オートバイの魅力というのは、クルマ以上に感性に左右される乗り物で、クルマ以上に個人的な乗り物なので、興味のない人に説明するのはとても難しい。でも、ふだん人々に話をとして笑いをとる商売の落語家、噺家なら、その難問をするりと解いてみせるのでは? そんな気分で、手に取った文庫本が柳家小三治の『バ・イ・ク』(講談社文庫:2006年刊)である。
柳家小三治は、1939年(昭和14年)の東京生まれ。
『バ・イ・ク』は、寝っ転がってどこからでも読み始めても面白いエッセイ集である。
筆者は、(本当は恥ずかしいのだが)正直にバイクに乗り始めたときの体験を明かしている。人馬一体、ならぬ人車一体となる前の“機械と人”の違和感。馴染みづらい関係。早い話初心者というかへたくそライダーが必ず通過する≪マシンをどうにも操作できずにふつふつとする感慨≫を実体験をまじえてこまごま描写することで、自分を見つめるのである。
そしてこういう境地に達する。ここがすごい。やはり観察力が鋭い噺家だ。表現も的確!
「だから、オートバイは危ないというけど、危なくしているのは人間であって、オートバイそのものは何にも危ない乗り物ではないんですよ。オートバイを自由にしてやる。右行け、左行けって、乗ってる人間が無理やりねじ伏せないで、砂利にゴトンとぶつかると、オートバイは、嫌だなと思ったら右行くんです。だから、右に行かしてやればいいんで、右行っちゃだめよ、左だよって、ハンドルを切るとステンといくんです。オートバイってのは、ねじ伏せようとすると人間には向かう。だから、オートバイをうまくあしらいながら、君の好きなように行っていいんだよって言いながら、ステップに乗った体重で右や左に後押しをしてやるというようなことを、だんだん砂利道を走る間に覚えるわけです。そういうことをやりながら、ああ人間も同じだなっていうことを思いました」
タイトルを「バイク」としないで一字ずつ中黒(なかぐろ)を入れた『バ・イ・ク』としたのは、こんな思いが込められていたんだなと一人合点した。そして、この本を読み終え、むかし仕事仲間で岩手のイーハトーブをともに走った漫画家のイトシンさん(著書に『イトシンのバイク整備ノート』など)を思い出しました。
どこの世界にも、この本1冊があればだいたいのことがわかる! というものがある。簡単に言えば「虎の巻」的存在だ。
今回取り上げる折口透『自動車はじめて物語』(立風書房:1989年刊)はさしずめそうしたたぐいの1冊である。だから、正直言えば読者になんだか手の内を見せるようで、ココロの隅でブレーキをかける気持ちがないわけでもない。
「虎の巻」といえば、宮本武蔵の『五輪書』が思い浮かぶ。極意をしたためたがゆえに、一度目を通しただけでは理解不能な世界。砂をかむような文字が並ぶ!? と思いがちだが、この本は物語で語りかけるのである! 生き生きした物語を語りながら、真意を伝えるのである。
なにしろ、わずか200ページほどの1冊に、自動車の画期的な装置や装備、システムなどが綿密に記してあるのだ。
DOHCエンジン、ターボチャージャー、スーパーチャージャー、燃料噴射システム、ディーゼルエンジンといったエンジン技術、4輪駆動、FF方式、ミドシップレイアウトといったエンジンレイアウトの歴史、ブレーキ、タイヤ、ホイール、ショックアブソーバー、スターター、ワイパー、ヘッドライトといった主要自動車部品のそもそも物語、それにモータースポーツ事始めなど、簡潔にしかも血が通った物語として読ませる記事で満ちている。
ちなみに、類書に『自動車発達史・上下』(荒井久治著:山海堂)というのがあるが、こちらはそれこそ記事の羅列で、その背景やエピソードが探ることができない。が、折口さんの『自動車はじめて物語』は文字通り物語仕立てなので、読んでいてついつい引き込まれ、自分が何を探していたのかを失念することがあるほど。
