。仕事を終えたこうした青年労働者は夕食もそこそこに貸自転車屋に飛び込み、自転車のペダルを漕ぎ、移動の楽しみを味わった。ところが、当時の自転車は、ヘッドランプは付いていないし、街灯もない時代、暗闇のなかあちこちで転んだり、ぶつかったりの悲喜劇が繰り広げられた。
  17歳の薬屋の店員・熊吉は、休暇を待ちかね、秋葉原の貸自転車屋で自転車を借り、実家のある新宿にゆき、次にはるばる千住まで遠征。ここまではおよそ25㎞ぐらいか? ところが途中で、モモが腫れ上がり、ペダルをこげなくなる。当時の自転車は重量級の実用車なので、漕ぐ力も半端なかった、としても17歳の熊吉君、日ごろの運動不足が祟ったようだ。仕方がないので、人力車を雇い自転車と相乗りで秋葉原まで、返却に行った。「余計な銭を使ったうえ、次の日の仕事に差し支える」そんなトホホなエピソードを当時の新聞(明治9年)が伝えている。
  明治も40年代に入ると、欧州から自動車がもたらされる。目の玉が飛び出るほど高価なおもちゃ。皇族や富裕層が乗り回した。東京市だけで61台。外国人公司らの9台を含むので、日本人所有のクルマはわずか52台。面白いことに、そのなかに、蒸気自動車が3台、電気自動車(オーナーは東京電燈の社長佐竹作太郎)が1台あった。
  いっぽう、この新手の移動手段である自動車を使いバスに仕立て一発大儲けしようとする野心家が登場する。
  乗用車を改造し、定員7~8名のマイクロバスに仕立てるが、当時の悪路と、過重な負荷で、クルマは故障続き、しかも雇い入れた運転手は未熟なので事故も多かったという。そして修理部品は容易に手に入らず、満足に運行できず、ことごとく撤退していったという。
  いま自動車があふれる日本の道路を剥がしてみると、こうした乗り物版ジュラシックパーク状態の歴史が展開されていたのである。そこにはぼくたちのオジイチャンやヒーオジイチャンたちの生活絵巻物を見る思いだ。(1997年2月25日発売)

2021年8 月15日 (日曜日)

ぼくの本棚:朝日新聞取材班『ゴーンショック 日産カルロスゴーン事件の真相』(幻冬舎)

ゴーンショック

  一時は救世主経営者、カリスマビジネスマン、朝から夕刻まで仕事をしたということからセブンイレブン・ガイとまでもてはやされた男、カルロスゴーン。なぜ、彼は電撃逮捕されなければならなかったのか? 逮捕から、1年ちょっと、一昨年の暮れ保釈中の身で海外逃亡し、いまレバノンで暮らす男。
  それが「天井知らずの強欲男」「名誉欲120%ガイ」と手のひら返しのようなサイテーの評価を安直にくだしていいのか?
  この本は、朝日新聞の精鋭記者10数名が、さまざまな角度からカルロスゴーンの真実を追い詰め、前代未聞のスキャンダルの全貌に迫る400ページにもおよぶドキュメント。朝日新聞といえば、羽田に降り立ったビジネス機内のゴーン逮捕劇をつぶさに取材し、スクープした媒体。以来チームを組んで世界各国での取材にまい進した。それをまとめたのが本書といえる。
  全部で4部構成。第1部では東京地検特捜部VSゴーンと“ヤメ検弁護士”(元検事だった経歴を持つ弁護士)との息詰まる戦い。第2部では、「独裁の系譜」と称して、日産の創業から今日までの企業内魑魅魍魎とした世界を整理していく。そこには、組合と経営者の奇妙な癒着や、危機に瀕したときあらわれる英雄が、時間の経過で堕落し仲間に裏切られ去っていく、そんな物語がまるで現代版絵巻物のように描かれる。第3部は、フランス大統領マクロンとゴーンの確執、日産社内の知られざる事情。第4部では、レバノン逃亡劇の詳細だ。
  かつてトヨタと競り合っていた日産が、なぜ新興勢力のホンダに抜かれ、巨大な負債を抱え外国資本の助けを借り、ついには外国人経営者に食い物にされてしまったのか? モノづくりの中堅の現場の古参社員(1967年入社)を取材することで、それは象徴的に判明する。「日産はモノづくりの骨格を持っていない会社」だと言い切った。「トヨタは経営者が変わっても。かんばん方式など“モノづくり”の根幹の経営手法は変わらないで受け継がれていく。それに対して日産は、権力者が変わるたびに経営のやり方がころころ変わる。しかも長いものにまかれるカルチャーで、すぐ新しい権力者になびいてしまうんです」
  この本は、エンジンの音も聞こえてこないし、タイヤが地面をとらえる摩擦音も聞こえてはこない。
  でも、いいクルマを作りたい希望に燃えて入社した若者が、やがて世間とはこんなものなのか? 企業とはこの程度の世界なのか? そんな絶望感で、将来を悲観した若者が何人いただろう? あるいは、逆に「この程度のモラルでイケていけるんだから、ほかの世界に飛び出せる」そう考えた若者もいたのだろうか? 日産という企業は、明らかに日本社会の一つの縮図であることには間違いない。読み通すには、過酷なビジネスの現実に息苦しさを覚える箇所もあるが、興味がある人にはスイスイ読める。(2020年5月15日発売)

