いまから80年ほど昔の昭和11年(1936年)から約3年間、観客数3万人以上を集めた日本初の常設サーキットが多摩川の河川敷(正確には現在の川崎市中原区丸子橋の上流)に存在していた。そこでのレースは、「全日本自動車競走大会」といったそうだ。戦前のクルマが戦った場所。
日本が戦時体制に入ったため、全部で4回ほどしか開催されていないが、ダットサン(日産)とオオタ自動車(創業者・太田祐雄)の戦い、のちホンダをつくる本田宗一郎の浜松号の大事故、アメリカ日産の社長としてダットサンをアメリカで売りまくった片山豊(ミスターK)などが関わったいわば、戦後日本の自動車産業が花開くルーツを探る“聖地”ともいえる。本田宗一郎は、ここでの経験があったので、鈴鹿サーキットをつくったことは容易に想像できる。
あまり知られていないが、この多摩川スピードウエイの前は、大正11年から昭和9年にかけて東京の洲崎の埋立地(江戸川区)、立川飛行場、鶴見埋立地飛行場、代々木練兵場、月島埋立地などの仮設のサーキットだった。だから常設サーキットは当時のクルマ好きの若者の悲願でもあった。多摩川サーキットの実現は、15年間のアメリカ生活を経験して帰国したジョージ藤本こと藤本軍治(1895~1978年)の尽力によるものだという。藤本は、アメリカ車のハドソン号で、下関から東京までの急行列車と競争して敗れるなど、破天荒な行動で風雲児の異名をとった男。
もちろん河川敷なので、ダート(非舗装路)である。第1回のレースでは1ラップの速度が67kmほどだったのが、3回目には100km/h近い96.6km/hをマークしたという。こうしたことを知る写真展が、このほどレース場があった場所にほど近い東横線の多摩川駅近くであった。