今回取り上げるのは『ポップ吉村の伝説』(富樫ヨーコ著:講談社+α文庫、上下巻)である。言わすと知れたロードバイクのチューナー吉村秀雄(1922~1995年)が主人公の物語だ。
単行本で出たころ(1995年)からこの本の存在は知っていたのだが、オフロード専門だった筆者(広田)には縁遠い世界としてかたくなに避けてきたところがある。トライアル競技はゼロ(スタンディング状態)からせいぜい時速10キロの世界だが、ロードレースが新幹線並みの超速だ。同じモータースポーツだが、別物だという偏見があった。
手に取ったキッカケは、前回の中島知久平つながり。つまり航空機つながりでポップ吉村に興味をいだいたのだ。
吉村さんは、10代のころ予科練(海軍飛行科練習生)となり霞ヶ浦で練習機(三式陸上初歩練習機;エンジンは空冷星型7気筒)で訓練中、上空で火災に遭い800mの上空で脱出しパラシュートを開こうとするも、開かずようやく開いたのが上空100m。重傷を負うも九死に一生を得て、傷が癒えてのち航空機関士として生き、1945年8月15日の敗戦を迎える。
戦後、地元九州で進駐軍主催のバイクのドラッグレースに出会い、選手として、そののちチューナーとしての道を歩むことになる。バイクのレースの世界にのめり込むのである。
“レースの世界=華やかな世界”と思いきや、泥臭い家族経営の世界。しかも集合マフラーを世界で初めて発明し大成功すると思いきや、それがキッカケで悪質なアメリカ人に騙される。金銭的だけでなく精神的にも落ち込んだり・・・・でも、強いココロを持つ娘たちが吉村さんを支える。そして鈴鹿8時間耐久レース(いわゆる8耐だ)が主戦場。当時向うところ敵なしの大バイクメーカーのホンダに挑戦することになる。家族ぐるみのいちチューナーが、大資本ホンダのワークスチームをキリキリ舞いさせるのである。
読み進めるうちに…‥登場する人物のなかに、バイク雑誌の編集者時代、直接出会ってインタビューしたり、説明を受けていたことを思い出した。吉村さんの娘婿・森脇エンジニアリングの森脇護氏やスズキの横内悦夫氏、そしてホンダの入交昭一郎氏など。不思議なことに、いずれも自分の言葉で自分の世界を語れる男ばかり。
この本はいくつものエピソードを教えてくれるが、なかでも面白かったのが、スズキのGSX1100カナタの空冷4バルブエンジンが高出力による熱負荷で、シリンダーヘッドに歪みが入るなどの不具合に苦心するくだり。ディーゼルエンジンの常道であるピストンクラウン(ピストンの裏側)にオイルを吹き付け解決するのだが、その前にピストンメーカーであるドイツのマーレ―を訪ねるところがある。フェラーリやポルシェなどスポーツカーのピストンづくりで有名な、あのマーレ―だ。当時のマーレ―は、家族数名で細々と生業をしていたリアルな様子が書いてある。つまり、現在の有名メーカーも昔は、怪しげな新興企業。いまの言葉でいえばスタートアップ企業だったのだ。
よく知られているように、戦後日本の自動車産業は、戦前戦中で活躍していた飛行機野郎たち(というか、飛行機の技術者)の手で育っていったという歴史がある。日産に吸収されたプリンス自動車しかり、スバルの富士重工しかり、トヨタで活躍したカローラの主査をした長谷川瀧雄・・・・本田宗一郎などは子供の頃(大正6年)浜松にやってきたカーチス・スミスの曲芸飛行を見て、空を憧れたのだ。
となると、日本の航空機王・中島知久平をターゲットにしたい。中島飛行機を創設した男である。