2021年8 月 1日 (日曜日)

ぼくの本棚:キャリー・マリス『マリス博士の奇想天外な人生』(ハヤカワ文庫NF)

マリスとPCR  いまや誰の口にものぼるようになったPCR。たぶん幼稚園の子供でも口にするアルファベット3文字だ。
  専門用語がいつしかごく普通の人々の会話の話題にのぼったり、TVやラジオ、ネットで頻繁に使われると、本来の意味などどこかにすっ飛んでいって、みんな分かったつもりで流行するものである。
  PCRとは「ポリメラーゼ連鎖反応(チェーン・リアクション)」。サイエンスの専門用語だ。
  ごく簡単に言うと“ポリメラーゼと呼ばれる酵素の働きを利用して、DNAサンプルを、いわばネズミ算式に増幅させ、いろんな世界で活用できる装置”のこと。
  どんなところで活躍? といえば、新型コロナなど感染症の陽性・陰性判定だけではなく、DNA分析による犯罪捜査、古代DNA分析による考古学の新たな研究など分子生物学、法医学、考古学、犯罪捜査など幅広く使われている装置である。保健所や大学病院だけでなく、幅広く研究所レベルではポピュラーな機器(しかも比較的安価)なのである。だから、昨年来PCR検査が頭打ちになったとき、大学や教育機関にあるPCR装置の活用を強く期待されたのは、こうした背景がある。
  今回の面白BOOKブック紹介は、このPCRを発明しノーベル化学賞をとったキャリー・マリス博士(1944~2019年)の自伝である。翻訳は『動的平行』や『生物と無生物の間』などの著書でおなじみの分子生物学者・福岡伸一博士(1959~)。
  まず表紙の写真がぐっとくる。マリス博士、実はサーファーなのである。しかも、ホンダのクルマが大好き。ガールフレンドと別荘に向かう途中、いきなりインスピレーションを得て、PCRシステムをイメージするのだが、このとき博士の手に握られていたのは、シビックのハンドルだった。1983年5月のこと。バイオのベンチャー企業の一員だったのだが、じつはベンチャーからノーベル賞をゲット(1993年)したのも、彼が初という。
  OJシンプソン事件って、覚えているだろうか? アメリカン・フットボールのスター選手が妻を殺害したとして、当時のマスコミをにぎわし、大半のアメリカ国民はこの事件を扱うTVショーにくぎ付けになったものだ。このときDNAによる検証をめぐって、マリスは裁判にかかわっている。有力弁護士らの援護もあり、シンプソンは無罪となった。このとき、マリスは、サンディエゴの北の自宅から、裁判所のあるLAまでホンダ・インテグラで移動していたのだ。とにかくホンダ車ファンなのだ。
  はっきり言って、この本は、クルマの話はほとんど出てこない。でも、マリス独自の科学的知見が縦横無尽に駆け巡り、読者は知らず知らずのうちに知的好奇心の海で遊泳することになる。多数派の意見などに耳を貸さない。彼に言わせると、大騒ぎしている地球温暖化ガスCO2をめぐる環境問題が銭儲け主義の似非科学者のでっち上げだというのだ。このへん、トランプに似ているが、一読の価値ありだ。
  とにかく、本の原題が「DANCING NAKED IN THE MIND FIELD(心の原野を裸で踊る!)」。どんだけロックンロールしているんだか?

