百瀬晋六が生まれたのは、大正8年2月。長野県塩尻にある造り酒屋の次男坊として生を受ける。大正8年は西暦でいえば1919年、第一次世界大戦が終息し1月にはパリで講和会議が開かれ、大戦後の新世界秩序ともいうべきベルサイユ体制がはじまったころ。同年に生まれた有名人としては、「ライ麦畑で捕まえて」の小説家Jサリンジャー、歌手のナットキング・コール、「飢餓海峡」など名作を残した水上勉(みなかみ・つとむ)などがいる。ここに晋六を置くと、みな“自前の世界”の持ち主である。
百瀬青年は、中学高校と優秀な成績を収め、飛行機技師を目指し東京大学工学部に入学。昭和17年(1932年)に中島飛行機に入社した。中島飛行機は、海軍機関学校卒でフランスの航空業界を見た中島知久平(1884~1949年)という一人の人物の情熱ではじまった。次世代を担う、つまり世界の覇権を握るのは航空機という信念のもと、飛行機研究所を設立、これが発展し、中島飛行機を創業。戦時下には群馬の太田、東京の武蔵野など全国12の製作所をかかえ、従業員約25万人を数えたとされる大組織に成長。97式戦闘機、一式戦闘機、疾風、月光、艦上偵察機の彩雲、それに零式艦上戦闘機などの名機を生み出した。設計部に配属された晋六は、意気軒昂と仕事に打ち込む。ところが、心血を注いで描いた設計図を上司から無言で突き返されたという。「どこが悪いかを自分で考え抜く」という自助努力がこの企業の風土にはあったという。彩雲のターボチャージャーの開発に携わってもいる。