みなさん!知ってますCAR?

2021年5 月 1日 (土曜日)

書評:ポール・フレール著『いつもクルマがいた』(二玄社)

+ポールフレール  “世界でもっとも信頼されている自動車ジャーナリスト”といわれるポール・フレール氏の自叙伝だ。
  となると、“自動車ジャーナリストの大半は、信頼するに当たらない”ということになり、背筋が寒くなる!?
  雑誌「カーグラフィック」で連載された記事をまとめて1999年に、A5版318ページの単行本化にしたものだ。
  一言でいうと、かなり内容の濃い、専門用語が多い、いいかえればリテラシー能力を要する手ごわさを感じる一冊だ。たぶんこれは、翻訳者が長年クルマ雑誌を手がけてきた小林彰太郎氏だからだと思う。「カーグラフィック」の読者なら、読み解けるかもしれないところが、そうでない読者には、難解なところが多々あるのが残念。クルマに不案内な編集者が加わっていれば、たぶん読者層を劇的に増やせた、かな!?
  でも、そうしたことを指し引いても、≪ポール・フレール氏の人生は、自動車の発展とともにあった!≫ということがよくわかる良書といっていいだろう。
  なにしろ彼は、1917年生まれというから、まさにクルマの世紀といわれる20世紀初頭に生まれている。
  物心がつく幼年期には、幸運なことに父親がフィアット501(1460㏄サイドバルブエンジン、最高速70キロ)を手に入れ、ドライブに連れて行ってもらっている(僻みに聞こえるかもしれないが・・・・ちょうど30年後に生まれた筆者は自動車を身近に感じたのは10歳のときで、それもトラックだ)。
  ポール少年は、生まれながらにして身近にクルマが存在したのだ。そのころはまだ馬車がたくさん走っていて、路上には蹄鉄で使う釘がたくさん落ちており、そのおかげで日に何度でも、ひどいときには5回もパンクとなり、その都度チューブを修理したり、交換したりする作業に追われたという。
  しかも、草創期のクルマは、少し前のPCと同じで、壊れやすかった。路面の悪さもあり、サイドメンバーやリーフスプリングがいきなり折れるのは日常茶飯。そして驚くべきことに、ポールは、ミニカーなどない時代、いきなり本物のクルマのハンドルを握ることになる。なんと10歳で! 1966年までベルギーでは運転免許証自体がなかったから、OKだったというのだ。しかも、クルマ好きのおじさんの手ほどきで、ダブルクラッチの操作を取得し、ノンシンクロのギアをチェンジしたというのだ。天才少年クルマ野郎なのだ! うらやましい。
  ブルッセルで送った大学生活も、さんざんクルマ三昧な日々を送り、社会に出てからはGMやジャガーの宣伝部やサービスマネージャーをやりながら、クルマ体験をしていく。そしてついにレーシングドライバーとして活躍するまでになるのである。ル・マンやインディとともに世界三大24時間レースのスパ24時間で3位になったことを皮切りとして、ミッレミリアをはじめ欧州の各種レース、アフリカや中南米でおこなわれた超過酷な公道GPレースなどに参加、エンツォ・フェラーリ率いるチームの一員としてレースに参戦した。このへんは、クルマがもたらす人生の楽園を満喫している。
  こうした経験を踏まえ、自動車ジャーナリストの世界に軸足を移していったのが、40代のころ。そして、50代に入ると、日本の自動社メーカーとの縁が結ばれる。海外での販売に意欲をみなぎらせていた日本のメーカーがポール・フレールの感性を求めていたのだ。辛らつだが、的確なアドバイスで、欧州や北米でのシェアを広げていったのである。なかでも、マツダやホンダなどのアドバイザーとして、おおいにポールのハンドリングに依存していたようだ。ポール曰く「1960年代の日本車といえば、エンジン、サスペンションともがさつで、実にお粗末な代物だった」と。
  通俗的な自叙伝には終わっていないところが、この本の真髄かもしれない。20数年前の本だが、少しも古さを感じさせないのもいい。

2021年4 月15日 (木曜日)

書評:森功著『ならずもの/井上雅博伝―ヤフーを作った男』(講談社)

