「フォードのような、世界に認められる自動車をつくろう」
百瀬晋六たち富士産業のエンジニアたちは、こころのなかで思っては見たものの、誰一人として自動車などつくった経験を持ち合わせていない。
たとえば自動車のボディの強度計算はどうやるのか、ということすら把握できていなかった。理論を学ぶつもりで、研究論文に目を通したいと思っても、どこにいけば論文が読めることすら、わからなかった。百瀬は母校の東大工学部を訪ね教授連中に相談をもちかけてもみた。GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指令により航空機生産ができなくなり、航空機関係の教授たちは、そのころこぞって自動車の研究にシフトしていたからだ。
でも、東大とはいえ自動車の研究はまだはじまったばかりで、得るものはほとんどなかった。そもそも、当時日産はオースチン、日野はルノー、いすゞはヒルマンという具合に外国メーカーと技術提携し、部品を輸入して組み立てるというノックダウン生産をしている程度。トヨタですらGMやフォードを手本に技術を蓄積している時代であった。