基本セッティングがようやく終えたのち、耐久走行試験で赤城山や伊香保まで足を伸ばし、毎日20時間ほどの悪路中心の試験をおこなった。耐久走行試験は、机の上であれこれ考えただけでは出てこない“気付き”を開発者に提示した。駆動系の共振で騒音が出る。埃でエアクリーナーつまり出力ダウンする。ブレーキパッドの偏摩耗が起きる。バスやトラックと同じ形式のウォームナット方式のステアリング・ギアボックスはガタが出てハンドルの遊びが大きくなる。ステアリングのバックラッシュを調整することで改善するも、トランスミッションのギアが抜ける、サスのボディ付け根部に亀裂がはいる、ダンパーは走行2000キロで抜けるなどモグラ叩き状態のトラブル。路面からの外乱でフロントサスとステアリングまわりに自励振動が発生もした。これはとくに厄介な課題だったが、最終的にはシミーダンパーを装着することで解決している。
そもそも基準というものがないので、地道な走行テストを繰り返すことで、基準を作り上げていった。いわば闇の中で手探りをしながらの作業だ。その走行実験担当者の一人に32歳の新入社員・家弓正矢(かゆみ・まさや)がいた。家弓は陸軍幼年学校、同航空士官学校を卒業した生え抜きの職業軍人だった。太平洋戦争では飛行第98戦隊の整備部隊に配属され、マレー半島を転戦し死線をくぐりぬけ、海軍指揮下の本庄・児玉飛行場で8月15日を迎えている。敗戦後本庄の農業開拓団に入ったが、農業は性に合わず、心機一転して大学受験を志し、みごと東大工学部機械科(旧航空学科原動機科)に入学。すでに結婚して3人の子供がいたが、本庄で農業をやりながら東京まで通学する生活をやりぬき(本郷3丁目まで距離にして90キロ現在でも電車で片道2時間ほどだから当時はゆうに3時間はかかっている)、卒業と同時に富士自動車に入社したのである。このように、当時スバルの開発陣はいまから見ると、個性豊かで飛びぬけた努力家の人材が揃っていた。