+ならずもの  5年ほど前に読んだスティーブ・ジョブズのことがわかるウォルター・アイザックソンによる伝記(講談社2011年刊)は、かなり読み応えのある本だった。でも、この本のおかげで、ある程度現在のITの流れが理解できた(つもり)。
  ところが、日本におけるIT世界となると、PCとスマホを使うだけの門外漢に過ぎない。
  そんなわけでYAHOO!ジャパンを作った人物についてはあまり興味がなく、名前すら知らなかった。
  その男が、実はクルマ大好きおじさんだった。一説によると1000億円という、一生かけても使いきれないほどの大金を手にして、60歳を前に全ての事業から手を引いた。“日本一成功したサラリーマン”との異名をとり、そして箱根にクラシックカー10数台を愛でる超豪華な別荘を数十億円投じて作り上げた。少年時代の夢を実現させた21世紀のヒーロー。
  ところが彼の人生は突然閉じられた。3年前、60歳を前にカルフォルニアのクラシックカーのイベントで直径3mもあるセコイヤの大木にぶつかり事故死した。乗っていた1939年製ジャガーSS100(直列6気筒OHV3.5リッター4速MT)も見る影もなく大破した。
  今回取り上げる単行本(2020年5月刊)は、この男の物語である。
  実はこの本を知ったのは、筆者の森功氏のおかげである。
  物語の主人公以上に、この本をまとめた1961年生まれの筆者に大いに関心をいだいたからだ。
  伊勢新聞記者を皮切りに、週刊新潮編集部で鍛え上げられたノンフィクションライター。いま一番脂がのり切っていることがうなづける。新潮社で週刊新潮や写真雑誌フォーカスを作り上げた伝説の大編集者“斎藤十一(じゅういち:1914~2000年)”の伝記を見事な筆遣いで手がけていた。この伝記の完成度に強く惹かれ、いわば芋づる式に“井上雅博伝”に行きついたのである。期待を裏切ることなく周到に取材して、手堅くまとめている。「週刊現代」で連載した記事に加筆・修正した単行本。
  ところで、この『ならずもの』には、コンパクトカーや4ドアセダンなど生活感のあるクルマの姿はこれっぽっちもない。いわば富裕層だけが所有できる特別のスーパーカーや博物館に収まってもおかしくない超弩級のクラシックカーばかりだ。普通のポルシェやフェラーリではなく、スターリンが隠していたベンツだとか、有名人が愛用していたレアなクラシックカーばかり。プレミアム感120%の高級車ばかり。
  このコラムを書いている筆者(広田)は、幸か不幸か、この本に出てくるクルマ好きの富裕層の類には一度もインタビューした経験がない。でも、彼らを顧客とする高級車専門にメンテやリストアをする整備士には数人だがインタビューしたことがある。そこから、富裕層といわれる人たちのクルマへの独特な愛をときたま聞き及ぶことがある。たぶんカーグラフィックあたりを丹念に読んでいる読者の方が、こうした世界を私より知っているに違いない。
  この本は、図らずも彼らの生態の一端を如実に教えてくれる。おぼろげながらも、なんだか全容をつかんだ気にもなる。そして(嫉妬心もにじませながら言えば!)「ああっ、やっぱりな」というか、「クルマへの愛はいろいろあるけど……けどね」とひとことでは言い表せない複雑な気分になる。クルマ文化の担い手はそうした富裕層、なのかもしれない……。
  この『ならずもの』の主人公は、東京世田谷の祖師谷団地でごく普通の子供時代を過ごし、都立高校をへて東京理科大の学生の頃、たまさかバイトしたのがIT企業だった。そこからあれよあれよと、孫正義の片腕になり、独立しヤフージャパンを育て上げ、一夜にして億万長者となった。まさに時代が生んだミリオネイアである。それは、常日頃、座右の1冊としている内橋克人著「破天荒企業列伝」に出てくる明治・大正・昭和を彩る強烈な個性を持った企業人。それに連なる人物像にも当てはまる。お金持ちは、さらにそれ以上の資産を生み出そうとする、ともいうが使いきれない大金を持った人間は必ずしも“金を使う達人”ではないようだ。
  数世代にわたったお屋敷の庭石をバールで、エイとばかり、ひっくり返したら、そこには見たことのない虫たちがうごめいていた。この本は、そのバールの役目をしているのである。ちなみに、『ならずもの』というタイトルに違和感があるが、調べてみるとYAHOOという英語の俗語は、スイフトの「ガリバー旅行記」に出てくる「ならず者」がルーツだという。

2021年4 月 1日 (木曜日)

大下英治著『人間・本田宗一郎 夢を駆ける』(光文社文庫)

