数年前から始まった軍備拡張予算をきっかけに、財政は軍事支出を中心に急速に拡張し、資金と貿易面から直接経済統制に踏み切った。日中戦争を継続させる上で生産力の増大を図る必要があったからだ。
昭和13年には国家総動員法が制定され、政府が国会の承認なしに経済と国民生活全体にわたって統制する権限を得る。まさに軍需産業優先の経済シフトである。翌昭和14年になると国民徴用令により、一般国民が軍需産業に動員された。既成財閥系の大企業が軍需品を積極的に生産し、財界代表が内閣に加わるなど、大企業は≪国策≫への協力を求められた。
自動車関連では、こうした統制令や総動員法をうけて・・・商工大臣(戦後総理大臣になり安保条約の締結をめぐる責任で退陣を余儀なくされた岸信介)の通達により乗用車の製造が原則禁止され、自動車用の資材の割り当てなどの統制が実施された。そして、昭和14年12月、日本フォードと日本GMでのアメリカ車ノックダウン生産が中止されたのである。
自動車をめぐる統制経済はそれだけではなかった。
同じ年の昭和14年に外国製の自動車、用品、部品すべての販売が全面禁止された。さらに自動車統制会の傘下のもとに「日本自動車整備配給会社」が設立され、自動車の販売店を1県1ヶ所の配給会社とし、自由なクルマの販売ができなくなった。生産された(国産の)自動車は優先順位をつけられ配給されるという、今の時代からはとても想像できない息苦しい社会へと変貌していったのである。(写真は、このころ石川島自動車製作所とダット自動車製造などの合併会社が1940年につくったバス。日野自動車の博物館である21世紀センターで撮影)