2021年7 月15日 (木曜日)

ぼくの本棚:桂木洋二『日本自動車史年表』(グランプリ出版)

自動車年表1

自動車年表2

  子供の頃、およそ無味乾燥な印刷物といえば年表だった。
  たとえば日本列島の時代区分である水稲農耕での生産経済時代といわれる「弥生時代」紀元前10世紀~紀元後3世紀にわたる、とあっても肉親の一人でもそこにいたなら別だが、見たこともない世界(想像図は見たが)だから、異なる星の出来事に似て関心が薄い。
  ところが、遠きはるけき時代がググっと身近に感じるときもある。英国のヴィクトリア朝は1837年から1901年の長きにわたる英国の黄金期。若いころ香港に出かけ、2週間ほど住んでいて、近くの公園でおじさんたちに交じり太極拳のまねごとをしていたら、中国人に広東語で道を尋ねられたことがある。ずいぶん地元になじんでいる身の上を再認識して驚いたのだが、その公園こそがヴィクトリアパークだった。
  だから、ヴィクトリア朝のことが気になり、あれこれ調べた。ロンドンのハイドパークに立ったとき、ヴィクトリア女王の夫アルバートの銅像を確認した。最初の万国博覧会が1851年にハイドパークで開催され、アルバート公がその中心人物だった。ガラスのクリスタルパレス(水晶宮)はとくに有名だが、そのころ新興国であったアメリカは、銃や耕運機を出品。2丁の銃をバラシ、その場で組み付けるというパフォーマンスをおこない、ヨーロッパ人の度肝を抜いた。産業革命前後の欧州国家も、部品の互換性についての意識がなく、一度機械ものをばらすと往生した。ネジの規格がほとんどなかったからだ。いわば芋づる式の好奇心の連鎖現象。
  このように、年表という代物は、個人的体験と結びつくと俄然加速したり、肥大する。
  ある程度知識の下敷きがないと、面白くもなんともない。ただの文字の羅列に過ぎない。だから、数行のなかに「物語性」をこめられるかである。注意深く言えば「命を吹き込めるか」である。でも、あまり長くなると、冗長となり、限られた紙数のなかで、多くの事柄を網羅しきれなくなる。本をつくる(年表づくり)ということは、そのへんのさじ加減がとても大切になる。
  この本は、明治・大正(1898~1926年)、昭和・戦前期(1927~1945年)、戦後の復興期(1945~1952年)、成長と競争の始まり(1953~1959年)、黄金の60年代の攻防(1960~1965年)、マイカー時代の到来(1966~1973年)、排気規制とオイルショックの時代(1974~1979年)、性能競争と多様化の時代(1980~1988年)・・・・と2006年までを駆け足で、一項目だいたい200~300字ほどで説明する。この要約が分かりやすい。簡にして要を得ている。しかも写真も小さいながらもふんだんに載せている。
  原稿書きに疲れて、ふとこの本を開くとついつい読みふける。知らなかったことを発見したり、あの出来事と別の出来事がわずか数か月後に起きていた、なんてことに気付く。通常の専門世界の年表は、「世界の出来事」とか「日本の出来事」などをパラレルで併記するケースが多いが、必要なら汎用の年表を横目で眺めればいいだけの話。むしろないほうがすっきりして理解を得やすい。
  なんとなく、日頃モヤモヤしている頭のなかを程よくシャッフルしてくれる働きが、この年表にはあるのかもしれない。ただ、索引(INDEX)を付ける労を惜しんでいる点が、おおいに不満だ。(2006年発売、本体価格で2000円)