+ホンダ宗一郎伝  「ホンダという企業ほどに、ブランド力の重要性を認識している自動車企業はないんじゃない」。かつて雑誌の編集者時代、そんな言葉でホンダを説明した同僚がいた。たしかに、そうかもしれない。
  なにしろ、創業者の本田宗一郎氏にかかわる書籍は、正確に数えたことはないが、ゆうに30~40冊は超えるのではないだろうか? ホンダファンが増えることは、それだけクルマが売れることに結び付くからだ。(たとえば、マツダの創業者松田重次郎やその息子恒次のことを書いた本はほとんど見たことがない)
  「・・・・だからというわけじゃないけど、すでに本田宗一郎さんのことはある程度知っているので、この本は、パスしま~す」という声が聞こえてきそう。ところが、事実は小説よりも奇なり。
  この550ページほどの分厚い文庫本には、知らなかったエピソードが、これでもかこれでもかと出てくる。しかも、当事者としては、かなり恥ずかしい話が少なからず登場する。遊び大好きな宗一郎の芸者買いのエピソードだけでなく、仕事上の失敗もである。
  たとえば昭和40年代初頭N360を開発中、開発者の久米是志(のちの3代目社長)が、過大な吸気音をごまかすため、シビアな評価を下す本田さんをだますため、ウエスを吸気口にねじ込んだ話。あるいは、女性が大・大好きだった本田さんの挿話が、これでもかという具合に登場し、読者ににじり寄ってくる。
  空冷エンジン優位性を頑固に主張する本田さんに対し、水冷エンジン推進派を唱える入交昭一郎(のち副社長、退社後セガの社長を歴任)など当時の若手エンジニアとのぶつかり合いなど、生々しい企業内葛藤がリアルに描かれる。
  外野から見ると危なっかしい会社と見えなくもない。救われているのは、本田宗一郎の比類のない根っからの明るさが全編をおおっている。だからホンダファンならずとも、ハラハラしながらぐんぐん読み進んでいくに違いない。
  失敗をした部下についてスパナを投げつけるモラハラ男(当時そんな言葉がなかった!)だが、人情に厚く、裏表のない、いつまでの子供の心、好奇心を持ち続けた昭和のおっさんだ。ふつう日本人は大人になると「弁(わきま)える人間」になるものだが、そんな気持ちはハナからない、おやっさん。誰からも好かれ、天真爛漫さを失うことなく84歳の天寿を全うしたユーモアあふれるオヤジさん、なのだ。
  かつて元気なときの本田さんのスピーチを聞いたことがあるが、会場と丁々発止のスピーチはまるでコメディアンに近かった!? いやそうともいえないか、変なおじさんだった? 欠点もやがて、美点にシフトしていく……。ここに人間・本田宗一郎が人を引きつける魅力があるようだ。だからして、本田宗一郎さん関連の本が、読書界をにぎわしている理由が、理解できる。
  ところで、筆者の大下英治氏とは、どんな人物なのか? 
  1944年生まれの広島生まれ。広島大学仏文科を卒業後、電波新聞社に勤めるが、退職して、1968年大宅壮一マスコミ塾 第7期生となり、前々回取り上げた梶山季之のスタッフライターとして週刊文春の特派記者を経て、作家に転身。政治、ビジネス、歴史、社会、芸能、スポーツ、事件物など幅広いテーマで膨大な著作を持つ。なかでも時代を代表する人物にスポットをあてた作品群は異彩を放つ。本書もその一つ。
  通常、文科系のライターは、ややこしい専門用語が出てくるメカニズムの記事を避けたり、生半可な知識で馬脚をあらわすものだが、本書は、メカニズム好きの読者にもある程度満足できる。その秘密は、緻密で手堅い取材力を持つ複数のライターが力を発揮しているからだ。数限りないエピソードをかき集めているのも、ひとえに影武者であるライター達のたまものである。

2021年3 月15日 (月曜日)

橋本愛喜『トラックドライバーにも言わせて』(新潮新書)

