昭和30年、百瀬は、次期構想案を上司から打診された。彼の頭には、このときすでに軽自動車の実現をイメージしていたようだ。
当時の日本は敗戦直後の経済復興期を切り抜け、朝鮮戦争による特需で景気が急上昇。庶民のなかにも夢のクルマを持ちたいという機運が生まれ始めていた。軽自動車は、軽免許(二輪免許)で乗れ、税金・保険代などが安く、車検や車庫証明が不要などのメリットがあった。つまりいまにつながる軽自動車が優遇される環境はその当時からあったのだ。当時の軽自動車は、昭和27年に名古屋の日本オートサンダル自動車から発売された空冷4サイクル・サイドバルブ単気筒348ccエンジンを載せた「オートサンダル号」、昭和30年に大阪の住江製作所から富谷龍一(1908~1997年)がデザインした「フライングフェザー」がデビューしている。この2台とも2人乗りのオープンカーで、しかも手作りの少量生産。とてもファミリーユースのクルマとはいえなかった。
本格的な軽自動車の登場は、昭和30年の夏に登場した鈴木自動車工業(現・スズキ)のスズライト号(写真)だった。空冷2ストローク2気筒360cc、最高出力16馬力/4200rpmを載せたFF車。セダン、ライトバン、ピックアップトラックの3つのボディスタイルを選択できたが、売れ筋はライトバンだったという。価格は45万円で、当時小型セダンで日本の日野自動車がノックダウン生産していたルノー4CVの64万円より安かった。だが、当時の大卒の初任給が約9000円の時代、とても庶民が手にする車ではなかった。(ちなみに同じ昭和30年1月デビューした国産発の乗用車クラウンは1500ccエンジンを載せ、価格が約100万円だった)