2021年7 月 1日 (木曜日)

ぼくの本棚:NHK取材班編『フォードの野望を砕いた軍産体制』(角川文庫)

フォードの野望を砕いた軍産体制  よく知られているように、戦前のフォードは、大正14年(1925年)横浜の子安にノックダウン工場を作り、ここをアジアの生産&販売拠点として日本市場のみならず中国市場を視野に入れた世界戦略を展開し始めた。
  これは、関東大震災後、東京市が市電壊滅後の庶民の足としてフォードT型のシャシー800台を大量輸入したことがキッカケで、市場調査した結果日本市場の有望性を察知したという背景がある。そのごGMとクライスラーも同じように進出し、あっという間に日本にアメリカ車(とくにフォードとシボレー)が走り回った。トヨタも日産も企業としてはあったが、よちよち歩きのころだ。当時中国戦線で、侵攻を拡大する軍部にとって、フォード車の桁違いの性能の良さは脅威であり、恐れであった。
  昭和16年に太平洋戦争(日米戦争)が起き、その数年前にはアメリカ車は日本市場から完全撤退することになる。
  この本は、日米のあいだに隙間風が吹き始める昭和初年ごろから、“天下の悪法”(日米通商条約違反だけでなく、法の効力を公布の時点より9か月前倒しだったことも、悪法との一因とされた)といわれた昭和11年5月に制定・公布された『自動車製造事業法』の成立まで。いわば日本の自動車史のなかの知られざる“ブラック・ヒストリー”を克明に取材したドキュメント。放送自体は昭和61年だから、いまから35年も前だ。
  この『自動車製造事業法』という法律は、日本のメーカーの育成という名目で、アメリカ車(とくにフォード)を排除する法律。しかも、フォードは、この法律施行前に、いち早く子安のノックダウン工場とは別に鶴見川の河口に約15倍の広大な敷地を持つ本格的自動車工場をつくる計画を立てた。鋳造工場、機械加工工場、組み付け工場などを備え、鶴見川河口には1万トンクラスの貨物船を横付けできる設備を備えた壮大なものだった。
  新しい工場のデザインは、聖路加国際病院や東京女子大礼拝堂などを手がけ、帝国ホテルを設計したフランク・ロイド・ライトの弟子にあたるチェコ生まれのアントニン・レーモンド(1888~1976年)の起用を予定していた。
  …‥新工場を作り規定事実を積み重ねることで、計画は上手くゆくはず。そもそも、日本にこうした工場をつくることで多くの雇用を生み、先端の技術を日本に移植でき、日本とフォードがWINWINだとする思いが、当時の創業者ヘンリー・フォードはじめフォードの経営陣の頭にはあった。これを後押しする親米派の日本人グループもいた。欧米で教育を受けたゴルフの赤星四郎(1895~1971年)、三菱財閥4代目岩崎小弥太(1879~1945年)、浅野財閥御曹司・浅野良三(1889~1965年)、外交官の吉田茂(1878~1967年)などだ。
  ところが、日本の陸軍は、そうではなかった。フォードとGMに脅威を抱く一方、いち早く日本独自の自動車量産体制の確率を目指すことが、戦時体制の維持に欠かせない、そう考えたのだ。産業を保護し、優遇政策をとれば、優秀な自動車を量産できる工場は明日にでもできる、安直にも、そう考えたようだ。用地買収をめぐるすさまじい妨害、当時の憲兵隊や特高によるフォ-ドへの厳しい監視体制などサスペンスもどきの展開だ。
  ところが、日本陸軍の思惑通りに事は進まなかったことは、のちの我々はよく知るところ。戦時下での自動車工場は、後ろ鉢巻をした女子学生をかき集めての人海戦術で量産はできても、技術の向上は期待できなかった。逆に、粗製乱造で、粗悪品の山を築いた。技術の向上、高い品質の維持というのは、余裕がなければ実現できないことを、慢心していた旧日本陸軍は気づいていなかった。
  85年前の日米自動車戦争は、数年後の日本大敗北を喫する太平洋戦争の結果を予言するものだった。