+トラックドライバーにも言わせて  仕事がら本を読むのはさほど苦にならないたちだ。でも、こんなに息苦しい気分で、ページをめくるのにおっくうになりながら活字を追いかけるのは、めったにない。何度も、読むのをやめて途中でほっぽり投げ、他の本に手を伸ばしかけた。
  でも、ふと考えて「なぜこんな気分になるのか?」その正体を探るうえでも、最後まで読まなくちゃ! ときに自分を鼓舞することも読書には必要なのか!?
  あとがきを入れて220ページほどの新書なのだが、とにもかくにも読了するのに延べ3日もかかってしまった。
  読了まで前向きに、明るい気分で読み進めなかった理由は、トラック業界、物流社会のことをある程度知っていたことがあるかもしれない。これまでトラックに関する単行本を何冊か書いてきた。中高校生向けの職業ガイド『物流で働く』(ぺりかん社)では働く現場をこの目で見てきたつもりだし、数人のトラックドライバーにもインタビューさせてもらった。『ツウになる! トラックの教本』(秀和システム)では、トラックドライバーの直撃取材はしなかったが、トラックのモノづくりから修理の現場など知られざる周辺世界の人たちを、好奇心に身をまかせてインタビューしている。
  トラックドライバーの実態もある程度は知っているつもりいる。「そりゃ、半世紀前の体験であまりにも古いぜっ!」をいわれそうだが、学生時代のまるまる1年間ほど、2トントラックのハンドルを握り、物流の世界で仕事をしていた。当時運転のバイトは割りのいい部類だった。(都内の運送会社で日清製粉の粉もん、つまりウドンやてんぷら粉などを運んでいました。ちなみに当時はパスタはほとんどなかった気がします)
  トラックドライバーの立場に立った、この本を読んでみると、その時代と少しも変わらないところもある。でも一方で、この50年で日本国内の物流の主役がトラックに大きく依存し、にもかかわらずトラックドライバーがどんどん世間からの風当たりが厳しくなったという現状。ざっくり言えば・・・・高度成長経済の世界では、トラックの運転手は気楽な稼業という印象だったのが、現在はシビアで割に合わない感じの商売になっている。
  重量車両をあやつるので「交通強者」として扱われるトラックドライバーだが、大事故が起きるたびに社会的には、白い目で見られる。立場はオセロゲームのようにクルっと裏返り、実は「交通弱者」だったということがこの本を読むと理解できる。
  これじゃ慢性のドライバー不足になるのも当たり前である。日本の物流の90%以上をになう割には、待遇もよくない。いまや工場でもコンビニ、スーパーでもこれが正義の一台柱となっている“ジャストインタイム”の弊害から、荷主第1主義で、遅配はむろん大目玉を食らう。早く目的地に着いた場合も、長い間待たされたり、ときに待つ場所を与えられず、惨めな立場に追いやられる。しかも、過酷な荷下ろし作業をただでさせられるケースもあるという。
  筆者・橋本愛喜(はしもと・あいき)さんは、現在フリーライター。父親はもともと金型製作の会社の社長さん。そこで彼女は、金型を運ぶ仕事でトラックに乗るようになったという。自分の目で見て、体験して、取材してトラックドライバーの置かれている現状をつぶさにリポートしている。
  長時間の運転で、一番難儀するのは、生理現象だ。
  おしっこをするタイミング。コンビニ、高速のPA,SA…でも大型トラックを止める場所などそうそうあるわけではない。仕方なく、空になったペットボトルにしてしまう。それをついポイ捨てする‥‥。交差点の空き地に、お茶の色をした液体が入ったペットボトルが捨てられているのをときどき見かけるのは、そうしたわけだったのだ。クルマの運転が大好きだとしても、日本のトラックドライバーの置かれた現状は、けっして明るい未来が見渡せない。自動運転システムを備えたトラックが完成したとしても、積み残した課題の重さは変わらない!?(本書は2020年3月刊)

2021年3 月 1日 (月曜日)

梶山季之の産業スパイ小説『黒の試走車』(岩波現代文庫)