名前は知っていても、彼がどんな男で、どんなことをおこなったのかとなると、あまり知られていない。かくゆう私も、スバル(スバルは中島飛行機が戦後GHQの命令で分社化したうちの一つ)を通して中島飛行機を知るものの、まじめに勉強してこなかった。
調べてみると、中島知久平の関連本は、比較的多くある。
お勧めは、小説家豊田穣氏が書いた『飛行機王・中島知久平』(講談社文庫;1992年刊)が面白く読める。
筆者の豊田さんがもともと旧海軍の飛行士だったせいもあるが、世界や日本の航空史のことにも触れているので、実にパノラマチックな世界が展開する。何人もの女性と関係しながら一度も結婚しなかった中島知久平。その人間的魅力も堪能できる。10数年海軍で活躍し、そののち個人単独で飛行機作りに励む、そんなとてつもないバイタリティあふれる男なのだ。
ちなみに筆者(広田)がすむ近くの横浜の磯子には、パラオまでの飛行艇便があったこと、そこから数キロの現在日産追浜(横須賀)の工場には、日本初の飛行場があった。そこが現在テストコースになっているらしいことなど、現在と過去をむすびながら楽しく読める。初期の飛行機のモノづくりの苦労を知りたいところだが、筆者の豊田さんはその分野が不得手か興味がなかったようで、ほとんど描かれていないのが残念。でも、飛行機と自動車、その2つの意外と近い関係性に覚醒させられ、発見も多い本だ。
あまり自慢できることではないが、これまで数々の官能小説を読んできた。
実用書をおもに書いてきた筆者だから、スラスラと読んでいる人の頭に入るリアルの表現のヒントを求めるためである。
今回取り上げる藤代冥砂(ふじしろ・めいさ)氏の「ドライブ」(宝島社)は、ここで取り上げるのだからもちろん自動車が登場する小説には間違いがないのだが、一味も二味も従来の官能小説とは異なる世界観を持つ。
目次を一目見ると面白いことに、「紀尾井町通り」とか「東名高速」「山手通り」「銀座通り」といった街道もしくは、関東の人にはなじみの道路や通りをタイトルにしている点だ。この道路、もしくは通りで繰り広げられる男と女の、それも必ずクルマが登場する短編集なのである。むろん登場人物も、それぞれ変化する。
文庫250ページ足らずに合計50の街道もしくは通り(ダブりもあるが)が登場するのである。1篇が5ページほどなので、すぐ読めちゃう。そして余韻が残る不思議さもある。
官能小説のわりには、思いのほかおしゃれで、清潔感がある。不思議な文体、不思議な小説世界だな…‥案の定、この筆者、もちろんペンネームなのだが、もともとは写真家でもある。これは私の持論だが、カメラマンは、自分の構図や自分の色調を知らず知らずのうちに育てているので、意外と文章家が少なくないのだ。
この小説集の斬新さは、ひとえにカメラマンという普通の人から見ると異邦人だからなのかもしれない。
横須賀市夏島にある日産追浜工場。最盛期にはブルーバードの組み立て、いまもEVのリーフの組み立て工場でもある日産の輝かしい歴史を語るうえで欠かせない、マザー工場である。由緒あるテストコースは、近くの野島公園から一望のもとに眺められる。
カルロス・ゴーン氏が、日産に乗り込んできて1年たつかたたない時期だったか、その追浜工場に取材に行ったところ、玄関の車寄せのところにどす黒い色をした胸像がたっていたのを鮮明に覚えている。1960年代から70年代にかけて日産を支配していた川又克二会長(1905~1986年)の銅像である。いくら功績のあった人物でも、銅像は通常死後功績を懐かしんで建造されるものだが、その造像は本人が権勢をふるっていた時期に建てられたとして、話題にのぼったものだ。
さすがに、その銅像もゴーン氏が赴任してしばらくのちには撤去された。余計なお世話だが、撤去する日産マンたちのその時の気持ちはいかがだったのか!