2021年6 月15日 (火曜日)

ぼくの本棚:篠田節子『田舎のポルシェ』(文藝春秋社)

田舎のポルシェ  独断と偏見というバイアスがあるかもしれないが、クルマやバイクが登場する小説や映画の作品で、人さまに勧められるメイド・イン・ジャパン製の作品は片手の指で数えるほどしかない。ひそかにそう思っている。
  たぶんそれは、クルマやバイクがその物語にがっちり食い込んでいる小説や映画は、作り手としてはつくりづらいのかもしれない。主人公の心理描写にクルマやバイクが投影しづらいからかもしれない。日本人の生活に、クルマやバイクがそれほど深く浸透していないからなのか?「日本人にはまだ車やバイクを生活のなかで語れるほどの物語を紡ぎ切れていないのでは?」ともいえなくもない。
  この小説は、少し褒めすぎかもしれないが、そんなぼくの先入観を見事に打ち破ってくれた。
  登場するのは、お世辞にもカッコよくはないくたびれた軽トラックだ。でも、エンジンの鼓動と主人公の鼓動が響き合うかに思えるほどの、よくできた小説なのである。
  物語の始まりは、岐阜の図書館で地味に働く中年に手が届きそうな未婚の女性・翠(みどり)、その彼女が八王子の実家に向かうところから。実家で収穫されたお米360㎏を取りに行くため、バツイチで強面(こわもて)ヤンキーがハンドルを握るオンボロ・軽トラックの運転で、向かうのである。それも台風が北上するなかでだ。
  「訳あり女と男・オンボロトラック・嵐の前の静けさ」という3つ。
  いわゆる物語のおぜん立ては、これで揃っている。筆者の篠田節子(しのだ・せつこ)は当年65歳で、名うてのホラー小説家。それだけに、ストーリ-展開に長(た)けているので、読者をグイグイ物語世界へと引きずり込み、途中で投げ出すなんて気持ちなど起こさせない! 意味深なタイトル『田舎のポルシェ』は、軽トラックが、ポルシェと同じリアエンジンのリア車輪駆動方式だということもあるが、ホンモノの真っ赤なポルシェを物語に登場させ、タイトルの面目を保っている!
  「行きは空車で乗り心地がいまひとつだったが、帰りは荷物をしっかり積んでいるので、乗り心地がいくらかましになる」なんて、カー雑誌顔負けの軽トラックの特性をしっかり描写。クルマ通にも納得の表現があちこちに散見。できの悪い息子を見る母親のようにヒヤヒヤしないで、読了までこぎつける。
  ところで、主人公が旅をしていく、その先々で起きる出来事を描く小説のことを「ロードノベル」なんて呼ぶそうだが、この小説もわずか1日2日の出来事を丹念に描くことで、人生の深いところも味わえるようになっている。
  実は、この単行本110ページほどの小説、縦糸はロードノベルなのだが、横糸があることで、物語をググっと深めている。横糸とは、意外や意外、長いあいだ日本人の主食とされてきたコメ問題だ。
  ふだん米(コメ)といえばコンビニのおにぎりしか思い浮かばないのだが、手作りの無骨な塩おにぎりも登場するし、嵐のなかの避難先で食したおにぎりの味が、よだれが出るほどにリアルに迫ってくる。思わずコンビニのおにぎりを頬ばる読者もいるかも。まじめな話、そのおにぎりを通して日本の農家の現状を透けてみせてくれるのだ。
  エンタメ小説でありながら、想像もできなかった日本のコメ問題という新しい発見ができる小説。さながら主人公と一緒に旅をした気分となった。読後の余韻に浸ってふと気付いたけど、コメも軽トラックも、日本人を語るうえでの最重要キーワードだよね。この2つを選択して物語を紡いだ筆者の慧眼に脱帽しちゃいました。
  (表題の「田舎のポルシェ」のほか「ボルボ」など計3篇収録。税込み1760円)

