昭和27年、試作車にP-1(パッセンジャーカー:乗用車の意味:写真)というコードネームが付けられ、バスのボディ工場として稼動する伊勢崎工場の一角で設計・試作がスタートした。
P-1の設計陣は、百瀬を中心にわずか10名ほどの小さな所帯だった。フルモノコック・ボディの4ドアセダンのP-1は、FR方式で、フロントのエンジンルームには富士精密工業製の1500ccOHV48馬力/4000rpm、最大トルク10kg-m/2000rpmで低速トルク重視型のエンジンだった。昭和29年2月には16ヶ月を費やし、P-1の試作第1号が完成。さっそく、その試作車を登録し、中島飛行機時代からの整備主任兼実験ドライバーでもある中野修次にハンドルを握らせ、専務の松林を後席に、助手席には百瀬が乗り込み、千葉の成田山に向かった。3人はやや緊張したものの、試作車らしいメカニカルノイズを発生させながら、トラブルなしで往復200キロを走りきったP-1に自信を深めたという。
ところが、これは単に運がよかったに過ぎなかったことが分かる。というのは、試作車を工場内で走行実験するうちにさまざまなトラブルが起きたからだ。ブレーキの前後バランスのチューニング不足だけでなく、トラック用のホイールとタイヤはバネ下重量増加が目立った。ダンパーの動きも満足のゆくものではなかったし、プロペラシャフトも時速90キロあたりで振動で暴れることが分かったのだ。