今回紹介する2冊は、井上久男著「日産vsゴーン」(文春新書)と高杉良の「落日の轍(わだち)―小説日産自動車」である。前者は、朝日新聞の自動車担当記者である筆者が、永年日産を取材しての迫真のドキュメント250ページ。後者は、ゴーンの前の日産、いわゆる労働貴族と呼ばれた労働組合のドン・塩路一郎氏(1927~2013年)といち銀行マンから昇り詰めた川又克二氏、“天皇”と呼ばれた石原俊氏(1912~2003年)と過剰な個性をみなぎらせる人物が登場する波乱万丈の企業戦国物語。文庫本で265ページ。
この2冊に目を通せば、日産がどんな企業かがたちどころに理解できる。あの時インタビューした日産マンのやるせなさもなんとなく伝わる。日産のこれまでの歴史やエピソード、人間同士のドキュメントを知れば知るほど、日本人の宿痾ともいうべき、さまざまな課題と二重写しになり、息苦しさを覚えるかもしれない。
「スターティングマシンが倒れた。20台のモトクロッサーが、一斉にコースに飛び出す。冬の乾いた大気が爆発し、爆風が快晴の空へ突き上げた。広い河川敷は激しく震えて悲鳴を上げた。……‥」
作家・佐々木譲さんの初期の短編「鉄騎兵、跳んだ」の書き出しである。言葉が、読む人の身体に粒となって突き刺さってくる、そんな勢いのある文章だ。ハードボイルド調のごく短い文章で、世界を構築している。
他人に本をお勧めするのは、なんだかしたり顔の自分が見えるようで、嫌なのだが、そんな思いを打ち砕くほど一読をお勧めする一冊がこれである。
当時バイクに熱をあげていたこともある(小説の舞台埼玉・桶川のモトクロス場はよく走ったものです)が、かなり影響を受けた小説のひとつだ。有名作家も含め、幾人もの作家がこれまでバイクやクルマを素材に小説世界の中に溶かし込もうと挑戦してきたが、これほど自然体で、しかもリアリティ溢れる小説はないと言い切れる。言葉を換えれば若い主人公とバイクが一体になって物語が進んでいくのである。逡巡する青春の終わりの日々を瑞々しく描いている。とくにバイクの知識なしでも楽しめるところがミソだ。バイクが特別なものだが、特別ではなくなる! そんな小説。
佐々木さんは、よく知られるように夕張生まれで、現在70歳。若いころいろいろな仕事に就き、なかでも本田技研では広告関係の仕事をされたのち、29歳のとき作家に転身されている。「エトロフ発緊急電」といった歴史小説や「笑う警官」といったサスペンス物まで幅広い。作品の多くは映画化、TVドラマ化されている。その原点に、この「鉄騎兵、飛んだ」がある。そう思うと、感慨深く、今夜もう一度読んでみることにする。現在は文春文庫に入っている。
この本を眺めていると、絵本ほど即効性のある癒しを得るものはない、ことが理解できる。
「絵本」というとふつう子供向けに作られた図書だが、この絵本は、手抜きのない大人向けの絵本である。というか、正確には、子供心を呼び覚ます大人向けの本だ。
・・・・でも、待てよ、書かれている英語を見ると、まんざら大人向けというよりも、(英語圏の)子供向けだということもうすうす気づく。というのは、やさしい英語だからだ。たしかに専門用語は使われてはいるが、文章の基本構文はシンプルで、中学英語である。
30年ほど前にアメリカの本屋で買い求めた記憶があるが、久々に手に取るとなかなかに発見が少なくない。
たとえば、プラグの進化が写真で分かる。1888年製のベンツのスパークプラグは、基本構造こそ現代のNGKプラグと同じだが、図体が10倍近いシロモノだし、50年ほど前にはすでに白金プラグが登場しており、それにはガラスのインシュレーターが採用されてもいる。
ブレーキの歴史もすごい。ドラムブレーキ、ディスクブレーキの前にバンドブレーキが登場し、その前には路面に当たる面を摩擦材で押し付ける「リムブレーキ」があり、その前は地面に棒を突き刺しクルマを止める「スプラグ・ブレーキ」というものまであったことが判明(写真)。いまでは消えてしまった自動車部品「キャブレター」の歴代をカットモデルで見せてくれてもいるのは圧巻だ(恐竜図鑑のようでもある)。それにそれに、例の累計1500万台以上販売された名車フォードT型のシャシー分解写真もすごい。「これなら納屋で修理できるかも」そう思わせるほどシンプル構造であるのはわかる。
フォーミュラカーは、1990年のルノーV10エンジンを載せたウイリアムズだ。こちらのエンジン分解写真は、残念ながらない。版元はDORLING KINDERSLEY。縦31㎝横26㎝の大判で、総ページ数は64ページ。