2021年6 月 1日 (火曜日)

ぼくの本棚:真田勇夫・絵、高島鎮夫・文『じどうしゃ博物館』(福音館書店)

自動車の絵本1

自動車の絵本2

自動車の絵本3

  大人になるとあまり見ることがない絵本。でも、子供だけに見させているのはもったいない! そんなとっておきの絵本を今回は紹介しよう。
  絵本のすごさは、コトバだけでは伝えづらいモノの形や色をリアルに読者に伝えられることだ。だから、活字以上のことを想像させられたり、呼び起こさせられたり、もちろん語りかけられもする。   短い説明文は、簡にして要を得ている。たとえば、フォード・モデルTのキャプションはこうだ。「1909年、アメリカではどの国よりも早く自動車が広がりました。このT型フォードは1908~1927年の19年間に1500万台以上も作られ、当時の世界の自動車の3分の1をしめました」わずか90字足らずで、このクルマを説明。あとは緻密に描かれたクルマを眺めれば、つい夢見心地にさせられる!?
  この絵本、紀元前4000年ごろの牛車から始まり古代ローマ帝国の2頭立て戦車、16世紀のレオナルド・ダビンチのゼンマイ仕掛けの自動車、そして17世紀ごろから現れた蒸気自動車、19世紀末に登場するガソリン自動車。スピードと技術の限界に挑戦するレーシングマシンも豊富に登場する。2人乗りFRレイアウトのスポーツカーをモデルに、クルマの仕組みを詳細に解説している見開きページもある。20世紀中ごろからどんどん庶民のものになっていったころに登場するクルマもあざやかに描かれている。消防自動車やごみ収集車、パトカーなど身近に見かける働くクルマももれなく登場している。
  この絵本、わずか31ページだが、登場するクルマの数は、135台。1ページ当たり5台の勘定。
  書斎の本棚の隅に置いておき、疲れたら、眺めているとなんだか疲れが霧消する、そんな本だ。
  でも、それでいて、この福音館の『じどうしゃ博物館』は、巨大な自動車ミュージアムと引けを取らない役割をしている気がする。リアルなミュージアムは、予算や敷地、それにそれぞれのオトナの事情でどうしても片寄った銘柄になりがち。その点、この絵本は、そうした課題を軽々と乗り越え、子供や大人に、自動車の世界を表現している。1992年発行ということはいまから30年ほど前のため(当時価格1200円)、とくに働くクルマは、古さを感じさせはするが、それはそれで癒される。絶版だが、古書としてなら出回っているようだ。

2021年5 月15日 (土曜日)

僕の本棚:梅原半二著『平凡の中の非凡』(佼成出版社)

