リアルタイムで当時の福島村の空気を吸っていた人物から話を聞いてみよう。
取材当時82歳になる松田鶴義さんは、昭和15年に故郷の愛媛県の宇和島から、単身大阪の町にやってきた。都島(大阪城の北側)で修理工をやっているおじさんの伝手(つて)で福島の自動車部品商「二葉工業」の丁稚となった。当時16歳だった。二葉工業という自動車部品商は、いまはないが、松田さんが入社したころは7名ほどの部品商だった。松田少年の仕事はもっぱら自転車で、大阪府内にあるタクシー会社に補修部品を配達することだった。
大阪のキタを代表する飲食店街のある新地や、その東に位置する都島に、そのころタクシー会社やハイヤーで商売をする会社が集まっていた。注文が来ると商品である部品を自転車に積み込み、配達する。自動車部品に接することで、いつしか部品にまつわる知識や「このクルマはこの部品がようけ出る(売れる)」という情報が蓄積し、なにやら世の中の役に立っている自分を見出し、楽しくなったという。
たとえば、フォードは過積載が原因でよくリアアクスルが折れたという。これはいまの言葉でフェイルセイフ対策。高価なハブやデフが壊れるより前に、比較的安いドライブシャフトが折れるようにして、過度の修理代がかからないように設計されていた。
松田少年が大阪の水に慣れ、仕事がようやく身につきはじめた昭和16年12月、太平洋戦争が勃発した。満州事変から始まった日本の軍事優先政治は、支那事変(日中戦争)へと拡大、さらにアメリカ、イギリス、オランダなどを相手にした第二次世界大戦へと突入したのである。