自動車をはじめとする機械を細かく切り刻んでいくと、最後に残るのは何か? ネジ、ボルトである。となると、機械文明の象徴であるボルトを日本人が始めて目にしたのは、いつのことか?
ズバリ、16世紀の中ごろ。あの火縄銃の伝来とされている。天文12年、西暦でいえば1543年、種子島に一艘の中国船が漂着。種子島を支配していた種子島時尭(たねがしま・ときたか)がその船に乗っていたポルトガル人から2丁の火縄銃を購入したことからはじまる。さっそく、地元の刀鍛治の矢板金兵衛清定(やいた・きんべい・きよさだ)に命じ、その製造を始めさせた。瞬く間に火縄銃が広がり、この武器を積極的に活用した信長の天下統一に大きく貢献したことはよく知られているところ。
鉄砲鍛治集団は、堺や国友が有名だが、博物館があるのは滋賀県の長浜にある国友である。長浜市内からママチャリで約20分の田畑が広がるのどかな場所に佇んでいた。30分もあれば見飽きるほどミニ博物館。ここを管理するオジサンに無理を言って、“尾栓(びせん)”を見せてもらうことにした。火縄銃は銃身の後に火薬を詰め爆発させるので、メンテナンスのうえから銃身のうしろをネジ式で取り外す仕組みが必要。ときどき掃除をしないと残りカスが悪さをして、銃身が詰まったり、爆発するおそれがあるからだ。この尾栓の作り方が長年マル秘だった。雄ネジ自体は、丸棒に糸を巻き(あるいは三角の紙を巻くとか)ヤスリでネジ部をつくれる。ところが雌ネジは銃身の内側にネジを切るわけなので、現在のように旋盤があるわけではないので難事業!
この博物館に来て判明した。銃身を火で暖め、雄ネジをねじ込み、叩いたうえ、タップでネジを切り開いたようだ。ちなみに、火縄銃の職人は、鉄砲鍛治のほかに、銃床を作る台師、それに象嵌を施すなどの飾り職人の金具師の3つの職人で構成されていたという。17世紀のはじめの大坂夏の陣前後には、国友村には73の鍛冶屋と500名にもおよぶ職人がいたというからオドロキだ。