平凡のなかの非凡  筆者である“梅原半二”ときいてピンときた人は、ほとんどいないと思う。“はんじ”という名前自体、歌舞伎に出てきそうなふた昔前の人みたいだし……。
  一昨年亡くなった哲学者で日本古代史研究家・梅原猛氏(1925~2019年)の実の父親で、トヨタ自動車の技術的基礎を築き上げたエンジニアのひとりである。1903年(明治36年)に愛知県南知多町で生まれ、1989年亡くなっている。
  聖徳太子や柿本人麻呂などをめぐる野心的で独創的な推論を提供した梅原猛。それと初代トヨタ・コロナの陣頭指揮をとったエンジニア。面白い取り合わせである。
  この親子のつながりを眺めると、なかなか興味が尽きない。しかも、この息子は、幼児期に母親が結核で他界し、父親の半二も同じ病を得て長期入院をしたことで、父親の兄のもとで養育される。人生の非情さのなかで、息子と父親がそれぞれ自分のオリジナルな仕事を見つけ懸命に生き抜く…‥。
  この本には、そうした物語を直接描いてはいないが、二人の足跡に思いを馳せざるを得ない。
  仙台の東北大学で、機械工学を学んだ半二は、たまたま豊田喜一郎と同窓が担任教授だったことで、トヨタ自動車に入社する。1936年、昭和11年。卒業後、肺結核にかかり長期入院していたため、数え34歳での就職。
  イチからクルマづくりを始めたトヨタの草創期だ。たずさわったのが熱交換機であるラジエーターだ。ところが、途中で肺炎がぶり返し、ようやく病が収まり、クルマの冷却システムを確立していく。この分野はエンジン本体と比較すると地味な研究に映るかもしれないが、ウォータージャケット、ラジエーター容量、クーリングファン、ラジエーターグリルの容積とデザイン、ウォーターポンプ、サーモスタット、ファンベルトなど空冷にくらべ構成部品がやたら多いが、エンジンの騒音を抑え、そののち注目される燃焼科学や排ガス技術にもつながる分野だ。
  とにかく半二氏は、そののち品質保証担当を18年やり、トヨタ研究所長となっている人物、「コロナの初期の失敗、対米輸出の数々の失敗」とみずから告白しているが、この本、もともと技術本ではなく、エッセイを集めたものなので、筆者(広田)が知りたいこととなると、いささか隔靴掻痒(かっかそうよう)。でも、息子と父親との関係(そもそもこの本の編者は息子の猛なのである)などが伝わる。スタートこそ遅れたものの、自動車メーカーの基礎を築き上げ、晩年は豊田中央研究所の名誉所長として立派な企業人の足跡を残している。
  ところで、『平凡の中の非凡』という、なにやら判じモノめいたタイトルは、いったい何だろう? 
  半二だけに、判じ? 種明かしは本のなかにあった。半二さんの部下だった女子職員が結婚を期し退職する際に、祝福の意味で英英辞典をプレゼント。この辞書の表紙の裏に『平凡のなかの非凡』と書き込んだという。
  女性が結婚を機に家庭に入る、とか辞書を贈り物にするなどいまでは聞かなくなった昭和時代の原風景。この女性は打てば響くような素晴らしい勤務ができたという。「平凡に見える主婦の生活のなかにも、かならず非凡さが必要となる」そんな意味を込めて、書き送ったという。
  ここで、いきなり「水」を例に持ち出し半二さんは説明する。
  「水は古くから節約の対象にならなかったほど平凡だ。ところが自然界で水がもたらす役割が大きい。無色・無味・無臭・透明で常温では液体であるが、空気中に気体として常時存在し、海・川・湖・地中に蓄積され、立ち上がり雲となり霧となり、雨・雪・あられ、霜となって地上に戻る。ときには氷結したり、ツララになり、霧となる。その一つ一つが古来から詩歌の対象となっている。しかも物理的にも化学的にも非凡な特性を持つ。比熱はすべての物質のなかで最大の値を持ち、表面張力・熱伝導率・誘導率などの水銀をのぞくすべての液体のうち最大である…‥」
  なるほど科学者らしいものの見方だし、息子の哲学的観察にも通じる世界観。漱石の弟子・寺田寅彦にも連なる視点。この本も、ところどころに非凡さが隠されていて、未知の世界を発見することが少なくない。

« | »

▲ページの先頭に戻る

Copyright © 2006-2010 showa-metal .co.,Ltd All Rights Reserved.