+黒い試走車  私が小学生のころ、昭和30年代に“トップ屋“と呼ばれる商売があった。
  高度成長経済が始まりかけていたころだと思う。週刊誌ブームが沸き起こり、出版社の依頼で週刊誌の記事を書くライターやジャーナリストが登場した。スクープ記事を追い求めるライター達。彼らのことを「世の中のトップの話題、美談も醜聞も先んじて追い求める男たち」という意味で、どうやら“トップ屋”と揶揄されたようだ。
  その代表格の作家が、梶山季之(1930~1975年)だ。今回取り上げる本は、その梶山がトップ屋から流行作家となった第1作と思われる作品「黒の試走車」である。文庫本で410ページばかりで、かなりの長編だ。読むのに4日かかった。
  日本に急速に訪れたマイカーブーム(モータリゼーション)で、憧れの存在だった自動車が高額商品には変わりないが、庶民の手の届く存在になりつつある、そんな時代。高度成長経済の陰で熾烈な戦いを演じる「産業スパイ」の世界を小説のカタチで展開した企業小説の走りともいえる。
  この本の初デビューは、カッパ・ノベルスである。1962年。光文社のカッパ・ブックスの姉妹版として、カッパ・ノベルスは、当時の出版界に旋風を巻き起こした。松本清張の「ゼロの焦点」「砂の器」、小松左京の「日本沈没」などミリオンセラーが少なくない。森村誠二や赤川次郎、西村京太郎などの小説も並ぶ。
  それにしても、いまから半世紀以上前(正確には60年前!)の本をホコリを払い、なぜわざわざ取り上げるのか? 不思議に思う読者も少なくないと思う。かくゆう私もこの本のタイトルは承知していたが、手に取ったことがなかった。この本がブームになったころ、日産の村山工場で少し仕事をしていた。1962年プリンス自動車の村山工場としてスタートし、1966年に日産に改組。2004年カルロスゴーンの改革で閉鎖したいわく付き工場だ。ここのプレス工程で工員として夏休みのアルバイトをした経験があり、その時の片腕のない高飛車な態度のガイダンスのおじさんがこの本を引き合いに出して説明してくれたことを覚えている。仕事は見上げるほどのプレス機の4隅に工員を配し、指を挟まないように同時に両手で大きなボタンを押すと上から金型が降りてきて、平板をあっという間にフェンダーなどのカタチにしてしまうというものだ。
  当時荻窪のアパートに住んでいたのだが、この工場には電車とバスを乗り継ぐため予想外に時間がかかり、3回ほど遅刻をして、その場で即刻首になった。けっきょく10日ほどしかプレス工としての経験はない。(ちなみに、数年まえホンダの狭山工場でプレス工程を取材したら、ほとんど無人ですべて自動でプレスされていた。マジシャンがトランプ・カードを右から左にシュシュッと移動させるように、すさまじい速度で成形されていた!)
  今回この本のタイトルを見て、そんな苦い経験が思い出された。
  この小説の主人公は、プリンス自動車とおぼしき自動車メーカーの企画PR課のサラリーマン。実は、この課の実態は産業スパイそのもので、業界誌に中傷記事を書かせてライバル企業を窮地に陥れようとしたり、ライバル企業の経営者会議を向かいのビルから覗き見て、読唇術を駆使して、ライバル社の新車価格をいち早く知ることで事業を有利に展開しようとする。でも、こうしたスパイ活動に身を染めるうちに、信頼していた同僚を失い、頼りにしていた仲間に裏切られる。そして、結婚を約束していた女性を使ってまでライバル企業の機密を盗もうとまでしていくことで、自分を失いかける。昭和時代における企業戦士のむなしさを読み取ることもできる。
  …‥そもそも行き過ぎた忠誠心はいまの若者の目にはギャグもしくは喜劇としか映らないか!?
  この本カッパ・ノベルスでデビューしたのち、43年後の2005年に京都にある人文関係のどちらかというとおかたい出版社(松籟社)から再版され、その2年後にはもっとお堅い版元岩波書店の岩波現代文庫に収まったのである(写真)。半世紀前の企業小説のどこが、必要とされているのか? それを探った。
  とにかく60年前の情報なので、駄目だしする箇所は少なくない。でも、当時30歳そこそこの梶山が短期間で、これだけの内容の本(とにかくクルマづくり、クルマの販売の世界などが詳細を究める)をよくまとめたことを思えば、素直にリスペクトせざるを得ない。情報自体が古さを否めない。でも、よく読み込んでみると昭和の貴重な記録と位置付けられるし、この本を読めば、だいたいクルマをめぐる産業の流れの大筋が掴める。存在価値があるのだ。
  登場人物は、業界紙の社長、銀座のマダム、それに美人ディーラー社長などいずれも濃い人物ばかり。サスペンスあり、えぐいラブシーンありの昭和の香り120%の企業エンタテイメント小説。ところが、よく眺めてみると、ところどころに東京の風景や、風俗(たとえば飲酒しての運転シーンが何の躊躇なく登場する!)が描かれている。移ろいやすいもの、たとえば人気の芸人などを登場させるのは、作品が早く古びるとして、こうした物語にはご法度なのだが、あえてそうしなかった。昭和39年の東京オリンピック以前の東京の風景や風俗が、作者が多分意図して入れ込んだのではないのだろうか? そう思わせるところがある。
  企業への行き過ぎた忠誠心と言えば、この本がデビューする数年前、実の姉貴がトヨタに勤める男に嫁いだ折、その披露宴での出来事が秀逸(皮肉だが)だった。披露宴で興にのった新郎側の上司や同僚が、奇妙な歌を歌い出したのだ。当時ライバル会社だった日産への露骨な悪態を並べた(第3者の耳には)聞くに堪えない歌詞を並び立てた歌だった。なりふり構わないライバル心剥き出しのサラリーマンの無邪気すぎる従順さに辟易した覚えがある。
  こう考えると、この企業小説は、働くとはどういうことなのか? 企業とはどういう役割なのか? 企業に所属するとはどういうことなのか、そんな基本を教えてくれる一冊なのかもしれない。梶山は早書きだと後ろ指を指されながら、60年後の時代でも読まれる小説を書いたことに深い敬意を表したい。

2021年2 月15日 (月曜日)

700ページの桂木洋二『日本における自動車の世紀』(グランプリ出版)

