スバル360は昭和33年5月、発売された。正確には3月は東京地区で大阪地区は2ヵ月後の7月だった。価格は工場渡しで42万5000円。トップクラスの国家公務員の年俸に相当した。
なんとしても40万円以下の価格にしようと粘った百瀬だが、実現できなかった。ダットサン211が65万円、トヨペット・コロナが64万8000円であった。スバル360はこれらとくらべ安かったが、車両重量や馬力あたりの価格に直すと割高といえた。それもあってか当初はあまり売れ行きが芳しくなかった。ところが、じわりじわりと人気が高まり、発売2年間で5394台、1970年5月までの累計が39万台を超え、モデルチェンジなしに累計50万台をこえている。途中ダンパーをフリクション式からオイルダンパーに換えるなど小さな変更や改良こそあったが、いかに百瀬たちの設計が完成度の高いものだったかがうかがえる。それよりも百瀬たちのココロザシが世の中に受け入れられたことが何よりだった。
その後百瀬たちは、この360の成功を背景に多目的トラックのスバル・サンバー、水平対向エンジンにFF(フロントエンジン・フロントドライブ)、4輪独立懸架など先進技術を組み込んだ画期的乗用車を世に送り出し、スバルの基礎固めを果たした。こうしてスバル・スピリッツをつくり上げた百瀬晋六は、平成9年77歳で永遠の眠りについた。
★次回からは、大阪に花開いた、知られざる『なにわの自動車部品物語』をお送りします。日本のモータリゼーションを始まりのころから解き明かします。