「ボディは2年と持たずに、難破船のごとくサビつく。南イタリアの難破船」1972-84年に販売されたイタリアのアルファロメオ・アルファスッドを一刀のもとに切り捨てる。返す刀で「駄作は駄作! 金の卵を産んだアヒルだ」とばかりに名車クライスラーのエアフロー(1934年発売)を木っ端みじん。このクルマ、じつはトヨタがクルマづくりの時点でお手本にした名車とされているのである。
日本車にだって容赦ない。たとえば初のロータリーエンジンを載せたマツダのスポーツカー「コスモ」のことを「目をそむけたくなるほどみっともない姿。カモノハシにそっくりだ。陸に上がった巨大魚」と皮肉る。1960年~70年代のクラウンには「調和を欠く見苦しいスタイリングは道路に対して失礼なほど。王座(クラウン)からはほど遠い古き悪しきトヨタ車」と、これ以上ないほどのあしざまな批評。
1980年代後半に登場したいすゞの「ピアッツァ・ターボ」については、「掃除をさぼるとシル(サイドシル)やドアボトムに大きな穴が開きかねない。王様になれなかったクルマ」とずいぶん手厳しい。この時代の日本車は押し並べて、錆に苦労したことが知られてはいるが、それにしてもだ・・・別の見方をすればかなり古いクルマが多い(全部で150車)なので、自動車メーカーとしては痛くもかゆくもない、のかもしれない。
筆者のグレイグ・チータム氏は、英国の自動車雑誌AUTO EXPRESSで活躍のライター。監修は、いまは亡き自動車ジャーナリストの川上完さんだ。
この本、クルマ好きには、ドキドキのしっぱなしだが、冷静に考えれば、本来クルマは趣味の対象であれば「アバタも笑窪」となるが、生活者から見れば、こうした厳しい批評は消費者のためになる。でも、それでも心優しい日本人には、毒が多すぎる!? 英国人の皮肉を日常のなかで、薬としている、そんな人には大いに笑え、涙を流す、そんな本である。版元は「食人全書」、「不潔の歴史」などユニーク極まる人文書を得意とする原書房。初版2010年で、価格は2400円。英語のタイトルは「THE WORLD‘S WORST CARS」である。コロナ禍のなか、毒のあるクルマ本の紹介でした。
40フィート(約12m)の海上コンテナを運びトラクター(牽引車)の姿を幹線道路で見かけることが多くなった。つまりこれ、セミ・トレーラーである。
運転手不足を解消し、より多くの荷物を運ぶ手段として、トレーラーの役割にはすこぶる付きといえる。生活を支えている縁の下の力持ちだ。そのトレーラーは、いつごろから日本に登場したんだろうか? その答えを求めて、品川の「物流博物館」を尋ねた。数年前「トレーラーとトラクター」という特別展示が開かれ、その時の図録を入手したのだ。わずか34ページほどの図録だが、貴重な写真が多く、目が開かれる思いがした。
そのなかの一葉の写真を見てもらいたい。
昭和9年、1934年の大和運輸が開発した「大和式トレーラー」という名のフル・トレーラーである。フル・トレーラーというのは荷台を持つトラックが別の荷台を運ぶスタイルのこと。
大和運輸というのは、現在のヤマト運輸のルーツで、創業が昭和6年頃らしい。この「大和式トレーラー」は東京・横浜間を定期便輸送していたという。フル・トレーラーが民間で実用化された最初だ。
大和運輸の創業者の小倉八三郎(のち康臣と改名)が昭和2年ドイツでトレーラーを初めて目にし、日本への導入を志したという。牽引車には「マセデスデムラー」(ダイムラー)社製の2トントラックを使い、非牽引車の方はフォードの中古車を改造したものだ。ちなみにマセデスは“メルセデス”の訛りと思われる。当時1トン車での輸送をしていたようで、このトレーラーの導入で格段に輸送量が高まったとされる。
ちなみに肝心の連結部は、自社でデザインしたという。当時はABS装置などないので急ブレーキに備え、非牽引車にはブレーキ係りのスタッフを乗せていた。よく見ると非牽引車のフロントに人が乗るスペースがあり、テント地の日よけも見える。
ところが、この大和式トレーラーは、2台作られたのだが、登坂力に難点があったのと、荷役作業時間が長くかかるとして運転手に敬遠されるなどして、数年で廃止されたという。トライ&エラーの時代でもあった。
それにしてもだ。写真をよく見ると3人の男が牽引車の荷台の荷物を確認。荷物は大部分が樽。中身は醤油、日本酒はたまた味噌だったのか? 85年前の日本のロジスティックスの一風景がこの写真には滲んでいる。
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