+日本における自動車の世紀  前回、折口透(本名伊藤哲)の岩波書店刊『自動車の世紀』を取り上げた。新書で、240ページほど、速読テクを駆使して、集中すれば5~6時間もあれば読める。
  ところが、今回取り上げる本は、速読テクを用いてもそう簡単に読破できない。桂木洋二著『日本における自動車の世紀』。A5版(縦210横148㎜)で約700ページもあるからだ。
  普通の読者は、この異常な分厚さに恐れおののき後ずさりするに違いない。そんな本である。普通の単行本の約3倍の厚み(ノギスで測定したら37.4mmあった! 重量は1㎏に迫る970g!)、しかも各章ごとに虫眼鏡でないと読めないほど小さな注釈・備考(NOTE)がこれ見よがしについている。正直私も、いっきに読破する気力は初めからゼロでした。
  いつも拾い読み状態で10年ぐらい書斎の隅に置いてある、そんな本である。もちろん電車のなかや茶店でひも解くことができない、そんな本でもある。
  じつは、この本、本体価格が4800円もするので、筆者本人曰く「あまり売れてはいないようだ」(かくいう私も筆者から進呈された口だ)。ちなみに奥付を見ると1999年8月刊だ。20年以上も前の本。
  ところで、調べ物をしてこの本を開くと、ついつい引きこまれ、探していた内容を忘れてついつい読みふける、そんな本でもある。苦言をいえば、目次がやや詳しいので多少はリカバーしているが、索引を作成する労を惜しんだばかりに、検索するのに苦労する。
  “トヨタと日産を中心に”と謳うだけに、両社のクルマづくり、企業としてのありようを深いところで調べて書いている。その面では他の追従を許さない。なかでも、日産の没落のキッカケをつくった川又克二氏(1905~1986年)の内実に迫る。このへんは、高杉良さんの小説「労働貴族」(講談社文庫)と合わせ読むと、よく理解できる。
  それにしても、こんな厚い本をよく書いたものだし、版元もよく企画を通したものだと思う。秘密は・・・・筆者自体が、版元の社長をしていたからできた。でも、それだけではない異常な熱い情熱のたまものである。突然変なことを言うようだが、本ができるかできないかは、地球上に人類が生息できたに近い、まさに奇跡的世界なのである。
  ちなみに、筆者の桂木氏から直接訊いたエピソードだが、フェアレディZを北米で売りまくった“ミスターK”こと片山豊氏(1909~2015年)には、晩年ひとつの習慣があったという。生前枕元にこの本を置いていて数ページ目を通してのち眠りに入った、そんな習慣を愛したということだ。私の場合は、ときどき枕代わりにしている、そんな本である。

2021年2 月 1日 (月曜日)

折口透『自動車の世紀』(岩波書店)に見る激動の自動車史

+自動車の世紀  筆者の折口透、本名伊藤哲さんは、1925年仙台に生まれ。東大理学部中退後、たぶんいろいろないきさつがあったんでしょうね、新橋にある雑誌「モーターマガジン」の編集長をへて、翻訳者として活躍されてきた人物だ。調べてみると早川書房や創元社から数多くの翻訳本を世に送り出している。
  残念ならが、面識こそないが、彼の書いた『自動車はじめて物語』(立風書房:1989年)は、参考文献の一つとして常に机上にすぐ取り出せるようにスタンバイしている本の一冊である。重要参考文献の一つだ。
  今回取り上げる『自動車の世紀』は、それまで雑誌や単行本に記してきた様々な記事を編集し、さらに書下ろし記事を加えたものだ。20世紀が終焉する3年前に発行されたもの。つまり岩波の編集部からの依頼でつくり上げたものだ。奥付を見ると1997年9月初版。
  発売するやすぐ手に入れ、期待をこめて通読した。そのときは、ふだんクルマとは縁がない岩波がどのように日用品化とかしているクルマを分析し、切り口の違いを見せるのか、そこに関心があった。だが、そうした期待は肩透かしを食らった。だから「自動車はじめて物語」のように、何度も読み返しはしておらず、本箱の隅に追いやっていた。
  岩波のクルマ本といえば1974年に出た数理経済学者・宇沢弘文氏の「自動車の社会的費用」だ。高度成長経済下で肥大化する自動車文明への衝撃的な警告書だった。この衝撃を持って受け止められた宇沢本が念頭にあったので、過大な期待をかけたのかもしれない。そこには岩波流のマジックはなかった。
  でも今回、あらためて『自動車の世紀』を冷静に読み直してみて、少し考えが変わった。
  この本のいいところは、20世紀の近代を形づくった自動車の歴史を数々のエピソードで語っていく。とくにクルマに関心がなくても、とっつきやすい。
  ただ、多くのエピソードとカタカナ文字が多すぎて、日ごろ自動車のことを書いている私ですら置いてきぼりを食らいそう。だから、緊張を強いられる。逆に言えば、わずか240ページほどの新書の一文一文のなかには、さらに分け入りたい好奇心を高ぶらせるテーマや挿話が散りばめられている。紙数のわりに内容の豊富さ。料理でいうとプレート料理に多くの食材を盛りつけすぎなのだ。その意味では、この本は、あくまでもそうした自動車の歴史をさらに知りたい人の手引書。皮肉をこめれば、予告編に過ぎない。
  ……それにしてもだ。エンジンを動力にしたクルマが、いま終焉を迎えつつある時代。エンジン付きの移動手段はすでに“お払い箱”になりつつある。「人間を時間と距離の制約から解放させてくれる自動車はフランス革命の延長上にあった」(26ページ)
  これって自動車への大いなる賛歌だ。19世紀からこれまで野心的な発明家が手掛けた自動車の数は3000車種とも4000車種、それ以上。自動車を作り出し、自動車を使い生活を愉快にした人々の数は累計どのくらいだろう? こうした人々の愛が、いっきに失われていくのだろうか? そう考えると、この本は、皮肉にも20世紀のもう一つの墓碑銘なのかもしれない。

2021年1 月15日 (金曜日)

『小林彰太郎の世界』(二玄社)

小林彰太郎  「小林さんですか? すいません上野にある自動車雑誌編集者のヒロタですが、小林さんが昔乗っていたオースチンA40のメンテナンスで、お使いになった工具について教えてください」
  いまから、30年ほど前の話である。当時すでに“伝説の自動車ジャーナリスト”となっていた小林彰太郎氏(1929~2013年)は、編集の第1線から退き、カーグラフィックの編集顧問だったかと思う。象徴的なのが彼のクルマ記事の文体は、雑誌社の枠を超え、かなりの広がりで伝播していた。つまり、不思議なことに「なんちゃって小林彰太郎文体」が横行していたのである。
  で、当方はソケットツールについて調べていた時だ。英国のネジは、インチネジだが、アメリカのインチとは異なる表記をしていることが分かったので、それを整理して教えてもらいたかった。そして英国のネジ規格は、むかしのカーグラフィックをたまに読んでいたので、彼の古いオースチンをめぐる整備エピソード記事を思い出し、思い切って電話したのだ。同業者に塩をねだるのは、ご法度だという気分もあったが、同じ旧いクルマを整備する仲間として教えを乞う、そんな甘い気分で電話した。
  ところが、電話口の小林さん、突然マニアックな質問で戸惑ったのか、英国のインチネジと工具についてきちんと頭のなかで整理していなかったらしく、即答ができず、うやむやな返事しかもらえなかった。そればかりか、「これからは、(質問に対しては)有料で頼むよ、キミ!」そんな言葉が返ってきた。驚いたのと同時に、そんなにお金に困っているのかなぁ? と素直に思ってしまったが、なんだか後味の悪い、それでいていつまでも記憶に残った電話の声だった。でも、お礼のつもりで、その後フリーになったときの処女作の単行本を献本した。
  それから、翌年にでたのがこの本である。徳大寺有恒氏との対話あり、むかしの牧歌的な自動車の記事あり、いまはなく谷田部のテストコースをめぐる話やら、とにかく昔のクルマとクルマ雑誌のエピソードがうじゃうじゃ載っている。
  それから、数年後たまたま本牧にある神奈川近代文学館で谷崎潤一郎展に出かけた折、入り口のラウンジで古いモノクロ映像が流れていた。大手生活用品企業のライオンの創業者・小林富次郎氏(1852~1910年)の葬儀の模様を撮影した日本最古の7分20秒のセピアがかったフィルム。明治末期の東京の市街地や当時の風俗、別けても女性の服装や数年後関東大震災でフォードのシャシーを使った9人乗りの円太郎バスとなる前の貴重な市電が走る姿などが展開。
  そのときすでに鬼籍に入っていた面長で品のある小林さんの顔が、頭に浮かんだ。じつはライオンの創業者の一族だったのだ。…‥恵まれた身分で、自分の好きなことを強いココロで目指すことができた。とはいえ、エリート一族から当時海のものとも山のものともわからなかった、断じてカタギとは見られなかった「自動車のジャーナリズム」。その世界を悪戦苦闘して構築した彼の心情は、彼が造り上げた雑誌文化では言いあらわせない葛藤に満ちたものだったに違いない。

2021年1 月 1日 (金曜日)

前間孝則著『ホンダジェット 開発リーダーが語る30年の全軌跡』(新潮文庫)

ホンダジェット物語  技術ドラマを丹念に追いかけ、みずみずしいタッチで描くことで多数の読者を獲得してきた元IHIジェットエンジン設計者・前間孝則の真骨頂ともいうべき世界である。本田宗一郎の子供時代からの夢であった航空機の製造は、宗一郎が鬼籍に入ってから10数年の年月が経っていた。
  ホンダジェットは実はアメリカでホンダが設立した会社でつくられた。むろんエンジンの開発は埼玉の和光だった。
  実は、このブログの筆者は和光研究所でのジェットエンジンを取材しており、羽田に初めて飛来した2015年4月のホンダジェットの雄姿を写真にとらえている。このとき、はじめてプロジェクトリーダーの藤野道挌(ふじの・みちまさ)氏を知った。意外と若いことに驚き、先端部のデザインが「欧州旅行中に見かけたフェラガモのヒールからヒントを得た」というと挿話を聞くに及んで、ずいぶん軽い感じを受けた。
  ところが、今回改めて新潮社の文庫でホンダジェットの秘密を知るに及んで、自分の知識不足があらわになった。
  クルマの部品数が2万点で、航空機がその100倍の200万点ということは知っていたが、自動車開発と航空機開発では、まったく次元が異なるのである。アメリカの航空局などにお百度参り以上の安全の担保を取るための資料提出やデータづくり、その内容を知るに及び、GE,P&W(プラット&ホイットニー)、ロールスロイス社の3社が約7割を占めている世界のジェットエンジン市場がいかに岩盤で、その岩盤をいち東洋の自動車メーカーが食い込むことの凄味をこの本で味わった。三菱重工のMRJ(リージョナル・ジェット)が足踏みしている背景がなんとなく理解できた。
  この本は、藤野さんを核に、開発秘話がいくつも知ることができる。なかでも、航空機ビジネスは、航空機自体を販売することよりもその後のメンテナンス(航空機エンジンは、高温、高回転、高負荷で痛めつけられるので、定期的なオーバーホールが必要となる!)での収入がクルマとは比べ物にならない。笑えたのは、航空機開発がかなりめどが立った時期、宗一郎がまだ元気だったころ、そのことを秘密にしていた点だ。宗一郎に知られると、彼の性格上、拡声器のごとく世間にしゃべってしまう恐れがあることを知っていたからだ、というのだ。だから、このことはごく一部のホンダマンしか知らなかった! 社内極秘研究プロジェクトであったのだ。

2020年12 月15日 (火曜日)

体験できた! リチウムイオン電池の発火炎上!

スマホの電池1

スマホの電池2

  「シュウ……シュウ……ボオ~ン!!」
  手のひらサイズ(90×35×3㎜ほど)のリチウムイオン電池が、いきなり火を噴いた。音こそ大きくはないが、炎が40~50センチほど立ち上がっただろうか。電池は燃えながらまるで身重の妊婦のように膨れ上がった! 燃えている時間は30秒ほど。
  2年半ほど愛用していた手持ちのiPhone6S。バッテリーがかなり劣化(半日で空っぽになるほど)したので、通販で2000円弱で手に入れたバッテリーを交換しようとしての思わぬ事故だった。
  購入したバッテリーには工具一式(ミニドライバーやスクリーンを取り外すとき使う吸盤や樹脂製のスクレーパーなど)が付いていて、さほどの専門知識がなくても作業ができるというから挑戦したのである。街の専門店だと5000円ほどかかるようだし、ここは好奇心を梃子にDIYやろうと思い立ったわけだ。
  吸盤でスクリーン(ガラス面)を浮かし、隙間をつくり付属のおむすび型の樹脂工具で徐々にその隙間を大きくし、ついにスマホをガラス面と電池+LSI部の2つに分離。これがスマホの中身の顔か?
  フムフム、バッテリーがあり、バイブレーション、クルマとは違ったコネクター部などなど…・いちおうじっくり観察したのち、いよいよ古いリチウムイオン電池を取り外し作業。付属の樹脂スクレーパーを使いハウジングとの間の両面テープをシコシコはがしにかかるが、かなり頑固に密着しているため、容易にはいかない。そこで、手持ちのマイナスドライバーをハウジングと電池のあいだに差し込み、グイっと力を入れた途端、冒頭の“大火災事件”は起きたのである。
  火が収まって、自然冷却したのは、5分ほどたったころだ。
  火災の原因は、金属でリチウムイオンの内部を刺激したからだ。樹脂製ならこうはならなかったハズ。頓馬もいいとこだ!
  “これだけの火災事故! 熱が周囲に伝わり、肝心のLSIなどのユニットにも200℃以上のストレスが加わり、パンクしているはず!”“データも消えているし、また新しく買い直すしかないか……”かなりの絶望的気分が襲い掛かってきた!
  でも…‥一縷の望みもあるのでは? ここまできたら試してみるのもいいかも、ダメで元々だから。
  新しい電池を組み込み、取り外したゴミぐらいの小さなネジをいくつもねじ込んだ。そして、もとのカタチにして、メインスイッチを入れてみた。
  するとどうだろう? 全く問題なく作動してくれたのだ。ノー天気にもデータを保存していなかったのだが、データも無事温存されている。奇跡じゃないの、これって! 思わず、喜びでドキドキした!
  それにしても・・・・炎が、上にのぼったおかげで、隣にあるLSIの部品などには、さほどの熱が伝わらなかったのか? あるいは、ユニット自体の耐熱性が高いレベルにしてあるのか? クルマにもリチウムイオン電池が使われ始めている。気にかかるところだ。
  スマホの生みの親の一人スティーブ・ジョブズの伝記(講談社版:上下2巻の分厚いものだ)を読んで知りえた耐久試験のエピソードの件が記憶から少し蘇って、ジョブズの偉大さを理由(わけ)もなく再認識した気分になった。書斎はきな臭い香りが残り、ますます実験室になる!?

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